春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
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当該編は『安田義定と秋葉神社―遠州春野町編―』の続編に成ります。
春野町の現地査察を行い、旧春野町の図書館で地元に関する資料をゲットした私は、浜松のシティホテルで秋葉山本宮神社の、若くアカデミックな匂いのする禰宜守矢氏と面談をすることと成った。
その守矢氏との情報交換を通じて、「秋葉山神社と徳川幕府との関係」及び「秋葉寺の歴史的役割」を知り、その原因の一つであった「武田信玄と秋葉山神社との戦国期の関係」等を知った。
その結果それまで抱いていた「秋葉神社と秋葉三尺坊や秋葉寺との関係」のイメージが、大きく崩れる事に成った。
 
更に秋葉山神社本来の成り立ちが「神聖な霊山」にある事や、三河・信州・遠州の南アルプスにつながる、山岳地帯の「焼き畑農業」にも関係していることを知った。
また、秋葉山神社の社紋「剣花菱」と神社に奉納された武将たちからの寄進による、夥しい数の「刀剣」の情報から、新たに秋葉山神社と安田義定公に繋がる手掛かりを得ることが出来た。
 
更にまた遠江守を十四年務めた安田義定公と秋葉山のある春野町との関係を、神社仏閣の「家紋」「社紋」「寺紋」などを手掛かりに、より深く知ることも出来た。
その春野町においては、幾つかの立派な石垣や石組みを確認することが出来、金山神社の存在と共に金山衆の関りがあった事を知ることが出来た。
 
 
                【  目  次  】
 
           ①秋葉山本宮、上社の刀剣
           ②春野町の古刹「瑞雲院」
           ③春野町気田「南宮神社」と金川
             ④「家紋」を紐解けば・・。
           ⑤犬居郷の金山衆
           ⑥犬居郷勝坂の井出氏?
           ⑦春埜山西麓「牧き場街道」
           ⑧エピローグ
 
 
 
 

秋葉山本宮、上社の刀剣

 
 翌朝私はホテルの朝食をしっかりと摂った後、春野町の秋葉山本宮の上社を訪ねるべく8時半ごろには、JR浜松駅近郊のホテルを出立した。
 
宿泊したホテル前の国道は、運よく遠州灘近くの浜松駅から4・50㎞遡って信州の飯田方面に向かう幹線道路である、国道152号線であった。そしてその国道は秋葉山に最も近い国道でもあったのだ。
事前に予約していたカーシェアリングのレンタカーに乗って、南から真北の南アルプスに向かって北上して行った。
 
途中のコンビニでミネラルウォーターと、非常食用のパンと歯磨き代わりのガムとを買っておいた。春野町にコンビニが無いことは前回に行った時に学習していたのである。
今日は前回よりも山狭の集落にも行くつもりであったから、飲料水や非常食を確保しておく事は食いっぱぐれへの対策でもあり、いざという時の大切な備えなのである。
 
 
春野山本宮神社に向かう国道の途の半分近くを過ぎた辺りから、道路は天竜川に沿って遡上するようになった。JRの掛川駅から遠州平野の内陸部に延びて来ている、天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅の近くである。
この二俣地区を右折すると、おなじみの遠州森町方面に向かう事に成るのであるが、春野町や秋葉山本宮神社に向かう私は、そのまま川に沿って北上した。
 
因みにこのエリアは、太古は遠州灘の最前線で海岸沿いに成っていた「今浦湖」に接するエリアでもあったという。今でもなお「姫街道」と呼ばれている関西と関東を結ぶ東海道の裏街道は、この辺りの東西の道路を指している。それは古来からの東西を結ぶ幹線道路の名残りでもある。
 
 
その二俣本町辺りを北上する国道152号線沿いの天竜川は、この辺りから次第に川幅が拡がって行き、ダムのような様相を見せ始める。実際5・6㎞ほど更に遡った辺りは「船明ダム」という名称の場所であった。
この堰き止められた川幅の広いダムによって、天竜川の水勢はコントロールされているんだろうなと、私は感心しながら車を運転していた。
そしてこのような人工の河川の水勢の調整弁があるから、天竜川の下流の水害はたぶん大事に至らないで済んでいるのだろうな、とも想っていたのであった。
 
 
ホテルを出てから1時間半ほど過ぎて、川幅が広くなった天竜川の中流を横切るような橋にいくつか遭遇するようになった。私はそのうちの「雲名橋」を渡ることにした。道路標識が秋葉山本宮に向かう事を示していたからである。
 
またその「雲名」地区は昨日秋葉山本宮神社下社の守矢禰宜から聞いていた、秋葉山の大祭「秋葉の火祭り」を仕切り、数百年の間継承してきた「ねぎや」の市川禰宜家の地元であったこともあり、私は関心があったのである。
その市川家は、私がひそかに安田義定公と共に平家追討に立ち上がった修験者である「市川別当行房」に関係する一族ではないかと想っている、鎌倉時代から続く旧家でもあるのだ。
 
 
橋を渡った雲名地区は日本全国の多くの山間部の集落がそうであるように、過疎化が進行している集落であった。そして雲名地区はかつて、とりわけ江戸時代の後期には毎日数百人単位の人が秋葉山詣でに訪れ、大いに賑わった神社の門前町でもあったという。
 
その雲名の集落が途切れる辺りから、直ぐに秋葉山の山頂付近にある秋葉山本宮神社の上社に向かう、山道にと入った。雲名の集落は将に秋葉山登山道の入り口なのである。
雲名地区は標高が7・80mくらいであるというから、秋葉山の山頂近くの本宮上社迄は800m近く登る事に成る。
 
日光の「いろは坂」などと同様に、その登山道路は九十九(つづら)折にクネクネとくねっていた。20分近くそのくねり坂を登り切った場所にやや広めの場所が在り、そこが参拝者のための駐車場であった。季節外れの平日と云う事もあってか、駐車場は空いていた。
 
 
きくて立派な狛犬に囲まれた鳥居をくぐり、そこから更にしっかり整備された階段状の広めの参道をしばらくの間、登り続けた。
長い参道は広く確保されてはいたが、さすがに山頂近くの神社への参拝道の勾配は緩くはなかった。メタボ気味の私は息を切らせながら、数回の休憩を取りつつやっとのことで、本殿のある敷地に辿り着くことが出来たのであった。
 
ここまで登って来ると本殿の反対側、即ち本殿に対峙した背中側からは眼下に遠州平野や遠州灘を見下ろすことが出来た。
天気が好かったこともあって、太平洋までしっかりと見渡すことが出来たのは、登攀に疲れた私にはしばしの休息場所ともなり、かつまた目の保養とも成った。
 
本殿への参拝を済ませようかとも思ったが、守矢禰宜との目安の時間である10時半を少し超過していたこともあり、私は社務所を直接訪ねることにした。
 
 
社務所の窓口で来訪を告げると、窓口の後方で待ち構えていた70代前半と思しき白髪交じりの、落ち着いた雰囲気の神職が私を確認し、室内に上がることを促した。
案内のままに靴を脱ぎ、社務所の中を私は応接室に通された。
 
応接室で名刺交換をすると神職は宮司であった。
私が昨日の下社の守矢禰宜の事を話すと、にこやかな笑顔になり今日の事は事前に聞いている旨を、笑みをもって話してくれた。
 
一通りの挨拶を済ませた後、私はなぜ秋葉山神社に関心を持つ事に成ったのかを宮司さんに話し始めた。
「私は平安末期の甲斐源氏の武将である安田義定公について調査・研究をしておりまして、その義定公が治承四年の1180年以降14年間、遠州・遠江國の國守をしていた事から、遠州の霊山でもあるこちらの秋葉山や春埜山にも、何らかの関りがあったのではないかとそう想っておりまして・・。
 
更には義定公の嫡男である安田義資(よしすけ)公が、越後國の守護を1185年ころから8年間勤めていたのですが、その領国内に長岡の蔵王権現、現在の金峰神社が在る事を知りまして、そこの祀神でもあった『秋葉三尺坊』に興味を持ちました。
義定公父子が國守を務める、遠州と越後の両神社に共通する『秋葉三尺坊』について、調べてみようとしたわけでして・・。
 
そんな中でこちらの神社の事を調べてるうちに社紋の事を知り、その社紋が『剣花菱』である事から、ますます義定公との繋がりがあったのではないかと、想像力を働かせるように成りまして・・」私が長々とそのように話すと、宮司さんは
 
 
「安田義定と『剣花菱』が関係してくるのですかな?」と興味深そうに聞いてきた。
「ァはい、その通りです。義定公の家紋は『花菱紋』なんです。ですからこちらの秋葉山本宮と義定公との間に何らかの繋がりがあったのではないかと・・。そんな風に思っておりまして・・。
しかもその社紋に、ひょっとしたら関係するかもしれないと思い始めましたのが、こちらに奉納された夥しい数の刀剣類なんです。
 
義定公の花菱紋に、剣が四本挿入されている『剣花菱』がこちらの本宮の社紋と成っている、そのことも義定公に何らかの関りがあるのではないかと・・。
そしてそのカギを解くのがこちらの国宝でもある古備前派の刀剣『安縄』ではないかと、そんな風に想い始めてまして・・」私がそう言うと、
 
「ほう、でそのように立花さんが思われましたのはまたどのような・・」宮司さんはそう言って更に私にその根拠を聞いてきた。
「時代が符合するんです。古備前派の『安縄』の造られたとされる時代と義定公の生きた時代とが・・。共に同じ平安末期から鎌倉時代の初頭なんです」私がそう言うと宮司は肯きながら、
「ほう、それはそれは・・」と言って、ひとまずは納得してくれたようであった。
 
 
「実は数ある奉納された刀剣の中で『安縄』は、私も一番気に入ってる刀剣でしてね・・」宮司さんはそう言うと、
「ちょっとお待ち頂けますかな・・」といって席を立ち、応接室を出て行った。
 
 
暫くして戻って来た宮司さんは、手に分厚い色刷りの書物と神社名の入った大きめの茶封筒と共に持って来てテーブルに置き、広げた。
「これですな・・」と宮司さんは言いながら、国宝の刀剣「安縄」の記載されているページを私に示した。
 
私は春野町の図書館でこの書物を見て知っていた。
「こちらで出版された本宮所蔵の刀剣類の図録というか、書物ですね・・」と言いながら、その美術館辺りが発行する図録のような作りの図書を改めて観た。
 
タイトルは『秋葉山本宮秋葉神社の刀剣』と成っていた。国宝の「安縄」は個々の刀剣解説文の筆頭に取り上げられていた。
 
図書の本文を観ながら私は、
「そう云えばこちらには武田信玄公を始めとした『武田二十四将』の何人かも、刀剣を奉納しているんでしたか・・」と呟いた。それを聞いた宮司さんは、
「さよう、山本勘助・山縣昌景・高坂弾正・穴山梅雪、と言った武田家の武将も奉納されてますな・・」と言った。
 
 
「徳川家康の本拠地三河を攻略しようとした信玄公はここ北遠の地を、その際の最前線と考えていたようですね・・」私がそう言うと、宮司さんは
「よくご存じですね・・。まさにその通りでしてね、武田信玄は犬居郷の領主天野氏一族を調略して味方に引き入れ、浜松城の家康攻略の最前線として春野町や二俣を考えていたようですな・・」と嬉しそうに話した。
どうやら宮司さんは戦国末期の武田信玄や徳川家康との攻防に、強い関心があるのかもしれないと、私は話をしていてそんな風に感じた。
 
 
「貴神社と信玄公や武田二十四将とのその頃の関係は、それなりに太かったんでしょうか・・」私が再びそう言うと、宮司さんは肯きながら、
 
「武田信玄はこの秋葉山を三河攻略の拠点にすると共に、秋葉山の修験者達をも相当活用したようで、伝承ではその修験者を駆使して三河の家康の本拠地はもちろんの事、信長の本拠地尾張や室町幕府の在った京の都まで、スパイとして派遣してた様だでね・・」と、やはり嬉しそうにそう言った。
 
「あぁ、そうですか・・。信玄公は『甲州ラッパ』や『甲州スッパ』と言った忍者やスパイを、結構活用してましたからね。きっとこちらの修験者達をもまた信玄公は積極的に活用したんでしょうね・・」私もニヤニヤしながら宮司さんの話を肯定した。
 
「まぁ、そんな経緯もあって家康は自身が遠州を傘下に収めてからは、当神社を始め春野町や遠州の、古い真言宗や白山神社系の修験者を擁する神社や仏閣をも、曹洞宗に改宗させたり曹洞宗の元締めである可睡斎から派遣された、別当寺の監視下に入れるといった、かなり強引な宗教政策を推し進めて来たようでしてな・・」と言って、徳川家康の遠州における宗教政策についても話し、説明してくれた。
 
 
「秋葉山の秋葉寺(しゅうようじ)の事ですか・・」私がそう言うと、宮司さんは我が意を得たりというように、
「その通りでしてね、家康以来明治維新までの2百7・80年の間、当秋葉神社は秋葉寺別当の支配下に甘んじていたというわけです・・」と言った。
 
「なるほど、と云う事はそれまでの長い間、貴神社と秋葉寺との間には結構葛藤があった、と云う事ですか・・」私がそう尋ねると、宮司さんはニヤリとして、室内に在った秋葉山の地図の一画を指しながら、 
「廃仏毀釈の頃はこの辺りや、ここらでは何回か刀争があったと云う事です・・。長い間抑圧されていたウップンが爆発したんでしょうなキット・・」と言いながら、刀剣を振るような恰好をして話してくれた。
 
 
「はぁ、そうなんですか・・。と云う事は明治維新の神仏分離令が出るまでは長い間、貴神社と別当の秋葉寺との間にはかなりの悶着があった、と云う事ですか・・。
なんだか徳川家に対する長州毛利家のような関係だったんですかね・・」私がそんな風に言うと、宮司さんは嬉しそうに大きく肯いた。
 
 
「そうすると、秋葉寺も曹洞宗に改宗させられた訳ですか?」私が確認の意味でそう尋ねると、宮司は
「それまで秋葉寺は真言宗の修験者の寺でしてな・・。真言宗系の修験者の遠州における根本道場のような役割を担っていたようですな、秋葉寺は・・」そう言って、更に興味深い話をした。
 
「同じ真言宗の寺で『犬居郷』、現在の春野町の気田川沿いで沢山の末寺を抱えていた犬居郷きっての古刹『瑞雲院』も同じように、家康によって曹洞宗に替えさせられたと云う事ですな・・。
因みにその『瑞雲院』の寺紋は、現在は徳川家の三ツ葉葵に成ってますが、かつては当神社と同じ『剣花菱』であったようでしてな・・」と言った。
 
「犬居堀ノ内の『瑞雲院』ですか?確か境内に『駒形稲荷神社』が在ったお寺ではなかったですか・・」私はその話を聞いて、思わず興奮した。
 
春野町の気田川沿いでは数少ない馬絡みの神社を山内に祀っている寺で、義定公に繋がるかも知れないと、私が推測している「剣花菱」が関連していると、聴いたからであった。
 
 
「三ツ葉葵に成ったのは、やはり家康の宗教政策が影響しているんですか?」私がそう尋ねると宮司さんは、
「その様ですな。もともと真言宗の古刹であった瑞雲院を曹洞宗に改宗させ、森町飯田の崇信寺の傘下に組み込んでしまった、という相当荒っぽいことをやったようですからな家康は・・」
 
「ほう、確かに・・。家康は三河の一向一揆にかなり懲りて、宗教政策には相当熱心だったようですからね・・」私がそう言うと、
「それに瑞雲院は武田方の先鋒であった犬居郷の領主天野家の菩提寺であったことも、影響していて家康によって焼かれたと云う事ですしな・・」宮司さんは信玄公との関係についても話してくれた。
 
「ホウ『剣花菱』も関係して来るんですか?‥そうだとすると瑞雲院は義定公との関係も考えられそうですね・・。因みにそのような伝承がこちらの本宮にはずっと残っていたんですか・・」と、更に私が尋ねると、
「伝承というか、私の先祖が瑞雲院の楼門や鐘楼に残っている寺紋を見つけて、瑞雲院との関係をそのように・・。それに瑞雲院の山号は『秋葉山』ですしな・・」宮司さんはそう言ってニヤリとした。
 
「はぁ、そうなんですか楼門にですか・・。この辺りの寺で楼門とは珍しいですね。
私はまだ行ってませんが瑞雲院は楼門を有するような、そんなに格式の高い古刹でもあるんですか・・」私はそう言いながら、この後ぜひ犬居の瑞雲院を訪ねてみなければ、と強く思った。
 
そしてその楼門の創設には、ひょっとして義定公が関わってるかもしれないと話を聞きながら想った。八坂の祇園神社や伏見稲荷大社の楼門との関連性から、私は想像力を膨らませていたのである。
 
 
「いやぁ立花さん話が盛り上がってるとこ誠に申し訳ないんですが、儂はこれからちょっと出かけないといけませんで・・」宮司さんは時計をチラリと見ながら、そう切り出した。
私は時間が許せばもう少し話を伺いたいと思っていたので、残念であった。
「そうですか・・。いやお忙しいのにお時間を取っていただきまして・・」私がそう言うと、宮司さんは
 
「お詫びに、という訳ではありませんがこれはぜひお納めくだされ・・」そう言って先ほどの分厚い図書を茶封筒と共に私に差し出した。
そのうえで立ち上がると、
「この後『安縄』をじっくりご覧くだされ、今案内させますから・・」そう言って私に挨拶をすると、慌ただしく応接室を出て行った。時間が迫っていたのかもしれなかった。
 
 
私が頂いた図録を神社の封筒に入れていると、恰幅の良い40代と思われる神官が入って来た。彼は私に荷物をそのまま応接室に置いておくことを勧め、自ら先導して社務所二階の宝物展示室にと案内してくれた。
 
秋葉山本宮上社の社務所は昭和61年(1986年)に新築された近代的な建物で、類焼や宝物の消失を防ぐためかコンクリで造られていた。昭和18年の延焼が教訓に成っていたのだろうと思われた。
 
宝物殿の展示室にはいくつの刀剣が置かれていたが、メインの刀剣はやはり国宝の「安縄」であった。
90cmには満たない反りのある刀剣は、美しいものであった。波紋や景色と言った詳しいことは判らなかったが、目釘辺りからスッと延びた刀身が2/3ほど行った処から緩やかな弧を描き、目釘下の柄の部分の弧と共に両極で反りを容たちどっていた。
 
案内してくれた神官が、この大きめの反り故に「騎馬武者用」の太刀であることが判る、と解説してくれた。そしてその「騎馬武者用」の太刀である事から平安後期から鎌倉時代にかけての作であることが判るのだとも、教えてくれた。
 
 
私はその解説を聞いて、やはり義定公に繋がる太刀に違いないと密かにそう想った。
そして何より嬉しかったのは、刀身を納める赤身がかった鞘の拵えの紋が「剣花菱」であったことであった。
 
もちろん神社の意向を受けて社紋を反映して拵えたものであろうと思ったが、義定公に繋がる「剣花菱紋」であったことがやはり、私には嬉しかったのである。
白い柄(え)の部分の象嵌(ぞうがん)が武田菱であったことはご愛敬だったが、秋葉山本宮が徳川家康よりも武田信玄公に想いを寄せているのではないかと、妄想してしまい思わずニヤリとした。
 
 
解説を交えて安縄について丁寧に教えてくれた神官にお礼を言って、私は宝物殿を辞して応接室に戻った。
残しておいた荷物と頂き物の図書をもって、私は社務所を後にした。
 
 
              
 
 
              
                       国宝「安縄」
   
 
 
 
 
 

 春野町の古刹「瑞雲院」

 
 
国宝「安縄」を観させてもらって社務所を出た私は、改めて秋葉山本宮神社の境内をじっくり見ることにした。
階段を上がり金色に輝く真鍮製と思われる派手な鳥居を抜け、本殿に上がる階段の左右に鎮座する御堂や祠にさっと挨拶を済ませ、12月の「火祭り」の舞台となる「神楽殿」に挨拶をした。
 
「神楽殿」にはJリーグジュビロ磐田の、必勝を祈念する大きな絵馬が掛かっていた。
ジュビロ磐田の本拠地は、遠州遠江國のかつての國衙や国分寺などが在った「見附」地区であり、言ってみれば彼らも秋葉山本宮神社の氏子の一人(事業者)なのであった。
毎年監督を始め選手たちは、必勝祈願にこの本宮上社を訪れるのだという。
 
その後階段を昇り本殿にお参りを済ませての戻りに、改めてはるか彼方に遠州平野と遠州灘を観て、一息ついた。
それから先ほど挨拶を済ませた際に気に成っていた、本殿の一段下に鎮座する神々の祠の背景に在った、立派な本殿の石垣を改めてよく見ることにした。
 
本殿を支えるその石垣はお城などに在ってもおかしくない見事な石組みで出来ていた、しっかりとした石垣であった。
 
糸魚川の「槙、金山神社」神殿を支える石垣ほどの精緻さや流麗さは無かったが、その石垣は隙間が少なく見事な組み合わせで構成されていた。
これほどの石垣を造れるのは「金山衆=黒川衆」の手によるものしかないだろうなと、私は想いながら本宮上社を後にした。
 
 
下りの道は速かった。15分もかからないで800mの落差を秋葉山頂の本宮上社から、天竜川沿いの雲名に着くことが出来た。
そこからは川に沿う形で秋葉山の山麓を縫うように半周して、気田川沿いの本宮下社を通り国道362号線に出た。
そして気田川沿いを上流に向かって溯って行った。
 
 
何度か気田川を跨(また)いだ先に犬居の郷が在り、瑞雲院が在った。
所定の駐車場に着いた後、私は真っ直ぐ山内にある「駒形稲荷神社」にと向かった。
寺のはずれの小高い墓地の横にさらに一段上がるようにしてその神社は在った。
赤いお馴染みの稲荷神社の幟が何本も立っていて、目印と成った。
 
「駒形稲荷神社」には、義定公や騎馬武者につながるような「神様の指紋」は特に見つけることは出来なかった。旧犬居郷現在の天竜区春野町の犬居地区には、ほとんど唯一といってよい「馬に関わる神社」と云う事で、私は期待していたのだが、残念ながらその手の痕跡は何も見つからなかった。
 
神社への参拝を済ませて、やや下った中段の墓地の石塔に目をやると、下段と合わせると2・3百は在ったと思われる石塔の中に「木瓜花菱紋」の家紋を刻んだ、石塔を幾つか見つけた。中段だけでも7・8軒分は在った。
 
私はそれらの家紋を観ながら、京都祇園神社の神紋である「木瓜唐花」の「唐花が花菱」に入れ替わっているこの紋は、安田義定公に縁のある一族だったのではないかと、ここでも想像力を働かせた。
 
 
犬居郷には大河である「気田川」を始め、「不動川」「熊切川」「杉川」と言った支流の河川沿いには多くの「天王社」や「八坂神社」が在り、スサノウの命を祭神として祀っていた。
大雨や台風と言った時期にそれらの河川が氾濫し、その結果疫病が流行ったことは神社創建の古い記録などを見ると、多くの由来記に書かれていたのである。
 
その祇園神社系の神社を創建し守り続けた人たちで、なおかつかつての國守安田義定公に縁のある一族の墓ではなかったと、私は推測したのである。
 
 
犬居郷は天野遠景の天野一族が鎌倉時代中期から戦国時代までの300年以上の間、領主として治めていた土地で、瑞雲院はその領主天野家の菩提寺でもあった。
別区画に祀られていた領主一族の墓とは別に、郷民たちの墓所であったこの墓地に天野一族の末裔であることを示す「三階松」の家紋も存在はしたが、そんなに多く確認することは出来なかった。その代わりに「木瓜花菱紋」が幾つか確認できたのである。
 
あるいは下段の墓所にはまた違った家紋が在ったのかもしれなかったが、私は中段の墓所だけを観て駐車場に向かった。
そしてその途中、秋葉山本宮上社の宮司さんから教えてもらった「剣花菱紋」が施されている、という「山門(楼門)」と「鐘楼」とをじっくりと見ることにした。
 
 
その朱色に染められた二層の楼門は格式のある、立派な山門であった。
現在は浜松市の有形文化財に成っていることが、門前の浜松市教育委員会の案内板に書かれており、遠州地域でも「楼門形式の山門」は珍しい貴重なものであるという。
 
その楼門の上部に「剣花菱紋」を確認することが出来た。秋葉山本宮神社の宮司さんが教えてくれた通りであった。
 
「剣花菱紋」を確認した私は、気をよくしてその楼門の少し奥にある「鐘楼」をも観に行き、同じく朱色に塗られた鐘撞き堂の天辺に重しの様に鎮座していた、最上部の瓦にも「剣花菱紋」を確認することが出来たのである。
 
 
ここ瑞雲院の、現在の寺紋は「三つ葉葵」であり宗派は「曹洞宗」である。
そしてその宗派の改宗や「三つ葉葵」を使うようになったのは、徳川家康が天下人と成ってからの宗教政策に依っている、という。
 
真言宗の遠州の古刹と言われかつては「随雲寺」と称していたこの寺院の山号は、「秋葉山」であり、歴史的建造物である「楼門」や「鐘楼」には「剣花菱紋」が施されているのである。
私は改めてこの寺と鎌倉時代の初頭に14年間遠江守であった義定公の間にも、何らかの繋がりがあったのではなかったかと思い始めた。秋葉山本宮神社と同様にである。
 
平安時代末期から鎌倉時代初頭においても、秋葉山山頂には本宮神社が在り、その麓の気田川の畔(ほとり)には「真言宗の随雲寺」が在ったのである。
 
北遠の山々が連なるほぼ入り口と云ってよい暴れ川「天竜川」沿いの、山の精霊「権現」を祀る「秋葉山本宮神社」には、真言宗系の修験者のための坊が幾つかあり、その中の別当寺として「秋葉寺」が在った。
 
そしてその修験者たちが祀り崇めたのが、信州戸隠で生まれ越後栃尾の楡原で修業したレジェンド「秋葉三尺坊」であるという。
その山上のシンボルの神社と里の犬居郷の拠点寺との関係が、平安時代や鎌倉時代にもあったのではないか、と私には想えてきたのである。
 
 
そこに源平の戦いで平氏を駆逐した安田義定公が、國主として14年の間遠江國を支配していたのである。そして彼は甲州の本願地でもそうであったように、神社仏閣を尊び崇拝してきた。
同じ遠州の浅羽之荘や森町でもそうであった様に、ここ春野町でも古刹といってよい神社や仏閣に、同様の支援や援助を行なってきたのではなかっただろうか、との想いが私には強くなってきたのであった。
 
更にこの山門は朱塗りの「楼門」である。
私は京都で後白河法皇の朝廷の命令によって、「八坂祇園神社」や「伏見稲荷大社」で義定公がやってきた、本殿や楼門などの建て替えや大規模な修復のことをもまた、思い出したのであった。
 
 
 
 
                    
           
                 瑞雲院楼門
 
 
             
                伏見稲荷大社南楼門
 
     
 
そのような事を考えながら私が駐車場に向かって行くと、下から40代と思われる僧侶が上がってきた。
どうやら、この寺の住職らしい。
私は軽く挨拶を交わしてから、言った。
「こちらのご住職ですか?」彼は軽く肯くと「何か?」といった目で私を見た。
私は個人名刺を取り出して、渡しながら、
 
「私は鎌倉時代の初頭に遠州の國主を14年間ほど勤めました、安田義定公について調べている者でして・・」と言って相手の反応を見ながら話をつづけた。
「こちらの寺院は現在は曹洞宗のようですが、それ以前は真言宗だったとお聞きしてますが、やはりそうだったんでしょうか・・?」
 
「あ、はいそのようです・・」若い住職は応えた。
 
「それからこちらの寺紋は現在は三つ葉葵のようですが、それ以前についてはどのような寺紋であったのか、ご存知でしたら教えていただけると嬉しいんですが・・」私は続けて尋ねた。
「三つ葉葵はその通りですが、それ以前の寺紋につきましては残念ながら・・」僧侶はそう言ってから、一呼吸おいて
 
「この寺も創建以来3回ほど消失していますし、一度移転もしてきたようでして、そう言った事もあって過去についての古文書類は、ほとんど残って無いんです。残念なことに・・。
現在残っているのは江戸時代に建立されて以降の事でして・・。
そんなわけでせいぜい三百年ぐらいしか遡ることは出来ないんです・・。ですから鎌倉時代という事であればとてもとても・・」と言って、確たる資料や古文書は残っていない事を、申し訳なさそうに教えてくれた。
 
「そうですね義定公の時代ですと、八百年以上は遡ることに成ろうかと・・」私はそう言って、話を繋いだ。
「それは残念です・・。実は先ほど来、こちらの鐘楼や向こうの山門を見させてもらったんですが、いずれも立派な建造物で市の文化財なんかにも成っているようですね・・」と言うと、住職はニコリと笑顔になって、
「はい、その通りです。先ほども申しましたがかれこれ三百年近くには成りますようで・・」と嬉しそうに言った。
 
「その鐘楼や山門には『剣花菱紋』が施されているようですが、その『剣花菱紋』であったとかいうことは、なかったんでしょうか・・」私が具体的に尋ねると、住職は
「さきほども言いましたが、確たる伝承は・・」と、申し訳なさそうに言った。
 
「そうでしたか・・、いや残念です。
そうしますと江戸時代のこれらの建造物に『剣花菱紋』が使われているのは、これらを再建した時に『前例を踏襲した』、という事なんでしょうか・・。そのぉ有識故実に倣ったとでも云うか・・」私が言うと、住職は、
「多分そうなのかも知れません・・。申し訳ありませんが・・」とまた恐縮そうにそう言った。
 
私はこれ以上尋ねるのが申し訳なく思い始めた。
「最後に瑞雲院の山号が『秋葉山』である事の謂れのようなものは、何か言い伝えとかででも、残ってたりするんでしょうか・・」と尋ねた。住職はやはり申し訳なさそうに首を横に振った。
私はついに諦めることにした。
 
最後に丁寧に挨拶をして、私はそのまま駐車場に戻りつつ、この寺の歴史的建造物に「剣花菱紋」が確認できたことと、墓所の石塔に「木瓜花菱紋」が幾つか確認できたことをひそかに歓び、次の目的地に向かうことにした。
 
 
 
 
 
 
        
     剣花菱紋      花菱紋            赤丸上:秋葉山本宮神社上社
                                     同 下:同神社下社
                                     青丸 :瑞雲院  左:天竜川 右:気田川
        
         木瓜花菱紋
 
 
 
 
 

春野町気田「南宮神社」と金川

 
 
犬居の瑞雲院を後にした私は、次の目的地である気田川が杉川と合流する地点にある「気田地区」及び「金(きん)川地区」にと向かった。

丁度昼食時だったので気田川沿いの沿線国道362号線沿いに、適当な昼食を食べさせてくれる店が在ればよいのだが・・。などと思いながら車を走らせていると、運よく数分で左手に食堂を見つけることが出来た。

車を店の前の駐車スペースに停めて店の暖簾を見ると、紺地の暖簾には先ほどの墓地で見つけた「木瓜花菱紋」が白抜きしてあった。私は想わずニンマリとして、早速店の人にこの家紋の謂われを聞いてみようと思い、期待感をもって店に入った。

 

四人掛けのテーブル席が5・6か所あっただけのこじんまりとした食堂で、私は店の名物と書かれていた「長ネギラーメン」を頼むことにした。注文を終えた後、店の80歳前後と思われるおかみさんに早速聞いてみた。

「表の暖簾の家紋は、こちらの店の家紋のようですが・・」私がサラリとそう聞くと、そのおかみはニコニコと肯いた。

「この家紋の謂われとかについて、お聴きしてもよいですか?」私が続けてそう言うとおかみは、ちょっと慌てて、

「いやそれは・・。私ぁ嫁に来たもので・・。あぁそしたらチョッと待ってもらえるかね・・」老女はそう言うと、店の中に引っ込んでご主人と思われる八〇代半ばと思われる老人を連れて来た。白い上着に白いエプロン姿の主人は、被っていたやはり白い割烹帽子を脱ぎながら、

「いやぁ、謂われと云うようなコトは特に何にも聞いては、い無ぇだで・・」と言って、申し訳なさそうにそう言った。

 

厨房の奥で料理を作っている音が聞こえたので、私が注文したラーメンを作っている人が別に居る様子なので、私はそのまま質問を続けた。

「入口の暖簾は『木瓜花菱紋』の様ですが、ご先祖は武士だったとか武家だったとか言ったようなことは聞かれたりはしてませんでしたか・・」私は入口の方を指さしながらそのように水を向けた。

「『横モッコー』のコンかい?いやぁ武士だったとか武家だったとかいったヨーナ話ぁ、特に聞いたコトねえドなぁ・・」老主人は又申し訳なさそうに言って、否定した。

「そうでしたか、特にそのような謂われとかは聞かれてないんですか・・。いやぁ残念です・・」私はそう言って、これ以上邪魔をしても無理だと思い、

「お忙しいのにすみませんでした・・」私はそう謝意を述べた。老夫婦は何でもないというようにニコニコしながら厨房の中に消えた。

 

私は祇園神社の「木瓜唐花紋」の、真ん中の「唐花」の替わりに安田義定公の家紋である「花菱」が入っている「木瓜花菱紋」を見つけて、遠州に縁があり祇園神社とも接点がある義定公に何らかの縁がある家ではないかと、淡い期待を抱いたのであるが、今回はどうやら違った様であった。残念であった。

私はにわかに沸き起こった期待が、急激にしぼんでいくのが判った。

ラーメンを食べ終わって会計を終え、「横モッコー」の暖簾の掛かった食堂を後にして、私は再び国道362号線を気田川に沿う形で溯って行った。

 

さらに上流に運転していくと、左手の公園のような場所に据えられていた大きな天狗面のオブジェが在った。それをチラリと見ながらそのまま遡って行くと、数分で気田の集落の入り口に着いた。

そのまま左折して国道を離れるように気田の集落に入って、気田小学校の入り口の坂を上るとすぐに「南宮神社」に着いた。

「南宮神社」は坂道を登った右手に在ったが、坂道の正面は気田小学校の入り口に成っていて、小学校のグラウンドであった。

その神社と小学校の配置を観て、私は森町大久保のかつての「馬主神社」である「大久保八幡神社」と、旧大久保小学校跡地の関係を思い出した。

森町大久保の小学校跡地には直線で百m以上の校庭が在り、かつて校庭であった場所は、馬主神社の馬場として流鏑馬の神事を行っていた場所であった、と云う話を思い出した。

 

気田の南宮神社横の小学校も、明治に成って学校が開校するまでの長い間、南宮神社の広く立派な境内であったに違いないと想い、かつての広い神社境内を想像してイメージを膨らませた。

今ではこじんまりとした村の鎮守様とでも云うこの南宮神社は、気田地区の小高い丘の上に鎮座していた。眼下に広がる集落には、西方の山間部から流れ込んで来た「気田川」の本流が、弧を描く様に東側を回り込み、やがて国道362号線に交わるようにして集落の南側に湾曲にカーブしていたのであった。

そしてその気田の集落に西方から流れて来た「気田川」の本流に、北方から「杉川」が流れ込んで来て、気田地区の北北東に当たるエリアで「気田川」に合流していたのである。

「金(きん)川地区」はその「気田川」と「杉川」とが合流するエリアに、挟まれた地区であった。

こじんまりとした「南宮神社」の祭神は当然の事だが「金山彦」であり、金山衆の信仰する神様であった。そしてその南宮神社の北面の麓にあたり、二つの大きな河川が合流する箇所が金(きん)川地区なのである。

 

現在のような山間の中の市街地と云って良いこの気田地区も、八百年前の鎌倉時代初頭にはまだまだ人間の張り付きが現在のように多くは無かったであろう。

そこに安田義定公の家来である金山衆が、遠州灘に面し国衙の在った磐田見附地区から60㎞以上離れたこの山間の地に、金の採集場所を求めて調査探索した際、この二つの河川が合流する辺りに沈金や川金を見つけたのではなかったか、と想像してみた。「金川」の名前の由来である。

その構図は私には、越後糸魚川市の「能生川中流」の槙地区の「金堀場」と「金山神社」との関係を思い起こさせたのであった。

 

能生川の場合は、更にその川を溯った妙高山系の一画に「裏金山」や「金山」と呼ばれる、金鉱山の存在が見込まれるのであったが、ここ遠州春野の「気田地区」の「金川」にとってはこの河川の上流の何処に、糸魚川の「裏金山」や「金山」に相当する金鉱山がやっぱりあったのであろうかと、私は想像力を働かせてみたのであった。

そのようなことを考えながら「南宮神社」に金山衆が残した痕跡が何か残ってないか期待して観たのであるが、建物や神殿の石垣などに具体的な痕跡を見つけることは出来なかった。

社殿の後ろに在ったご神木は「イチイブナ」の樹であったが、その幹の太さはせいぜい数百年の樹木で、とうてい鎌倉時代にまで遡ることは出来ない太さであった。

神殿の屋根瓦の神紋が「三ツ葉葵」であったことを確認して、私は犬居の「瑞雲院」の辿って来た歴史を思い出した。この「南宮神社」もかつて安田義定公の時代に創設されたとして、その後7・80年経って犬居郷の地頭と成った天野遠景の子孫たちが三百年近く支配していた頃は、まだ義定公の時代の面影を残していたかもしれない。

 

しかし戦国時代の末期に武田信玄の側に付いた天野氏の末裔が、浜松城城主であった徳川家康の度重なる攻撃を受けて、その際に焼失してしまったのではなかったかと、推察してみたのである。

犬居の「瑞雲院」がそうであった様にこの気田の「南宮神社」も、同じような歴史的経過を辿って、三代将軍家光の時代に成って幕府からの御朱印に示されているように、援助を受け再建されたのではなかっただろうか、と想像してみたのである。

それを示唆するのが、この神殿の屋根瓦に残った「三ツ葉葵紋」であろう、と想像したのである。ご神木の「イチイブナ」の幹の太さも四・五百年前だとすると符合するのである。

 

更に秋葉山神社の祢宜さんから聞いた「火祭り」において「弓の舞」を担った「南宮神社」の宮司で、かつての「ねぎや」酒井氏の存在もそうである。

宮司である酒井氏一族は、徳川家と縁戚関係にある氏族で家康の有力な譜代であったことが想像出来るからである。

「瑞雲院」の住職にそれまでの真言宗の系統に替わって、家康との関係の深い曹洞宗の僧侶が送り込まれたのと同じような事が、ここ南宮神社においても起きたのではなかったか、と想像したのである。

即ち従来の金山衆の末裔が担って来たと思える宮司・神官に替わる、徳川家譜代の酒井氏一族の挿入である。いずれも家康の遠州地区の宗教改革の延長線上の出来事、として行われてきたのではないか、と想像してみた。

そう考えると「三ツ葉葵紋」の事も宮司が酒井氏に替わったことも、神殿の築年数やご神木の事などもまた理解できるのである。

 

そのように考えると、「南宮神社」が戦国時代末期に家康軍によって焼き討ちされるまでに鎮座していた場所は、ひょっとしてこの場所では無かったかもしれない、違う場所に鎮座していたのではないかと、私はさらに想像力を働かせた。

その根拠は神社の石垣の稚拙さによるのである。金山衆が造設した神社の石垣であれぼ、もっと精密で流麗ではなかったかと思われるからである。ところが現存する「南宮神社の石垣」は金山衆の技術には到底及ばない稚拙なもの、であったからである。

糸魚川の「槙、金山神社神殿の石組み」に比べると、その技術水準の差異は歴然としている。秋葉山本宮神殿の石垣にも、明らかに及ばなかった。そして家康軍によって焼失されるまで「南宮神社」が鎮座していた場所は、ひょっとしたら現在の気田小学校の一画に、あったのかもしれないと更に妄想を膨らませた。

そのようなことを想いながら南宮神社の石段を下りて行くと、その石段や鳥居脇の石柱の寄進者の名前に「酒井氏」の銘を確認することが出来た。これらはいずれもかつての宮司又は宮司の一族が寄進したものであろうか・・。

 

「南宮神社」を後にして、私は気田地区のメインストリートと思われる商店街を真っ直ぐ北上して、西方の山間部から流れて来る気田川本流に架かる橋を渡って「金(きん)川地区」にと向かった。

気田地区の中心部から北上する「金川地区」は上り坂に成っていて、頂上付近に鎮守の森が在った。「金川稲荷神社」である。私はこの金川地区に在る神社としては、「祇園神社」や「八幡神社」「駒形神社」等を期待したのだが、残念ながらそうではなかった「稲荷神社」であった。

とりわけ二つの大きな川が合流している事から、大雨や台風時の水害が大いに予測されたこともあって、「祇園神社系」のスサノウノ命を祀る神社が在るのではないかと期待を込めて推測していたのだが、残念なことに「稲荷神社」であった。

私は先ほど見て来た「瑞雲院」の山内に、「駒形稲荷神社」が在ったことを思い出した。どうやらこの犬居郷では「稲荷神社系」の神様の影響力が強かったようだ。その点を改めて調べてみる必要があるかもしれない、と想いながら私は急峻な参道を登り神社への参拝を済ませてから、「金川稲荷神社」を後にした。

 

「駒形稲荷神社」「南宮神社」「金川稲荷神社」においては、安田義定公に繋がる「痕跡」や「神様の指紋」はいずれも見い出すことは出来なかった、残念であった。

ここ犬居の郷では「瑞雲院」の「楼門」や「鐘楼」に義定公に繋がりそうな「剣花菱紋」を確認出来たのと、同寺院の墓地の石碑に「木瓜花菱紋」を確認できただけであった。収穫としては多いとは言えなかった。

やや気落ち気味の私は、気を取り直してこの地の「八幡宮」としてリストアップしていた「気田八幡宮」を訪ねることにした。春野町の『春野町史ー資料編ー』で確認しておいた気田地区の八幡神社がそれである。

所在地をカーナビに打ち込み、その案内に任せて尋ねてみたのであったが、お目当ての八幡神社を見つけることは出来なかった。 

 

車一台がやっと通れそうな狭い生活道路をゆっくり流していると、家と物置小屋の間を歩いている背の高い、体格の良い老人を見つけた。80代半ばであろうか・・。

私はこれまでの経験上、神社仏閣について尋ねるのには若い人達よりも高齢者の方が、効果がある事を知っていたので、早速車を停めてその背の高い老人に尋ねることにした。

「すみません・・。この近くに気田八幡神社は在りませんか?ご存知でしたら教えてほしいのですが・・」私がそう言うと、体格の良い老人は私をシゲシゲと観た後で、

「この近くに八幡神社は在りゃせんぞ・・」と、一言で否定された。

 

「そうですか・・。この辺りの住所のはずなんですが・・」私はそう言って、コピーして来た資料の番地を指示した。

「この番地はもう少し西側に当たるようだけんが、そんな神社は聞いたことがないぞ。屋号で八幡ちゅぅ家は在ったけんどな・・。もう何年も前ぇに横浜に引っ越してるだよ」老人はそう言って再び否定した。

「そうでしたか・・、いやぁ残念です。・・ところでこの近くには八幡神社とかは無かったんでしょうかね、他の八幡神社でも構わないんですが・・」私が更に食い下がると老人は、

「おめぇさんは、八幡神社に興味があるんかい?」ともう一度私をシゲシゲと観ながら聞いてきた。私は早速ウエストポーチから個人名刺を取り出して、老人に渡しながら言った。

 

「私は立花と申しまして、今から八百年ほど前の鎌倉時代初頭に、遠江守を十四年ほど務めた安田義定公という甲斐源氏の武将の事をいろいろ調査・研究しているものでして・・。遠州の山間の里であるここ春野町に、義定公の当時の足跡や痕跡が何かないものかといろいろ調べておりまして・・。

実は先ほども向こうの『南宮神社』や気田川を越えた『金川稲荷神社』にも参拝を兼ねてヒントを求めて見に行ってきたりしたんですが・・」私がそのように話すと、老人は

「ほぅ、それはそれは・・」と云いながらニコリとして、

 

「八幡神社や南宮神社も絡んでくるんだかい、その安田何とかと云う武将は・・」と言った。私が肯くと彼は続けて、

「立花さん、なんだからちょっとこっちに来なんせい・・。ァ車もこっちに入れてくだんせ。通行の邪魔に成っちゃいけんだで・・」そう言って、私に車を敷地内に入れるように誘導した。私はその誘導に従って、自動車を敷地内に入れた。

車を移動させてから、改めて私は老人の招きに応えるように彼について行って、家に入った。引き戸の入り口には「酒井」という木札が掛かっていた。どうやらこの家は酒井氏の一族の家らしい。

 

 酒井さんは玄関入ってすぐの大きな土間に私を案内し、その壁に架かっていた幾つかの屋台(山車)の写真を示して

「これは南宮神社の秋の大祭ん時に出る屋台の写真だで、ご覧なせぇ・・。

左から『気田の上組の屋台』『同じく気田の中組と下組の合同屋台』ここらの各組から繰り出す屋台だよ。ホンで立花さんがさっき言った『金川稲荷の金勢社』ほの更に北側で、杉川を渡った先の『篠原の八幡(はちまん』。

ほれから気田川をずっと下った平木大橋を越えた辺りの『平木の八幡(やわた)』、南宮神社を西っ側に下った『仇山の山栄社』って、それぞれ云うだよ。

どうだい、なかなかなもんだら・・」と暗闇に祭提灯の満艦飾で輝く光に照らされた、飾り山の人形の載った派手な屋台(山車)を指し示して、誇らしげにそう言った。

 

「酒井さんはこのお祭りに、関わって来たんですか?」

「ほりゃほうだよ、気田のモンは子供ん頃っから皆んな、お祭りには関わって来てるだ。もっとも儂も今じゃ氏子総代としての仕事ぐれぇしか、やっちゃおらんがな・・」酒井さんは無精ひげを触りながら、当然のことのようにそう言った。

「なるほどそうでしたか、今では氏子総代としてですか・・。そう言えば確か南宮神社の宮司さんも、同じ酒井さんと云った方だったそうですね・・。

今ではもう廃業されたとか云う事のようですが・・。因みに酒井さんとは親戚筋に当たるんですか?」私がそう尋ねると、酒井さんは

「昔の事は判らんがそんなに濃い親戚では無かっただよ、『ねぎや』の酒井家とは・・」とサラリと応えた。

 

「そう言えば『ねぎや=禰宜家』だったそうですね、南宮神社の宮司さんは・・。秋葉山神社の『火祭り』の時に、確か『弓の舞』を担当されていたとか云う・・」私は秋葉山本宮下社の守矢禰宜から聞いた話を思い出して聞いてみた。

「よう知ってみえるね・・、ほのとおりだよ。ほの『ねぎや』も今じゃ廃業しちまって名古屋辺りで勤め人をしているようだで・・」酒井さんが淋しそうに応えた。続けて、

 

「さっき立花さんが気にしていた気田周辺の八幡神社と云えば、秋の大祭に屋台を出す神社が中心に成ってるようだでね・・」と興味深いことを話した。

「篠原の八幡神社や平木の八幡神社は、そのまんま判るんですが、金川稲荷や仇山の神社も八幡様なんですか?」私が疑問に思って聞いてみた。

「金川稲荷は昔っから南宮神社の神輿を担ぐ時の『御旅所』に成っているだよ、ほうだから南宮神社とは昔っから太い繋がりがあった様だよ・・。ほれに若宮さんも合祀してた筈だよ確か・・。

仇山には明治維新の時に南宮神社に合祀されるまで、天神さんを祀った神社が在って、ほこの氏子たちが仇山から『山栄社』ちゅう屋台を繰り出して、南宮神社まで天神さんに逢いに来るだよ・・」酒井さんが詳しく教えてくれた。

 

私は酒井さんが神社の事情や由来に詳しいことを知り、先ほど「金川稲荷」を参拝した時に抱いていた疑問を聞いてみる事にした。

「ところでその『金川の神社』の事なんですが、気田川と杉川が合流する場所だとすると、昔から大雨や台風などに襲われた時に川が氾濫したりして、水害が起きて疫病や伝染病が発生したんじゃないかと思われるですけど、祇園さんと云うか天王社と云うかスサノウ命を祀ったりするような事は、無かったんですかね・・」と私が聞いた。

 

「ん?須佐之男命かい?祀られてるだよ『金川稲荷』に・・。よく判っただね・・」酒井さんは驚いたように、そう言った。

「あっ、そうなんですか『金川稲荷』に祀られてるんですかスサノオ命が・・。私はてっきりご祭神はお稲荷さんの祭神である『宇賀魂』とかを祀っているかとばかり・・」私がそう呟くと、酒井さんは

「稲荷大明神はもちろん祀られてはいるだけんが、須佐之男命もしっかり祀られてるだよ。ほりゃまちげぇねぇだ・・」力を込めてそう断言した。

「居たかい?」とその時大きな声がした。玄関の引き戸が開けられ、白髪交じりの眼鏡の痩身の男性が入って来た。
 
 
 
                                               
              赤丸:気田「南宮神社」
              黄丸:「金川稲荷神社」
              青丸:右上は「篠原:八王子神社」
                 左下は「仇山:菅原天神社跡」
                 中下は「平木:八幡神社」
 
気田地区の中心神社である「南宮神社」の秋の大祭(10月中旬)には、全部で6基の屋台(山車)が集結する。上記はその屋台の在る地域で、南宮神社を囲む「気田川」や「杉川」沿いの産土神を祀る神社である。
 
「仇山の菅原天神社」は、明治維新後の神社統合の施策により明治7年に南宮神社に合祀されている。
因みに狭義の気田地域では、「上組」と「中&下組」がそれぞれの屋台を繰り出す。
 
 
 
 
 

 「家紋」を紐解けば・・

 
 
その男性を認めて、酒井さんは、

「おお、いいとこに来た小澤さん・・」そう言ってその七十代半ばと思われる男性を、こちら側に招き入れた。どうやら酒井さんとは親しい間柄の人のようであった。私は軽く彼に挨拶をした。酒井さんは私に向かって、

「こちらは小澤さんと云って、元高校の歴史の先生で浜松に合併する前の春野町で教育委員会のメンバーでもあった人で、今は儂らと南宮神社の世話人なんかしてる人でね。神社や仏閣についても詳しい人だよ・・」とその来客について説明してくれた。続いて、

「こちらは立花さんと云って、鎌倉時代の安田何とかって武将の事を調べに春野まで東京からワザワザ来なすった方、だっただよな確か・・」そう言って私に確認しながら私を紹介して、小澤さんに向かって、

 

「南宮神社や金川稲荷・八幡神社なんかに関心を持ってるみてぇだよ・・」と付け加えた。私はそれを受けて、個人名刺を取り出して小澤さんに渡しながら、

「初めまして立花です。私は鎌倉時代の初頭に遠江守を十四年ほど勤めました甲斐源氏の武将安田義定公について、いろいろと調査・研究している者でして・・。

以前は浅羽町の浅羽之荘や、森町の事を調べて来たんですが、今回は春野町の秋葉山本宮との関係や瑞雲院の事などを調べたりしてまして、こちらの気田の南宮神社についても・・」と説明した。それを聞いた小澤さんはニコリとして、

「それはそれは・・。で、何か成果が得られましたか?その安田義定に繋がるような事が・・」と眼鏡の奥から興味津々といった様に私を観ながら、聞いてきた。私がそれに応えようとすると、奥から酒井さんの奥さんと思われるご婦人が出てきて、

「お父さん、こちらに上がってもらったら・・」と、私たちに目礼をしながらそう言った。

「おぉ、そうだな・・」と酒井さんは応えると、早速私たちに対して土間に繋がる茶の間と思われる部屋に、上がることを促した。早速小澤さんが反応した。彼はスタスタと勝手知ったる家といった様に、

「お邪魔するよ・・」と云いながら三和土(たたき)に上がり靴を脱ぐと、茶の間にと向かった。私も酒井さんに促されて、小澤さんに続いた。

 

茶の間は十畳ほどの広さで、真ん中に大きな座卓が在った。TVや水屋といったものと共に神棚がしつらえて在った。その神棚の横には金属製と思われる銀色の家紋の入ったガラスの額が架かっていた。どうやら酒井家の家紋なんだろうと思われた。

先がハート形の三つの花弁の紋であったが、何の紋章であったか私は判らなかったので、

「この紋の花は・・」家紋の額縁を観ながらそう呟くと、

「あぁこれかい、おらんちの家紋は『酢漿草(かたばみ)』に成るだよ・・」と、酒井さんが教えてくれた。それを傍らで聞いてた小澤さんが、

「徳川家譜代の酒井家とおんなじ家紋だよな、酒井さん家(ち)は・・」と解説してくれた。酒井さんはニコニコと肯いた。

「そう云えば南宮神社の神紋は、三つ葉葵でしたがやはり家康の宗教政策の影響なんですか?」私がそう言うと、小澤さんが「ん?」というような顔をして、私を観た。

 

その時、酒井さんの奥さんがお茶を運んできたので、酒井さんは私達に座卓に座るように促した。私達は座卓に座ることにした。

「よくご存じですね・・。徳川家康の事も研究されてるんですか?」小澤さんが胡坐をかいて座りながら、そう言って私の顔をじっと見た。

「いやそういうわけではありません。ここ数日の調査やヒヤリングで初めて知ったことです。秋葉山本宮の祢宜さんや宮司さんに教えて頂いたんですよ、家康が武田勝頼の武田軍を遠州から一掃した後、始めたという宗教改革の事を・・」私がそう応えると、小澤さんは

「ホウ、そうでしたかそれはそれは・・」と短く反応した。

「南宮神社もそうでしたが、犬居の瑞雲院や秋葉山本宮の秋葉寺の事とかも合わせて、いろいろ教えて頂きまして・・。

どうやら家康は武田信玄や勝頼公の武田軍が築いた、南信から北遠にかけてのネットワークを断ち切るために、北遠の古刹であるそれらの神社や仏閣の宗派替えを含めたスクラップ&ビルドを熱心に行った様ですね・・」私は今日仕入れて来たばかりの話を二人にした。

「ホウ、因みにそれらは鎌倉時代の安田義定にどこかで繋がって来るんですか?」小澤さんはさらに踏み込んで、聴いてきた。

「直接的には関係は無いんですが、義定公が鎌倉時代の初頭に遠州で繰り広げて来た神社・仏閣との関係が、どうやらその家康の宗教政策で壊されたのではないかと、そう言った仮説を私は持ってるモンですから・・」私は小澤さんの問いにそう応えた。

「ホウ、それはなかなか面白い仮説ですね・・」と小澤さんは言いながら、目でその先を促した。

酒井さんの奥さんは入れたお茶を茶托に載せて、私たちの前に「粗茶ですが・・」と云いながら配った。

 

「義定公は平安末期の武将ですから、当時の風潮のように神社・仏閣を尊崇しかつ、支援や援助を沢山やっていたようでしてね、ァそれからお祭りの支援なども熱心に進めたようですね・・。自分の領地領国では盛んに神社・仏閣を建立したり、祭りのための神輿や屋台(山車)・衣装を創って寄進したりもしていたようなんです。

尤もこれらは新しく領地領国にした遠州や越後の領民たちの人心を掌握する、といった効果も兼ねていたようですけどね・・」私がそう言うと、酒井さんが

「お祭りもだかい・・」と意外に思ったのか、それともご自分の関心領域と云う事であるからか、その様な反応をした。

「義定公は元来お祭りが好きな武将のようでして、甲州の本貫地でも地元の祭事には支援や援助もしていたみたいですし、新しく領主と成った遠州でも『流鏑馬の神事』や『祇園祭』『舞楽』といった神事やお祭りを通して、領民たちの心を掴んできたようなんですよ・・」私は浅羽之荘や森町飯田、更には糸魚川の舞楽などを念頭に置いて、そのように話した。

「ホウ、人心掌握の手法としてですか、なるほどね・・。因みに具体的にはどんな風に安田義定は祭りや神事をサポートして来たんでしたか?」小澤さんが言った。

「そうですね、多少長くなっても宜しいですか?」私はそう断りを入れて、二人の顔を見てから話を始めた。

 

「まずは『流鏑馬の神事』についてなんですが、これは甲斐源氏の義定公にとって、最も重要な神事の一つでして、騎馬武者の伝統を古代から持つ甲斐の騎馬武者にとっては、武人たちの競技大会のような側面を持ってることもあって、多くのところで始めてます。

遠州で云えば浅羽之荘の『稚児流鏑馬』などもその一つだと思います。浅羽之荘は遠江守であった義定公にとっても、遠州における本貫地でもあったようで、とりわけ熱心に行われていたようですね。浅羽三社と呼ばれる三か所の八幡神社がこれに関わっているようです。

それからこれはまだ伝聞情報でしかないのですが、掛川市垂木の『雨桜神社の流鏑馬』の神事も義定公に縁りがあるようですね。これは森町教育委員会の黒島技監に先日教えてもらったばかりなんですが・・」私がそう言うと、小澤さんが早速反応した。 

「森の黒島さんをご存じなんですか?確か以前は係長だったようですが・・」小澤さんは黒島さんとは旧知なようで、穏やかな目でそう言った。私は肯いて、

「三・四年前に義定公と遠州森町の関係を調査していた時に知り合いまして、それ以来今でも時々情報交換をさせていただいてます」私がそう応えると、小澤さんはニコニコしながら何度か小さく肯いた。

 

「それから『祇園祭』に関してもですね、義定公は京都の祇園神社や伏見稲荷大社とはご縁があって、祇園祭の山・鉾巡行にもその痕跡を残しているようなんですよ」私がそんな風に言うと、

「京都祇園祭の山・鉾巡行って言ったら、あの夏の暑い盛りにやる祭りだら?四条通や河原町を派手な山車や鉾を引き回したりする・・」酒井さんが懐かしそうな顔でそう言った。

「ァはい、おっしゃる通りです。よくご存じですね、京都の祇園祭ご覧に成りましたか?」私が酒井さんにそう尋ねると、

「もう50年も前の話だでね、春野が材木景気の良かった頃に、皆で屋台の造り替えの参考にしようって行って来ただよ。暑かったなぁ、京都は・・」酒井さんは懐かしそうにそう言った。

「そうでしたか、そんなことがあったんですか・・。そしたら話が早いかもしれません。こちらで秋の大祭に行う屋台と同じですよ殆ど、多少派手さや雅さが感じられる程度でね・・。

それからまだちゃんと確認出来てませんが、ひょっとしたらこちらの屋台の巡行は、義定公やその配下の武士たちや金山(かなやま)衆の影響で始まったのかもしれないと、実は私想ってまして・・」と云うと、二人はびっくりしたような反応をした。私は話を続けた。

 

「義定公が祇園祭と関わるようになったのは、後白河法皇の勅命がきっかけだったんですよ。それまで八年間ほど遠江守を続けていた義定公が、さらなる重任を願ったんですがそれに対して、当時の朝廷の権力者である後白河法皇が出してきた交換条件がありましてね、それが縁で義定公と祇園神社や伏見稲荷大社と関わるようになったようなんです・・。

具体的には両神社の『神殿』や『拝殿』幾つかの『楼門』『宝物殿』といった主だった建物の建て替えを求められたわけです。三度目だったかの遠江守重任を認めてもらう代わりに・・」私がそう言うと、小澤さんが、

「後白河法皇ですか?長講堂を院の御所に創られた・・」と驚いたようにそう言って確認を求めた。

「ァはい、おっしゃる通りその長講堂を造られた後白河法皇です。確かこちらの領家地区はその長講堂の領地、というか荘園だったようですよね・・」私はそう言って、秋葉山本宮下社が立地する春野町領家と長講堂との関わりを、改めて確認した。それを聞いた小澤さんは腕を組んで少し考え込んだ。

「ほの京都の祇園祭に、安田義定っちゅう武将はどう関わってただよ・・」酒井さんが私に聞いてきた。

 

「義定公は祇園神社の主だった建物の建て替えという大役を通じて、祇園神社とは結構深い繋がりが出来たようでして、自分自身の主な直轄の領地に八幡神社と共に祇園神社を幾つも造営してるんですよ。

遠州では浅羽之荘もそうですし森町大久保の馬主(うまぬし)神社近くにも・・。更には甲斐之國牧之荘の藤木郷でもそうなんですがね・・。

それから京都の山・鉾巡行にも武家の家来と、先ほども言いましたが金山衆という金山開発の職能集団とが、それぞれ『八幡山』や『綾傘鉾』といった舁き山や曳山を、始めたようなんですよね・・」と私は具体的な山や鉾についての説明を始めた。

「ホウ、そうなんですか・・。因みに森町大久保の馬主神社ってどこでしたかね?八坂神社は存じてますが・・」小澤さんがそう言って、確かめるように聞いてきた。

「ァはい、八坂神社の近くですよ。尤も現在の名前は大久保八幡神社と神社名が替わってますがね、明治維新の宗教政策で・・」私はそう言って説明した。

「大久保八幡は馬主神社と云ったですか?」小澤さんが呟くようにそう言った。

 

「その通りです。江戸時代までは馬主神社と云われ、大久保小学校の真っ直ぐな校庭は、流鏑馬の神事では馬場と成っていた場所を、明治以降に学校を開校した時に校庭にしたという経緯を辿った、と云う事です。

大久保地区は義定公にとって、騎馬武者用軍馬を育成する場所として、とりわけ軍馬の畜産場所として重要な拠点だったようですね・・。

因みにその大久保に畜産した若駒を提供してきたのは、どうやら春埜山西麓の『牧野』『花島』『大時』『胡桃平』といった場所だったようですよ・・」私がそう言うと、

「ん?春野町のかい?」と酒井さんが呟くように言った。

「ァはい、その通りです。現在は春野町に成ってますが、義定公の時代はもちろん江戸時代であっても、同じ遠州の春埜山の東側と西側で、義定公達にとってはみんな一緒だったと思いますよ、当時は・・」私がそのように言うと、小澤さんは真顔で、

「そのように思われた根拠のようなものは、何かお有りですか?」と尋ねて来た。

 

「そうですね、大時神社の『鰐口』や『ご神体像』がありますよね。県の指定文化財にも成ってたと思いますが・・。その鰐口やご神体像の奉納者や願主が確か『右馬尉兼吉』と名乗っていた人物の様です。

もちろん正式な官名ではなく自称だと思いますが、少なくとも『右馬尉』を名乗るような伝統や歴史のあった家柄、だったんだと思います。

そしてその鰐口なんかの奉納が行われたのが、確か1444年の室町時代前期で、応仁の乱の勃発前でしたよね。

義定公の時代からは二百五・六十年は経ってますが、当時は今と違って時代の変化がゆっくりでしたから、殆ど鎌倉時代初頭と変わらないで軍馬の畜産や育成が行われ続けた、と私は思っています春埜山の西麓辺りでは・・。

それに『牧野』の『八坂神社の棟札』にも、神社の建立者として『右馬』とか『良馬』と云った様な馬がらみの名前が書かれてますし、何と言っても『牧野』ですからね、馬の牧き場そのものですよね地名が・・」私は一気にそう説明した。

 

「ほんとだらか?」酒井さんはそう言って、小澤さんの顔を観た。小澤さんは肯きながら、

「確かに大時の八坂神社には県の文化財に成ってる鰐口やご神体がありましたね・・。その奉納者が『右馬尉兼吉』でしたか・・」小澤さんはそう言って私の説明を認めた。

「春野町の郷土史研究会の会報『温故知新』や『社寺棟札等調査書』だったと思いますが、そのように書かれていたかと思いました・・」私がそう言うと、小澤さんは

「そうでしたか、『温故知新』や『社寺棟札等調査書』にですねぇ・・。牧野の八坂神社の件なんかも書かれてましたか・・」そう言って私に確認した。私は大きく肯いて

「その調査書によると、大時の八坂神社は須佐之男命と共に誉田別命を祀ってたと書かれてましたから、明治維新までは『天王八幡神社』または『祇園八幡神社』と呼ばれていた神社だったかと、想います」そう付け加えた。

「なるほどね、そうすると祇園神社の天王社と八幡神社とが祀られた神社と云う事で、安田義定がやはり絡んでくると、立花さんはお考えなんですか?」小澤さんはそう言って私に尋ねて来た。私は大きく肯いて、

「おっしゃる通りです。さすがに話が速いですね・・」と言った。小澤さんはしばらく考えてから、口を開いた。

 

「立花さんがそう言った仮説というかインスピレーションを抱かれるのには、何かヒントになるようなものとかが、あるんですか?参考までにお聞かせください・・」小澤さんはそう言って私に頭を下げた。

「そうですね・・。マァやはり義定公の領地・領国経営の特徴が反映してるって事ですかね・・。義定公の場合は通常の荘園経営の他に、甲斐駒絡みの騎馬武者用の軍馬の畜産・育成や、金山開発にあったと云う事が一番大きいですね。ァそれから『家紋』ですかね家紋。これも大きいですね。

因みに義定公の家紋は『花菱紋』に成るんですが、その花菱紋が神社の建物とか舞楽の衣装に残ってたりしましてね、それらを確認すると私はほぼ間違いない、と確信します。私の場合は、ですが・・」私はそう言って、小澤さんに話した。それを聞いた小澤さんがニコリとして言った。

「えっ、家紋ですか、家紋がヒントに成ってるんですか?それはそれは・・」と嬉しそうにそう言って、続けて

「いや実は私の研究対象はその家紋でしてね・・。そうですかぁ家紋を足掛かりに、立花さんは仮説を立てたり、安田義定の事績や痕跡を確認しているんですか・・」とそう言った。

「確かに家紋に関しては小澤さんの右に出るモンは、この春野にはおらんだでな・・」酒井さんもそう言って、小澤さんが家紋に詳しい人物であることを認めた。

 

「そうでしたか、家紋にお詳しいんですか・・。実はですね、私が今回春野に来て秋葉山本宮にお邪魔しました、そのキッカケは秋葉山神社の社紋だったんですよ」私がそう言うと、酒井さんが、

「もみじの葉っぱって云うか、天狗の団扇のコンかい?」と言った。

「いやそっちは『神紋』であって、『社紋』の方は『剣花菱』でしてね・・」私がそう言うと、小澤さんは肯きながら、

「なるほど安田義定の家紋である『花菱』と、秋葉山本宮の『剣花菱』との関係に着目した、ってわけですか立花さんは・・」そう言ってニコニコと私を観た。

「おっしゃる通りです。さすがは家紋に詳しい方だから、話が速いですね・・」私は二つの家紋について細かい話をしなくても理解してくれる小澤さんが、嬉しくなってニコニコと返事を返した。

「それと秋葉山本宮に奉納されている夥しい数の刀剣の、端緒を切り開いたのもひょっとしたら義定公だったんではないかとさえ、想っています」私が思いきってそう話すと、小澤さんは、

「ホウ、それはまたどのような・・」と言って、私にその根拠を示すように促した。

 

「ご存知だと思いますが、秋葉山本宮には三本の国宝に成ってる刀剣がありますが、その中で最も古いといわれているのが『安縄(やすなわ)』という古備前の刀剣でしてね・・。その『安縄』の制作年代が、丁度平安末期から鎌倉時代初頭と云われてまして、時代が符合するんですよ義定公と・・。
 
しかも義定公は十四年間の長きにわたって遠江守を続けていた。そしてその当時すでに修験者の坊が秋葉山の神社近くに沢山在った、と云う事ですよね。

義定公は実は修験者とのパイプを割と持っていたようなんですね、甲斐之國の大菩薩嶺辺りの修験者たちと、ですが・・。それに・・」私はそう言って、手元のお茶を飲んで喉を湿してから、話を続けた。

「これは秋葉山本宮下社の祢宜さんに教えてもらったんですが、十二月の『秋葉の火祭り』のメインイベントである『火の舞』を舞われる『ねぎや』が雲名の市川さん、とおっしゃる元神官の方の事ですが・・」私がそこまで言うと、酒井さんが、

「ほの通り、雲名の『ねぎや』市川さんが『火の舞』を仕切ってるだよ。よく知ってるだね・・。尤もその市川さんも今では、勤め人に成って宮司の方は辞めなさってるようだよな・・」と肯きながら、呟くように言った。

 

「そうでしたか・・。そうすると市川さんは神職は廃業されて、伝統の『火の舞』の儀式だけを継承なさってるんですね・・。そういえばこちらの南宮神社の酒井さんも同様で、廃業されたとか・・。なかなか厳しいものですね・・」
 
私はそう言いながら、去年訪れた新潟の糸魚川市能生町の「槙、金山神社」でも同様のことがあったことを思い出した。
同神社の宮司を長年務めていた、金山衆の末裔と思われる通称「金山さん」の家も、同様の理由で勤め人に成ったことから、今では宮司を廃業されていたのであった。

「その市川さんは、伝承によると『鎌倉時代に権現様と一緒にやって来た家』だと、そういう言い伝えが本宮神社には残っているようでしてね・・。本宮下社の守矢禰宜さんが教えてくれました。

実はその市川さんのご先祖は、ひょっとしたら義定公と共に駿河平氏の橘遠茂と相模の俣野景久の連合軍を打ち破った、『市川別当行房』の一族の者ではないかと、これはまだ確かめてはいない閃きレベルの話なんですが、その可能性もありましてね・・。

結構義定公と秋葉山神社との間には繋がりが考えられるんですよ・・。きっかけは家紋でしたけどね・・」私はあくまでも閃きレベルである事を強調して、一気に話した。

 

「雲名の『ねぎや』の市川さんがかい・・。ほの安田義定とかいう武将の家来だったってコンかい?」酒井さんが私の話を聞いて、そう言った。

「『市川別当行房』の一族の可能性があるかもしれないと、まぁそんな風に閃いたレベルの話です。まだまだ検証もしていません・・。

因みに市川行房はその名が示す通り修験者の寺坊の別当で、武士ではありません。甲斐之國八代郡の市川郷に居た修験寺の別当だったようで、ここでも義定公と修験者との繋がりが確認できるんです。

その『市川別当行房』は、後に治承四年の時の功績で地頭に取り上げられ、頼朝の御家人に成って修験者の別当から、武士に成ったようですがね・・」私は市川行房について、そのように補完説明をした。

 

「なるほど、立花さんが秋葉山本宮に関心を持つようになったきっかけは『家紋』だったわけですね・・。それがご縁でこうやって山深い北遠の春野町の神社や仏閣にも関心を持つように成られた、とそう云う事なんですね・・」小澤さんは感慨深そうに、肯きながらそう言った。

「そうなんですよ、実はその家紋のおかげで、先ほども瑞雲院で『剣花菱紋』を確認してきましてね、どうやら瑞雲院もまた秋葉山神社同様に、義定公に縁りのあるお寺だった可能性はあるんですよ・・」私がそう言うと、小澤さんが

「ん?瑞雲院は確か『三ッ葉葵』が寺紋でなかったですか?」と、疑問を呈して来た。

「ァはい、おっしゃる通り『三ッ葉葵』ですね、少なくとも現在の曹洞宗に成ってからは、ですが・・」と私が言うと、小澤さんは

「と云いますと?」と更に詳しい説明を求めて来た。

 

「先ほども言いましたが、家康が遠州を傘下に収めた際に遠州では大規模な宗教改革が進んだようでしてね、瑞雲院も家康の宗教改革が行われるまでは、真言宗の古刹として犬居郷では重きをなしたお寺であったようですね、丁度神社における秋葉山神社のような位置づけで・・」私がそう説明すると、

「瑞雲院の寺紋が『三ッ葉葵』に成ったのは家康公が天下統一をしてからだった、っちゅぅコンかい?」酒井さんが、そのように確認して来た。私は大きく肯いて、

「ハイ、その様です・・」と短く応えた。

「立花さんがそう思われたのには、やはりそのぉ何かきっかけを掴んだからなんですか?」と小澤さんが、興味津々といった顔で私に聞いて来た。私はニヤリとして、

「おっしゃる通りです。ここでも決め手に成ったのは寺の家紋である『寺紋』だったんですよ・・」と言った。

 

「ほう・・」と言いながら小澤さんは私の次の言葉を待った。

「瑞雲院には浜松市の指定文化財に成っている山門である『楼門』が在りますよね。その楼門ともう一つ、立派な鐘撞き堂の『鐘楼』とが在りますよね?ご存知かと思いますが・・」私がそう言うと二人とも大きく肯いた。

「この二つの歴史的建造物といってよい建物に、いずれも『剣花菱』が確認出来たんですよ」私は昼前に確認して来たばかりの犬居の瑞雲院の話をした。

「えっ⁉」と唸るように、小澤さんは反応した。そして何かを思い出すかのような顔をした。瑞雲院の二つの高楼の記憶を辿ったのかもしれなかった。

 

私は先ほど瑞雲院で撮って来た画像を二人に見せることにして、タブレット端末をバッグから取り出した。私が「楼門」と「鐘楼」の画像を見せ、「剣花菱紋」が残っている箇所を拡大して見せると、二人はしげしげとそれらを見て、腕を組んで押し黙った。

「瑞雲院の『剣花菱紋』を確認して私は、やはり義定公の痕跡を観た気がしましてね、そしてついでに秋葉山本宮に残る社紋との関連性を考えてみたわけです。

その上で義定公の『花菱紋』がこういう形で残っている、春野町犬居郷の古刹である『瑞雲院』と『秋葉山本宮』は、神社・仏閣を大事にしてきた義定公の支援を受けて来たのではなかったか、とですね・・そう考えたわけです。そしてその考えの根拠にしているのが・・」私がそこまで言うと、小澤さんは、

「『剣花菱紋』というわけですか・・」と呟くように言って、目をつむった。

「おしゃる通りです。ポイントは両所に残る社紋と寺紋です。それから秋葉山本宮で云えば国宝の古備前派の刀剣『安縄』であり、瑞雲院で云えば遠州では珍しいとされている立派な山門の『楼門』と『鐘楼』なわけです。更には瑞雲院の山号が『秋葉山』である点にも納得がいくわけです」と、言い切った。

 

「『楼門』や『鐘楼』も安田義定と関わってくるだかい?」酒井さんが聞いてきた。

「あはい、そうです。先ほども言いましたが、義定公は遠江守の重任を認めてもらう代わりに八坂祇園神社の『西楼門』『南楼門』や、伏見稲荷大社の『南楼門』を建て替えたり造営したりしてましてね、楼門に関する知識や経験を十分持ってるんですよ・・」と義定公が京都の二つの著名な神社で、すでに楼門の造営に関わっていることを話した。

「実はそう言ったことがありまして、こちらの南宮神社にも大いなる期待をもってやって来たんですがね・・」私がそう言うと、酒井さんは

「南宮神社も『三つ葉葵』だな・・」と呟きながら、私の眼をジッと観た。私は酒井さんを始め、小澤さんもまた「南宮神社」についての私の考えを聞きたがっているのだろうと感じて、話を始めることにした。

 

 
 
 
 
         
        三つ葉葵紋          南宮神社秋の大祭の屋台         かたばみ紋
 
 
酒井氏の家紋「酢漿草(かたばみ)紋」と、松平徳川家の「三つ葉葵紋」はよく似ているデザインであるということが出来るが、一説によると松平家は酒井氏から分かれた支流であるという。その辺りに家紋の類似性のルーツがあるのかもしれない。
 
 
 
 
 
 

 犬居郷の金山衆

 
 「その南宮神社なんですけどね、実はこちらに来る前に立ち寄って来たところでして・・」私はそう言って小澤さんと酒井さんの顔を見てから、話を始めた。
「南宮神社に私が関心を持ってるのはですね、一つにはこの犬居郷気田地区の産土神というかこの集落の鎮守様であるという点が在ります。
それと同時にですね安田義定公にとって領地・領国経営の主要な柱である金山開発に、繋がる大事な神社でもある可能性があったからです」と私が言うと、酒井さんが、
 
「金山の開発、ってかい?」と驚いたように言った。
「ァはいその通りです。金山の開発です。義定公は甲斐之國の本貫地での黒川金山の開発を手始めに、富士山西麓での富士金山開発、更には遠州では森町の三倉エリア、そして嫡子安田義資公の領国でした越後之國の糸魚川などで、いずれも金山開発を行ってましてね・・」私がそう言うと二人は黙って、私の次の言葉を待った。
 
「義定公は騎馬武者用の軍馬の畜産や育成にも力を入れてたんですが、それと共に金山開発が主要な産業でもあったわけです。そしてそのような荘園から上がる農業収入以外の大きな副収入があったから、領地・領国に沢山の神社や仏閣を建立出来たり、数々の神事やお祭りへの支援やバックアップが出来たんだと思います・・」私がそ言うと、小澤さんが
「具体的に、南宮神社がその金山開発に繋がると考えたのはどのような根拠と云いますか、理由があったんですか?」と私に聞いてきた。
 
 
「そうですね、一つは祭神です「金山彦」の事ですね。それにご存知なように南宮神社そのものが金山彦や十一面観音を祀っている神社ですよね。確か本宮は岐阜に在ったと思いますが・・。それが第一ですね。
 
次に気田川を越えた橋向うの集落の名前が『金川(きんかわ)』と云いますよね、それもまた金山開発に絡んでくるんです。私の推測では気田川と杉川とが合流する場所である、この金川地区はかつて『川金』が採取されたんだと思いますよ、それこそ義定公が國守と成って遠州を治めた頃の事ですがね・・」私がそう言うと、酒井さんが
「『川金』ってのは川底に、金が在ったちゅうコンかい?」と興味津々といった風に言った。
 
「ァはいその通りです。北西の山から流れてくる気田川と北方からの杉川とが合流する地点だから、そう云う事があったんだと思います。だから『金川』の地名が付いたんだと思います。ご存知だと思いますが金は非常に重量の思い物質ですから、こういうことはよくある事なんです。
 
現に糸魚川市能生町を流れる能生川の中流にも同様のことがありましてね、そこは『金堀場』という場所なんですが、その『金堀場』のすぐ近くの小高い場所に『槙、金山神社』という金山彦を祀る神社が在りましてね・・」と私が説明すると、酒井さんが
 
「ほこも二つの川が一緒に合流する場所だっただ、かい?」と聞いてきた。
 
「そうですね二つの川が合流してチョッと下った場所でしたね、川が大きくカーブする場所の一端でもありました。
更に大事なことなんですが、その能生川の上流に二つの金鉱石が採集できたと思われる山が在ったんです。『金(かな)山』と『裏金山』という2000m級の山で、川を溯った妙高山系に在るんですがね・・」私がそう具体的に説明すると、小澤さんが、
 
「沈澱していた川金の源が川を溯った場所に在る、ってことですか?」と私に聞いてきた。
「おっしゃる通りです。
気田川を観ても杉川を観ても後背地は共に南アルプスですよね、私はこの二つの川を溯れば必ず金鉱石が産出できる鉱脈や金鉱山がかつては在っただろうし、今も尚在ると、そう想ってます」と断言した。
 
 
ちょっとした沈黙があって、小澤さんが呟くように、
「やはり南宮神社や金山神社が在ると、そういった様な可能性があるんですかね・・」と言った。私が大きく肯くと小澤さんは、興味ぶかい話をし始めた。
 
「実はですね立花さん、気田川を溯った先の富岡地区に『勝坂』というちょっとした集落が在るんですよ。そこの八幡様の『勝坂八幡神社』は、かつて『南宮神社』だったのを江戸時代に『八幡神社』に名称を変更したという伝承がありましてね・・。
 
かなり荒廃していた『南宮神社』を、気田川の川向こうから現在地に遷宮して、新しい神社を造築した時に、当時の神社造営のスポンサーの意向で名称も変更した、と云う事らしいんですよ。『八幡神社』にですね・・。
 
今の立花さんのお話の通りだとすると、ひょっとして勝坂近郊でも金が採集された、ってことが考えられるんでしょうかね・・」とゆっくりと私に確かめるように話した。私は大きく肯いたうえで、
 
 
「気田川の上流に南宮神社が在ったとすれば、その可能性は高いですね、かなり・・。
因みに金山(かなやま)衆は金山開発を行う場所では、必ずといって良いように『金山祭り』を行い、金山彦を祀る神社を建立するんですよ・・。
 
そしてその理由はですね、金山開発が常に落盤や水没のような水害の危険を伴う開発だから、なんですね。安全を祈願するわけです神様に・・、それも相当真剣にです。何と言っても命がけの仕事ですから、金鉱山の開発は・・。
 
更にはですね、金鉱石の採集と云うのは当たり前ですけども、無尽蔵ではなくって鉱脈が枯れると、その時点で作業が終わってしまいますから非常に不安定なんですよね。将来が約束されて無いわけです。
 
ですから彼らは神仏にお願いするんです。これまで金が採集出来たことに感謝しつつ、これからも引き続き金が採集されますように、ってですね・・」私がそのように説明すると二人はある程度納得してくれたようで、話を噛み締めるかのように何回か肯いた。
 
 
「それにどうやら春野町には幾つか金山開発が行われた場所が在るようでしてね。たぶん春野町の金山が産出された場所は、森町よりは数が多かったんじゃないかと思います。連山が周囲をかこってますからね・・」と私が言うと、二人は具体的な場所を聞きたいような顔をして私を観た。
 
「ァはい具体的にはですね、先ほども出ましたが大時の八坂八幡神社もそうですね。近くの『白倉』という場所から金山神社を遷宮し、明治維新の頃に合祀しているようでしてね。
他に秋葉山本宮下社横の『六所神社』にも金山神社が合祀されていて、それはどうやら『領家金谷』という同じ領家地区の場所から遷宮して、合祀しているようですね・・。
そのほかにもまだ2・3か所あるようですね・・」私はメモ帳のメモで確認しながら、春野町に点在する金山神社の事を話した。
 
 
「へぇ~、ところで今じゃもう金は採り尽くしてるんかい?」と酒井さんがニヤリとしながら聞いてきた。傍らで小澤さんも目を細めていた。
「いや、採り尽くしたってことは無いと思いますよ・・」私もニンマリして応えた。
「ほぅ~」と言いながら、酒井さんはその先を聞きたいような顔をした。
 
 
「金の採集って金鉱山を突き止めてその鉱脈をすべて掘り尽くしたとしても、また改めて発見されることがあるんです。たとえ同じ山であっても違う場所に鉱脈が在ったりするとですね・・。自然の力に依ってなんですけどね。
 
山崩れがきっかけに成る事もあるかもしれませんし、大雨で今まで地下に眠っていたものが、地表に出て来たりとかですね・・。そしてそれらがまた雨によって川に流れ出したり、って事がよくあるようですからね。
 
結局は人間の力なんて、自然の前ではまだまだですからね。知ってる事より判らない事のほうが沢山ありますし・・。実際北海道のかつての金の採集が行われた場所なんかでも、数百年後にまた新たな採集場所が発見されたりしてるみたいですからね・・。
 
それにかつての松前藩の時代の採集場所や、明治に成ってからの金採集ブームが終わってしまった場所であっても、今でも時折採れることはあるようですよ・・。
 
ただしかつてのように生活出来るほど沢山採れるかというと、さすがにそこまでには至ってないようですがね。だから酒井さん、趣味や遊び程度だったら金川の合流地点でも、採れる可能性はあるかも知れませんね・・」私はそう言って、ニヤリとした。二人とも同様にニヤ二ヤとした。
 
 
「ところでそのほかに、南宮神社で気づいた事って何かありましたか?」小澤さんが聞いてきた。その表情は先ほどよりは穏やかに成っていた。金採集の話が効力を発揮したのかもしれなかった。
「そうですね、私自身は南宮神社は義定公配下の金山衆が関わった神社と想ってますが、どうやら本来の場所は、現在の場所とは違ったんじゃないかって想い始めています・・」私がそう言うと小澤さんは、
「ほぅ、そうですか・・」と言いながら興味深そうな目で、私の次の言葉を待った。
 
「えぇ実はですね一つは神紋の三ッ葉葵もそうなんですが、ご神木と成ってる『イチイブナ』の樹にしても歴史が浅いように思われるんですよ。
 
あの幹の太さだと、とても義定公たちの時代である800年前の鎌倉時代にまでは遡れないんですよね、どう見ても。せいぜい数百年かな・・」私がそう言うと小澤さんは、
 「室町末期とか江戸時代までしか遡れないのではないかと・・、そうお考えですか?」と確認して来た。私は大きく肯いて、
 
「確か室町末期の戦国時代に犬居郷は、武田信玄のバックアップを受けた領主天野氏と浜松城の家康の間で、かなり激しい攻防が繰り広げられたと・・。で、その時に瑞雲院も家康軍によって焼かれた、という歴史を辿ってるようですね・・。
 
それと同じことが当時犬居郷気田の産土神社で、この小高い丘に鎮座していた南宮神社にも起こったんじゃないか、とですねそんな風に考えているんですよ・・僕は」私はそう言って二人の顔を観た。
 
 
「家康の攻撃で焼失した後に建てられたから、南宮神社では三ッ葉葵紋が神紋にも使われるように成ったんじゃないかって、ですね。ちょうど瑞雲院がそうであるように・・。そう思ってるんですよ・・。
そしてそのタイミングで神主も金山衆の関係者から、酒井氏一族に入れ替わったんじゃないかと、ですね・・」私は酒井さんをチラリと見ながらそう言って、話を続けた。
 
「ほう、因みに・・」小澤さんはその理由を尋ねるように、そう短く言って私をじっと見つめた。
「さっき言った歴史的な経緯や、神紋や宮司さんの事の他にですか?」私がそう確認すると小澤さんは肯いた。傍らの酒井さんも横で肯いた。私の推測だけではなくもっと何か具体的な根拠のようなものが知りたい、と彼らは想っているようだ。
 
 
 
「そ~うですね僕にとって決定的だったのは、神殿や神社に在る石垣や石組みを観た事ですかね・・。とても稚拙なんですよ、現在の南宮神社の石組みや石垣は。
今の南宮神社のそれらを確認して、これらはとても黒川衆や金山衆の仕事だったとは僕には思えないんです・・。
 
黒川衆にとって、先ほども言ったと思うんですが、神社はとても重要な存在なんですよ。ですから神社を建立する時に、彼らは相当の思いを込めますし、同時に相当のプライドを持って造るわけです。百聞は一見に如かずなので・・」私はそう言って、バックの中からタブレット端末を取り出した。
 
「これはですね、先ほど話しました越後之國糸魚川能生町の『金堀場』近くの『槙、金山神社』の神殿の石組みです。・・どうですか・・」私はそう言って精緻で流麗な槙、金山神社の神殿の石組みを二人に見せた。
更に「宜しいですか」と言ってから、甲州鶏冠(とさか)山の黒川金山奥宮に至る、黒川衆が造った石垣の山道の画像を何枚か二人に見せた。
 
 
          
             鶏冠山奥宮への登山道の石垣    糸魚川能生町「槙、金山神社」神殿の石組み
 
 
 
「因みにこの山道の石垣は、黒川衆の本拠地の鶏冠山の山頂に祀る『鶏冠神社奥宮』に向かう登山道の石垣です・・。どうですかかなりしっかりと造られているでしょ・・。
更にこちらはですね、ご存知だと思いますが秋葉山本宮上社の神殿の石垣です
 
私はこの秋葉山本宮の神殿の石組みは、たぶん黒川衆が手掛けたんじゃないかとそう思っています。・・どうですかこれらを比べてみて・・。残念ながら南宮神社の石垣はスカスカでしょ・・」私はそう言って再び彼らの顔を観た。
 
「 金山衆が造った神殿の石組みや石垣と、こちらの南宮神社のそれとでは明らかに造り手の技量が違うと思いませんか?」私はそう言って二人に迫った。
「ん~ん」と唸るようにそう言って、二人は腕組みをして押し黙った。
 
「仮に立花さんが言われるように、現在の南宮神社が江戸時代の初期に徳川家にちなんだ人達によって建て替えられたとしたら、どんなことが推測出来るんですか?」小澤さんは興味津々というように、聞いてきた。酒井さんも私を注視した。
 
 
「いやぁさすがにまだそこまでは・・。
ただひょっとしたらと思われるのは、瑞雲院の例が参考に成るかもしれないな、と思ったりもします。確か瑞雲院は家康軍に焼き払われた後、以前在ったとされる今の犬居小学校辺りから、現在の『駒形稲荷神社』の脇に移ったと云う事でしたよね・・。
 
それとですね南宮神社の境内がとても小さく狭いように僕には感じられるんですよ、現在の神社の規模がですね・・。犬居郷の鎮守としてはとても貧弱ですよね、相応しくないというか・・。
ひょっとしたらですが、現在気田小学校に成っているあの広い場所はかつて南宮神社の山内というか、境内だったんじゃないかとですね、まぁそんな風に思わなくもないんです・・。
 
さらに言えばですが、明治維新後の当時の浜松県が、推し進めた磐田見附の『淡海國玉神社』脇の小学校もそうなんですが、森町大久保の小学校と同様に神社の境内を活用して小学校を創ったりしてるんで、まぁ今の気田小学校の辺りが怪しいかな・・。とかですね・・」私がそう言うと、小澤さんが、
 
 
「文化遺産に成ってる『旧見附小学校』の事ですか?」と聞いてきた。
「確かそんな感じの名前です。明治初期の当時では珍しい洋館風のしゃれた小学校でした・・」私は記憶をたどりながら、そう言って肯いた。
 
「石垣や石組みが金山衆の創建であったかどうかの、証拠というか判断材料に成るんですか・・」小澤さんが自分に言い聞かせるように、そう言ってしばらく考え込んだ。
 
「そうですね、石垣の造営や石組みは彼らの本業ですからね・・」と私が言うと、小澤さんが新しい情報を教えてくれた。
 
 
「そういえば先ほど来話題に成っている大時の八坂神社近くに、すごい立派な石垣が在るんですよ。因みに立花さんはこれまで、大時に行かれた事はありませんでしたか?」と小澤さんが私に聞いてきた。
 
「いや、大時にはまだ行ってません。実は今日この後、大時に行ってこようかと、そう想ってるんです・・。
その大時の八坂八幡神社にですか?因みにどんな風に立派なんですか?その石垣は・・」私が尋ねると小澤さんは、記憶をたどるように、
 
 
「何と言ったらいいんだろう・・。普通の民家なんですけどね、坂道に沿うように石垣が造られていてとても立派なんですよ。イメージでは舟の先端部分のような、というか・・」と説明してくれた。
 
「先っぽが尖ってるんですか?」私が具体的に聞いてみると小澤さんは、
「そうです先っぽが尖っていてしかも坂を下る方向に逆らうように先端部分が上に向かって反り返ってるんですよ・・」と応え、
 
「ん~んと、お城の櫓(やぐら)のような感じですか?」
「おぅ!そうです。まさにその通り!!」と言って、小澤さんはようやく自分の記憶と合う言葉を、見つけたというように反応した。
 
「なるほど大時にはそんな家が在るんですか・・。例の右馬尉兼吉と、その家がどう関係しているのか判りませんが、興味ありますね・・。
ひょっとして小澤さんはその立派な石垣の家が金山衆にも関係してるのかも、って思われたんですか?」私がそう尋ねると小澤さんは、ニヤリとしてゆっくりと肯いた。
 
「なるほど、そう云う事でしたか・・。そう言えば大時の八坂八幡神社は明治の初めに、近くの白倉地区に在った金山神社を合祀した、という歴史があったんでしたよね・・」私は自らに確認するように、そう呟いた。
 
 
「実は僕はこの後、『和泉平』『花島』『大時』『胡桃平』といった、自分が勝手に『牧き場街道』と呼んでいる、春埜山西麓の県道389号線沿いの集落や神社を訪ねてこようかと、そう思ってましてね・・。
そしたらその時にそのお城の櫓のようなと云う石垣も、ぜひとも観て来ようかと思います・・」
 
私はそう言ってタブレット端末を操作して、大時周辺の地図を指し示し、小澤さんに向かって聞いてみた。
「この地図で云うと、どの辺りに成るんですか?その立派な石垣の在る家は・・」
 
小澤さんはその地図を見て、最初に八坂八幡神社の所在地を確認すると、次に神社の東側を指し、さらに南に下る道路を確認して言った。
「ん~ん、大体の感じでここら辺に成りますかね・・。たぶんここらに行けばすぐ判ると思いますよ、神社の周りには10軒も無かったと思いますから。確かこの南側に行く道路沿いの家の一つだったと思います・・」小澤さんはそう言って、私に丁寧に教えてくれた。
 
 
「ところで小澤さんよ、南宮神社ってなぁ確か戦国時代の終りっ頃に、高野山の南宮神社から勧進したってコンじゃなかっただかい?儂はほんなフーに聞いてるだどもな・・」と、酒井さんが呟くように言った。それを聞いた小澤さんは、
 
「確かにそう言った伝承はあるようですが、高野山には南宮神社の存在が確認できてないんですよ、残念ながら・・。ですから私は高野山よりも、飛騨の國一ノ宮神社の南宮大社のほうが、むしろ納得いくんですけどね・・。
 
ご存知なように南宮神社は北遠では佐久間町に在ったり、隣接する奥三河に分布してる神社でしてね・・。マァ三・遠・信のそっちから流れてきた可能性もあるわけです。
飛騨⇀尾張⇀奥三河⇀北遠ってルートでね。ですから私は高野山よりそっちのルートだったんじゃないかって・・」小澤さんはそう言って、伝承の高野山よりも飛騨の南宮大社の流れでやって来たと、そう考えているようであった。
 
 
私はそれを聞いて、
「気田の南宮神社が造営されたのは、戦国時代末期と云う事に成っているんですか・・。因みにそれは徳川家康と犬居郷の天野氏が戦いを繰り広げた前ですか?それとも後の事ですか?」と二人に聞いてみた。
 
「確か天正14年頃だったと思いますから『長篠の戦い』の後ですね。家康との戦いに敗れた天野氏が、甲州の武田勝頼を頼って逃げた後の事だと思います。天正3年ですからね、武田軍を織田と徳川の連合軍が打ち破った長篠の合戦は・・」小澤さんがサラリと応えた。
 
「なるほどですね、長篠の戦の10年後ですか・・。要するに家康が遠州を支配下に置いた頃の話になるんですね、その高野山南宮説は・・。ん~ん、ちょっと怪しいですね。
それにやっぱり犬居郷の中で気田だけが『金山神社』ではなくって『南宮神社』って云ってるのも、何となく引っかかるんですよね僕は・・。
 
ァさっき言ってた気田川上流にも、八幡神社に改称された南宮神社が在ったんでしたっけ・・」私がそう言うと、小澤さんが、
「勝坂八幡神社ですね、気田川を溯った・・」と教えてくれた。
 
 
「そうでしたか・・、いャありがとうございます。いずれにしても飛騨に本拠地があって、奥三河や北遠の佐久間町辺りに南宮神社が散在しているとすると、やはり家康の匂いが何となく感じられませんか?
何と言っても三河は家康の本拠地ですからね・・」
 
私はそう言って小澤さんの飛騨の南宮大社説に同意を示しつつ、家康の宗教政策によって「金山神社」が「南宮神社」に替えさせられたのではないか、との考えを述べた。
 
「まだまだ確認しなければいけないことは沢山ありそうですが、僕の抱いた仮説も頭の片隅に置いてみてくださいませんか・・。
現在の気田南宮神社は、ひょっとしたら鎌倉時代の初頭に安田義定公の配下であった金山衆が、金川地区で見つけた川金がきっかけで造られた金山神社であったかもしれない、とかですね。
そしてこの金川の気田を拠点に、気田川や杉川の上流での金山開発を行ってたかもしれない。先ほどの勝坂の旧南宮神社の存在が、僕にはそう言った妄想を抱かせるんですよね・・。
 
更にそれを現在の南宮神社に替えたのは、瑞雲院と同様に三河出身の徳川家康の遠州における宗教政策であったかもしれない、と云った事をですね。まぁそんな妄想じみた事を言ってる人間がいると・・」私はそう言って、ニヤリとした。二人は沈黙して、少し何かを考えているようだった。
 
 
暫くして私は、時計を確認してから言った。
「ちょっと話が長くなりまして、申し訳ありませんでした。そしたらぼちぼち・・」と私が言いかけた時、小澤さんが、
 
「立花さん、これから大時方面に行かれると云う事でしたが、今日の最終地点はどちらに成るんでしたか?」と聞いてきた。
「あ、今日ですか?今日は浜松の中心部というか駅の近くです。JR浜松駅の・・」私がそう応えると、小澤さんがニコリとして、
 
「立花さん、申し訳ないが私を浜松まで乗っけて行ってもらえませんか?その代わりと云っちゃなんですが『花島』や『大時』をご案内しますよ。それに先ほどのお城の櫓のように立派な石垣も・・」と言ってニヤリとした。続けて、
 
「実は私今日浜松でちょっとした寄り合いがありまして、浜松に行かにゃならんのですが、最近目の調子が悪くって自分での車の運転は控えてましてね。そうしてもらえると、とても助かるんですが・・」そう言って私に頭をぺこりと下げた。
 
「あぁそうでしたか、浜松駅辺りに送るだけで良ければ構いませんよ。もう一度春野に戻るという事だと、ちょっと難しいですけどね・・。
それにお城の櫓のような石垣是非とも観てみたいですね、ひょっとしたら金山衆に関わる家の石垣かも知れませんし・・」私はそう言ってニヤリとした。
 
「いやぁ、申し訳ないです。そうして頂けるととてもありがたい。助かります・・」小澤さんはもう一度そう言って、深々と頭を下げた。
 
二人のこれからの事が何とか見えて来たので、私達は早速酒井さんの家をお暇(いと)まして、小澤さんの家に立ち寄ることにした。小澤さんの荷物を取りに行く事にしたのだ。
 
 
酒井さんと奥さんにお礼を言って私達は狭い生活道路に入って、小澤さんの自宅にと向かった。車中で小澤さんが、私に
 
「ご存知なように、南宮神社の宮司であった『ねぎや』は酒井氏ですからね・・。あまり微妙な話は出来ないかと思いましてね・・」そう言って、私と一緒に大時経由で浜松に行くことをお願いしたんだと、打ち明けてくれた。
 
どうやら小澤さんはもう少し私と情報交換をしたいと想っているようだ、と私は感じた。私はむしろウエルカムだったので、
 
「いや旅は道連れと云いますし、この前熊切川から牧野に向かった時鬱蒼とした山の中で、ちょっと心もとない思いをしましてね・・。それに県道389号線は尾根伝いの道路のようですし・・。実は僕も助かるんですよ地元の方が一緒だと・・」そう言って何でもない、むしろ大歓迎だと小澤さんには話した。
 
更に小沢さんは、私に新たな提案をした。
「先ほどお話した勝坂の八幡神社、ご覧になりませんか?ご興味があれば、ですが・・」
「そうですね・・。どのくらい時間がかかりますか?」私が尋ねると、
「往復で1時間くらいですかね・・」小沢さんが応えた。
 
「そうですか、まだ日没には時間ありそうですかね?それから大時に行っても・・」私が確認すると、
「多分大丈夫です。秋や冬だと早いですが、これから夏至に向かう時期ですからね・・」小沢さんがそう言われたので、私は同意した。私たちは大時に向かう前に、勝坂の元南宮神社に向かうことにした。
 
 
       
 
       【 春野町の「金山神社/南宮神社」一覧 】
 
 

神社名

所在地

祭神

    備      考

金山神社

大時、合祀以前:白倉

金山彦命

大時八坂八幡神社に合祀

金山神社

砂川、合祀以前:嶺沢頭白倉

 

 砂川八坂神社に合祀

金山神社

堀之内、谷地

 

 

金山神社

領家、合祀以前:金谷

 

領家六所神社に合祀

南宮神社

気田

 金山彦命

 

南宮神社

勝坂

 

勝坂八幡神社に名称変更

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
     
 
             *『春野町社寺棟札調査書』を基に、筆者が加工、作成
 
 
 
 
 
  
 
 
 

 犬居郷勝坂の井出氏?

 
小澤さんの家を出た私達は、気田地区と金川地区を繋ぐ橋を渡り「金川稲荷神社」に向かう坂道を上り切り、そのまま隣接する篠原地区に入った。
 
篠原地区は先ほど酒井さんが教えてくれた秋の南宮神社の大祭の際に、山車を出すと言われた幾つかの集落の一つで、気田の南宮神社からすれば北側にある「金川稲荷神社」の更に北方に位置する「若宮神社」を祀っている集落である。
 
国道362号線沿線にはその山車=屋台を格納している、背の高い大きな倉庫があった。私は運転しながら傍らの小澤さんに、
 
「遠州では屋台が盛んですね。森町の各地区や飯田地区にもこのような屋台の格納庫がたくさん在りましたね・・」と言うと、小澤さんは
「そうですね森町の屋台も有名ですがここ春野町も、お祭りといえば何と言っても屋台ですからね・・」と言ってニヤリとした。
 
 
篠原の集落を過ぎると小澤さんが、
「もうちょっとすると左手に入って行く県道が見えるんですよ、そこを左折してください。ちゃんと道路標識もあります『勝坂の神楽舞』の案内と一緒に・・」と教えてくれた。更に
「そこから1㎞ほどのトンネルを通って行くんですが、そのトンネルは狭くって車一台が通れるくらいの道幅でしてね・・」と説明した。私はちょっと慌てて、
 
「えっ!対向車が来たらどうするんですか?」と聞き返すと、
「たぶん大丈夫だと思います。一つは交通量が非常に少ないんですよ、ですから運が悪くなければ問題ありません。それとほぼ真ん中ら辺に車の退避スペースが在りましてね、そこに潜り込めばやり過ごすことは出来ます。まぁ、運が悪かった場合ですけどね・・」小澤さんは何でもないと言いながらも、運が悪ければを連発した。
 
 
そのような会話をしていると程なくして勝坂方面に分岐する交差点に着いた。交差点は「小石間」という名称だった。
「ここの交差点を左折してください・・」小澤さんはそう言った。
 
左手に大きな看板が在り「獅子舞神楽の勝坂まで8㎞」といった様な事が書かれていた。
そのまま進み「小石間隧道」と書かれたトンネルに入る前に小澤さんが、
「トンネルではライトをアッパーにしておいてください。早めに対向車にこちらの存在を知らせておくことも、大切な事なんですよ・・」とアドバイスしてくれた。
 
「確かに・・」私はそう言いながら、車一台しか通れないという道幅の狭いトンネルに入って、ちょっとスピードを上げ、ライトも上向きに点灯した。
私達は運よく対向車には遭わないまま、トンネルを抜ける事が出来た。トンネルの半ば辺りには左側に自動車3・4台は駐車出来るかもしれない、と思われる退避スペースが在った。
 
しかしこのスペースにたどり着く前に対向車に遭遇したら、そのまま後ろ向きで来た道に向かって走行しなければならないと考えると、対向車に出くわさなくて良かった、とつくずくそう思った。
 
 
1㎞程のトンネルを抜けると、眼前に流れの速い川が現れた「気田川」であった。先ほどの気田川の上流である。
周囲は山が間近に迫っていてその山の間を縫うように川が流れており、その川が侵食したエリアに沿う形で、県道389号線が信州長野との県境の南アルプスに向かって、延びていたのである。
 
私が「大時」地区の県道と同じ番号であることを確認すると小澤さんは、この県道389号線は森町辺りから尾根に沿うように造られた道路で、「信州街道」の裏街道の様な位置づけだったのではないかと言い、かつての修験者達の道だったのかもしれないと仮説を述べた。
 
殆ど人家の無い川沿いの県道を溯って行くと、小澤さんが、
「実はですね立花さん。立花さんにぜひとも見せたい「岩石の塊」というか「石舞台」の様に巨岩が集まってる場所があるんですよ。これから行く勝坂の集落の入り口と云って良い場所なんですけどね・・。
 
『勝坂八幡神社』にももちろんご案内しますけども、その巨岩の集積もぜひ見てもらって、立花さんの感想というかご意見というかを聞いてみたいと、そう思いましてね・・」と話し始めた。
 
「ほう!巨岩の集積ですか・・。石舞台のようでもあると・・」私がそう言って関心を示すと、小澤さんは大きく肯きながら、
「これは全くの閃きなんですが、先ほど来の南宮神社と甲州金山衆でしたか、黒川衆でしたかその石垣や石組の高度な技術を持った土木集団と言いますか、その人達の話を聞いていてひょっとして彼らに関係した石の構造物かも知れない・・。
とまぁそんな風にちょっと思いましてね・・」そう言って、小澤さんは黒川衆の関係した石の構造物であるかもしれないと、インスピレーションしたことを打ち明けた。
 
「そうですか、それは楽しみですね・・」私はそう言って、これから小澤さんが案内してくれるという、勝坂の集落入り口に在る巨岩の集積への期待感を高めていった。
 
 
しばらく急流に沿うように県道を溯って行った。途中集落らしい集落は殆ど無く、さすがにこのような山峡であっては、なかなか集落の形成には至らないのだろうと、納得しながら運転していた。
 
とはいえ数分走っていると川が大きく蛇行し、やや広めの平坦地の在る場所に到着した。
そこでは田んぼや畑が集落と河川の間に、一定の面積認められた。小澤さんの説明では「富岡地区」の拠点で、「植田」という集落だという事だ。
 
その集落を通過して、水力発電所が正面に見え始めた場所で左手の気田川の本流に合流する河川が右上から流れて来た。「石切川」というらしい。
その名称の「石切」にちょっと興味を持ったが、私達はそのまま「石切川」に架かる橋を渡り、更に気田川の上流を目指した。
 
そのまま気田川に沿うように山狭の細い道を7・8分ほど溯って行くと、目線の先に集落が映った。先ほどの「富岡植田地区」に比べて空間的な広がりも乏しく、集落の戸数も明らかに少なかった。その時小澤さんが
 
「あそこです!」と言って、周囲が樹木に覆われ薄暗くなっていて、道路の脇が多少広めに成っている場所を指さした。
私は車を減速し、その巨きな岩石の塊の集積場所の手前に在る、空き地に車を停めた。
 
 
車を停めて近づくと、確かにその岩石の集積場所はちょっとした石舞台のような構成に成っていた。1m~1.5m程度の巨きな立方体の岩石を中心に、大小の石を組み合わせて小さな区画を造っていた。2・30坪もあっただろうか・・。
 
そこには石舞台のような場所に上る、アプローチもちゃんと造られていた。ただし石に囲まれた中は、石造りではなかった。
 
そしてその石舞台風の区画の先は、気田川がほぼ正面に向かって左上から流れ落ちていて、この石舞台の十数m先で、大きく流れを右下の方に替えさせられていた。
石舞台風の下方の石組みは、明らかに気田川の流れを替えるために造られたと思われ、巨きな石垣のブロックのような役割をしていたのであった。
 
そのブロック状の石垣も一つ一つは巨岩と言って良い岩で、それらの岩石を幾重にも積み重ねて頑丈に造られていた。
と云う事は、この石舞台様の集積は気田川の流れをコントロールするために造られた、岩石ブロックの上を平らかに整地して、数十m程セットバックした場所に造られたことになるのであった。
 
 
「確かにこれは、川の特性を知り尽くした相当の技術を持った土木集団の手による工事のようですね・・。小澤さんが考えてられるように、黒川衆の仕事だとしてもおかしくはないですね・・」
私は石舞台様の区画はこの流れを替えさせたブロック工事の、メモリアル施設のようなものではないかと想い、
 
「ひょっとしたら、この石舞台ではかつて祠や小振りの社を祀っていたのかもしれませんね・・」と私は独り言をいうように呟いた。更に、
 
「この石舞台様の場所は何と言うんですか?そのぉ何か名称のようなものは付けられていませんか・・」と小澤さんに聞いてみた。
「いやぁ、特に名称があるようには聞いてはいないんですよね・・。この場所は『伊出野』という場所なんで、『伊出野の岩石組み』と云われてる程度で・・」と、首を振りながら小澤さんは応えるばかりであった。
 
私はその「イデノ」という言葉に引っ掛かりを覚えて、小澤さんに聞いてみた。
「『イデノ』って因みに、どんな字を書くんですか?」
「伊豆のに、る、野原の、ですが・・」と小澤さんが即答した。
 
「そうですか、それってひょっとして『伊出(氏)の岩石組み』って云ったりしませんか?そのぉこの区画はどう見ても『野』というほど広い場所ではないようですし・・」と、さらに突っ込みを入れたが、小澤さんは肩をすぼめて判らない、というゼスチャーをしただけであった。
 
 
「実はですね『イデ』という名前は黒川衆というか、金山衆にとっては縁のある名前でしてね。その拠点で最も有名なのは富士山西麓の朝霧高原を、富士宮に下ってくる途中の集落で、義定公の領地だったと思われる場所に『井出』という集落が在るんですよ、富士山の西麓にですね・・。
 
頼朝の富士の巻狩りの際の『狩宿』に成ったとされる場所なんですが、そこの金山衆の長(おさ)の名前が『井出氏』って言うんですよ・・。
 
その井出氏はやはり土木技術に秀でていて、武田信玄が信州と甲州を結んだ当時の高速道路『棒道』を造った際の奉行を務めたり、江戸時代は富士登山の『冨士講』の人達のための登山道を、整備したり維持管理の保守を担っていた一族でしてね・・。ひょっとしたら・・」私がそう言いかけた時小澤さんは、
 
「その井出氏一族とここの石組みが関係してるかもしれないと、そうお考えなんですか立花さん・・」そう言って、私の眼をジッと観た。
 
「マァその可能性があるかもしれないな、と。高度な河川改修の技術を持っていて、名前が同じですからね・・。
もし富士山西麓に拠点を持っていた黒川衆の井出氏が、同じ領主である義定公の意向を受けて北遠のこの地で、気田川の流れを替えるためにこの場所の土木工事をしたと云う事は、十分考えられるんですよ・・。
 
そしてそのメモリアルなこの区画に、巨岩の石舞台というか祠や社を造ったとすればですね、ひょっとしたらこれから行く勝坂八幡神社、かつての勝坂の南宮神社の金山開発にも結びついてくるのかも、とまぁそんな風に思ったりしましてね・・」私はそう言って小澤さんの反応を確かめるように、顔を観た。
 
 
                      
                     勝坂、伊出野の岩石組み
                            
 
 
私は「伊出野の岩石組み」の名前から受けた閃きを基に、想像力を膨らませて一気にそう話したのであった。私の突発的なアイデアに、小澤さんはしばらく何かをジッと考えているようであった。そして
「江戸時代初期に南宮神社を今の勝坂八幡神社の場所に移して、名称も替えた元の南宮神社の在った場所と云うのは・・」と、ポツリと呟きながら考え続けていた。
 
私はその後も「伊出野の岩石組み」周辺と、気田川の流れを替えた岩石のブロック箇所を観て、その技術の高さに黒川衆の関与を感ずると共に、ここに敷設された多くの巨岩と先ほどの「石切川」の間に、ひょっとしたら何らかの関係があるのかもしれない、と想像力を更に膨らませていた。
 
 
「立花さんそろそろ、勝坂の八幡神社に行くとしますか・・」小澤さんの提案に私は、我に返って
「そうですね、これから春埜山西麓の『大時』や『花島』にも行かなければなりませんしね・・」と早々に同意した。
 
その後私達は県道389号線を北上し、左手に在る「勝坂神楽の里案内所」の向かいに架かる鉄の橋を渡って、勝坂の集落が集積する対岸に移った。
 
更に鉄の橋を渡り切ったところで左折して、山道に向かって坂を上ったすぐ左手に在る「勝坂八幡神社」に参拝した。
 
今は八幡神社と称するように成ったかつての勝坂の南宮神社と、先ほど見て来た伊出野の、かつて祠や小さな社の跡であったかもしれない巨岩の集積場所に想いを寄せながら、勝坂から帰ることにした。
 
勝坂のこの集落に来て、自然環境の厳しい集落にかつて金山衆が残したと思われる、幾つかの痕跡を確認出来たことに感謝しながら、私達は次の目的地に向かった。
 
 
勝坂から県道389号線を小石間まで来た道を戻り、国道362号線に合流して金川・気田地区を通った。そこから更に私達は「熊切川」を左折して川を溯るように春埜山西麓の集落である「牧野」方面に向かった。
 
小澤さんのアドバイスにより「和泉平の新宮神社」を経由して、「花島」に向かう事に成った。私が「牧野」にはすでに行っている事を知ってのアドバイスであった。
私達は牧野に向かう途中で熊切川を右折して渡り、和泉平への山道を登ることにしたのであった。
 
 
途中車の中で金山衆の話から、安田義定公の五奉行の話になった。
「義定公が14・5年間ここ遠江之國をつつがなく統治し、本貫地の甲斐之國牧之荘や富士山西麓、更には嫡男の義資公が守護を8年間務めた越後までも、しっかり統治し続けることが出来たのはこの五奉行が揃って居たから、と云っても良いようなんですよね・・」私がそう言うと、小澤さんが
「具体的にはどういった人物だったんですかその五奉行と云われる人達は・・」と聞いてきた。
 
「そうですね先ずは武藤五郎ですかね。彼は安田義定公というか甲斐源氏の古参の家来の出身のようで、遠江之國の目代を務めて義定公の遠州の統治を現地の責任者として、ずっと支えてきた人物だったようですね。
因みに現在の森町辺りが彼の本貫地ではなかったかと私は想ってます。そこの地頭ではなかったかと・・森町の草ヶ谷辺りに彼の本拠地があったようですね。
 
更には義定公の遠州における本貫地だった浅羽之荘の目代であり、奈良時代からの官営牧であった笠原ノ牧のマネジメントを任されていたと思われるのが、芝藤三郎ですね。
この二人が遠州トータルの統治を担っていたようです」私がそう言って遠江之國に関わる人物の話をすると、更に小澤さんは
 「そのほかの人物達は・・」と聞いてきた。
 
 
「そうですね京都の朝廷、とりわけ当時の権力者後白河法皇との連絡係とでもいう、京都担当の外交奉行を務めたと思われるのが、熊野の豪族の出身者と思われる榎本重兼ですね。彼は『前の滝口の武者』と云われ、元天皇の親衛隊を務めていたこともあって朝廷とのパイプが太かった人物です。
 
それから麻生平太胤國という常陸之國出身の大掾氏の一族の人物がいます。その経歴から目代の下の郡を統括する郡奉行だったようですね。彼は平時は鎌倉に居て、義定公や義資公の領地/領国の、全ての郡を串刺しにして管理していた統括郡奉行だったのではないかと、そう私は想ってます。
 
最後に騎馬武者用の軍馬を中心とした軍馬の畜産や育成、更には騎馬武者隊のような調練なども担当していた、いわば馬奉行のような役割を担当していたのが、『前の右馬之允、宮道遠式』という人物で、その名称が示す通りかつて朝廷で右馬之允を務めていた元高級官僚で、物部氏の末裔のようですね・・」私が一気にそう説明すると、小澤さんは肯きながら、
 
「ホウ、よくそんなに詳しいことが判りましたね・・。『吾妻鏡』にでも書いてあったんですか?」と更に聞いてきた。
「いやさすがにそこまで詳細なことは書いては無かったんですが、ヒントに成る事は『吾妻鏡』にも書いてありましたよ。
 
先ほどの『前の滝口の武者』とか『前の右馬之允』といった官職というか、がですね・・」そう私が応えると、
「そうするとそれから先の細かいことは立花さんが、お調べになったんですか?」と小澤さんが、興味深そうに聞いてきた。
 
「いやこの情報は私のネットワークで山梨県の甲州市で義定公の事を研究されている、郷土史研究家の方達から得た情報でして、彼らもだいぶ苦労したと言ってましたね、ここまで判るようになるのには・・」と私は山梨の藤木さん達の顔を思い浮かべながら、そう応えた。
 
「なるほどねぇ・・、何しろ鎌倉時代の事ですからね、そう簡単にはいかないでしょう。ドンピシャな資料が揃ってるわけではないでしょうしね・・。
それにしてもその五奉行の中には金山衆は含まれていないんですか?そのぉ『金山奉行』とでもいうような人物は・・」と小澤さんは更に突っ込んできた。
 
 
「そうですね、実は義定公には五奉行とは別に四天王と云われる家来衆がいたようでしてね、その中に『金山奉行』とでもいうような役割をした人物というか一族がいたようなんです」私はそう言って、横目でチラリと小澤さんを観て、話を続けた。
「ぜひその四天王についても・・」小澤さんはそう言って、私に四天王について話すことを促した。
 
 「四天王はですね、基本的には甲州の出身者で、主力は義定公の本貫地である牧之荘近郊の人々たちであったようですね・・。
『武藤五郎』『岡氏』『橘田氏』『竹川氏』の四人なんですが、このうちの武藤五郎は先ほどの五奉行と重なっています。
 
橘田氏は実はまだ全然わかってないんですが、岡氏は牧之荘に多い名字である事から、地元の旧塩山地区で安田義定公に長く使えていた一族のようですね。そして最後の竹川氏がどうやら黒川衆の一族で、金山衆を取りまとめていた職能集団の長(おさ)だったようですね」私は一息入れて、また話を続けた。
 
 
「その竹川氏は富士山西麓の『ふもとっぱら』と云う処で、山梨県との県境に近い毛無山という山を現在でも所有しているんですが、その毛無山は金鉱が江戸時代まで在ったと云う事です。
そして竹川家は家康の御朱印はもちろんのこと、今川義元や信玄公の家臣穴山梅雪の御朱印も持っていた家で、金山開発を仕切っていた家だそうです。富士金山の、ですね・・。
 
因みに竹川氏は今でも富士山西麓や富士宮市近郊では、名門と云われている一族のようです」と四天王について話した。
 
「なるほどそう云う事でしたか、その四天王の竹川家が云わば金山衆の頭領で、先ほどの井出氏などはその有力な幹部だった、と云う事に成るんでしょうか・・」と小澤さんが確認するようにそう言った。
 
「たぶんそういう事に成るのではないかと思います。
黒川衆と云っても頭領はもちろんですが、金鉱石の採集や鉱山開削の専門家もいれば、土木工事や普請が得意な人たちもいたでしょうし、金を抽出し精錬する鍛冶屋集団もいたようですからね、結構大掛かりな組織だったようですよ。ですからそれぞれの分野で専門家集団が居たのだと思います。
 
 
その中で井出氏はどうやら治水灌漑や道路普請といった土木工事のスペシャリストだったようですね、『棒道』や『富士登山道』がその例ですよ。
それに井出氏にはちょっと面白いエピソードもありましてね・・」そう言って私はニヤリとした。そして小澤さんをチラリと見ると、彼は眼を細めて、
「と、言いますと?」と聞いてきた。
 
 
「実はですねオランダにIDEと書いて、アイ・ディ・イーとは読まずに『イデ』と読む東洋系のオランダ人がいると云う事です。西洋ではオランダやアメリカに多いようですよその『イデ』氏一族は・・」私がそう言うと、
 「なるほど、井出氏が日本からオランダに渡ったと、そうお考えなんですね立花さんは・・」小澤さんはそう言って、ニヤリとした。
 
「まぁ、そう云う事です。ここから先は私の全くの推測ですが、
鎌倉時代初期に義定公の配下であった金山衆の井出氏は、その後3・400年経って治水灌漑や道路普請の技術を家業として続け、後にどのような経緯かは知りませんが信玄公の家来に成った。
 
その武田家が家康に滅ぼされた後、家康の家来に成る事を嫌いオランダ人に雇われるなどして、当時数少ない交易国であったオランダに向けて、海を渡ったんじゃないでしょうかね・・。
ご存知なようにオランダもまた海抜が低い土地柄で治水・灌漑の技術や土木技術が求められたお国ですからね・・」私もそう言って、ニヤリとした。
 
 
「なるほどそう言った事もあり得るんですね・・。しっかりした高度な技術を持っていれば、今も昔もグローバルに引く手あまたって事なんですかね・・」小澤さんはそう言って、私の推測をすんなり受け入れてくれた。
 
そうこうしているうちに私達は和泉平の新宮神社近くに着いた。左手に大きな池が現れた。私達は道路の右手にある大き目な砂利敷きの駐車場に車を停めて、その池に向かって行った。
 
 
 
 

 

                  南宮神社由来  

               『春野町の社寺棟札等調査報告書』(平成五年三月刊行)174ページ

                       春野町気田623のⅠ  氏子数447戸

 本社は、気田の字中通りにあり、金山彦を祭神とし、古くから気田村の産土神として祭られてきた。

『掛川誌稿』・・・・勧請については、天正14年(1586年)の札を引用し、神主衛門太郎が大本願となって高野山南宮より本地聖観音を迎えたと記している。

一方、明治16年(1886年)七月の「南宮神社明細帳」は、勧請年月を長久元年(1040年)霜月15日とし・・・・。

   

          「八幡神社由来

                 『春野町の社寺棟札等調査報告書』(平成五年三月刊行)80ページ

                           春野町豊岡242     氏子数30戸

本社は、勝坂の字宮ノ平にあり、誉田別命を祭神とする。伝えによれば、もとは慶長6年(1601年)一二月に造営された南宮大明神社で、のち、八幡神社に改称されたという。

寛文10年(1670年)一二月の棟札に「三社八幡宮六拾年以来退轉仕処今奉新建立」と見え、長い間荒廃していた社を鈴木助衛門が願主となって再建するにあたり、改称されたものと考えられる。・・・・・・・・・

八幡神社は古くは気田川の向かいにあったと云われている。

 
 
 
 
 
 

 春埜山西麓「牧き場街道」

 
 
「和泉平の新宮神社」は春野町で殆ど唯一といってよい「祇園祭り」を7月に行なっている神社で、しかもその立地が山上でそこの大池に船を浮かべて行われる、という点に私は興味を持っていたのであった。先日秋葉山本宮下社の守矢禰宜に教えてもらった神事である。
 
新宮神社はその新宮池の奥まった場所に鎮座していた。
標高5・600mの場所に数千坪クラスの池がある事は、やはり古代の人々にとっても神秘的なことであったのだろうか、などと話しながら私達は新宮池の周縁を廻って新宮神社に向かった。
途中に祇園祭で使われる船を納めておく船小屋が在った。
 
 
新宮神社は池の畔からすぐに急な石段があり拝殿や神殿に向かっていた。
山峡で平坦な場所が少ない池の畔に面した神社と云う事で、このようは構造に成っているのだろうと、私達は話しながら参拝を済ませた。
 
拝殿や神殿に何か義定公に繋がる「神様の指紋」が残ってないか、一通りチェックしたが残念なことに何も確認することは出来なかった。
 
「ところで、八坂神社でもない新宮神社で祇園祭が行われる、というのは一体どうしてなんでしょうかね・・」 私が呟くようにそう言うと小澤さんは、
「確かにこの神社で祇園祭といった神事が行われるのは、ちょっと妙ではありますよね・・」小澤さんもそう言って首を傾げたが、その理由を知っているようではなかった。
 
「神輿を舟で渡御すると云うのも滅多に無い事ですよね・・」私は自分でそう言ってから、越後直江津の七月の祇園祭の事を思い出して、
 
「そういえば越後之國上越の直江津という湊町には、関川という大きな川を上越高田の城下町から川を下って神輿を運ぶ、という神事がありますが、その神事は江戸時代に入ってから始まったと云う事ですし、こちらの神事とは関係無さそうですね・・」と、独り言を言うように小澤さんに話した。
 
 
「そうなんですか、新潟でね・・。
ところで確かに新宮神社で祇園祭が行われるのは不可思議なことですが、この周辺には幾つか八坂神社が点在しているんですよ。立花さんご存知の『牧野の八坂神社』もそうですし、これから行く『大時の八坂神社』もそうですしね・・。
 
ァ、それからこちらの高塚山を越えた反対側の東麓と云ってもよい場所にも、もう一つ八坂神社が在るんですよ『砂川の八坂神社』というんですがね。
この三つの八坂神社は、ちょうど三角型のような配置に成ってましてね、『牧野』と『大時』を底辺にしたような感じで・・」小澤さんがそう言って、新しい情報を教えてくれた。
 
「ん?『砂川の八坂神社』って云うと、確か明治維新後に金山神社を合祀した神社じゃなかったですか?そうですか高塚山の向こっ側に、砂川の八坂神社がね・・」私はそう言って金山神社を明治初頭に合祀した「砂川八坂神社」の事を思い出した。
 
 
「実はその金山神社の事でご存知でしたら、ちょっと教えてほしいんですけど、砂川の八坂神社に合祀された金山神社は『嶺澤頭村、字白倉』に在ったと云うんですが、これから行く『大時の八坂神社』に合祀された金山神社は『大時村、字白倉』に在ったと云う事で、両方とも同じ様に字名が『白倉』に成るんですが、これって偶然の一致なんでしょうかね・・。それとも何か・・」と私が言うと、小澤さんは、
 
「へぇ~そうなんですか・・。しかし『嶺澤頭村』って聞いた事の無い名前ですね・・」と小澤さんはそう言って、首をひねった。
「そうでしたか‥、ご存知無いですか。いや残念です」私はそう言って話を戻した。
その後私達は新宮池を後にして、次の目的地である「花島の蛭子神社」に向かう事にした。
 
 
花島地区は春埜山西麓の標高の高いエリアで、正式には県道389号線沿いの集落に成るのであったが、先ほど小澤さんが言ったように「信州街道の裏街道」といった位置づけで、尾根伝いに展開する狭い街道である事から、小澤さんが推測しているようにかつては「修験者達の道路」であったのかもしれない、と思いながら私は山道に車を走らせた。
 
新宮池の在る和泉平から5・6分で県道389号線に突き当たった。そのT字路を左折して花島の集落に向かい、その集落を越えてやがて下り坂に成ると、間もなく杉林に囲まれた分かれ道の左手に地味な神社が見えた。ここが目指す蛭子神社であった。
神社横の空き地に車を停めて、私達は蛭子神社に参拝することにした。
 
「この蛭子神社はエビス神社と呼んで問題ないんですよね、祭神はいわゆる恵比須神社のえべっさんと同じ様ですし・・」私がそう言うと、小澤さんは
「確かに祭神はその通りなんですが、地元の花島の人たちはヒルコ神社と言ってるようですよ・・」と言って、私の呼び方を訂正した。
 
 
「そうですか、ヒルコ神社が正しい呼び名なんですね・・」私はそう言って神社の建物の、ぐるりを観ながら義定公に繋がる「神様の指紋」を探したが、先ほどの新宮神社同様にそれらを確認することは出来なかった。残念ではあったが、仕方が無かった。事実は事実として受け入れるしかないのである。
 
それから私達は県道389号線の、私が勝手に「牧き場街道」と呼んでいる春埜山西麓の尾根伝いに繋がる狭い道路を、元来た道に戻り次の目的地である「大時の八坂神社」を目指した。
 
大時の「八坂神社」は本来は「天王八幡社」とでも言うべき神社で、祭神は須佐能之男命と誉田別命とを祀っていた神社であった。それが明治維新後に新政府の宗教政策により、八坂神社と改称させられたのであった。
 
更に近隣の「白倉地区」から金山神社を合祀した神社であって、私はこの神社に大いに期待していたのであった。
 
 
花島からつづら折りに曲がりくねった、狭い道を南下して10分も経たないうちに、大時公民館のある場所に着いた。そこから小澤さんの誘導に従って脇道を下り、ヘアピンカーブを曲がって目指す八坂神社上の町道に着いて、車を道の端っこに停めた。
 
車を降りた私達は、坂の下に見えた樹木に覆われた神社に向かい、人一人がやっと通ることが出来る細い杣道を下って行った。最近では人の行き来もあまり無いのか、雑草が道を覆って生い茂っていた。
鬱蒼とした杉木立に囲まれた神社は、山のほぼ傾斜といってよい場所の百坪在るか無いかの、狭くて平らかな場所に鎮座していた。
 
神社の神紋は残念なことに「桐の紋」であった。ここでも花菱紋や三つ巴紋は確認できなかった。しかしながらこの「八坂神社=天王八幡神社」には、応仁の乱以前の室町時代に「右馬尉兼吉」が鰐口や五つのご神体を奉納した記録が残っていた事から、私は神紋が期待するものと違ったからといって、がっかりする事は無かった。
 
 
私がそういった想いを小澤さんに伝えると、彼がフと
「その『右馬尉兼吉』の事なんですがね、彼が『右馬尉』という官名を名乗ったのにはそれなりの根拠があると私は想うのですが、どうですか・・。
 
先ほどの安田義定の五奉行の一人に同じ官名を持った人物がいたようですが、彼との関係は無かったんですかね・・」と、思いついたようにそう言った。
 
「『前の右馬允、宮道遠式』の事ですか?馬奉行の・・」と私がそう言うと、小澤さんは何度か小刻みに肯いて、
「そう、その宮道遠式の事です。『右馬尉兼吉』が例えば彼の子孫であるとか、末裔であるとか・・。そう言った可能性がですね、ありませんか・・」と自分のインスピレーションについて小澤さんは語った。
 
私は「確かにその可能性は無くは無いかな・・」と想った。そしてじっくりと考えてみることにした。
義定公の五奉行の一人である宮道遠式やその子孫が、遠江之國で騎馬武者用の軍馬を育てるために、この春埜山西麓の標高の高い場所で、畜産事業を展開したことの可能性を考えてみたのである。
 
 
彼自身は後白河法皇の朝廷に仕えた、現在の局長クラスの高級官僚の出身であったが、その後義定公と縁しが出来て彼を支える五奉行と呼んでもよい、有力な家来に成った。
 
その彼が義定公一族の誅滅と共に、頼朝の手によって鎌倉の屋敷で捕まり和田義盛に首を刎ねられる事になった。
そのような悲劇に遭った後、彼の一族のうちの何人かは宮道遠式自身が力を注いだ、騎馬武者用軍馬の畜産・育成という事業を踏襲した可能性は、大いに考えられた。
 
まして幕府の在った鎌倉から遥か離れた遠州の、更に山奥と云ってよい春埜山西麓の標高の高い場所である。この春埜山西麓は鎌倉幕府の目が届かない場所であり、幕府の追及の手を逃れるのにも格好の場所であっただろう。
 
更に春埜山東麓の遠州森町は、義定公の重臣武藤五郎が地頭を務めた拠点でもあったようで、後々の戦国末期まで武藤一族が権勢をふるったエリアある。
それらの事を考え合わせると、宮道遠式の一族の何人かがこの場所で生きながらえる道を選んだ可能性は考えられなくもない。
 
そしてそのような伝承が代々宮道遠式の子孫の間では伝えられて来たのではなかったか。
それが250年後の室町時代に成っても「右馬尉兼吉」と、名乗らせることに成ったのかもしれないと考えることは、大いに出来たのである。
 
ご先祖の「右馬尉」の冠名を名乗ることは、宮道遠式の末裔の人々にとっても春埜山西麓の山奥で、牛馬の畜産育成をして暮らす際のプライドや矜持にも成っていたのではなかっただろうか・・
そう考えると1444年の文安元年に神社に奉納された鰐口の事や、五つのご神体の事もすんなりと理解することが出来るのであった。
 
 
「確かに、おっしゃる通りかもしれません・・。いやありがとうございます。目からウロコです・・」私はそう言って、ニコニコしながら大きく肯いて、小澤さんに握手を求めた。
小澤さんは穏やかな目で、まんざらでもないというような表情をして、ゆったりと肯きながら私の手を握り返した。
 
 
私達はそれから、今来た道の反対側に向かって雑草に覆われた杣道を登って行った。
「お城の櫓に似た立派な石垣」を見に行くためであった。気田の酒井さんの家で小澤さんが教えてくれた情報で、金山衆の痕跡かも知れないと期待を抱かせてくれる石垣である。
 
道幅が十分あるとは言えない簡易舗装された坂道を南側に下ると、坂道に沿って大きな家が2・3軒現れた。それらの家は坂道に沿うように建っていたのであるが、家自体は水平で傾斜しないままに建っていた。そしてそれを可能にしたのが石垣であった。
 
小澤さんが力説したように南側に下って行く坂道に逆らうように、石垣は下に行くほど反り返っていた。まさに舟の先端の様であり「お城の櫓」という形容が相応しい、立派で確かな石垣であった。相当の技術やクオリティを持った技能者でなければ成し得ない、と思われる構造物であった。
やはり金山衆の技に違いない、と私は確信した。
 
 
 
            
              遠州春野町大時の民家の石垣
 
 
「これはやはり、民家の石垣のレベルではないですね・・。お城の石垣や石組みといった水準の技ですね。」私はすっかり感心してそう言った。小澤さんは傍らでニコニコしながら何度も肯いていた。
 
「こうやって『天王八幡神社』を祀る集落が在って、そこには『右馬尉兼吉』を名乗る有力者が住み、更には近隣に金山神社が在る。この見事な石垣が造られた大時地区と云うのは、やっぱり『牧き場街道』の一つの拠点だったんでしょうね・・」私は改めて、そのように自分の考えをまとめるように、言った。。
 
「実は越後之國糸魚川能生町に、ここに似たような拠点が在りましてね、私はこの大時地区は、その能生川沿いの金山衆の拠点『槙、金山神社』の周辺地区と同じだな、って印象を抱いたんですよ・・」と続けた。
「ホウ、そうなんですか・・」小澤さんはそう言って、その先を促すような目をした。
 
「気田でも言ったと思うんですが、その能生川の中流槙地区には『金堀場』の在った『金山神社』を中心にして、『藤後、八坂八幡神社』や『下倉、駒形神社』といった神社が半径1㎞圏内に在るんですがね、そこは当時の上越の金山衆たちの拠点だった、と私は想ってるんですよ・・。いずれも義定公父子の領国経営に関わる神社ですからね。
 
その糸魚川の場合は金山衆が中心の拠点だったようですが、ここ春野町大時地区の場合は、馬の畜産の拠点だったんじゃないか、ってね。そんな風になんとなく想ってます・・」と私は自分が今感じていることを話した。
 
 
「と、云う事は・・」小澤さんはそう言いながら、私を観た。
「先ほど小澤さんが言われたように、宮道遠式の一族を核にした騎馬武者用軍馬の一大拠点がこの春埜山西麓に在ったんじゃないか、ってですねそう想うんです・・。
 
でその人たちが中心に成って、『牧野』『花島』『胡桃沢』の春埜山西麓で馬の畜産事業を進め、隣接する『白倉』地区などで金山衆が金山開発をしていたのではないかと・・。
 
そんなこともあって金山衆もこの周辺に定着していたのではないかと、まぁそんな風に想ってます。『金山神社』が在ったことや、この見事な城普請のような石垣を観てですね、ほぼ間違いないと・・」私は断定的にそう言って、さらに続けた。
 
「春埜山西麓を中心にした畜産事業で、ある程度大きく成り成長した馬を更に春埜山東麓の大久保地区に移動・集約させ、そこらで更に調練、調教してから遠州であれば『笠原ノ牧』辺りに持って行ったりしたのではないかと・・」私がそう言うと小澤さんが、
 
「そういえば『大久保八幡神社』はかつて『馬主神社』と呼ばれていた神社だと、云われてましたね・・」そう言って私に確認した。私は肯きながら、
 
「ァはい、その通りです。明治維新後の新政府の宗教政策で名称が改称させらるまでは、長い間大久保の『馬主神社』と云われていたんですよ、それは間違いありません・・。
それに面白いことに、その馬主神社は元々『金山神社』だったと云う説もあるようでしてね・・。
それが江戸時代に成って『八幡神社』と称されるようになったと云う事です。なんだか勝坂の八幡神社と似ていると思いませんか・・」私がそう言うと、小澤さんは何度も肯きながら、
 
 
「ほうそうなんですか・・。馬主神社は八幡神社と成る前は金山神社だった、と云う事なんですか・・。もしそうなら確かに勝坂の南宮神社と同じような運命を辿った、って事に成るんですね。因みにその説の根拠は・・」と小澤さんが私に聞いてきた。
 
「江戸時代の国学者で、遠州国学の祖とも云われる内山真龍の『遠江風土記伝』に書かれているらしい、と云う事です。まだ私は確認していない未確認な情報ですけどね・・」私がそう言うと、小澤さんは肯きながら、
「そうだったんですか・・」と言って納得してから、
 
「そう言えばこの県道389号線を南に下って行くと、そのままで森町の大久保地区に辿り着くんですよ。今では県道58号線の『信州街道』に『周智トンネル』が出来たこともあって、バイパスのようにショートカットされてますがね・・」と、この「牧き場街道」が大久保地区に直接繋がっている街道であることを、教えてくれた。
 
 
「やっぱりそうでしたか、昔からの旧道というか『裏信州街道』が尾根伝いに大久保まで繋がってるんですね・・。その街道を通って畜産された騎馬武者用軍馬の若駒などが大久保まで運ばれたんですね、やっぱり・・」
私はそう言いながらタブレット端末を取り出して、その尾根沿いの導線を小澤さんと共に確認した。更に、地図を3Dマップに変換して、
 
「これ3Dマップって云うんですけど、これを観てると結構面白いことが判るんですよ・・」私はそう言って現在地を見せてから、
 
「僕がこの県道389号線を『牧き場街道』じゃないかって一番最初にインスピレーションしたのは、この3Dマップのおかげなんですよ・・」そう言いながら私は「大時地区」「花島地区」「牧野地区」「胡桃平地区」に在る白っぽく表示された「平坦地」を見せた。
 
「この白っぽいところがミソなんですよ。ここは周りの緑色の場所のように等高線がハッキリした傾斜地ではなくて、緩やかなエリアで高低差があまり無い場所なんですよ。
ですからこの緩やかな傾斜地で、右馬尉兼吉たちは畜産の馬を放牧させていたんだと、想像することが出来るんですよ・・」私がそう言うと小澤さんは、肯きながら、
 
「なるほどね・・。こういった文明の利器を使って立花さんは仮説を立ているんですか・・。それにしてもこの大時地区から、こちらの金山神社が在ったという白倉地区に掛けても、結構広い範囲が緩やかな傾斜地に成ってるんですね・・」といって感心して観ていた。私は肯きながら、
 
 
「おっしゃるように、この白倉地区に以前金山神社が在ったと云う事ですから、この周辺でもそれなりに山金が採れたんでしょうね、キット・・。それからこちらをご覧ください」私はそう言って3Dマップを操作して、県道389号線をズッと南下させた。
 
「大久保『馬主神社』はこの辺りに成るんですが、ちょうどその左右に大きく緩やかな傾斜地が在るでしょう、白抜きの場所が・・。
しかも面白いことに左側の平坦地は右を向いて立ち上がった馬の様だし、右側のは左を向いたタツノオトシゴみたいで・・」私がニヤリとしながらそう説明すると、小澤さんも、
「確かに・・」と言って、ニヤリとした。
 
「この左右の大きくて緩やかな傾斜地が在るからこそ、その中間地と云ってよいここに『馬主神社』が祀られるように成ったんじゃないかって、そう私は想ってるんですけどね・・」私がそう言うと、小澤さんは肯きながら、
 
「なるほど、先ほど言われた『牧き場街道』から連れて来た若駒たちをこちらで放牧し、調教・調練し一人前の軍馬に育て上げた、と云う事ですか・・」と納得するように言った。私は肯いて、小澤さんの考えに同意した。
 
 
それから私達は坂道を戻ってそのまま神社の上に出て、車に乗った。
さらに「牧き場街道」の県道389号線に出て、大久保の「旧馬主神社」に向かった。途中で「胡桃平」の神明神社に寄って参拝してから、そのまま尾根伝いに続く県道を南下して、森町大久保に入り「旧馬主神社=大久保八幡神社」に到着した。
 
廃校になった「旧大久保小学校」は、現在の大久保八幡神社の境内に接続していた。
真っ直ぐ続く徒競走の行われたと思われる校庭について、私が、
「この校庭は、それまで流鏑馬の神事を行っていた馬場の跡地を活用した、と云われてましてね・・」私がそう言うと小澤さんは、
 
「確かに・・。この真っ直ぐの馬場の跡なら100m走も可能だったでしょうね・・」と言いながら、納得していた。
 
更に八幡神社の拝殿や神殿を観た小澤さんは、
「これは確かに『馬主神社』そのものですね・・」と云いながら本殿の欄間に馬の姿が形取られているのを確認して、しきりに肯いていた。
 
それから柱と梁とを結ぶ箇所やそれらが交差する箇所に花菱紋が使われているのを認めると、私の方を見て、
「これは・・」と言った。私は肯きながら、
「ァはい、花菱紋ですね。義定公の家紋です・・」そう言って、小澤さんの言いたい事を感じて口に出した。更に私は、
 
 
「こちらを観てください・・」と言って、小澤さんを本殿横手に誘導し神殿に繋がる箇所を指さして、そこにある石垣を観ることを促した。
 
「この石垣や石組みは、先ほどの大時の『城普請のような石垣』や糸魚川能生町の『槙、金山神社神殿の石組み』ほど精緻で美しくはありませんが、ここの石垣も中々のモノでないですか?どうです・・」そう言って、小澤さんの眼を見た。小澤さんもまたその石組のレベルの高さを認めるように、肯いた。
 
 「この馬主神社の石組みや、更には秋葉山本宮上社神殿の石垣と、気田の南宮神社の神殿の石垣とを比べてみれば、両者の技術水準の違いは明らかだと思いませんか・・」私はそう言って、小澤さんが氏子となっている気田の南宮神社を引き合いに出した。
 
 
「私が現存する気田の南宮神社が、金山衆の手によるものでは無いと想像するのは、これらの石組みや石垣と比べるからなんです・・。
同じ金山彦を祭神としている神社ですけど、明らかに石垣や石組みのレベルが違いますでしょう・・。
ですから今の南宮神社は江戸時代初期に徳川幕府によって造り替えられた神社ではないかと、まぁそんな風に想ってるわけです・・」私はそう言って、ニヤリとした。
 
小澤さんは私の云う事に特にコメントはしなかったが、目の前の本殿裏手の石垣をジッと見ていて、何かを考え続けていた。
 
私はしばらくしてから、
「そろそろここを出て浜松に向かいますか・・」と言った。
小澤さんは肯いてから、最後に神社の幾つかの義定公に繋がる「神様の指紋」を確認するように見てから、車を停めていた駐車スペースにゆっくりと戻って来た。
 
駐車場近くの公衆トイレに寄ってスッキリしてから、私達はかつての大久保金山神社でもあり、馬主神社でもあった大久保八幡神社を後にして、日が陰り始めた森町の山間から遠州灘の拠点都市であり、これからの目的地でもある浜松に向かって、下って行くことにした。
 
 
 
 
 
 
         
         森町大久保の「旧馬主神社=八幡神社」に残る、金山衆や安田義定公の痕跡
          「精緻に組まれた神殿の石垣」及び「拝殿の柱に残る花菱紋」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 エピローグ

 

私達はその後、三倉川に沿う形で遠州森町の市街地に向かって信州街道を下って行った。

暫くしてから私は小澤さんに聞いてみた。

「ところで小澤さんは家紋についてお詳しいようなのでちょっと教えてほしいんですが、やっぱり家紋の起源と云うのは平安朝後期に始まったって事で、宜しいんですか?」私はそう言ってから、話を続けた。

「何かの本で読んだんですが、平安貴族が牛車を間違えない様に目印として付けるように成って、始まったことなんですか?家紋は・・」と私が尋ねた。小澤さんは肯きながら、

「私の知る範囲では、その様ですね。貴族の牛車辺りの目印としてスタートして、そこから何十年か経って平安貴族の美しさや雅さへの追求の結果、その目印から次第に洗練して行ったと云う事らしいですね、それは間違い無いようです・・。

 

でもですね、実際に日本全国に家紋が拡く普及するように成ったのは、実質的には鎌倉期の武士の登場によってだと言われてますし、どうやらそれも間違い無いようですね・・」と言った。

「それはまた、どうしてだったんですかね・・」と私が更に尋ねると小澤さんは、

「やっぱり必然性があったから、でしょうね・・。要するにですね武士にとっては戦いの時にある種の目印というか、他者との違いを際立たせる必要があったわけですよ。

具体的には敵と味方を区別する必要が先ずあったわけですし、同じ味方の陣地においても、自分が所属する家やグループの所在を明らかにして、戦闘から戻って行く場所を明示しておく必要があったわけですよ・・」と具体的に説明してくれた。

「なるほど源氏が白旗で平家が赤旗だった、といった様にですか・・」私がそう言うと小澤さんは大きく肯きながら、

「まぁ、そう云う事ですね・・」と言ってから更に続けた。

 

「そしてそういう性格であったからスタート時の目印である紋章ほど、実はシンプルなモノであったと云う事が出来るんです。そしてその目印や紋章が普及すればするほど、次第に複雑になって行くわけです・・。お判りでしょうか?立花さん・・」

「あぁ、なるほどねそう云う事に成るわけですか・・。そうすると普及すればするほど紋章や目印は複雑に成り、細分化して発達していくわけですね。既にあるモノと違いを出すためにも・・」私がそうに言うと、小澤さんは、

「まさにその通りなんです。そう言ったプロセスを辿ったために、時代を追うごとに紋章や目印は増えて行きましたし、細分化し次第に複雑になって行くことに成るわけです。その通りです・・」と言って私の理解を認めた。

 

「平安末期から鎌倉時代にかけて始まったのであれば、スタート時はせいぜい数十、数百しか家紋は無かった、と云う事ですかね・・」私がそう言うと、

「まぁそういう事でしょうね・・。それが江戸時代末期に成ると家紋の数は数万種類にも増えたと云われてましてね・・」と小澤さんが教えてくれた。

「と云う事は、義定公のような源平の闘いの頃の武士たちが使うようになった紋章や目印、家紋は将にそのハシリに成るわけですね・・」私がそう言うと、小澤さんは何度か小刻みに肯きながら、

「おっしゃる通りです・・」と短く応えた。

「イヤそういう事ですか、よく判りました。そうすると義定公が花菱紋を創り使うように成ったのも、その家紋のハシリの時の事だったわけですね、なるほどネ・・。

そしてシンプルな花菱紋が使われているとした場合は、義定公自身またはその近しい縁者であった可能性がグッと高まると云う事でもあるわけでしょうかね・・。イヤありがとうございますとても参考に成りました・・」私はそう言って、何となく家紋の世界の仕組みが判ったような気がした。

 

それから私はフト疑問が湧いて、小澤さんに聞いてみた。

「因みに神社などで神紋や社紋が使われるようになったのは、もっと後の事なんですか?そのぉ武士たちが使い始めた後というか・・」

「マァそういって差し支えないと思いますよ・・。元々神社というか神様を祀る社は、人間社会を超越した存在であると云う事でしたから、当初神社には位階も無かったし神紋も社紋も無かったようです・・。

ですから武士の間に家紋が浸透して、日本全国に家紋という概念が普及し定着するように成って初めて、独自の神紋や社紋を設けて他の神社や宗派のお寺と区別するために、使うようになったと云う事の様ですね・・。

因みに天皇家が『菊の御紋』を使い始めたのも鎌倉時代中期の事でしてね。それ以前は家紋のようなものは無くて、強いて言えば『日章旗』や『日月旗』を用いていた、と云う事のようです・・」と小澤さんは詳しく教えてくれた。

 

「ホゥそうだったんですか、やっぱり神様と同じで、下々の人間社会を超越した存在だった、って事だったんですかね天皇家は・・。そうだとすると天皇家が菊の紋章を使うようになったのはいったい・・」と私が更に尋ねると小澤さんは、

「菊の紋章を使い始めたのは承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇だと云われてますね。後白河法皇のお孫さんに当たる天皇というか上皇ですね・・」と応えた。

「ホゥ後白河法皇のお孫さんの後鳥羽上皇ですか・・」と私がそう呟くと、

「やはり鎌倉時代に成って武家たちが家紋をしきりに使うように成った事が影響しているんじゃないでしょうか・・。因みに後鳥羽上皇が菊の御紋を使い始めたのは、上皇自身が『菊花』を好んでいたから、と云われていますね・・」と小澤さんが説明してくれた。

「なるほどねそう云う事ですか、菊の花が後鳥羽上皇の好みだったわけなんですね・・」私は後鳥羽上皇が自分の好みの花を家紋として選んだことに、スッキリと納得してそう言った。

私達がそのような会話をしていると車はやがて三倉川が太田川に合流する地点に近づき、森町の市街地にと入って行った。

 

それから私達は太田川の川沿いに沿うように西方に下って行き、「円田」を越え遠州一の宮「小國神社」の入り口辺りの県道40号線を、更に西に向かい県道61号線から敷地川の方面に向かって行った。

その時小澤さんが、改めて私に聞いてきた。

「立花さん、ところで今回春野町にやって来た訳というか、目的は何だったんでしたか・・」と。

「目的ですか?そうですね私が春野にやって来た最大の目的は、安田義定公と秋葉山神社の関係が、一体どういう関係であったのかを知りたいと思っていた事でしょうかね・・」私はそう応えた。

「なるほど、でその成果というか収穫の程は如何でした・・。確か安田義定の家紋と秋葉山神社の社紋の類似性というか、その辺がキッカケだったと言われてましたが・・」と小澤さんが聞いてきた。

 

「ァはい、その通りです。遠江之國の國守を十四年務めた義定公の家紋が『花菱紋』で、秋葉山本宮の社紋が『剣花菱紋』ですからね、やっぱり気に成ったんですよ・・。

でも一番最初の動機はそれ以上に、越後長岡の流鏑馬の神事がきっかけで知った『秋葉三尺坊』という大修験者の事を確かめたかったから、なんですよね・・。

その三尺坊が長岡の蔵王権現と遠州春野の秋葉山に関わっていることを知って、その点がいったいどうなっているかを、自分で確かめたかったというのが最大の動機だったんですよ。実は・・」と私は説明した。

「秋葉三尺坊ですか・・。で、どうだったんです?その三尺坊に関しては・・」

 

「結論から言いますと、義定公には繋がらなかったですね『三尺坊』は・・。結局『秋葉三尺坊』に繋がったのは、秋葉山に幾つか在った坊で修行していた修験者達で、彼らが崇めていた信仰の対象がたまたま『秋葉三尺坊』だった、と云う事でしかなかったんです・・」小澤さんの質問に私はそう応えた。

「秋葉山本宮は長岡の蔵王権現とは殆ど関係なかったと、そう云う事ですか・・」小澤さんが確認するようにそう言った。

「まぁ、そう云う事ですね。秋葉山に坊を構えた修験者達が、たまたま長岡蔵王権現の大修験者『三尺坊』を信仰していたと云う事です。

因みに同じ遠州の霊山である春埜山の修験者達は『太郎坊』という大修験者を信仰していたみたいでしてね・・」私がそう言うと、小澤さんは肯きながら、

 

「なるほどね、三尺坊であろうが太郎坊であろうが修験者達にとっては、極端に言えばどちらでも良かったというわけですね、その世界のレジェンドであれば・・」と言って納得していた。

「結局そういう事のようですね。たまたま秋葉山で修行した修験者達の間では『三尺坊』だった、と云事に気が付きまして、それで・・」

「それで、興味の対象から外れてしまった、というわけですか。なるほどね・・」小澤さんはそう言いながら、ニヤリとした。

 

「マァそいう事です。しかも三尺坊信仰が活発に成ったのは江戸時代に入ってから、と云う事でしてね。それもまた・・」と私が続けると、小澤さんは、

「興味が薄れてしまった、というわけですかアハハ・・。やっぱり安田義定に繋がらないと、立花さんの興味の対象には成らないって事なんですね・・」小澤さんはそう言って、ニヤニヤした。

「やっぱりそういう事に成るんですよね、どうしても・・。今の僕にとっての関心ごとは義定公の足跡や痕跡を確かめる事や、確認する事ですからね。

それに義定公に関する記録というか事績をまともに扱っている歴史家が殆どいなかったこともあって、自分で探すしか手立てがないモンですから・・」私は弁解がましくそう言った。

 

「なるほどね、そう云う事でしたか・・。そして立花さんが安田義定の事を解明するアプローチの方法が『騎馬武者用軍馬』に関する事や、『金山開発』更には『家紋』である、ってわけですね・・」小澤さんはそう言って、私を観た。

「おっしゃる通りです。そしてそれらを具体的に確かめることが出来たのが、古い神社やお寺であるし、鎌倉時代に繋がる神社仏閣の古い石垣や石組みといったハードや、伝統芸能などのソフトだったわけです・・」私は応えた。

「確かに、木造の建築物だと風化したり火災に遭ったりする可能性は高いけど、石だったらね・・」小澤さんはそう言って木造の限界について語り、私が重視する調査の対象が石である事に納得したようであった。

「そうなんですよ。その点石の構造物や建築物はそういった心配がありませんからね・・。運が良ければ鎌倉時代までだって遡ることが出来るわけです・・。ただ伝統芸能といったソフトの場合は、ある程度その時代の空気や流行り廃りといったものが反映されてしまう事は仕方ないですけどね・・」私がそう言うと、小澤さんは、

 

「なるほど、そういう意味では金山衆が残してきたと思われる石垣や石組みは、鎌倉時代の痕跡や足跡に辿り着く手立てとしては、理想的な証拠というか根拠というか、なんですね・・」と言った。

「まぁ、運よく出遭えれば、ですけどね・・」私が言った。

「でも春野では沢山出遭えたんでしょ、立花さん・・。運が良かったんですね・・」小澤さんはそう言ってニッコリした。

「そうですね・・」私はそう言いながら、春野町で出遭った石の構造物の事を思い出した。

「先ずは『勝坂の伊出野』でしょ、『大時のお城の櫓みたいな石垣』もそうでしたよね。それに『秋葉山本宮上社の神殿の石垣』も、でしたかね・・」と、小澤さんは思いつくままそう言った。

「それに先ほどの『大久保馬主神社神殿の、背後の石垣』も、ですね。こちらは森町ですけど・・」私がそう付け加えると、小澤さんは

「かつては『大久保の金山神社』であったと、内山真龍が『遠江國風土記伝』で書き記していたという・・」と、フォローしてくれた。

「おっしゃる通りですね・・。マァ四か所も出遭えたんだから、良しとしないといけませんかね・・。金山衆に感謝しないと・・」と私が言うと、

「良かったですね結果が出て・・。ところで、越後ではどうだったんですか?」と小澤さんが更に聞いてきた。

 

私は運転しながら去年の越後上越の事を思い出して、

「そうですね、越後では何と言っても糸魚川能生町の『槙、金山神社の神殿土台の石組み』ですね、それから『上牧府殿の屋敷の石垣』そして飯田川沿いの『金山神社近くの堤防の夥しい数の石垣』といった処ですかね・・。

それから石の構造物ではありませんが、浦川原地区の『巨大な馬屋の遺跡』もそうですし、『糸魚川の舞楽』という伝統芸能も・・」と私が言うと、早速小澤さんが、

「巨大な馬屋遺跡ですか?」と、聴いてきた。私は

「そうです、『巨大な馬屋の遺跡』ですね。常時百頭近くの馬を飼育していたという遺跡が在りましてね上越市には・・。

しかもそれは平安末期から鎌倉時代初期にかけての遺跡であると・・」私はそう言いながら、上越市の主要な河川の一つである保倉川近くの遺跡の事を思い出していた。

 

「なるほど、その巨大な馬屋の遺跡が安田義定に繋がる、というわけですね・・」と小澤さんは確認するようにそう言った。 

「そうですね、実務としては馬奉行の宮道遠式が関わっていたんでしょうけどね・・」私がそうフォローすると、

「大時の『右馬之尉兼吉』のご先祖様ですか・・」小澤さんが呟くように言った。私は運転しながら肯いて、

「そうですね、その可能性は大ですね・・」と同意した。

 

その後も私達は糸魚川の舞楽について話し、引き続き越後と遠江之國の関りについて話を続けた。

そうこうしている内に、やがて車の前方に天竜川が見え始めた。

太陽は北遠の連山に沈み、周囲が次第に黄昏て来た。

行きかう車の中にはヘッドライトを点灯する車も出始めていた。

 

私達は遠州の大河である天竜川に架かる長い「浜北大橋」を渡り、浜松市の浜北区にと入って行った。その頃には私達もヘッドライトを点けるようになった。

浜北区に入ったあたりで、小澤さんは

「この辺りだと遠州鉄道が通っているから、近くの駅に停めていただければ、後は結構ですよ・・」と言ってから、

「浜北駅が良いかな」と呟くように言って、区役所を目印に行くことを教えてくれた。それから数分で私達は浜北区役所に着くことが出来た。

最後に小澤さんは、

「次に春野に来ることがあったら、是非とも連絡してください・・」と言って私に握手を求め、区役所向かいの浜北駅に向かって行った。

 

それから私は区役所横から県道391号線に乗って行き、更に国道152号線に出た。そして浜松駅近郊の、今朝まで連泊したホテル近くに在るカーシェアリングの駐車場にと向かった。

夕方のラッシュ時と云う事もあって、何回か渋滞に巻き込まれたが、それでも19時頃には着くことが出来た。

私は3泊4日の今回の遠州の取材旅行でも、それなりに成果が得られたことを素直に喜び、新しい人々との出遭いがあったことをまた喜び、感謝した。

そして何よりも義定公の足跡や痕跡が、春野町でも幾つか確認できたことを嬉しく思った。また金山衆の痕跡の数々に出遭えたことを喜び、それを噛みしめた。

私はその満たされた気持ちのまま、浜松駅で駅弁とビールを買い求め、新幹線で東京駅を目指すことにした。

ビールの栓を開けながら、次に遠州に来るのはいつに成るのだろうか、と想いながら私は車窓に流れる遠州の夜景を眺めていた。

 

 

 

              

         秋葉山本宮社紋「剣花菱」    安田義定家紋「花菱」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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