春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
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 更新は月単位に成ります。
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.半年会員の更新時に:春丘牛歩作品から、1冊贈呈。
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当該編は『安田義定と秋葉神社―遠州の舞楽編―』の続編に成ります。
 
二年ぶりに森町教育委員のメンバーと逢い、夕食を共にした私は翌日、今回の遠州入りの目的地である、旧春野町を訪れることにした。
現在は浜松市の一角に合併編入されている春野町はかつて遠江之國周智郡に属し、森町とは同じ郡であり、森町の北部に位置する山に囲まれた街である。
そして私が義定公との関与をイメージしている、秋葉神社の本拠地「秋葉山本宮神社」は、この旧春野町に在るのであった。秋葉山神社と義定公との関わりの痕跡やヒントを求めて、私は当該神社とかつての町立図書館を訪れることにした。
 
               【  目  次  】
           ①遠州周智郡春野町
           ②春野町の郷土史研究家
           ③春野町の金山神社
           ④秋葉山本宮、禰宜氏
             ⑤秋葉山神社と刀剣
             ⑥秋葉山、春野町の神事
           
 
    
 
 
 

遠州周智郡春野町

 
 
掛川駅前で森町の教育委員会の旧知のスタッフと、二年ぶりの再会を果たし情報交換を行った私は翌朝には、現在の遠州の中核都市である浜松にと向かった。
 
新幹線では一駅であるが、在来線では30分くらいで到着する時間距離に浜松は在る。
人口80万人強のこの街は、戦国時代においてはかつて家康の居城が在り、近年では第二次産業の活発な都市として、日本を代表する製造業の街と成っている。
 
 
浜松駅前でレンタカーを借りた私は早速カーナビを、浜松市北部の「北遠」と呼ばれる地区旧春野町に在る「秋葉山本宮秋葉神社下社」にと設定した。
「北遠」とは遠州地方でも北部に位置し、信州長野に接する南アルプスに繋がるエリアで、JR浜松駅近くの太平洋側とは4・50㎞以上離れている山間のエリアである。
 
北遠地区は信州長野の諏訪湖を水源とする「天竜川」と、その支流である「気田川」沿いに市街地が形成されており、近年は山間の多くの街がそうであるように過疎化が進んでいる。
 
太平洋側のJR浜松駅近くから遠州地方を長野に向けて南北に縦断する、国道152号線に沿う形で、私は天竜区の旧春野町を目指した。
1時間半近くかかって天竜川の大きな支流である気田川沿いの「秋葉山神社本宮下社」に着くことが出来た。
 
途中、「二俣川」を超え気田川沿いに川を溯った「天竜区光明地区」にはHONDA自動車の創業者、本田宗一郎の故郷であることを示す、大きな看板が掛かっていた。
本田宗一郎は明治の末期に当時の光明村の、鍛冶屋の息子として生まれたと云う事である。と云う事は、駿遠総鋳物師山田七郎左衛門の居た鋳物師の里遠州森町に、何らかの縁のあった一族だったのかも知れない。
 
したがって八百年前に安田義定公が遠江守として遠州に着任して来なければ、甲州金山衆の定着もなかったであろうし、本田宗一郎の祖先が鍛冶屋に成る事もなかったかもしれない。更に言えば世界のHONDAも誕生していなかったかも知れない、等と私は想像しニヤニヤしながら車を運転し、気田川を春野にと向かっていった。
 
 
10時過ぎには、春野の気田川に架かる「秋葉橋」を渡り「秋葉山本宮秋葉神社下社」の駐車場に着いた。
五月下旬の午前中であったが、梅雨入り前の北遠春野町は強い日差しが降り注いでいた。周囲は杉木立が林立し、清々しい印象を与えた。
 
その杉木立に囲まれた石段をしばらく登った正面に、拝殿や神殿が構えていた。境内左手には社務所があり巫女や神人などの神社関係者が数人、働いていた。
 
神社の資料によるとこの下社は、昭和18年に建立された社で比較的新しい建立であるという。したがってそれまでの数百年間は、秋葉山上部に在る現在の「秋葉山神社本宮上社」のみであったことに成る。
その上社は秋葉山の山頂近くに在り、この下社からは2時間近く登坂する場所に鎮座しているようだ。修験者の神社と云う事であればさもありなん、なのであった
 
軟弱者の私は、今日はこの下社だけで済ますつもりであったので、拝殿にお参りを済ますと右隣の「六所神社」に参拝した。
 
 
この神社は昭和18年に秋葉神社本宮が火災で焼失した際、現在の下社の地に遷宮した時に本来の場所を譲り、右隣りの今の場所に遷宮したという経緯を持つ、春野町領家地区の旧村社であったという。
その名が示す通り村内の六つの神社を合祀した神社で、「天王社」「山神社」「八坂神社」「熊野神社」「金山神社」「若宮神社」を合祀している。
 
合祀自体は明治7年と云う事であるから、明治維新後の神仏分離などの政治的影響が合祀に及んだのかもしれなかった。少なくとも言えるのはそれ以前に当時の領家村には、この6つの神社が別々に存在していたと云う事である。
そしてこれらの神社の中には私にはおなじみの「天王社=祇園神社」「八坂神社=祇園神社」「若宮神社=八幡宮」と共に「金山神社」も祀られている。
 
「山神社」は、周囲を山に囲まれ秋葉山麓の神社と云う事であれば、すんなり理解することは出来る。また「熊野神社」についても「領家村」自体が長講堂がらみの荘園・領地であったと云う由来を持つことから、この領家地区が後白河法皇等の朝廷と縁深い荘園であったとすれば、やはり理解することも出来るのだ。
 
祇園神社が二社あることは、「領家村」が気田川沿いの集落であることを考えれば河川の氾濫が想定でき、それからもたらされる災害である疫病封じの神社として、理解することも出来る。更に「六所神社」の秋の祭礼には、3台の山車=屋台を使った巡行があるという。これもまた祇園祭の影響であろうか・・。
 
しかし「金山神社」があったと云う事は秋葉山麓のこの領家地区においても、森町三倉地区と同様に砂金や川金・金鉱石が採取できる産地が在ったのかもしれないな、と想像力を働かせる事が出来るのである。
と云う事は領家地区を始めとした気田川沿いのエリアには、かつて金の採れた場所があったのかもしれない、と私は自分に都合の良いように考えた。
 
そしてその点について、改めてこれから向かう図書館などで調べてみる必要がある事を、私は感じた。と共に春野地区と金山衆の繋がりについての期待感も、私の中で次第に高まって行ったのであった。
 
 
両神社の参拝を済ませた後私は、レンタカーに乗って気田川を溯って旧春野町の図書館にと向かった。「秋葉山本宮下社」からは4・5㎞ほど国道362号線に沿う形で、「犬居城址」や「天竜高校春野分校」を左手に見ながら北上し、気田川の川向こうの中州のような場所に在る「浜松市立春野図書館」に着いた。
 
その木造りの小ぶりな図書館には「歴史民俗資料館」が併設して在り、同じ敷地には「すみれの湯」という名称の福祉センターが在った。
ここは春野地区、かつての春野町の市民にとって「文化と憩いの施設」が集積している、コミュニティの拠点ゾーンなのであった。
 
檜と思われる木の香りが満ちている小ぶりの図書館に入って、私はいつものように「郷土資料コーナー」に真っ直ぐ向かった。
『春野町史』を始め『静岡県史』や『秋葉山神社』に関する資料を選抜し、「中世の春野」に関連する記事や「神社仏閣」「民族芸能や風習」に関する資料を中心にピックアップし、付箋を貼った。
 
春野図書館では、資料のコピーはセルフではなく図書館の司書にコピー箇所を申請して、撮ってもらう仕組みであることから、私は申請書を何枚か書きコピーの依頼をした。
その依頼作業を済ませたのが12時の中頃であった。
申請を終えると、コピーが終了するのは14時頃ではないかと云う事なので、私は昼食を兼ねて春野の街中をドライブすることにした。
その際、資料の中で見つけ気に成っていた鎌倉時代の遺跡「牧野遺跡」をも訪ねることにしたのである。
 
 
国道362号線に出て、10分近く長野県との県境に成る山側に向かって北上したのであるが、昼食をとれそうな食堂やドライブインが見当たらなかった。期待していた道の駅もコンビニもこの春野町にはどうやら無いようであった。
20分近く車を走らせあちこちをウロウロしたが、結局私はあきらめて目に付いた地元の小さな食料品を扱っている店に入った。
その店でパンと飲み物を幾つか買い求め、多少見晴らしのよさげな気田川沿いの場所を選び、そこで軽い昼食を済ませた。
 
気田川は大河というわけではないが、川幅もしっかり在り遠州の平野部から4・50㎞溯った場所としては比較的広い川であったことから、やはり上流にダムや貯水施設の治山治水施設が建設されるまでは、長雨や台風などの直撃を受けたりすると、周囲の山々から水が流れ込み暴れ川と成ったに違いない、と推測することは出来た。
 
と同時にそれら治山治水施設が整備されるまでの長い間は、河川の氾濫や感染病から身を守るために、祇園神社やスサノウの命・竜神様といった神仏にすがる事に成り、それらの神社を勧進し尊崇すると云う事に成って行ったのだろうと、改めて納得したのであった。
さきほどの六所神社に二つの祇園神社系の神社が合祀されていたのも、目の前の気田川を観てると判る気がした。
 
 
軽い昼食を済ませると、私は先ほど図書館でメモしておいた「牧野遺跡」を訪れることにした。『春野町史』によると「牧野遺跡」からは、鎌倉時代の食器・土器類が発掘されているという事であった。
安田義定公が遠江守を務めていた時代の遺跡であり、遠州森町大久保の「馬主神社=大久保八幡神社」とは、信州街道経由でつながるエリアに在る「牧野」なのである。これはやはり確認しないではいられないのであった。
 
更にその「牧野遺跡」の場所を示す地図には、すぐ北の上に「八坂神社」が鎮座していたのである。と云う事は義定公の騎馬武者用軍馬の畜産や育成に絡んだ、北遠における幾つかの拠点の一つである可能性も、考えられるのであった。
 
そのような期待感を持って私は、気田川の上流から春野地区の幹線道路である国道362号線を南下し左折して、気田川支流の「熊切川」沿いの集落である「熊切牧野地区」を目指して、川沿いに溯って行った。
 
 
熊切川沿いの県道263号線を20分近く溯り、越木平という処を右折し新たに県道389号線に入って熊切川を渡ると、数分で「牧野入り口」というバス停を見つけた。周囲は杉木立に囲まれた鬱蒼としたエリアであった。
そこから県道に掛かる脇道を数百mほど登りきると、パッと視界が広がった。どうやらここが目指す牧野の集落らしい。
 
モバイル端末の写真に撮っておいた画像で確認すると、やはりここが目指す「牧野遺跡」の在る場所であった。
緩やかな傾斜に成ってる畑を真ん中に挟んで7・8軒の家屋がぐるりを囲んでいた。想像していたよりも小さかった。
この集落が「牧野遺跡」の場所だとすると、馬を調教するほどの面積の確保はここでは難しいだろうと想われた。念のためモバイル端末を操作して3Dマップで確認した。
 
それなりに平らかなエリアはあったが、森町の大久保地区程の十分な広さではなかった。 
山間の集落であることを考え合わせると畜産が主体の場所だったのかも知れない、と私は想像した。
 
更に3Dマップを操作して周囲を観て行くと、県道389号線を南下するエリアに纏まった面積の平らな場所が点在していることに気が付いた。
県道389号は、先ほどの熊切川で県道263号に合流する地点を北限とし、春埜山(H=883m)の西側を森町三倉に向かって南北に縦断する道路で、その沿線沿いに五ヶ所ほど平らな場所を確認することが出来たのだ。
 
 
いずれも「牧野」よりは広く、大久保の馬主神社の左右に広がる「右を向いた馬の形をしたエリア」や「左を向いたタツノオトシゴの形をしたエリア」に比べると、はるかに小さく狭いものではあったが・・。
 
その五ヶ所の平らかな場所は大久保馬主神社から北上する形で「掘之内」「胡桃平」「大時」「花島」「牧野」という場所に、それぞれ該当している。
いずれも県道389号線沿いで、「信州街道」の裏街道沿いの旧春野町熊切地区になる。
 
私はその配置を観てこの「裏信州街道」沿いの「牧き場候補地」の分布は、果たして偶然なのかそれとも必然なのかと、ちょっと気に成った。
即ちこれらの「牧き場候補地」の五つの点を結ぶように「裏信州街道」が切り拓かれていったのか、それとも偶然「裏信州街道」沿いに運よく「牧き場候補地」が五つ見つかったのか、について考えてみたいとそう想った。
 
と、その時私のスマホが鳴った。春野図書館からであった。
その電話は申請しておいた図書や資料のコピーが、完了したことを知らせる連絡であった。
私は早速図書館に戻ることを伝え、スマホを切った。
 
この「県道389号線」沿いの「牧き場候補地」については、改めて調べることとして、ひとまず気田川沿いの春野図書館にと私は向かって行った。
 
 
 
 
 
 
            
 
                                 赤:森町大久保馬主神社、左右に大きな平地が在る。
           青:上から「牧野」「花島」「大時」「胡桃平」「掘之内」
              いずれも平らかな土地が在るが大久保に比べ狭く小さい
 
 
 
 
 
 
 
 
 

春野町の郷土史研究家

 
 
気田川の中州といってもよい場所に在る、檜の香漂う春野図書館に戻ると、すでに依頼しておいたコピーが済み、原本の図書と共に山積みしてあった。
私はお礼の言葉を述べ、コピー代金を支払うとそれらの図書を二階の郷土資料コーナーの、元の場所に戻した。
 
それからしばらく二階の閲覧コーナーでコピーした資料を整理していると、70代半ばと思われるシニアの男性がやって来て、私が机の上に置いていたコピーの束を指さして私に語りかけて来た。
「私は山村と申しまして春野町の郷土史を研究している者ですが、あなたも春野町の郷土史に関心がおありなんですか?」そう聞いてきた。
それは『春野町郷土研究会報-温故知新-』という地元の郷土研究会の雑誌をコピーしたもので、年に数回発刊されているものであった。
 
私は肯くと、
「ァはぃ、おっしゃる通りです」そう言ってから、続けて
「私は鎌倉時代初期に遠江守を14年ほど勤めた、甲斐源氏の武将安田義定公の調査研究をしている立花と申しまして、秋葉山神社の在るこの春野町に義定公と秋葉山神社につながる痕跡や史跡が何かないかと、そう想って神社・仏閣や地元の雑誌や図書を調べてまして・・」と、ざっと自己紹介をした。
 
「そうですか安田義定のご研究を・・」山村さんはそう言って、
「実は先ほど久しぶりに図書館にやって来て、先人たちの残した郷土研究会の会報を閲覧しに来ましたところ、見当たらず図書館の司書に聞きましたら、コピーしているところだと云う事で・・」私に声を掛けた経緯について話し始めた。
 
「あぁ、そうでしたかそれは失礼しました。それでしたらコピーが済みましたので、先ほどあちらの書架に戻しておきました・・」私はそう言って郷土史コーナーの一画を指さした。
「あぁそうですか・・。もう済みましたか・・」山村さんはそう言って私に確認すると、郷土史コーナーに向かった。
 
 
彼は書架から何冊かの図書を取り出すと、私の居た大きめのテーブルの椅子に座りその図書を広げた。しばらくすると山村さんは問わず語りに
「私は中世に犬居城に居を構え、長らくこの春野町の領主であった「天野氏」について関心がありまして、いろいろ調べてるんですがね・・」そう言って私のほうを見て、
「鎌倉時代中期にこの地の犬居郷の領主に成り、鎌倉幕府から御家人として地頭職を任じられた天野遠景の孫が、初代でしてね・・」と語りだした。
 
「ほう天野氏の初代は『天野遠景の孫』ですか・・。遠景は確か伊豆の土豪で、頼朝の治承四年の平家追討の旗揚げに参集した人物でしたよね・・」と私が応えた。それを聞いた山村さんは急に笑顔になり、
「よくご存じですね・・」と、嬉しそうに肯いた。
 
私もそうだが、自分の関心のある領域について興味を持っていてくれる人と出遭うと、やはり嬉しくなるのであった。とりわけその対象が一般的ではない話題、いわゆるニッチな分野であればなかなか同好の士に巡り合う機会が少ないから、余計そうなのだ。
 
歴史ものであれば、幕末や戦国時代に関心のある人は比較的多いのだが、私たちのような源平時代の鎌倉期に関心を持っている人は多くはない。
それも定番の義経や頼朝といった著名人以外の人物について、興味や関心を持っている人はめったに見られないのである。
だから山村さんが笑顔になって、親しげに私に語り掛けてくる気持ちは、私も理解できた。
 
 
天野遠景は、頼朝が武田信義の嫡男一条忠頼を鎌倉の酒席で謀殺させた時に、謀略で両手を抑えられていた忠頼を背後から切りつけた男で、頼朝の信頼する伊豆の御家人の一人であった。私はそのことは敢えて触れずに天野遠景について尋ねた。
 
「義定公は治承四年の1180年に『富士川の合戦』で、兄の武田信義公たちと平維盛の軍勢に勝利して以来、建久五年の1194年に頼朝に誅殺されるまで遠江之國の國守を14年程務めていたのですが、天野遠景の孫がこの北遠の犬居郷の地頭に成ったのは、いつ頃だったんですか?」と。
 
「そうでしたか、安田義定は頼朝に滅ぼされたんですか?‥いや存じ上げませんで・・。
天野遠景公の子孫が遠州山香之荘と縁を持つようになったのは、後鳥羽上皇の承久の乱の後です。それまで長講堂の御料地であったこの山香之荘の、地頭に成ったのはですね・・。
ですから安田義定とは、重ならないようですね・・」山村さんが詳しく教えてくれた。
 
「承久の乱と云う事は1220年頃でしたか?」私が確認のためにそう言うと、山村さんは
「正確には承久三年1221年の事ですね・・」と即答した。
「なるほどそうですか、そしたら義定公が誅殺されてから26・7年後に成りますね・・」私はそう言って義定公の國守の時代と、天野氏の山香之荘への入部との間に30年弱のタイムラグがある事を理解した。
 
「それ以降天野氏は徳川家康に滅ぼされるまでの3百5・60年間、ずっと犬居城を拠点にこの北遠の犬居郷、今の春野町周辺の領主であり続けたわけです」山村さんはそう言って春野町と天野氏の関係について解説してくれた。
「家康に滅ぼされたんですか・・」私がそう言うと、山村さんは
「天野氏は信州から下って来た武田信玄の配下に入って、三河の家康に敵対していたんですよ。で武田信玄亡き後の遠州を領国にした家康によって、滅ぼされたというわけです・・」と続けた。
 
私はその話を聞いて歴史の巡り合わせについて、少し考えた。
武田信玄の甲斐武田家の家祖である武田信義公の嫡男一条忠頼を、頼朝の命令で誅殺した天野遠景、そしてその末裔が一条忠頼の弟である武田信光の、14・5代末裔に当たる武田信玄公の配下と成って、共に三河の武将家康軍と闘ったと云う事の偶然性というか、歴史の巡り合わせについて、想いが至ったのである。 
 
 
暫くして私のほうから山村さんに尋ねてみた。
「ところでご存知でしたら、ちょっと教えてほしいんですが・・」そう言って、私は話かけた。山村さんは手元の資料から目を離し、私の眼を観た。
「この春埜山の西麓の事なんですけどね」私は手元の資料から「牧野遺跡」の資料を取り出して山村さんに示し、更にタブレット端末を取り出して、聞いてみた。
 
「熊切川の南側で、春埜山の西側を南北に繋がる県道389号線沿いに、幾つかの『牧き場候補地』と思われる場所が散在するんですが、この辺りというのは昔から馬の畜産なんかが盛んな場所なんですか?」そう言いながら、タブレット端末の3Dマップの画面を示した。
 
「牧野・花島・大時・胡桃平・堀之内といった地区なんですけどね・・」私がそう言うと、山村さんはその画像をじっと見て、
「牧き場候補地ですか?」と呟いた。私は軽く肯いた。
 
ちょっとした沈黙があって、山村さんは
「立花さん、ちょっとお待ちください・・」そう言うと、郷土史コーナーに向かって行った。そして数冊の図書をもって、直ぐに戻って来た。
 
「はっきりしたことは判らないんですが、ひょっとしたらこの中に・・」山村さんはそう言いながら手元の図書をめくりながら、何かを探していた。
数分経って、
「これがひょっとしたら参考に成るかもしれません・・」山村さんはそう言って、私の目の前に見開かれた図書を差し出した。
「この本は『春野町社寺棟札等調査報告書』って云うんですがね・・」そう言って、また説明を続けた。
 
「要するに春野町に現存する主な社寺の棟札の事を調べた資料なんですがね、そのうち今言われた『牧野』や『花島』『大時』の神社なんかの棟札もあるんですよ。そしてこれが『牧野の八坂神社』の箇所です・・」と言って見開いた図書を指さした。
 
その図書は平成5年3月に発刊されたもので、「春野町町史編さん委員会」が編集・発行者に成っていた。全体で520ページ強あり「町史作成」に向けての準備作業の一つとして、行われた調査結果を取りまとめた図書のようであった。
 
 
当時の春野町を「犬居地区」「熊切地区」「気多地区」の三地区に区分し、各地区の神社・仏閣の棟札を調査したものの様だ。それぞれ27ヶ所・43ヶ所・43ヶ所合計113ヶ所の神社・仏閣を調べたことに成る。
 
これはたぶん町内の主たる神社・仏閣を悉皆(しっかい)調査されたものだろうと推察できた。私は上越市が発刊した『上越市史-別編3-』の事を思い出した。そしてこれは上越同様きっと役に立つだろうと思い、私は山村さんに言った、
「ありがとうございます。良い資料を教えていただきました。これはきっと役立つと思います・・」私が感謝の言葉を述べると、山村さんは微笑を浮かべ優しく喜んでくれた。
 
私は早速山村さんが開いてくれた
「熊切地区41番牧野、八坂神社」の箇所に付箋を貼り、他のページを確認した。
「同42番花島、蛭子神社」
「犬居地区1番大時、八坂神社」が私の興味の対象となった県道389号線信州街道の「牧き場候補地」沿いに点在する神社であった。
 
そのほかにも関連しそうな神社として
「犬居地区19番堀之内、駒形稲荷神社」
「熊切地区12番杉居寄、牛頭天王社」
「気多地区31番気田、八幡神社」
「同32番気田、南宮神社」
「同43番宮川、八坂神社」
さらには本命である
「犬居地区26番領家、秋葉山神社」
「同27番領家、秋葉寺」に関しても付箋を貼り、司書のところに持って行き、コピーの申請をした。
 
 
この中で特に私の目を引いたのは、例の「牧き場候補地」沿いの神社の他に、気田の「南宮神社」であった。「南宮神社」はいうまでもなく金山彦を祀った神社であり、金山衆に直結する神社であったからである。
 
程なくして司書の方が私の居た二階のテーブル席まで、依頼しておいたコピーを持って来てくれた。
 
山村さんのアドバイスで巻末の「春野町社寺分布図」をも、カラーコピーしておいたのであるが、その分布図上に私は各神社・仏閣の場所を確認しながら、それぞれに該当する地図上の箇所に、カラーマーカーを施した。
そのうえで改めて確認すると、県道389号線の「牧き場候補地」すなわち「牧野八坂神社」「花島蛭子神社」「大時八坂神社」の配列が目に付いた。
 
また「堀之内、駒形稲荷神社」に関しては同じ「堀之内」であったが、堀之内の範囲は犬居地区の中でも東西にかなり長い。
現在この神社が鎮座しているのは西端の気田川沿い、犬居小学校の近くに在る寺院「瑞雲院の境内」で、東端の山間部の県道389号線とは4・5㎞は離れているのが残念であった。
 
 
いずれにしてもこれらの神社についてはこの『社寺棟札報告書』をある程度読み込めば、当該神社・仏閣の謂れや由来が確認できることは確かで、その中に「牧き場の痕跡」につながる情報が何か見つかればよいのだが、と私は期待感を抱いた。
 
ザッと斜め読みした情報では「牧野八坂神社」の棟札には建立のスポンサー名に「良馬」「平馬」「右馬」といった名前が見られ、やはり馬の畜産や育成に関係していた人々が居たのだろうと推察することが出来た。
 
「花島蛭子神社」は、本来の蛭子(えびす)様すなわち事代主の命の他に、「八坂神社」や「八幡宮」も合祀して在り、スサノオ命や誉田別命を祭神として祀る神社が、かつて近隣に存在していたことが確認できた。
また「大時八坂神社」においては須佐之男の命と共に誉田別命も祭神として祀られており、この神社は八坂神社と同時に八幡神社でもあったことが認められた。
 
更に「大時八坂神社」には静岡県指定の有形文化財の「文安元年(1444年)の鰐口や五体のご神体」があり、それを奉納したスポンサーは「右馬尉兼吉」とあり、やはり馬の畜産・育成に関係する人物が当該神社の氏子に居たことを示していた。
 
室町時代中期の「文安年代」に「右馬尉」を名乗る一族が、この山間部の集落に居たことは、7・8㎞南方の森町大久保の「馬主神社」に繋がるこの「牧き場街道」が現在の県道389号線沿いに展開していたことを、示しているのではないかと私は想い、一人ニヤニヤして喜んだ。そしてこれらの資料をホテルに戻ってから改めて熟読しようと、そう想った。
 
 
そうこうしているうちに閉館時間を告げる17時半のチャイムが鳴った。
私はこれらの貴重な情報を教えてくれた山村さんに感謝のお礼を伝え、コピーの束を抱えて今日の宿のある浜松市にと向かうことにした。
 
一年で一番日照時間が長い夏至が近づいているとはいえ、山狭の集落である北遠なのだ。遅からず太陽が標高の高い山に隠れてしまう事は、容易に想像することが出来た。
 
私は多くの春野町の情報をゲットしたことに満足し、早くホテルにチェックインを済ませ今日得た資料を詳く読んでみたい、との期待感を大きく膨らませていた。
 
私は北遠春野町をスタートして、気田川が天竜川にと合流し次第に大河に成って行く、遠州の山狭の街を縫うように下り、遠州灘近くの浜松の中心部に向けて南下して行ったのであった。
 
 
 
 

             

 

 

 

       『 吾妻鏡 第三巻 』 頼朝、一条忠頼を営中に誅す― 

                   (元歴元年=1184年、六月十六日の条)

                     『全訳吾妻鏡2』165ページ(新人物往来社)

 

(甲斐武田家嫡子)一条次郎忠頼、威勢を振るうの餘に、世を濫る志を挿(さしはさ)むの由、聞こえあり。武衛(頼朝)また察せしたまふ。よって今日営中において誅せらるるところなり。

晩景に及びて、武衛西侍に出でたまふ。忠頼召によって参入し、対座に候ず。宿老御家人数輩列座し、献杯の儀あり。・・・・・・

小山田別当有重・・・(忠頼の)括を結ぶ(手を抑える)の時、天野藤内遠景別して仰せを承りて、太刀を取り、忠頼が左の肩に進み、早く誅戮しをはんぬこの時武衛は御後の障子を開きて入らしめたまふと云々。  ( )は筆者の註

上記のように『吾妻鏡』には頼朝の心象によって一条忠頼の誅殺が決せられたと記録されており、忠頼側に何らかの落ち度や客観的な原因があったわけではない。

甲斐源氏の氏の長者武田信義の嫡男であった一条忠頼は、伊豆の御家人グループの甲斐源氏への妬みや嫉みと共に、源平の闘いで著しい武功を上げ影響力を増しつつあった甲斐源氏への警戒感を抱く、頼朝の思惑によって誅殺されたのであった。

この数か月前にあった木曽義仲の嫡男、信濃源氏の木曽義高の誅殺と共に頼朝は自らの権力を固めるために、常陸源氏の佐竹氏と戦った後に、信濃源氏・甲斐源氏への圧迫を強めていくことに成った。

尚、天野藤内遠景は伊豆の御家人グループの一員であり、治承四年(1180年)の頼朝の平氏討伐の挙兵に加わったメンバーの一人である。

 

 

 

春野町の金山神社

 
 
JR浜松駅の西側、遠州鉄道新浜松駅をさらに西に行った先は、飲食店や飲酒街が連なる歓楽街である。そのゾーンを超えて国道257号に面して私の宿泊予定のホテルは在った。二日間連泊する予定で予約したホテルだ。
 
交通量の多い国道257号線を越して、前面に20台前後の駐車スペースをとっていたホテルはスタイリッシュな外装であった。
夕方の7時ごろにチェックインした私は早速旅装を解いて、ベッドで仮眠した。
8時過ぎに目覚めた私はJR浜松駅周辺の飲食街に、向かった。
 
駅北口の飲食が散在しているエリアに向かった私は、魚料理をウリにしている店を選び遅めの夕食を摂った。
アルコールもそれなりに呑んで満たされた私は、10時前にはホテルに戻った。
 
心地よいアルコールの残った頭のまま、私は春野町の図書館で集めて来たコピーの束にザッと目を通した。そのうえでテーマ別に仕分けし分別してテーブルの上に置くと、11時過ぎには床に就いた。
 
 
翌朝目覚めの朝湯に浸かってシャキッとしてから、私はホテルのレストランの朝食をゆっくりと摂って、それなりに寛いでから部屋に戻った。
今日の午前中は、昨晩整理して置いたコピーの中の優先順位の高い資料を、じっくり読み込む予定でいた。
 
それから昼食後の15時にはJR浜松駅に隣接するホテルで、秋葉山神社本宮の禰宜(ねぎ)守矢さんとお会いする約束をしていた。
 
守矢さんは電話の口調ではまだ若い方の様であったが、すでに禰宜の職に在った事と苗字が宮司さんと同じであったことから、きっと秋葉山神社本宮の後継者なのではないかと私は推察した。
 
いつもは、私が昨日参拝して来た本宮下社に詰めているらしいのであったが、昇任のための研修を伊勢神宮に受けに行った帰りの時間を割いてもらい、JR駅に隣接するホテルで逢う約束をしていたのであった。そんなこともあって午前中は昨日のコピー資料を読み込むことに集中した。
 
 
先ずは森町大久保の「馬主神社=現、大久保八幡神社」から遡る事に成る、県道389号線沿いに繋がる「牧き場街道」沿いの神社・仏閣について扱っている資料を読むことにした。
 
『春野町史』の中の地元の神社・仏閣についての記事を中心に、昨日山村さんから教えてもらった『春野町社寺棟札等調査報告書』の中の県道389号線沿いの神社・仏閣の記事、そして山村さんも会員と成っている春野町郷土研究会の会報『温故知新』の中のピックアップ記事をそれぞれ何度か読んだり、読み返したりした。
 
その結果私の興味を引く記事を『温故知新』の中に、見つけることが出来た。
昭和49年8月1日発刊の会報第3号に載っていた「大時八坂神社と鰐口の考察(1)」という小論文で「河村義忠」という方の書かれたものであった。今から45年程前に書かれた論文であった。
 
当該論文には「大時八坂神社」に奉納された「文安元年(1444年)の鰐口」に関することが取り上げられていた。
この情報自体は、昨日も『春野町社寺棟札等調査報告書』をザッと斜め読みした時に知り得た情報であったのだが、その関連記事に注目すべきことが書かれていたのだ。
 
具体的には「大時の八坂神社」には主祭神の「須佐之男命」「誉田別命」の他に「金山神社」が合祀されており、金山彦命が祀られていたのである。
金山神社は「元本村字白倉ニ鎮座」と書かれており、明治七年4月に当時の大時村白倉から移ってきて合祀された、と云う事のようだ。
 
 
私はこの記事を読んで大いに喜んだ。
合祀自体は明治七年の事であったがこの大時村の八坂神社、正しくは「天王、八幡神社」あるいは「祇園、八幡神社」とも呼ぶべき神社の、そう遠くない場所に「金山神社」が祀られていたことが判明したからである。
 
この大時地区で私は、安田義定公に縁の深い神社「八幡宮」「天王社」「金山神社」の三点セットが、確認できたのであった。
昨日春野町の図書館で確認したように、室町時代中期にこの鰐口やご神体を奉納したのは「右馬尉兼吉」なのである。彼はその官職(自称)の通り馬の畜産・飼育に関係していた一族の主であり、長(おさ)なのであった。
 
これだけ義定公に関わる神社や官職(自称)を称する人物が揃ってくると、私としてはもはや義定公ゆかりのエリアであったに違いない、と思わざるを得ないのだった。
従ってこの県道389号線沿いに繋がる「牧き場候補地の街道」は、私の中ではすでに「候補地」ではなくなってきた。「牧き場街道」そのものなのであった。
 
 
森町大久保の「馬主神社」に連なる、春埜山西麓の北遠春野町の山峡の集落「大時」「牧野」「胡桃平」「堀之内」に点在する小さな平地は、畜産や若駒たちの飼育を中心とした場所であったのだと想定することが出来るのだ。
 
そしてこのエリアである程度大きく育てられた若駒を、森町大久保の「馬主神社」近くの左右の「右を向いた馬の形をした平地」や「左を向いたタツノオトシゴの形をした平地」に移動させ、騎馬武者用の軍馬として調教・教練していたのではないか、という仮説が私の中では出来上がったのである。
 
従って大時の「祇園・八幡神社」は、安田義定公にとって近隣白倉の「金山神社」と共に、春埜山西麓の主要な拠点だったのではないか、と推察することが出来たのだ。
規模は違うが丁度、富士山西麓の朝霧高原や長者ヶ岳の富士宮、更には越後之國糸魚川能生町の「槙、金山神社」周辺がそうであった様に・・。
 
私はそのような思いを強く持って、春野町の他の金山彦を祀る「金山神社」を中心に調べを進めた。具体的には昨日から気に成っていた気田の「南宮神社」についてコピーした資料を基に調べてみた。
 
 
気田の「南宮神社」は春野町のかつての中心街区である「気田地区」のメインストリートである「気田中通」沿いに在り、気田地区の産土神として鎮座している神社であった。
「南宮神社」の主祭神は言うまでもなく金山彦であるが、明治7年には「スサノオ命」「誉田別命」といったなじみの神々を始め「菅原道真」や「事代主命」なども合わせて合祀されている。気田中心街に点在していたこれらの社や祠を、明治維新の宗教政策で合祀したものと思われる。
 
更に興味深いのは、この気田地区に隣接する気田川沿いの集落の名が「金(きん)川」地区と云うのである。その金川地区は北北西の信州長野につながる山間部から流れて来る気田川の本流と、北東の南アルプスの静岡側の山間部から流れてくる「杉川」とが合流し、大きく蛇行する場所でもあると云うのだ。
 
そしてその地名「金(きん)川」から推察すると、「気田川」と「杉川」とが合流する地点でかつて砂金や沈金と成った川金が採れた可能性があるのだ。その故から「金(きん)川」の地名が生まれたかもしれないのである。
 
そういった経緯があったから、その合流地点「金川」の小高い場所に、金山彦を祀った「南宮神社」が産土神として鎮座する事に成ったという事も、大いに考えることが出来るのではないか、と私は想像力を膨らませた。
 
 
またこの構図は、糸魚川市旧能生町を流れる能生川の中流、槙地区の「金堀場」と「金山神社」の関係を私に連想させた。
これは果たして偶然なのであろうか?それとも必然なのであろうか・・。
もし偶然でないとしたら、私はやはりこの気田地区の「金川」や「南宮神社」にも金山衆の存在を、強く意識する事に成るのであった。
 
私は早速明日にでも、春野町気田の「南宮神社」や「金川地区」を現地調査してみたい、と強くそう想った。
標高4・5百m級の山間部に拡がる県道389号線沿いの「牧き場街道」の神社には、金山神社も祀られていたが、やはりメインは「騎馬武者用軍馬の畜産・育成」であるように思われる。
 
それに対して気田川と杉川とが合流する「金川」地区と「南宮神社」の在る気田地区は、標高百5・60mと春野町では低地に属している。
「牧き場街道」との標高差は300mほどはある。
 
 
このエリアが当初は砂金や沈金の採集から始まって、更に砂金の源を求めて上流に溯って金鉱山開発が行われたとすれば、「気田地区」はその際の拠点となった場所であった可能性が高いのである。そしてこの「気田」の小高い岡の場所に「南宮神社」が祀られている事の説明が、つくのである。
 
このように考えてくると北遠の春野町は 鎌倉時代初頭の長講堂の御料所であった「犬居領家地区」を溯った気田川中流の「気田地区」に、義定公の遠江之國における金山開発の拠点が在り、森町との境界域に当たる春埜山西麓の山間部に、騎馬武者用軍馬の畜産・育成の拠点が在った、と想定しても良さそうである。
 
そして犬居の領家地区にもまたかつて「金山神社」が在ったのである。昨日私が参拝した「六所神社」には、金山神社が合祀されていたのである。
 
もちろん現時点では仮説にすぎないのであるが、「気田地区」や「牧き場街道」の神社・仏閣の関連資料をさらに調べ、現地調査を行う事でその仮説の検証を行っていきたい、という想いが私は一層高まって行った。
ここまで調べて12時の20分ほど前に成った。
 

私は区切りがついたのでひとまず、昼食をとることにした。昼食を求めてホテルを出て浜松駅近くにと向かった。

ホテルの朝食に和食を選んだこともあってお昼は軽く中華を食べることにした。胃にもたれない程度の中華を食べて、4・50分ほどでホテルにまた戻った。

  
午後からは、15時に逢う約束をしている「秋葉山神社本宮」に関する資料を読み、情報交換する予定の禰宜の守矢さんに質問する事項を、整理するための作業に入った。
今回の情報交換の最大のテーマは「秋葉山神社と安田義定公との間に何らかの繋がりがあるかどうか」を確認する事にあった。
 
と同時に「秋葉山神社と三尺坊の関係」についても私の中ではまだ十分整理が出来ていなかったので、その点についても確認するつもりでいた。
 
更に「勝軍地蔵と応神天皇の騎馬像の関係」についても確認したいと私は思っていた。
というのも、秋葉山神社は「防火・火伏」と共に「防災・厄除け」の神社であり、また「勝軍地蔵」の信仰が厚い神社でもあったからである。
 
 
「勝軍地蔵信仰」については室町期から始まったようであったが、とりわけ武士の間での信仰が旺盛に成って、戦国時代や江戸時代においてもその信仰は盛んであったという。
 
私は秋葉山神社の「勝軍地蔵」の存在を、東京での事前調査や図書によって知ったのであるが、その際に京都祇園祭「八幡山」のご神体の一つである「応神天皇騎馬像」と「勝軍地蔵」が類似しているな、と思ったのであった。
 
共に「騎馬」に乗った「応神天皇」と「勝軍地蔵」とであったからである。
そして両者の関係は、どちらかが他方に影響を与えた結果生まれたのではないか、とそう考えてみたのだ。
 
ひょっとしたら秋葉山神社の「勝軍地蔵信仰」の存在が、八幡山の「応神天皇騎馬像」誕生に影響を及ぼしたのかも知れない。
はたまた逆に「応神天皇騎馬像」の存在が、「勝軍地蔵」の誕生に影響を与えたのかもしれない。と思い、両者の関係がとても気になっていたのである。
 
私自身は「応神天皇騎馬像」は安田義定公が作ったものであろうと想っているから、こちらが鎌倉時代初頭に先行して存在し、室町時代に成ってから「勝軍地蔵」が追随したのではないか、と考えることも出来た。
 
それとは逆に、室町時代の「勝軍地蔵信仰」の影響を受けた島左近が作製し所持していたものを、彼の末裔が江戸時代後期にこの騎馬像を「祇園祭八幡山」の町衆に、寄贈したものであったのかもしれないと思うことも出来たのである。 
 
 
更に私が何よりも本宮禰宜の守矢さんに確認してみたいと想ったのは、「秋葉山神社本宮の社紋」である、「剣花菱」についてであった。
社伝によればこの「社紋」は信濃を経て、北遠から遠州に攻め込んだ武田信玄公が、秋葉山神社に「正宗の刀剣」を奉納した際に与えた紋であった、と云う事に成っている。
 
しかし言うまでもなく「花菱」は安田義定公の家紋でもあるのだ。
戦国時代末期に甲斐から信濃の攻略を済ませ北遠に至り、さらに南進して浜松城の徳川家康を三方ヶ原で撃破した武田信玄公ではあったが、義定公は重任に重任を重ね14年の長きにわたり遠江之國の國守を務めた人物なのである。
 
他方信玄公の北遠支配は1570年代の数年である。「正宗の刀剣」奉納は実際にあった可能性は高いが、「剣花菱」の家紋を付与したというのは果たしてどうであろうか、と私にはその社伝をスンナリ受け入れることは出来ないのであった。
 
また秋葉山神社本宮には200振以上の刀剣が奉納されているのであるが、それは室町時代以降の武将達の「勝軍地蔵信仰」の副産物でもある。
 
その200振の刀剣の中でも最古の刀剣であり、国宝に成っている「銘:安縄」の作風は、「平安末期~鎌倉初期」だと刀剣専門家に鑑定されている代物なのである。
時代考証的には将に義定公の時代に符合するのだ。
 
更に信玄公は義定公の事を尊崇し、塩山藤木郷の義定公菩提寺である「放光寺」に所領を与え、手厚く保護している武将でもあるのだ。
その信玄公が義定公の故事に倣って「正宗の刀剣」を奉納した、とは考えられないであろうか?私はこの点についてもぜひ、秋葉山神社本宮の禰宜さんに確認してみたいとそう思っていたのである。
 
 
最後に忘れてはならないのは「流鏑馬の神事」や「舞楽」についてである。
これらの神事はいずれも義定公にとっては、切り離すことの出来ない「神事」であり「イベント」であるから、これらについての確認はぜひ行わなくてはならないと想っている。
とりわけ「流鏑馬の神事」は、秋葉三尺坊を介して繋がりのある越後之國長岡の「蔵王権現の神事」、でもあるのだ。
 
秋葉三尺坊が遠州秋葉山の「秋葉山神社」に深く関わっていたとするならば、同じ長岡の「蔵王権現、現在の金峰神社」で今も尚行われている、「流鏑馬の神事」に繋がる何らかの痕跡があるかもしれない、と私は期待をしているのである。
 
現在のところ遠州の地において、「流鏑馬の神事」は「浅羽之荘」「掛川垂木」「森町大久保」等で、実施中又は行われた痕跡が残っている。
また「舞楽」に関しては、森町の「小國神社」「天宮神社」において今も尚、継承されている。
従ってこの春野町において、それら義定公ゆかりの神事の痕跡が、何らかの形で残っているのかどうか、とても興味深いのである。
 
仮に「流鏑馬」や「舞楽」といった神事につながらなくても、義定公との関連が想起される神事が何かあるのであれば、その点についても確認し教えていただきたいものだと、そう想っている。
 
15時からの守矢禰宜との面談を控え私は、これらの課題を改めて整理した。
そして約束の30分前には宿泊先のホテルを出て、JR浜松駅に隣接するホテルにと向かって行ったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
                           秋葉山本宮秋葉神社の刀剣
                    ― 秋葉山本宮秋葉神社 発刊 ―
 
                         【重要文化財:太刀 銘:安縄
 
「安縄(やすなわ)は、古備前派の刀工 ・・・・・・・・・(当該太刀の作風は藤原(平安)末期から鎌倉初期の様式を備えなかでも、すんだ地鉄は当時すでに名刀を多く生み出している備前の出自を示すものといえよう。
        
                           大正11年4月13日古社寺保存法により国宝に指定
         昭和25年5月30日文化財保護法により重要文化財に指定される。
                              註:( )は筆者記入
 
 
 
           
                 国宝「安縄
 
 
 
 
 
 

秋葉山本宮、禰宜氏

 
 
浜松駅に隣接しているシティホテルのロビーに着いたのは、約束の10分ほど前であった。
フロントから少し離れた場所のエスカレータ近くのソファに腰かけた私は、周囲をザッと見渡したが、老婦人が一人居たのみであった。
 
5分前に成って、教えてもらったケータイにⅭメールを送ると、今ちょうど二階からエスカレータで降りるとこです、と返信が来た。
 
私は早速ソファから立ち上がり、すぐ近くのエスカに近づいた。濃紺のスーツ姿で眼鏡を架け、まだ40には成ってないと思われた白皙の青年が下りのエスカレータで降りて来るところであった。推測していた通り若かった。
 
禰宜職というのは、宮司に次ぐ職階であろうからやはり秋葉山本宮の後継者なのかもしれない、と改めて彼を観て推察した。
 
 
私は彼が片手にスマホを持っているのを認め、軽く会釈した。
彼もまたスマホを片手に見上げる私に、会釈を返した。
 
エスカの下であいさつを交わしお互いを確認した後、私は2階のホワイエに行くことを提案し二人でエスカを昇って行った。
エスカを上がってすぐ左手の、1階のホテルロビーを見下ろすことの出来る吹き抜けに沿うように、そのホワイエは在った。
 
吹き抜け近くに席を取り、お互いに名刺交換を済ませた。
お手拭きを持ってきたホワイエの女性スタッフに珈琲を注文して、ようやく話を始めた。
華奢な身体で、眼鏡を架けた白皙の守矢禰宜は知的な雰囲気の漂う、真面目そうな青年であった。学者の卵か准教授といった感じの印象を受けた。
 
初対面と云う事もあってか、彼はやや緊張気味であることが感じられた。
伊勢神宮に研修に行かれたことなどの雑談を終えてから、私は本題に入った。
 
 
私が鎌倉時代初頭の甲斐源氏の武将安田義定公について語り、公が遠江守を14年間務めたことも話し、遠州と深い関わりがある国守であることを一通り話した。
その間彼は、静かにジット私の話を聞いていた。
 
更に話が越後之國長岡の、かつての「蔵王権現」現在の「金峰神社」の流鏑馬の神事について話しが及び、秋葉三尺坊に話が至った時ちょっと顔つきが変わった。
そして遠州の秋葉山本宮に何故私が関心を抱いたかについて、話が進んだ時にはやや前傾姿勢に成った。しかし神職という職業柄か、居住まいは正したままで姿勢が崩れる事はなかった。
  
 
その時、分け入るようにホワイエの女性スタッフが珈琲を運んできた。
喉が渇いていた私は早速その珈琲を一口飲んだ、旨かった。レギュラー珈琲でないのにもかかわらず、しっかりと珈琲の豆の味がした。さすが値段だけのことはあった。
 
「そういうわけで越後之國で唯一確認できた流鏑馬の神事を、現在も尚継続している長岡の『蔵王権現=金峰神社』と、同じ秋葉三尺坊と縁のあるこちらの『秋葉山本宮』との間に、遠江守安田義定公に関する何らかの痕跡や足跡・伝承といったものが残ってないだろうかと、まぁそんな風な仮説を私は抱いてまして・・」と、長々と今日の面談の趣旨を、私は話し終えた。
 
私の話をじっくりと聞いていた守矢禰宜は、
「なるほどそう云う事でしたか・・、判りました。それと確かお電話では当神社の社紋についても、おっしゃっていたようでしたが・・」と初めて口を開いた。
 
「あハイそうでした・・、『秋葉山本宮』にはカエデの神紋とは別に『剣花菱』の社紋が在りましたよね・・」私はそう言って彼の顔を見て、確認した。彼は肯いて同意した。
 
「ご存知かもしれませんが、安田義定公の家紋は『花菱紋』なんですよ。4つ上の兄で共に富士川の合戦で平維盛の平家軍を撤退させた時の、甲斐源氏の大将であった武田信義の武田本家の『武田菱』は有名ですよね、信玄公の活躍で・・。
ご存知のようにその武田菱をデコレーションして、グッと華やかにした家紋ですよね花菱は・・」私は続けた。
 
 
「その義定公の家紋『花菱』に縁があると思われる、こちらの社紋『剣花菱』。それはひょっとしたら遠江守を14年間勤め、神社仏閣への尊崇の念の高かった義定公と何らかの関わりがあったことの、痕跡ではないかと・・。私はそんな風に想像を膨らませてまして・・」私は再た守矢禰宜の眼をじっと見て、そう言った。
 
 
「ご存知かもしれませんが当本宮の『剣花菱』は、武田信玄公から授かった社紋であると・・。社伝ではそんな風になってまして・・」
守矢さんはそのように言ったが、その口調は静かでしかも何となく自分の発言にも、距離を置いているような感じがした。あるいは彼自身その社伝に、今一つ信を置いてないのかもしれない、と私は感じた。
 
「その様ですね・・。私も秋葉山本宮のHPを観てその点は一応存じてはいます。しかもその際は確か信玄公から『正宗の刀剣』も一緒に奉納されていたとか・・」私がそう言うと、守矢禰宜は、肯きながら、
 
「信玄公の他に山本勘助や高坂弾正・山縣昌景等武田家の多くの武将から、ご奉納していただいてます」と述べた。
「ホウ、それはそれは・・。貴神社と信玄公を始め武田家との関係はそんなに深かったんですか・・」私がそう言うと守矢禰宜は、
 
「それは確かだと思います。武田信玄は甲州から信州を領国として傘下に収めた後、北遠から三河への侵攻を考えた場合、私どもの秋葉山が要害の地であると位置づけていたようですから・・」そう言って信玄公の軍が浜松に居城を構えていた徳川家康を攻略する際に、秋葉山を含む北遠の地が重要な意味を持っていたと、説明してくれた。
 
「確かに、それはあるかもしれませんね。やはり北遠の地に三河攻略の前線基地を構えていたんでしょうね・・。古くからの信州街道である『塩の道』が何本も遠州にはありましたからね・・」
 
私はそう言って守矢禰宜の説明に同意し、頭の中で遠州平野の途切れる森町から入り、「秋葉山」や「春埜山」から始まる山狭の天竜川や気田川沿いに展開する北遠の集落や郷、小高い丘の事を想った。
 
 
「それと武田信玄は秋葉山の修験者達の力を、かなり上手に使っていたらしいと云う事です。これは私の父や祖父からも聞いてますが秋葉山の修験者達を間者に使って、三河はもちろん尾張の信長の動静や京の都の情報も得ていたらしい、との事です・・」守矢禰宜はそう教えてくれた。
 
「やはり伝承と云う事でその話は戦国時代から、連綿と代々受け継げられている逸話なんでしょうかね・・」私は4・500年後の今も尚語り継げられているそのエピソードに感心しつつ、心の中では修験者を活用した信玄公の「甲州ラッパ」や「甲州スッパ」の事を思い描いた。
守矢禰宜は大きく肯いて、さらに
 
「実はそんな経緯もあって家康は天下を統一した頃から、この秋葉山に対する監視役というかお目付け役のようなことも兼ねて、当神社の近くに別当寺として『秋葉寺(しゅうようじ)』を造らせたということです・・。
そんなこともあって明治維新の神仏分離令が出るまで江戸時代の2百6・70年の間、秋葉山神社は別当の秋葉寺の配下に在った、と云う事だったらしいです・・」と付け加えた。
 
「ホウ、そうだったんですか・・。そんなことがあったんだ。それってやっぱり武田家と秋葉山本宮や秋葉山の修験者達との関係を断ち切るというか、そういう意味合いもあったんでしょうかね・・」私がそう言うと、守矢禰宜は肯きながら、
 
「そうだと思います。家康は三河の国で起こった一向一揆で、若い頃さんざん辛酸を舐めたらしく、この遠州を領国に収めてからはそれまで真言宗や天台宗であった多くの寺を、曹洞宗や浄土宗に改宗させたり、従わない寺は取り壊したりと宗教改革をだいぶ断行したようですから・・」と遠州での家康の宗教政策について説明した。
 
 
「三河の一向一揆の件は有名ですよね、それに本願寺を『東本願寺』と『西本願寺』とに分断したのも同じ動機からでしたよね、なるほどネそんなことがあったんですか・・。
という事はあれですか、ひょっとして秋葉三尺坊の件もそこら辺と絡んでくるんですか?その徳川幕府の宗教政策と・・」
 
私は徳川家康の宗教政策によって、秋葉寺が秋葉山の一画に建立されたというその経緯を聞いて、私が一番確認したかった「秋葉三尺坊」と秋葉山本宮との関係が、想わぬ方向に向かっていると感じ、それを確認する意味で聞いてみた。
 
「ハイ、その様です。・・尤も徳川幕府が秋葉三尺坊を信州戸隠や、越後長岡から遠州に持ち込んだと云う事ではなくて、秋葉山で修験道の修行をしていた修験者達が信奉する秋葉三尺坊を、家康との関係が深かった袋井の曹洞宗の拠点寺であった可睡斎が、うまく取り込んで行ったというのが実態のようですがね・・」守矢さんがそう言った。
 
 
「と云う事は・・」私はそう言って頭の中に浮かんだ疑問を目の前の禰宜氏に聞いてみる事にした。
「確か古来より秋葉山神社に在ったという三つのご神体、『聖観音』『十一面観音』『秋葉三尺坊』や、火防・火伏の神『火之迦具土命』の関係は一体どうなるんでしょう・・」私がそう呟くように言うと、
 
「はい、『聖観音』『十一面観音』は曹洞宗の本佛ですから江戸時代に可睡斎によって持ち込まれたもののようです。一方『秋葉三尺坊』は秋葉山で修行していた修験者達の信奉する対象であったわけです。
 
従って残りの『火之迦具土命』が秋葉山神社本来の神様と云う事に成りますね・・」と、サラリと守矢禰宜は言った。
 
「なるほど、それで明治維新後の明治政府によって神仏分離令が出た時に、『聖観音』や『十一面観音』と『秋葉三尺坊』とが、袋井の可睡斎に移ったというわけですか・・」私は事前の資料や図書で読んでいた、秋葉山本宮神社の秋葉三尺坊に関する情報を整理する意味で、そう言った。 
 
 
「マァ、そう云う事に成ろうかと思います。ついでに申し上げますが私自身は当神社の本来の神様は『火之迦具土命』ではないと思っています・・」と、涼やかな目をしたまま彼はサラリと言った。
「えっ‼といいますと・・」私は自神社の神様に対する大きなテーマについて冷静にサラリと言ってのける、目の前の秋葉山本宮の幹部の次の言葉を待った。
 
「当神社は江戸時代以降『火伏・火防の神社』『盗難・厄除けの神社』更にはその前の室町時代以降は『勝軍地蔵による戦の神を祀る神社』といった事に成っていますが、古えよりの神様は『山の神様、山岳信仰』ではなかったかと、そう思っています・・」と自分の考えを述べた。想定外の展開に戸惑い気味の私を見て守矢禰宜は、
 
「というのも、これは祖父から聞いた事ですが、明治維新の神仏分離令が出た時ご神体を改めて確認したことがあったようですが、その際に確認した当神社のご神体は『三尺坊』と『権現(ごんげん)』の二体だったそうです。
そのうち元々修験者が信奉していた『三尺坊』は、修験道の神と云う事で当神社から分離し、可睡斎に引き渡したと云う事です」とはっきりと言った。
 
「『権現』ですか・・。と云う事は・・」私がそう言うと、
「『権現』、すなわち山の神様の事ですね・・」と守矢さんは説明した。
「なるほど、それで『山の神様、山岳信仰』と云う事に成るんですね・・」先ほどの自信を持った禰宜の発言の裏付けは、この点に在るんだなと私は合点した。
 
 
「秋葉山は元々ご存知なように、山の神様だったんです。社伝では一応行基の開山と云う事に成ってますが、実際に行基が開山したかどうかは確たる根拠はありません。
行基が開山したと伝えられる聖地や仏閣は、裏付けのないままに日本全国どこでもよく言われている事でして・・、とりわけ山岳修行の霊山などでは権威付けのためかどうか判りませんが・・」守矢禰宜は冷静に言った。
 
私は自身の所属する神社の事をこのように第三者的に捉え、客観的に発言する守矢さんに好感を覚えた。自家の神社や仏閣の事を自慢したり権威づけ、根拠がなくても吹聴する人が多いのに、彼のスタンスは科学者のように冷静であった。
そんな私の、彼を観る目が変わったからかもしれないのだが、心なしか彼の顔から緊張感が薄れ、柔らかな表情に成ったように感じられた。
 
 
「それに春野町の『秋葉山』と『春埜山』とは、どうやら一対を成しているようです。
標高も当神社が866m春埜山が883mと同程度で、遠州平野から見れば左と右の関係ですし、名前もまた『春』と『秋』ですからね・・」守矢さんはそう言って、春野町の代表的な修験者の山である秋葉山と春埜山の関係についても語り、更に興味深いことを言った。
 
「ご存知かもしれませんが『春埜山』には『大光寺』というお寺が在り、当神社と同様に『防火・火伏』の御祈祷なんかも行っているんです。対を成していると思われる春埜山にも防火・火伏の信仰があるんです」
 「ホウそうなんですか・・。いやそれは確かにおっしゃる通りかもしれませんね・・」私は守矢さんが話してくれた新しい情報に、新鮮な驚きを感じた。
 
「と云う事は『防火・火伏の信仰』は秋葉山神社の専売特許というわけではないんですね・・」と、私は率直に感じた事を口にした。守矢さんは大きく肯いて、目に柔らかな笑みを湛えて、
 
「そういう事ですね、当神社の場合は江戸時代の『秋葉三尺坊信仰』があったために有名になっていますが、客観的には春埜山でも行われていたわけです。因みに春埜山では『大光寺太白坊』だったようですがね・・。
 
そしてそのルーツはどうやら三河・信州・遠州の所謂『三信遠』と云われる南アルプスに連なる山岳地帯で、太古より続いていた『焼き畑農業』に辿ることが出来るようなんです・・」守矢さんはまた、新たに刺激的な情報を私に提示してくれた。
 
 
「へぇ~、すごいですね!焼き畑農業ですか・・」私は想わず絶句してしまった。
しかし守矢さんが教えてくれた様に「防火・火伏」という行為は、「火を使い、コントロールする」事でもあるから、「焼き畑農業」とも関連性はあるのかもしれない、と考えることは出来た。私は驚くと共にもっと詳しく聴いてみたい、とそう想った
 
「面白そうですねそのお考え・・。守矢さんのお考えですか?」私は早速聞いてみた。
「イェ私も書物で、知ったのですが・・」彼はそう言うとカバンの中からタブレット端末を取り出し、操作して私に教えてくれた。
 
「静岡出身の学者で野本寛一先生という、近畿大学の先生の書かれた『焼畑民族文化論』という著書や、その名も『秋葉信仰』という著書の論文なんかで言及されているんですがね、私も面白いとそう思いましてそれ以来・・」守矢さんはそう言いながら、私にタブレット端末を開いて見せてくれた。
 
 
私はその書物の名前と著者の名を手元の取材用ノートに書き記した。
守矢さんは引き続き「秋葉神社」と「焼き畑農業」との接点について語りだした。
 
「野本先生の論文によりますと、秋葉神社の『アキバ』は常緑樹の『アオキ』から来た言葉だと云うんです。『アオキ』の葉っぱは火傷にも効果があって、北遠地方では古くから民間の治療薬としても使われている、と云う事です。
 
更にはアオキの小枝を家の軒下に吊るしておいて、防火祈願や火伏のマジナイにしてる地域もあった、と云うんです。
そして私たちも使いますが、ここ遠州では『アオキ』の事を方言で『アキバ』と言ったりするんですよ・・」
 
「へぇ~、そうなんですか『アオキ』のあの厚い葉っぱが火傷の薬に成ったり、火除けのマジナイの対象に成るんですかぁ・・」私はすっかり感心してそう呟いた。
 
「焼き畑農業で、熾(おこ)した火を消したりする時にアオキの小枝を使って、火を叩いたりして火消しにも使うと云う事だそうです・・。
アオキの肉厚の葉っぱや葉の成分が防火や火消しに役立つことを、焼き畑農民たちは知っていたんでしょうね、太古の昔から・・」守矢さんは自らも確認するようにそう言った。
 
「あぁ、なるほどねそう云う事ですか、焼き畑農業の経験がそういう感じで繋がっていくんですか・・。焼き畑農業に従事する農民たちは火の扱いには詳しいでしょうし、きっと山の樹木についてもその特性とかを、知り尽くしてるんでしょうね・・。
しかも方言でもそう言うんですかぁ・・」
 
私は野本寛一教授という民俗学の学者の説にすっかり心を奪われてしまい、守矢さんの説明する秋葉神社の名前の由来にすんなり納得してしまった。
そしてしばらくはその興味深い論拠をノートにメモしながら、頭の中で反芻していた。
 
 
ちょっとした間が空いて、
「その焼き畑農業と秋葉神社の関係、なんだかスンナリ理解できますよね。そういう焼き畑農民たちの体験や経験から出てきた言葉が『アキバ』であり、その焼き畑農業の拠点近くの神聖なお山の神社やお寺と云う事で、『秋葉山』や『春埜山』が選ばれた、と云う事なんですかね・・」私が感心しながらそう言うと、守矢さんは
 
「そうだと思います。そういう神聖なお山だから『権現様』として、秋葉山が神格化されたんだと、私はそんな風に考えているんです。
 
そしてその焼き畑農民達と秋葉山神社をつなぐ役割をしたのが、三・信・遠の山々を修行のために周遊していた修験者達であった、というわけです。彼らの修行の坊がこの秋葉山本宮の近くや春埜山には、幾つもありましたからね・・」と続けた。
 
「いやぁ~、勉強に成ります。実にリアリティのある説明ですね・・。守矢さんのお考えも、野本教授の学説も・・」私はそう言ってしきりに感心した。
 
 
珈琲カップに手を掛けると、目の前の珈琲はすっかり飲み干していたことに気が付いた。まだまだ守矢さんと話を続けたいと想った私は、
「珈琲どうされますか?」と聞いてみた。彼は私の提案ににっこり肯いて、
「お願いします・・」と同意した。彼もまた私との時間を共有する事に、同意を示したのであった。
 
私はホワイエの女性スタッフを呼び、珈琲の追加をお願いした。すると彼女は
「何杯でもどうぞ。お替わり自由ですから・・」とニコリとして、この店のシステムを教えてくれた。
 
「えっ、そうなんですかお替わり自由なんですか。それは嬉しいな、こんなにおいしい珈琲が何杯も飲めるなんて・・。そうですか、ありがとうございます・・。
そしたらせっかくですからケーキか何かのリスト、持って来ていただけませんか?」私は嬉しくなって、珈琲に合いそうなスイーツを追加注文する事にした。
 
守矢さんに目で確認すると、彼も嬉しそうな目で応えた。17時の手前で彼もまた小腹がすいていたのかもしれなかった。
 
 
 
 
                  
 
                剣花菱紋           花菱紋
 
 
 
 
 
          「 火と水の信仰 」 -野本寛一著-
             秋葉信仰22ページ(雄山閣出版社発刊)
 
・・アオキの葉を門口に吊るす信仰心意には、魔除けの他、火伏、防火祈願があったものと思われる。アオキの葉の火傷薬としての力も一種の火伏せと見ることが出来る。
遠州の方言として、アオキをアキバと呼ぶこと、アオキの葉の呪力・薬効・陀羅尼助的な利用、防火呪力伝承等、秋葉信仰とアオキが関わりを持っていたことが考えられる。
 
 
 
 
 
 
 

 秋葉山神社と刀剣

 
 
「いやぁ~面白いですね、『秋葉山本宮』というのはそう云った経緯を持った神社なんですね、そうかぁ、焼き畑農業がね・・」私が反芻するようにそう言っていると、ホワイエの女性スタッフが珈琲のお替りとチョコ系のスイーツとを持って来て、くれた。
 
美味しい珈琲を一口飲んでから、苦い珈琲に合うチョコ系のスィーツを食べて一息ついたところで、私たちは再び話を始めた。
 
「確かに守矢さんがおっしゃるように秋葉神社の本来の姿は、神聖な霊山を『権現』という形で神と崇めたところから、始まったのかもしれませんね。
そう考えると遠州の山地に連なる三信遠のほぼ入り口といってよい場所に在る、秋葉山や春埜山であることの意味も理解することが出来ますね・・」私はそう言ってから、改めて湧いてきた疑問について尋ねた。
 
 
「ところで秋葉山に徳川幕府の意向によって、可睡斎配下の秋葉寺が入ってきたことはよく判ったし、それで『聖観音』や『十一面観音』の由来は理解できます。
 
また『秋葉三尺坊』の事は修験者の信仰対象として従前から在ったことは判るのですが、『勝軍地蔵』の事はどういう位置づけに成るんですかね・・」私は守矢さんに尋ねた。彼は私の問い掛けに「ん?」といった様な表情をした。
 
「いや秋葉山本宮は『神聖なる霊山』『修験者の拠点』『火伏・防火の三尺坊』や『厄除け』、といった信仰の対象であると共に『勝軍地蔵信仰』もまた、秋葉山信仰の大きな柱だったわけですよネ、とりわけ武士たちにとっては。
 
そうであったから名だたる武将たちが、あまたの刀剣を貴神社に対して奉納して来たわけですよね、室町時代頃から・・」と私は具体的に説明した。
 
 
「あぁ、その件ですか・・」守矢さんはそう言ってから改めて、
「『勝軍地蔵』は京の愛宕神社辺りで始まった、戦勝祈願の『戦さ地蔵』として崇められるようになったようなので、その京都の文化が遠江之國に流れて来たのではないかと、私などはあまり深く考えずにいたのですが、言われてみれば確かにそう言った疑問が残りますね・・」と自問するようにそう言った。
 
「そういう事なんですよ。先ほど守矢さんが言われたように秋葉山の本来の神様は『権現』だと私もそのように思いますし、修験者たちが崇める『三尺坊』の事もその謂れはある程度説明がつきますでしょ?
それに『聖観音』や『十一面観音』の事もですね・・」私はそう言ってから守矢さんの顔をジっと観て、
 
「ところが残る『勝軍地蔵』が秋葉山神社で信仰の対象に成ったことに関しては、まだちゃんとした説明がついてない様に思えるんですよね、少なくとも私の中では・・。
 
もし秋葉寺の建立が室町時代に既に在ったんだったとしたら、地蔵尊が信仰の対象に成る事に疑問は感じませんけどね・・。ところが実際には江戸時代に成ってからでしたよね・・」と私は疑問をぶつけた。
 
 
しばらく沈黙が続いた。
「確かにおっしゃる通りですね・・」守矢さんはちょっと自信無げにそう呟いた。
「そこで私は改めて想像してみたんですが、室町以前から『戦勝祈願』を遠州の霊山である秋葉山にする武将や武人たちがいたとしたら、説明がつきませんか・・。
 
そういう信仰がすでに行われていて、その信仰を可睡斎の秋葉寺が『勝軍地蔵』という地蔵信仰として、吸い上げたと言うか取り込んだというか・・」私は自分の仮説を守矢さんにぶつけてみた。
 
「それが安田義定だった、と云う事ですか?」守矢さんが呟いた。私はニヤリとして、
「我田引水かもしれませんがね・・」と言った。
 
「実はですね安田義定公は京都の祇園祭で『勝軍地蔵』の先駆けとでもいえる、八幡宮のご神体を造っていた可能性があるんですよ・・」私がそう言うと、守矢さんは眼でその先を話すことを促した。
 
「京都の祇園祭の山・鉾に『八幡山』という舁き山がありましてね、その山はどうやら義定公が関わっているようでして、その『八幡山』の舁き山の八幡宮のご神体が『応神天皇の騎馬像』に成っているんです。
 
尤も現存する『応神天皇騎馬像』は江戸時代後期に島左近の末裔と云われる人が、『八幡山』の巡行を担っている三条新町の町衆に奉納した、と云う事だそうですがね・・。
でもどうやら『八幡山』が焼山に成る前から、『応神天皇騎馬像』がご神体であったという伝承があったみたいなんですよ・・」と私は言った。
 
 
「『焼山?』、ですか・・」守矢さんは呟いた。
「ァはいそうです。祇園祭の山・鉾巡行は平安時代に始まったらしいんですが、それ以降大きな戦乱や大火・大地震といった災害に何度か見舞われてまして、そのたびに担い手がなくなったり、焼失してしまったりで『休み山』や『焼山』に成って、途切れるといった事が割とよくあったらしいんです。
それこそ応仁の乱や明治維新の時にもですね・・」私が詳しく説明した。
 
「なるほど、そう云う事ですか・・。で立花さんはその『八幡山の応神天皇騎馬像』のことがあって、安田義定が領国の遠江之國の当神社に騎馬武者像を奉納したのが始まりかもしれない、とそう思われたと云う事ですか・・」
守矢さんはそう口に出したが、私のその仮説にはまだ得心は行って無かったようだった。
 
「まだ裏付けも根拠もない、唯の想像に基づく仮説に過ぎませんけどね・・」と私は言った。実際にその通りであった。ホンの数十分ほど前に閃いた、出来立ての仮説であった。
 
「でももしそうだとしたら、何らかの形でその『応神天皇騎馬像』に類するものが、当神社に残っていてもおかしくありませんか?ところが残念なことにそのようなご神体は・・」守矢さんはそう言って、私の閃きに疑問を投げかけた。
 
「う~ん確かにそうですね、義定公が『応神天皇騎馬像』に類するご神体を奉納していたとすれば、おっしゃるように・・」私は守矢さんの指摘が的を得ていることに納得した。
 
「それにもし『応神天皇騎馬像』に類するものをご神体として奉納するとしたら、たとえそんなに大きくなくても『八幡宮』を合祀するか末社として祀るといったほうが、自然ではありませんか・・。
ところが残念ながら秋葉山本宮の上社周辺にはそのようなお宮は見当たらないんですよ、残念ですが・・」守矢さんはそう言って、とどめを刺した。
「確かに・・」私は自分の閃きを取り下げることにした。
 
「私は秋葉山神社に『勝軍地蔵』が祀られていることを知って、あまりに祇園祭の『八幡宮の応神天皇騎馬像』と似ていたものですから、ひょっとしたら・・と思いましてね、そのような想像をたくましくしてみたんです、いや残念です・・」私は自分の閃きの仮説を早々と撤退させた。
 
 
「ただですね立花さん、当神社に武将たちが刀剣を奉納するようになったのは、必ずしも勝軍地蔵信仰の室町以降とは言い切れない面もあるんですね・・」守矢さんが、気落ちした私をフオローするかのように、そう言った。
「と、言いますと?」私は彼の次の言葉を待った。
 
「イヤですね、立花さんは国宝の古備前派の『安縄』に関心を持ってられるようなんですが、そのほかに二振りほど国宝に成ってる刀剣がありましてね・・」守矢さんはそう言って私に、タブレット端末を操作して刀剣の画像を見せてくれた。
 
「・・これ等がその刀剣に成ります。これがご存知の『安縄』で、それから『来国光』そしてこちらが『弘次』といいます。いずれも平安末期から鎌倉時代の作、と鑑定されています。
そのほかにも鎌倉期の作と鑑定されているのが九振り、都合十二振りの刀剣が南北朝期以前の作なんです・・」守矢さんはそう言って、私の眼をジッと見た。
 
「・・と、云う事は・・」私が呟くと、守矢さんは肯きながら
「えぇそうなんですよ、室町時代に成って『将軍地蔵』の信仰が武将たちの間に浸透する以前から、武将たちによる当神社への刀剣の奉納があった可能性が高いんです・・」と言った。
 
私はその話を聞いて、パット目の前が明るくなった気がした。「応神天皇騎馬像」と「勝軍地蔵」との間には関連性を見出せないようだが、だからといって義定公と秋葉神社本宮との関係がすべて絶たれたわけではないのだ。
 
「と云う事は、室町時代以降武将たちの間に浸透した『勝軍地蔵信仰』の数百年前から、すでに秋葉山神社に刀剣を奉納するという慣例が、武将たちの間ではあったかもしれない、と云う事ですね・・」私はつい嬉しくなってニコニコ顔でそう言った。守矢さんは大きく肯いて私の説を肯定した。
 
 
「という事はこれはあくまでも仮説なんですが、そのきっかけを作ったのが遠江守を十四年務めた義定公である、可能性も考えられるわけですね・・」私は嬉しくなって、そう口走った。
「ん?と、言いますと・・」守矢さんは一瞬の戸惑いを見せた。
「『剣花菱』の事です・・」私は短く応えた。続けて守矢さんを観ながら
 
「義定公が國守の行為として、遠江之國の霊山に鎮座する秋葉山神社に『安縄』のような銘品を奉納するように成って、それ以降義定公の家来を始め、後々の遠江之國の國守たちが前例に倣って、貴神社に刀剣を奉納するように成ったと云う事は考えられませんか?
 
やがてそれが代々の國守たちによって踏襲され、慣習化したと・・。
そしてそのような経緯があったから、秋葉山神社は最初に『安縄』を奉納した義定公の徳をたたえ、感謝の気持ちを込めて、社紋に義定公の家紋である『花菱紋』に刀剣を挿入した『剣花菱』を使うようになったのではないかと・・」と一気に、新たに湧き上がって来た仮説を述べた。
 
「んーん・・」守矢さんはそう呻って、押し黙った。
「実はですね、神社や仏閣ではこういった事が少なからずあるようなんですよね。
京都八坂の祇園神社にしてもその隣の知恩院にしてもですね、同様の事が見受けられるんですよ・・」
私は去年糸魚川の吉田先生との情報交換で知る事に成った「徳川家康」と「知恩院」の寺紋の関係と、祇園神社の「木瓜唐花」と「三つ巴」の社紋の関係の事を思い出しながら、そう言った。
 
 
私はこの仮説を守矢さんに理解してもらいたいと思って、タブレット端末を取り出し、その中から「八坂祇園神社の社紋」と「知恩院の寺紋」の重ね紋の写った画像を、守矢さんの目の前に提示した。それらの画像を見て守矢さんは、再た「んーん・・」と唸って、腕を組んでまた押し黙った。
 
 「祇園神社にしても知恩院にしても、自身の神社や仏閣の隆盛につながるようなきっかけを作ってくれた、恩人への徳をたたえ感謝を込めて、忘れない様にこうやって社紋や寺紋に残して来たんだと思います・・。
 
『知恩院』という法然を祀った浄土宗の大本山が、現在のような威容を誇る寺院に成れたのは、天下人の徳川家康の宗教政策のおかげだった様ですからね・・。
それこそ家康の恩を忘れない、恩を知っていると云う事から『知恩院』という名称を名乗るようになったのかも知れませんし・・」私はそう言って「剣花菱」の由来に迫る仮説を説明した。
 
「そして祇園神社の社紋に本来の『木瓜唐花』の後ろに源氏の氏紋『三つ巴』をあしらって重ね紋にしているのも、安田義定公の尽力即ち『西・南の両楼門』や『拝殿』『本殿』などその後の祇園神社の社格を決定づけたような、立派で存在感のある建物を作ってくれた義定公への、感謝や敬意を忘れない様に社紋に取り込んだのではないかと・・」私は饒舌に語った。しかし守矢さんは、すんなりと納得は至ってないようであった。
 
 
ちょっとした沈黙があって、私は
「まぁ、相変わらずの我田引水かもしれませんが、現時点ではそんな風に考えると、私の中では『安縄』の件も『剣花菱』の問題も、割とすんなり理解することが出来るものですから・・」私はそう言って、改めて守矢さんを観た。守矢さんはジッと何かを考えているようであった。私は、
 
「マァあくまでも私の勝手な自己解釈なので、先ほどの『応神天皇騎馬像』の件のように、何かお気づきの点がございましたら、ご指摘ください・・。もちろん後日改めてでも構いませんが・・」と言って、改めて守矢さんの考えを聞かせて戴きたいと頼んでおいた。
 
私はインターバルを取るべく苦みのある美味しい珈琲をのんで、残りのチョコレートケーキを頬ばって一息入れた。
 

「話は変わりますがもう一つ守矢さんにお聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」私がそう言って確認すると、守矢さんは肯いた。

「秋葉山本宮で行われる神事についてなんですが、二・三教えてほしいんですが、宜しいですか?」私がそう断りを入れると彼は「どうぞ」というような目をした。

「一つは八月十八日に行われる『國玉祭』なんですが、これはどのようなことを行う神事なんですか?」と私が尋ねると、守矢さんは

「いや、特別の事ではありませんよ、この日に大巳貴命(オオナムチノミコト)を祀る簡単な神事です。割とシンプルに・・」とあっけないくらいサラリと言い、「それがどうかしましたか?」というような目で私を観た。

「そうですか、特段のいわゆる特殊神事と云ったものではない、と云う事ですか・・」私はちょっと残念に思ったが、改めて守矢さんに説明した。

 

「いや、実はですね・・。八月十八日というのは安田義定公の命日にあたる日なんですよ。義定公が梶原景時や加藤景廉の率いる鎌倉幕府の討滅軍に、本貫地の甲斐之國牧之荘の小田野山城を襲われて、自害した日でしてね・・」私がそう言うと、守矢さんはちょっと驚いたような反応を示した。

「ですから、ひょっとしてその義定公の命日を偲んでの特殊神事でもあるのかな、とマァちょっと期待していたもんですから・・」私は追加の説明をした。

「いや、そのような特殊神事というようなものではありません。残念ですが・・」守矢さんはまたサラリとそう言った。

「そうでしたか、いや残念です・・。もしこの件に関して、何か新たに判明する様な事が現れてきましたら、ぜひとも教えてください。宜しくお願いします・・」私は未練がましくそう言って、この話題についてはそれ以上話すことはしなかった。

 

 

 

            
          知恩院の重ね紋                八坂祇園神社の重ね紋
 
 
 
 
 
          「秋葉山神社刀剣-鎌倉時代まで-
                     参考:『秋葉山本宮秋葉神社の刀剣』
      

時代区分

     銘

  作者/出自

    備      考

平安末期

~鎌倉初期

安縄(国宝)

古備前派

・平安時代末期から鎌倉時代初期に掛かる古備前の刀工

為利

同上

 

鎌倉時代

来国俊

山城国来派

鎌倉中期から末期に活躍

来国光(国宝)

同上

来国俊の息子。阿部豊後守奉納

無銘

大和派

仏像の持物又は加持祈祷の刀剣

国行

同上

 

<菊紋>一(文字)

 

後鳥羽上皇の贈答用か?

助宗

備前一文字派

一文字派創始者則宗の子

恒次

備前長船派or備中青江派

鎌倉時代後期

弘次(国宝)

備中青江派

鎌倉中期、今川仲秋奉納

秀次

同上

鎌倉末期、永仁四年(1296年)

無銘

  ――

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

秋葉山、春野町の神事

 
 
 
「 次に義定公に関わる神事なんですが、『流鏑馬の神事』や『祇園祭』さらには『舞楽』といった事についてお尋ねしたいのですが、宜しいですか?」私は守矢禰宜にそう言って断りを入れた。彼は肯いて同意してくれた。
 
「先ずは『流鏑馬の神事』ですが、秋葉山神社では現在は行われていないようですが、かつてそのような神事が行われていたとか云う、伝承や言い伝えはあったんでしょうか・・」私がそう尋ねると、守矢禰宜は首を振りながら、
 
「残念ながら・・」と即座に否定した。
「やっぱりそうですか・・。HPにもその様なことは書かれていませんでしたし、フツー山の神を祀る神社や修験者の神社では、そのような神事はありませんよね・・」私はそう言ってから、さらに続けた。
 
 
「守矢さんにしてみれば唐突なことを聞いて来ると思われるでしょうが、私が敢えてそのようなことを聞くのには一応それなりの訳がありましてね・・。
冒頭にも言いました通り秋葉三尺坊に絡んでくるんですが、越後長岡の『蔵王権現=金峰神社』では、今でも流鏑馬の神事が執り行われてましてね。
 
こちらと同じ修験者の信奉する蔵王権現での神事であると云う事、更に先ほど守矢さんもそう言われましたが、同じ聖なる霊山の神『権現』を神様として祀っている、と云う事もありまして敢えて尋ねてみたわけです・・」私は長岡の蔵王権現との関係をそう説明した。
 
「そういえば先ほどそのようにおっしゃってましたが、長岡の蔵王権現は安田義定と何らかの繋がりがあるんでしたか・・」守矢さんが私に聞いてきた。
「あ、そうかまだその話をちゃんと話していませんでしたね・・」私はそう言ってから、越後之國と安田義資(よしすけ)公との関係を話すことにした。
 
「越後之國は義定公というより嫡子の安田義資公が守護として、8年ほど治めていた國なんですけどね。義資公は27・8歳の頃、頼朝によって越後の守護に任命されたのですが、その若さですから実質的には父親である遠江守の義定公のバックアップが前提だった様です。
 
そしてその若さで義資公が越後之國の守護に任命された最大の理由は、当時越後之國下越で隠然たる力を誇っていた平氏の『城氏』の存在があったようでしてね・・」私がそう言うと、守矢氏は
 
 
「下越というと・・」と聞いてきた。
「越後之國は平安京の都に近い越中富山側の、現在の糸魚川市や上越市辺りが『上越』といわれ、米山山系を越えた真ん中らへんの長岡辺りが『中越』、そして現在の新潟市や村上市側の山形や会津側に近いエリアが『下越』と云われてたんです。要するに都との距離感から『上越』『中越』『下越』と成っていたわけですね。
 
そして國衙や国分寺等の在ったのが都に近い『上越』で、先ほどの長岡の蔵王権現は『中越』に在り、平氏の残存勢力が拠点を構えていたのが『下越』の山形や会津に近いエリアであったわけです」私は平安末期から鎌倉時代の初頭にかけての、越後之國の地政学上のポジションについて、説明した。
 
「その下越の平氏の残存勢力の最前線に安田義定の嫡子を守護に任命した、というわけですか・・」守矢さんは確認するようにそう言った。
「そうです、おっしゃる通りです。頼朝や北条時政の鎌倉幕府中枢は義定公の軍事力を期待して、嫡子義資公を越後の守護に任命したようですね・・。
 
しかも越後の背後に当たる信濃之國の國守を務めていたのは、同じ甲斐源氏で義定公の甥にあたる小笠原長清でしたからね、後詰の事もちゃんと考えていたようです」私がそう説明すると守矢さんは、
「なるほどそんな背景があったわけですか・・」と納得してくれたようであった。
 
 
「マァそういった関係で、義定公の嫡男が越後之國の守護を8年ほど勤めていた中越の『長岡蔵王権現』で流鏑馬の神事が行われていたわけです。
 
そのような背景があって先ほど同じ秋葉三尺坊に関わりのある、こちらの秋葉山神社の神事としての流鏑馬についてお尋ねした、とそう云うわけです・・」私は守矢氏が理解してくれたことを確認してから、
 
「秋葉山神社については残念ではありますが、ここ春野町の他の神社で流鏑馬の神事が行われていた、と云う事は無かったんでしょうか・・。現在はもちろんのこと、かつて行われていたといった伝承などは・・」私は諦めきれずに、春野町ではどうだったのか更に聞いてみた。
 
「残念ながらそのような神事は聞いたことが・・」再び守矢氏はそう応えた。
 
「そうですか・・残念です。実はですね、昨日私は春野町の図書館に行って来たんですが、そこで『春野町の社寺棟札等調査報告書』という興味深い本を見つけましてね。それを観ていて気づいたことがありまして・・」私はそう言って、持参したバッグの中からそのコピーの一部を取り出して、守矢さんに提示した。
 
 
「このコピーは県道389号線沿いの神社やお寺の棟札の資料なんですがね、先ほども言いましたが春埜山西麓の尾根に連なる、『牧野』『花島』『大時』『胡桃平』といった地域では、馬の畜産や飼育を活発に行っていたようなんですよ。
 
神社の棟札に書かれた建立者の名前に『右馬』『良馬』といった名前があったり、室町時代に奉納された鰐口やご神体の奉納者には、自称『馬之尉兼吉』という名前を名乗った人たちが登場してましてね、馬の畜産や育成に絡んだ人たちが生活して居た事は、ほぼ間違いないようなんですよ。
 
そんなこともあって私はこの県道沿いを『牧き場街道』と勝手に名付けてるんですが、この辺りなど流鏑馬の神事を行っていたとしてもおかしくないエリアでしてね・・。
実際その反対側というか春埜山の遠州灘側の森町の馬主神社、明治以降大久保八幡神社と改称させられた神社では、流鏑馬の神事が行われていたという歴史があるもんですから・・」
 
私はそう言って春埜山周辺での、流鏑馬の神事の可能性について説明した。
「そうでしたか、しかし残念なことに私の知る範囲では・・」守矢さんはまた申し訳なさそうにそう言った。
 
 
「マァ、そう云う事でしたら仕方ないですよね・・」私は「流鏑馬の神事」については諦めて、「祇園祭」について尋ねるようにした。
「次に『祇園祭』についてですが、春野町では祇園祭は行われているようですがその辺は如何ですか?確か下社の横の『六所神社』には『天王社』『八坂神社』と二つの祇園神社が合祀されてますし、秋の祭りには地元の屋台が3台出るとか・・」私がそのように水を向けると守矢さんは、ニコリとして
 
「よくご存じですね、おっしゃる通りですよ。ただ世間では祇園祭というと7月の中旬や、下旬に行われることが多いですが六所神社の場合は、10月上旬の秋の大祭に屋台が出るんですよ・・。それに『祇園祭』とも呼ばれてませんし・・」と教えてくれた。
 
「そうなんですか10月でしたか・・。おっしゃるように世間の『祇園祭』とはちょっと違うようですね・・」私はそう言いながら京都八坂はもちろんのこと『遠州森町飯田の祇園祭=天王祭』や『掛川市垂木の祇園祭』とはどうやら違うようだと思い、ここでも残念な気持ちに成った。
 
 
「春野町の町内で7月に行われる『祇園祭』と云う事であれば、春野町の和泉平『新宮神社の祇園祭』がありますよ・・」と守矢さんは私に教えてくれた。
 
「和泉平と云うとどの辺りに成るんでしたか・・」私は7月に行われるという春野町では数少ない祇園祭に興味を覚え聞いてみた。
 
「そうですね、位置関係で云えば私どもの『秋葉山』と先ほどの『春埜山』とのほぼ中間くらいに『高塚山』という山がありまして、そこに『新宮池』という池が山の中腹に在るんですよ。
『和泉平』は名前の通り、泉が湧くちょっとした平らかな場所でして・・。
その池の畔りに『新宮神社』が在りまして、その神社で7月の下旬に祇園祭が行われるんです・・」守矢さんはそう教えてくれた。
 
 
「ん?と云う事は先ほどの県道389号線とはどういう位置関係に成るんです?その『新宮池』は・・」私は自分の頭の中で新宮池の位置関係を確かめるべくそう言いながら、タブレット端末を操作して春埜山と秋葉山との中間域をチェックした。
守矢さんはタブレットの地図上の、県道389号線の左側を指し示して、
「この辺りです・・」と教えてくれた。
 
私は早速3D地図に変換し確認した。その場所は完全に山の中に在る池で、地図に載るくらいのそれなりに大きな池であった。
標高は5・600mといったところで秋葉山や春埜山の800m後半と比べると300mほどは低かったが、3D地図では濃い緑色で示され山の中である事を示していた。
 
「こちらの祇園祭はユニークな祭りでしてね、この新宮池に舟を浮かべその船に屋台を載せ、渡御するんですよ・・」
「ほう舟に依る屋台の渡御ですか・・。因みに何隻ほどの舟屋台が出るんですか・・」私が尋ねると守矢さんは、
「かつては二隻だったらしいですが、今では一隻だけのようですね・・」と教えてくれた。
 
 
「因みに『新宮池』と云うからには『新宮山』の山の麓と云う事に成るんですか・・」と守矢さんに尋ねてみた。
「いや先ほども言ったように『高塚山』の麓ですね・・」守矢さんが短く応えた。
「そうですか‥。因みに祭神はやはり紀州の熊野神社絡みの速玉男命とかに成るんですか・・」さらに私が尋ねると、守矢さんは
 
「いや天孫系の祭神だったかと思います・・」と応えた。
「へぇ~そうですか・・」と私は意外に思った。「新宮神社」と云う事で熊野三山の新宮神社との関連を、私は考えていたからであった。
 
 
「話は変わりますけど、遠州や三河の祇園神社は天竜川を境にして、尾張の津島神社系統と京都の祇園天王社系統に別れるんですよ・・」と守矢さんが教えてくれた。
「へぇ~そうですか・・。三河が津島神社系統なのは、やっぱり物理的に尾張に近いからですかね・・。
でも天竜川を越えると同じ遠州でも京都八坂の祇園天王社に成るのはまたどうしてなんでしょうかね・・」私がそう疑問を投げかけたが、守矢さんは首を振っているだけであった。
 
「さすがにそこまでは・・、ですか。ひょっとして安田義定公が絡んではいないでしょうね・・」私もさすがにそれはないかと思って、ニヤニヤしながらそう言った。
 
しかし天竜川という大河によって、同じ遠州遠江之國でも左岸域と右岸域とで同じスサノウ命を祀っていても、神社の系統が大きく替わっていることに驚くと共に、改めて自然環境が及ぼす人間の営みへの影響の大きさに、想いが至った。
 
 
「最後に成りますけど『秋葉山本宮の舞楽』についてなんですが・・」と私が話を振った。
「『火祭り』の事でしょうか?」守矢さんが応じた。
「あはい、そうです。その『火祭り』は確か『弓の舞』『剣の舞』『火の舞』の三つの舞があったかと・・」私は事前にHPや資料で確認していたことを聞いてみた。
 
そうすると守矢さんは自分のタブレットを操作して、私に示して
「今では三つに成ってますよその通りです。かつては確かな七つほどの舞があったと聞いていますけどね・・。こんな感じで、舞うんですよ・・」と言いながら、要点を解説しながらしばらく画像で観せてくれた。
 
赤地に金色のモミジ葉の装束に黒の烏帽子を被った三人の神職が一人ずつそれぞれ別の舞を踊った。
「弓の舞」は一の神職が踊り、最後に四方の天井に向けて矢を放ち、
「剣の舞」は二の神職が両手に二振りの剣を持ち、舞を踊った。
「火の舞」は三の神職が手に松明(たいまつ)を持ち、大きな身振りで勇壮に舞った。
 
因みに松明の火は本殿に在る「万年の御神燈」と呼ばれる聖なる浄火を、本殿から移して持ってくるのだ、と云う事であった。
 
私はこのうちの「弓の舞」「剣の舞」とに糸魚川の舞楽との共通点が無いか、期待していたのだが、残念ながらそれらを確認することは出来なかった。
私がそのことを守矢さんに話すと、またもや守矢さんは「残念でしたね・・」と私を慰めるように、そう言った。
 
 
私は義定公に繋がる可能性のある「流鏑馬の神事」「祇園祭」「舞楽」の殆どが、秋葉山神社の神事とは直接つながりそうもない点に、気を落としていたのであったが、話がその舞楽の担い手に及んだ時、想わぬ展開があった。
 
「現存しているこの三つの舞の担い手はそれぞれ『弓の舞が酒井さん』『剣の舞が羽入さん』『 火の舞が市川さん』という『ねぎや』という方々で、古えより代々同じ家の人たちが舞続けて来たんです・・」と守矢さんが解説してくれた。
「『ねぎや』ですか?」私が尋ねると、守矢さんは
 
「『ねぎや=禰宜家』です。それぞれ酒井さんは気田の南宮神社の禰宜、羽入さんは堀之内小奈良安の産土神を祀る神社の禰宜、市川さんは小川村の十六社大権現や光明山の禰宜を代々務めていた家柄だそうです・・」とより詳しくそれぞれの「ねぎや」の出自を教えてくれた。
 
「ほう気田の『南宮神社』に『羽入氏』『市川氏』ですか・・。興味ある方々ですね。因みに『羽入』さんというのはどのような字を書かれるんですか?」私は尋ねた。
 
「『羽根の羽』に『入口の入』ですが、どうかしましたか?」守矢さんが怪訝そうにそう応えた。
「そちらの『羽入』でしたか・・。いや実は糸魚川に『羽生』という地域がありまして古代の官営牧『羽生ノ牧』の在った場所なんですが、そこを思い出したものですから・・」私がそう言うと、守矢さんは
「残念ながら・・」とまた繰り返した。
 
 
「そうですかそうするといずれも秋葉山の山麓の神社などで、それぞれ禰宜を務めていた家の神職の方々が、その12月の大祭の舞手を務めると云う事ですね・・」私が確認すると、守矢さんは肯きながら、
 
「江戸時代までは陰暦の11月だったようですがね・・。
因みにその三家の神職なんですが中でも一番古い家は『小川村雲名の市川』さんで、この家がこれらの舞を取り仕切って来たようです。
 
それで近年、酒井さんや羽入さんが神職を廃業した後は、後継の方々に伝統の舞を指導されてるんですよ・・」とより詳しく教えてくれた。
 
「因みに最も古い市川さん、というのはいつ頃からとか判ってたりしてるんですか・・」私が更に尋ねると、
「これは祖父から聞いた話ですが、何でも市川さんは『鎌倉時代に権現様と、共にやって来た』と云う事だそうです・・」と守矢さんは具体的に教えてくれた。
 
 
私はその話を聞いてビックリした「鎌倉時代の市川氏」と聞いたからである。
何故なら義定公の平家追討に際し、駿河之国と相模之国の平家の連合軍が甲斐源氏を討滅しに来た時に、義定公と共に「波志太山の闘い」を戦った甲斐の僧籍の武将「市川別当行房」の事を、思い出したのである。
 
「別当」と云う事は、神社や寺院と共に在った神宮寺などの修験者の坊守であろうかと推察されるが、秋葉山本宮の舞の中心を担っている市川氏が、その別当「市川行房」本人かまたはその縁者の可能性がありはしないかと、閃いたのであった。
 
しかも「権現様とやって来た」と云う事は、市川氏は秋葉山本宮のご神体である「山の神=権現」に関わる重要な修験者であり、その末裔が秋葉山本宮大祭においても重要な舞楽の執行者を務め、継承者でもあるという事に成るのであった。
 
 
「そうですか、鎌倉時代に権現様を連れて来た市川禰宜家が秋葉山本宮の大祭”火祭り”を仕切ってるんですね・・」私はそう言ってもう一度確認したうえで、守矢さんに市川家と義定公の関係について説明を始めた。
 
「実は市川家と直接かかわるかどうかは断定はできませんが、安田義定公が治承四年の頼朝の平家追討の挙兵の際に、義定公と共に駿河や相模の平家連合軍と戦った仲間に市川行房という修験者の別当がいたんですよ。
 
その彼は義定公たちと共に、人数では劣りながらも見事に多勢の平家軍を打ち破ってるんです。富士山北麓で行われた『波志太山の闘い』って言うんですがね、ご存知ですか?」私はそう確認したが、守矢さんは首を横に振った。
 
「この戦いについては『吾妻鏡』にもしっかり書かれてまして、『市川別当行房』の名もそこに明記されてるんですよ・・」とその出典について説明した。
 
「その別当が小川村雲名の市川禰宜家と関わるかもしれないと、そうお考えなんですか?立花さん・・」守矢さんはそう言ったが、まだ簡単には受け入れ難かったようであった。無理もないことだと私は想った。
 
 
「いやまぁ、突然の降って湧いたような話だから無理もないんですけどね・・。私も先ほど守矢さんから市川禰宜家の謂われを聞いて初めて閃いた事で、何も裏付けのないインスピレーションですから・・。
でもひょっとしたらその可能性が考えられるかな・・、とそう想ってはいるんですよ。
 
それにもし『吾妻鏡に書かれている修験者市川行房の縁者の一族』だとすると、義定公と秋葉山本宮との関係がグッと濃厚になって来るものですからね・・。ちょっとまぁ興奮してるんですよ、これでも・・」私はそう言ってニヤリ、とした。
 
守矢さんは今の話をじっくり考えているようであった。私は秋葉山本宮の大祭の肝である「火祭りの神事」を取り仕切る「市川禰宜家」について、改めて調べる事の必要性を感じたのであった。
 
 
一通りの話が終わったこともあり、私は守矢さんに丁重に今回のお礼を言った。時刻は18時にもうすぐ成るところで、私達は三時間近く話し込んでいたことに成った。
 
「長時間にわたり、ありがとうございました。伊勢からのお帰りでお疲れでしょう、どうもお付き合いいただいてありがとうございました・・」私はそう言いながら、国立の洋菓子店で求めておいた焼き菓子を渡した。
 
「いやいや、こちらこそありがとうございました。今日はとても愉しかったですよ。
久しぶりに刺激的な時間を過ごすことが出来ました。安田義定の事はノーマークでしたから、とても参考に成りました・・」
守矢さんはニコニコしながらそう言ってくれた。その笑顔はまんざらお世辞というようでは無かったように、私には感じられた。
私同様彼にとってもそれなりに有意義なひと時であったことが感じられて、私もまた嬉しかった。
 
 
会計を済ませて、私たちは一緒にJR浜松駅に向かって歩いた。
「立花さんは明日にはお帰りですか?」守矢さんが歩きながら、私に聞いてきた。
「いや明日も春野町辺りをウロウロしようかと想ってます・・。東京には明後日に帰る予定です」私がそう言うと、
 
「もし明日お時間があるようでしたら本宮の上社に行ってみませんか?まだ、行かれて無いんでしたよね・・」守矢さんは私に確認するようにそう聞いてきた。私が肯くと
 
「宜しかったら、安田義定に関係してるかもしれないと、立花さんがそう思われてる国宝の刀剣『安縄』をご覧に成りませんか?」守矢さんは優しくそう言ってくれた。
「あ、イヤそうですね『安縄』ですかぁ・・」私は思いがけない守矢さんのお誘いに嬉しくなって、ニコニコ顔で、
 
「すみません、そう言っていただけると・・」と応えた。その時の私はきっと好きなオモチャをプレゼントされた、子供のような顔をしていたに違いなかった。
 
「了解しました。そしたら明日、上社には何時頃に行けそうですか?」守矢さんが時間を聞いてきた。私はちょっと考えて、
「ここらから上社迄どのくらい見ておけば大丈夫ですか?車で・・」そう守矢さんに聞いてみた。
「二時間見ておけば余裕ではないかと・・」守矢さんが教えてくれた。
 
「であれば、10時半ごろには行けるかと思います」私がそう応えると、
「では私のほうから社務所に、そう伝えておきますから・・」守矢さんはニコリとしながらそう言った。
「すみません、ご迷惑をおかけして・・」私が最後にお礼を言うと、守矢さんはニコニコと何でもない、というように肯いた。
 
 
私達はそのままJR浜松駅に向かい、途中で守矢さんは遠州鉄道の新浜松駅にと向かった。ご自宅は遠州鉄道沿線に在るのだ、と云う事であった。
 
私は守矢さんと別れた後、そのままホテルに向かって歩いた。
途中守矢さんから聞いた幾つかの有意義な情報を、頭の中で確認するために反芻していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
          秋葉山本宮「弓の舞」「剣の舞」「火の舞」
      
 
 
                   
 
 

 

          『吾妻鏡』における「波志太山の戦い」

            -治承四年八月二十五日の条-   『全訳吾妻鏡』(新人物往来社)

俣野五郎景久、駿河国目代橘遠茂の軍勢を相具し、武田・一条等の(甲斐)源氏を襲はんがために甲斐國に赴く。  

富士の北麓に宿するのところ、景久ならびに郎従帯するところの百余張の弓弦鼠のために食ひ切られおはんぬ。よって思慮を失うの刻、

安田三郎義定・工藤庄司景光・同子息小次郎行光・市川別当行房(頼朝の)石橋において合戦を遂げらるる事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山において景久等に相逢う。おのおの沓を廻らし、矢を飛ばして、景久を攻め責む。挑み戦ひ刻を移す。

景久等弓弦を絶つによって、太刀を取るといへども、矢石を禦くに能はず、多くもってこれに中る。しかれども景久雌伏せしめ逐電す云々。                                                                                                                                     ( )は、著者の註

 

 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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