春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
      
 
       
         
 
     
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
*9月29日:「食べるコト、飲むコト」 に「バター炒め二品 」を追加しました。
*9月27日;「物語その後日譚」に「奥静岡の鶏冠(とさか)山」を、追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

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         2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      
当該編は『大野土佐日記- 蝦夷地編 -』の続編に成ります。
山梨からやってきた安田義定公や甲州金山の専門家達と「北海道砂金・金山史研究会」のメンバーたちとの交流会が、函館で行われたその続きに成ります。
大正時代以降の『北海道史』などで、偽書として扱われた『大野土佐日記』の真贋について、いよいよ解明していくことに成ります。
 
 
               【 目 次 】
        
               ①安田義定四天王
               ②頼朝の実像
               ③ご神体「金の鶏」
               ④上弦の月
               ⑤古銭は何を語るか?
    
 
- 追記:2020年6月22日 
本稿は2017年夏季に書き上げた物語であるが、この2020年6月に『蝦夷地の砂金/金山事情』なるものを執筆中に、私は明治7年に北海道開拓使の「御雇外国人」であった鉱山技師H・Sモンローが、明治政府に提出した『北海道金田地方報文』に遭遇することが出来た。
同書において鉱山技師モンローは知内川(当時は武佐川と呼ばれていた)中流域を調査し、測量し金含有量などを分析したのであったが、その彼が『大野土佐日記』を事前に読み込んだ上で現地実査を行い、荒木大学一党の痕跡を検証している。
ご興味のある方はご一読いただきたい。
 
 
 
 

安田義定四天王

 
 
「非常に論理的かつ具体的なお話し、ありがとうございました。おかげで最大の問題である『甲斐之國いはら郡』の問題が氷解したような気がします。
 
立花さんがおっしゃられる通り甲斐源氏の武将安田義定が、その平氏の目代ですか、その平氏の代官との戦いに勝利したのを発端に富士山西麓の高原地帯を実効支配し、そこで騎馬武者用の軍馬の畜産・育成や金山開発を行ったのではないか、というお考えよく理解できました。ありがとうございます」ここまで言ってから、大友さんは私に尋ねて来た。
 
「ところでお聞きしたいのですが『大野土佐日記』には、荒木大学が『甲斐之國いはら郡』の領主であった、といった記述が成されているのですが、彼がこの地の領主であった可能性はありますか?それともそのような可能性は全くないんでしょうか?お考えをお聞かせください。
ついでに概略で結構なんですが、安田義定の人物像などもわかる範囲で結構ですので、教えていただけると嬉しいんですが・・」大友さんはそう言って、マイクを置いた。
 
「はい、了解しました。
その件に関してはこちらに安田義定公のオーソリティがいらっしゃいますので、そのオーソリティの藤木さんにお答えいただいた方が宜しいのではないかと思います。
その上で補足する箇所がありましたら、改めて私からも説明させていただきたいと思います」私はそう応えて、藤木さんにマイクを渡した。
 
 
「判りました、そういう事でしたら私の方からお応えさせていただきたいと思います。宜しくお願いします」藤木さんは軽く挨拶して話を始めた。
「え~と、ご質問は『甲斐之國いはら郡』の領主が荒木大学さんであった可能性についてと、安田義定公の概略についての二点で宜しいですね?」藤木さんは大友さんに確認した上で、話しを続けた。
 
「まず荒木大学さんがいはら郡の領主であった可能性ですが、断定はできませんが否定はできないと思います。
と申しますのは、義定公は甲斐の牧ノ荘の荘園領主から出発したのですが、先ほどの立花さんのお話の通り、源平の戦いを通じて平氏追討の功により、甲斐のいち地方の領主から戦勝を重ねて行って領地を拡大していきました。
 
具体的には先ほど来の『甲斐之國いはら郡』もそうですし、遠江之國もそうです。現在の浜松や磐田、森町などのあったエリアですね。
 
更に越後之國もそうです。越後に関しては嫡男の安田義資(よしすけ)公が、越後守として頼朝から守護に任じられていますが、年齢的には27歳と若く実質的には義定公のバックアップをたくさん受けていたと思われますので、義定公の領地と考えてほぼ間違いないかと思います」藤本さんの話に北海道のメンバーから、明らかな驚きの声が挙がった。
 
「因みに義定公がいはら郡の領主に成ったのは、先ほどのお話の通り『波志太山の戦い』の勝利による、戦果としての実効支配によって獲得したものです。その後の『上井出の戦い』や『富士川の戦い』で殆ど確実なものにしたわけです。
 
次に遠江守となったのは、皆さんもお聞き及びだと思いますが、源平の戦いの緒戦といって良い『富士川の戦い』での勝利によって得た領地です。
富士川の戦いを実際に戦ったのは、甲斐源氏の義定公と四つ年上の実兄であり甲斐武田氏の家祖となった、武田信義公を中心とした甲斐源氏です。
 
 
『吾妻鑑』などでは黄瀬川に居た源頼朝や関東の源氏や御家人たちの戦いのように書かれていますが、あれは後に自分たちのご先祖の手柄のように書いたものでして、実際には甲斐源氏が単独で平氏と闘って、勝利した戦さだったのです。

それは九条関白の書かれた『玉葉』などの京の公家の書かれた、当時の日記などでも明らかです」ここでもまた、小さな驚きの声が北海道側のメンバーから聞こえた。

「それが証拠にこの富士川の戦いの後、この戦場があった駿河之國をそのまま実効支配し、後に朝廷から駿河守として公認されたのは、武田信義公であります。同様に、安田義定公が遠江守として朝廷から公認されたのです。

更にその後頼朝の鎌倉幕府によって、それぞれの領地の守護や地頭に任命されてますが、いずれも戦勝後の実効支配が先ずあって、遅れて朝廷の追認、さらに遅れて鎌倉幕府の公認といった順で、領主として追認されています」この時の藤木さんは、やや誇らしげであるように私には思えた。

 
「話を戻しますが、義定公には四天王と呼ばれた有力な家来衆が居たと伝えられています。その四天王に、義定公はそれぞれの領地を任せていたようです。
即ち本貫地である『甲斐之國牧ノ荘』を始め、平家追討の功により得た『遠江之國』『越後之國』、そして先ほどの『富士山西麓のいはら郡』の四カ所を四天王にそれぞれ、義定公の目代として管理・経営を任せていたと思われます。
 
義定公はその目代・代官として、四天王を派遣してそれぞれの領地の経営を任せていた様です。そして自らは鎌倉の頼朝の屋敷の隣に広大な居住地を構え、平時は中央に居て幕府の宿老として評定などに参加していたようです。
 
また平家追討や、奥州藤原氏との合戦といった大きな戦さの際には自軍を引き連れ、甲斐源氏の主力として或いは氏の長者として甲斐源氏一党を率い、出張って行ってます。
もちろん必要に応じて、それぞれの領地を巡回もしていたとは思いますが、基本的には四天王に任せながら、自らの領地経営をしていたようです。

その中の、富士西麓のいはら郡の領地経営を任せていた一人が、荒木大学だと推察することは出来るのです」ここまで藤木さんが話した時、杉野君が尋ねた。

 

「荒木大学様は義定公の四天王の一人だった、という事ですか?」

「いや、残念ながら大学さんは四天王ではありません。四天王は『橘田』『竹川』『岡』『武藤五郎』のメンバーで、荒木という名前は見当たらないので、該当しません。

但しこの中の『竹川』という家来は、後に毛無山の金山衆として存続し、室町時代の今川義元の御朱印にも登場して来る、名家に列なる家なのですがこの竹川家に関係する方なのではないかと、推測することは出来ます。
 
竹川家は義定公の金山経営にも関わった人物と推測できる家柄なので、荒木大学さんはこの『竹川家』に関係のある人なのではないかと思います」藤木さんが応えた。

「名字は、違ってますが?」再び杉野君が尋ねた。その問いに、藤木さんが応えた。

 

「名字の違いは、同じ一族の中で通称として使われたりする事は、よくある話なのです。実際武田信義公と安田義定公にも、同じことが起きてます。

二人は同じ源義光の孫であり兄弟でもあるのですが、常陸之國の武田ノ荘から甲斐に移った時に名乗った姓である武田の姓を、嫡子として引き継いだのは兄の信義公です。

信義公は武田信義として名乗り、以後甲斐武田家の宗家になります。
 
これに対し、新たに甲斐之國の牧ノ荘安田郷に領主として移り住んだ実弟の義定公は、安田の姓を名乗りましたのも、その例になります。

この場合でしたら四天王の『竹川家』の嫡子嫡流が竹川の姓を継承し、例えば嫡子では無かったかもしれない次男か三男が荒木の地に移った時、荒木の姓を名乗ったという事も考えられるわけです」藤木さんの説明に、杉野君も納得したようだ。

 

「ありがとうございました。そうしますと本家筋の黒川金山の開発を奉行したのが『竹川家』で、支店というか新しく開発された富士金山を奉行した大学様は、富士山西麓のいはら郡の荒木ノ荘か何処かに移って富士金山の奉行をやったために、荒木の姓を名乗ったのかもしれない、とまぁそう言ったことに成るんでしょうか・・」大友さんが改めて藤木さんに尋ねた。

「そのように考えて良いのではないかと、私は想います。現時点では仮説の域を出ませんが、そのように考えて差し支えないと思います。
その上で、今後新たに発見されるかもしれない資料や遺跡等によって検証が成され、裏付けが取れていけば良いのではないかと、私は思っています」と藤木さんが応えた。

藤木さんの説明がひと段落ついたと判断した私は、話を引き継いだ。

 

「藤木さんの話で、先ほどのご質問に応えられたと思って宜しいでしょうか?大友さん」私は大友さんに確認をした。大友さんは肯いた。

その時プロジェクトリーダーの菊地さんが手を上げ、尋ねて来た。
 
「その富士金山についての遺跡といったものや、古文書と言った様な歴史的な資料のようなものは何か残っているんでしょうか?立花さんが推測されている『長者ヶ岳』や『金山』といったエリアに・・」菊地さんの質問に私は早速応えた。

「残念なことにまだ見つかってません・・。現在富士金山で残っておりますのは、『毛無山』周辺に関する記録や鉱山跡などです。『長者ヶ岳』や『金山』といった地域に残っているのは、民話や言い伝えといった伝承レベルのものでしか、ありません。

今後将来に亘って調査研究がなされ、新たな事実や古文書や遺跡・遺構といったものが発見されることを期待する、といったところです」 

「そうですか、毛無山以外については後世に期待される、という事ですね・・。何らかの物的な証拠が見つかると良いですね。そしたら立花さんの仮説も実証される様になるんでしょうが・・」菊地さんは、素直にそう言ってマイクを置いた。

 

「ありがとうございます。ほんとに後世の研究や発見に期待をしています。山梨や静岡の研究者や郷土史研究家の方々の、今後の活躍に期待したいと思っています」私はそういって、北海道のメンバーを見ながら、

「その他に何かご質問、如何でしょうか?」と聞いた。私はもう一度彼らを見廻したが、特に反応はなかったので話を進めることにした。

「では、富士金山の話はとりあえず、ここまでに致したいと思います。続けて安田義定公についてのお話しですが、藤木さんの説明で十分ご理解いただけたかと思いますが、若干の補足説明をさせていただきます。

安田義定公という人はとても戦さが上手で、平家の追討や奥州藤原氏との戦いにおいても大活躍をしています。
戦さの下手な頼朝に比べ、戦さ上手と言われた源義経と義定公は、馬が合った様で一ノ谷の平家との戦いでも搦め手軍の大将と副将として、一緒に戦って大勝利を収めています。
大将が頼朝の名代としての義経で、副将が甲斐源氏の主力であった義定公でありました。

因みにこちらの久保田さんは、義定公の戦さ上手は公が『孫子の兵法』を習得していて、実践でも活用していたからではなかったかと、考えておられます」私が久保田さんをそう言って紹介すると、久保田さんは軽く前に向かって頭を下げた。

 

その時大友さんが小さく挙手をし、質問した。
「久保田さんがそのように推察されたのはどのようなお考えから、なんでしょうか?」と、久保田さんを見て尋ねた。

「了解です。では久保田さんに替わりましょう・・」私はそう言ってマイクを久保田さんに渡し、その質問への回答を促した。久保田さんはマイクを取ると、立ち上がって一礼をした後、話し始めた。

「山梨県の山梨市から来ましたW山梨の久保田です。先ほどの自己紹介の時にも申しましたが、俺は『雑学の久保田』と自称してるんですが、自分に興味ある事や関心のある事をいろいろ調べるのが好きな人間です。

体系的に一つのこんを調べたり研究するこちらの藤木さんの様な学者肌とは違って、ホントに興味あるこんに首を突っ込む、普通のおっちゃんです。宜しくお願いします」
久保田さんのユーモアを含んだ飾らない甲州弁交じりの挨拶に、北海道側のメンバーの顔が緩んだ。彼は人の心をつかむのが旨い人なのかもしれない、とその時私は想った。
 

久保田さんは参加者の顔をゆっくり見廻してから、自説を開陳し始めた。

「俺が、義定公が『孫子の兵法』を習得し実践でも活かしたんじゃぁないか、って思ったのは戦さ上手な義定公の、戦いの戦法に興味をもったからです。
義定公は生涯殆ど戦いに負けたこんが無く、全戦全勝と言って良い戦さ上手でした。
それも、相手が自軍より明らかに大軍であっても勝ってきました。その中でも代表的な戦いは、先ほど来出ている『波志太山の戦い』です。

この『波志太山の戦い』ってのは、後白河法皇の令旨(りょうじ)を受けて、頼朝が伊豆で北条時政と挙兵して平氏と闘って惨敗した、あの有名な『石橋山の戦い』のすぐ後にあった戦さのこんです。

頼朝の挙兵に呼応する形で、頼朝同様に後白河法皇の令旨を受けた甲斐源氏が、駿河之國に向かって進軍した時に、富士山の北麓『波志太山』で起こった戦いのこんですね」久保田さんはいかにも楽しそうに話し始めた。
 
 
「さっきの話に出て来た駿河の平氏の目代橘遠茂が、石橋山の戦いの大勝の余勢をかって、俣野景久ん等を含めた駿河・相模の平氏の大軍で、甲斐源氏を討伐しに箱根山から甲斐に向かった時に起きた戦さですね。

こん時の様子を『吾妻鑑』には、甲斐に向かった平家の大軍が、安田義定公が率いた甲斐源氏の軍勢と、偶然富士山北麓の『波志太山』の山狭の細い道で遭遇しちゃったから、戦いが始まったって、ほう書いてあるですよ。

だけんがね、こりゃぁ吾妻鑑の編者たちが『孫子の兵法』を知らんかったから、ほんな風に書いてるですよ」久保田さんはやや得意げにそう言った。 

 
「まぁ、無理もねぇっていえば無理もねぇですけどね。当時の平安時代から鎌倉時代・室町時代にかけての戦さの常道から言えば、野戦の場所っていうのは、普通大人数が集まって戦いがしやすい場所で行われるこんが、当たり前だったですからね。
 
ほの常識から言えば、フツーこんな狭いとこで戦が始まるなんて考えが及ばないもんだから、こんなとらえ方をしてるですね吾妻鑑では。
戦いの人数が多ければ多いほど、展開がし易い野ッ原や河川敷で行われたですから。

ほんだけんがこん時の戦いの場は、富士山北麓でもだだっ広い高原とかじゃなくって、山狭の細い道で、一列縦隊でしか通れねぇような狭い場所で行われた様ですね」久保田さんはここが肝心と言わんばかりに、北海道のメンバーに向かって言った。

「この戦いは兵力の数で圧倒的に劣る甲斐源氏が、戦い易い場所をあらかじめ調べておいて、ほこで待ち伏せして動きの取れない相手を壊滅させた、って戦法だったわけです。
俺はこん時の義定公の戦いを見て、ずいぶん上手いことやったじゃん、運が良かったじゃんってのんきに想ってたですよ最初は・・」
この時小さな笑いがどこかで起きた。それを聞いた久保田さんはニンマリとして話を続けた。
 
 
「ほんどうけんが、こん時の戦いの場所にずっとオレは引っ掛かってて、後んなって『孫子の兵法』をも一遍、改めて読み直してみたですよ。ほしたらやっぱり孫子に書かれていたですね、こん時と同じような戦いのし方が・・。

具体的言うと、孫子の兵法の『地形篇』に載っかてたですよ。           

多勢に無勢の時は、相手の身動きが取れん狭い場所で待ち伏せして戦うべしなんてこんがね・・」久保田さんは嬉しそうに、目を細めてそう言った。

 

「ほれから水鳥の大群の水音を使って大勝した例の富士川の戦いであった、有名な夜襲にしても、孫子の『行軍篇』にヒントが書いてあったですよね。

鳥の羽音を使って、軍勢の存在を敵に知らせるって様なこんがですね・・。こん時も義定公は、兄の武田信義公と甲斐源氏を率いて副将格で戦ってるです。ほれから、まだあるですよ。

富士川の戦いのしばらく後になって、平氏が後白河法皇とは別の令旨を朝廷から得て、平宗盛を総大将にした源氏討伐軍が、関東に向かった時のこんですね。

平の宗盛の源氏討伐軍は三河辺りまでは易々と進軍できたけんが、ほれ以上攻めてこれなんだ、っちゅうこんがあったですよね。

ほん時も浜名湖の手前に義定公を中心とした源氏の軍勢が構えて居たから、宗盛は攻め上がるこんが出来なんだですよ。浜名湖の手前は遠州の入り口ですよね、ちょうど。
これもまた、孫子の兵法に書かれてる布陣の仕方に則った、地の利を活かした戦法だったわけですよ」久保田さんは、ここでコーヒーを飲んで一息ついた。

 

「更に木曽義仲に京を追われた平氏が、京を逃れて今の神戸の福原の地に居た時に、源義経と一緒に平氏の主力をほぼ壊滅させるこんに成ったですよね。あの有名な一ノ谷の合戦のこんですね。ほん時の戦い方もほうです。

皆さんも知ってるとおもいますが、あの時義定公の軍は平家の陣の背後の搦め手から突くっていう、戦法を取ったですよ。ほうゆう戦い方は当時の武士の戦い方としては珍しい戦法だったです。

義定公の戦法は奇襲や奇策を使ったりするこんが多く、大手からの真正面の戦いより裏手からの搦め手の戦いが多かったりしてるですね。

とにかく義定公の戦法は、自分に有利な場所を意図的・計画的に選んだ上で戦って、ほの結果勝利を収めたり、相手の意表を突く戦いで勝ったりってこんがやたら多いですよ。
これは『孫氏の兵法』を活用したからだと、ほう思えるですよね。俺には」久保田さんは甲州弁でそこまで言って、満足そうな顔で私を観た。

私は彼が、自分の話は区切りがついたことを私に知らせているのだと感じて、話を引き取った。

「久保田さん、どうもありがとうございます。ちょっと砂金や金山の話とはズレましたが、安田義定公がどのような人物であるか、彼の武将としての人となりが、多少なりともご理解いただけたのではないでしょうか?」私はそう言って、質問者の大友さんを見た。
大友さんは何度か肯き、満足していることを示した。

 

 

 
                           
             
             中世の駿河之國を甲斐之國を結ぶ主要な街道
 
 
 

  

頼朝の実像

 

大友さんの反応を見て話を進めようとした時、北海道側のメンバーで十勝の大樹町から来た佐藤さんが、手を挙げて聞いてきた。

「先ほど来源頼朝はあまり戦さが強くなかった、戦さ下手であるとしゃべってられましたが、源氏の大将として平氏と闘い、鎌倉幕府を創った頼朝はあまり戦さが上手くなかった、っていうのはほんとなんだべか?

もちょっと、詳しくお話ししてくれるとありがたいだもね・・」佐藤さんは私に向かって、北海道弁を交えてそう言った。

「頼朝が戦さ下手でサムライとしての戦闘が不得手だったのは、間違いないですね。彼が中心メンバーとして前線に出て、自らが先頭に立って戦ったといって良いのは、唯一『石橋山の戦い』ぐらいのものなんですよ。

頼朝はその戦いで平家の大軍に大負けして以来、自らが戦いを指揮することが無かったことを見ても、そのことは判るんです。

より具体的な話はこちらの西島さんがご専門なので西島さんにお話ししていただきたいと思います。西島さん、お願いしても宜しいですか?」私はそう言って、西島さんの同意を得た上で、マイクを渡した。

西島さんは立ち上がると、

「では私の方から頼朝の武将としての実力というか実像と言った様なこんを、少し話させていただきたいと思います。宜しくお願いします」軽く挨拶をして、話し始めた。

 

「頼朝は源義朝の三男だから武士としての教育は幼いころから、当然受けていたことは間違えないと思います。ただ母親の実家は尾張の熱田神宮の大宮司でしたから、武門の一族の中で育ったとは言えねえわけですね。
 
頼朝は源氏の嫡流として十一・二歳の頃から朝廷に上がり、舎人として端役を務めていた様なんで武人としての鍛錬よりも、宮廷での宮仕えに成長期を費やしていたと考げえて、いいかも知れんですね。

ほれから十三歳の頃に平治の乱が勃発し、父親の義朝が平清盛の平氏に敗れ都落ちし、母親の郷里でもある尾張之國で、身を寄せた仲間に裏切られて謀殺されたですよね。

親父や異母兄たちはほこで謀殺されたり捕まって、六波羅の清盛の元に送られて処刑されたりしたですね。

ほんな中で頼朝独りが死罪を免れ、伊豆之國に流罪になったわけです・・。
なんでも清盛の乳母が頼朝の助命嘆願を強く申し入れたのを、清盛が受け入れてほれで流罪で済んだ、って事らしいです」西島さんはここまで暗記してたかのように、すらすらと話した。
 
 
「ほの後頼朝は伊豆に流されて、身分的には流人ではあったんですが、銘家の血筋を引く源氏の嫡流として、関東武者の間では『名士の嫡男』として扱われていたようです。
特に頼朝の父義朝は若い頃から相模之國鎌倉を拠点にして、名門河内源氏の嫡流として南関東の安房や上総之國・武蔵之國などの、坂東武士との関係強化を図ってたですよね。

源義朝は彼らを配下とし関東に勢力を築いていたこともあって、坂東武者達の方でも義朝の嫡男頼朝に対しては、特別の想いがあったちゅう訳です。

ほういう背景があったもんだから、『石橋山の戦い』で大敗した頼朝が逃げた先が安房之國や上総之國であって、父親以来の配下でもあった南関東の豪族や御家人達を頼った、っちゅう訳です」次第に、西島さんの説明に甲州弁が目立つようになった。

 

「頼朝はほの頃から相撲や巻狩りなどを好んで、たびたびほういう催しにも参加していたようですね。ほういうこんがあったから後年の富士の巻狩りなんかを催すように成ったのかもしれんですね。

武将としての戦歴は、三十三歳の時に平氏と戦った挙兵時の山場であった『石橋山の戦い』が実質的な初陣でしたけんど、こん時の戦いでは十倍だかの兵力だった大庭景親率いる平氏の大軍に敗れたわけです。

ほの戦さに敗れた頼朝は、わずかな近習を連れて小舟を使って伊豆半島の付け根辺りから相模湾を渡って、房総半島に逃げたっちゅう訳です。ほん時の顛末が吾妻鑑などに伝わってるですね。

頼朝はほん時の戦さで、自分の武将としての力の限界をはっきり自覚したんじゃねぇかと、私は想ってるですよ。ほんだからそれから以降、自らが戦いの前線に赴くっちゅうこんは殆どしなかったんじゃないかってね・・」西島さんはそう言って質問者である佐藤さんを見て、話を続けた。

 

「数少ないですが有名なのは『富士川の戦い』の時の黄瀬川への出向や、奥州藤原氏征伐の時に出張った、くらいのもんだったですね。

ほれだってまぁ前線で自ら戦さを指揮するっちゅうより、討伐軍が陣を構えた本陣に居て有力な武将や宿老たちと軍議をし、彼らの考えを聴き入れるっちゅう感じで、義経や義定公みてぇに前線で戦うっていうんじゃなかったです。
まぁ武人・武将としての能力は決して高くはなかったですね・・」西島さんは断定するようにそう言った。
 
「ほのこんを頼朝自身、自覚していたもんだから、武人・武将としての能力の高かった異母弟の義経や安田義定公に対する、コンプレックスを抱いてたんじゃねかって、オレは想ってます。
ほういうコンプレックスがあったから、義経や義定公に対する冷たい仕打ちが起こったじゃぁねぇかって考げえると、頼朝の行動がすんなり理解するこんができるですよ」西島さんはそう言って話を終え、着席した。
 

「なるほど、そういう事でしたか。したっけ頼朝は強い武将にコンプレックスを抱いていた、ってことなんだべな・・。いやぁ良(い)く判りました。ありがとございます」佐藤さんは西島さんに感謝の言葉を述べた。納得したようだ。続いて、菊地さんが

「武将としては頼りなかったけど、武将を束ねる能力はそれなりにあったってことですね、頼朝には」と頼朝をフォローするかのように、そう言った。

「まぁ、成長期に朝廷で宮仕えしたこんもあって、公家や天皇・法皇なんかが平氏や源氏に接する様子を観てて、ほういった武士たちを統治する仕方を学んだのかも知れんですね頼朝は・・」西島さんは菊地さんに向かってそのように応えた。

 

「話は変わりますが興味深いことに頼朝は、自分自身の領地や親衛隊とでもいうべき直轄地や、旗本みたいな直属の武士団というか家来を持っていなかったという事です。ねぇ、西島さん」私は、そう言って西島さんに同意を求めた。西島さんは、私に肯いて話を引き取った。

「ほの通りですよ、ちょっと珍しいこんですよね。甲斐源氏や北条氏は言うに及ばず、後の足利尊氏や秀吉・家康なんかとは明らかに違うこんですね。鎌倉幕府直轄の軍隊や領地はあっても、直属・子飼いの旗本や親衛隊もいなけりゃ自分の領地もなかったわけですから・・。
 
御家人っていう仕組みを作ったり守護という領国を支配する仕組みは作ったけんが、ほの御家人や守護と直接頼朝は主従の関係を作って、まぁほの領地を保証する代わりに家来にしたですよネ。間接支配というか統治をしてたですよね・・。
何んでほうゆうスタイルを取っただかは判らんですけど、ひょっとしたら北条時政なんかが、始めっから意図的にほうし向けたのかも知れんですね、頼朝に対して・・」
 
西島さんの話に参加者の間からちょっとしたざわめきが起こった。きっと想定外のことで、驚いたのだと思う。私もこの話を西島さんに聞かされた時は、正直言ってかなり驚いた記憶があったから、彼らの驚きは理解できた。
 
 
「実際、後に成って頼朝の息子の頼家や実朝・孫の公暁が、北条氏の陰謀や唆(そそのか)しで滅びていったですよね。直属の家臣団が居たらほうは成らなかったかもしれんですね・・。ほういったこんを考げえると、頼朝に間接統治を勧めてほういった武士としての力をつけさせないように、時政あたりが仕組んでたんじゃねぇかって、ほんなふうに思えて仕方ないですよ、オレは・・」

西島さんの推測は突飛もないように聞こえるが、その根拠や状況証拠を説明されると納得させられてしまうのは何故なんだろうかと、この時私は想った。

「いやぁなかなか面白いですね、西島さんのお考えは・・。確かに頼朝のイメージは、弟の義経程武将のイメージは強くないですし、何んとなくはっきりしない印象が強いのは、そういった彼の実像があったからなんですかね・・。
 
頼朝は鎌倉幕府の創始者ではあるけど、彼の死後数年で頼朝の血筋が絶え、実権が北条時政の子孫に移ったのも、今西島さんが言われたような背景があったからなんでしょうか・・。いやありがとうございました。良く理解できましたよ・・」菊地さんはそう言って、西島さんに感謝の気持ちを述べた。
 
 
「因みに頼朝の死も結構象徴的なんですが、ご存知ですか?頼朝は五二・三歳の時に相模川に架かった(相模)大橋の落成式の際に、乗ってた馬から落馬してその時の傷が原因で亡くなった、という事ですよね。
戦場を馬で疾駆するような武将ならあんまり考えられないような事が、頼朝の死の原因なんですよね・・。ねぇ西島さん」私はまた、西島さんに確認した。西島さんは軽くうなずいて同意した。
 
「では、頼朝の話はこのくらいにしておいて第一番目のテーマ『甲斐之國に庵原郡は存在したか』については、こんなところで宜しいでしょうか?」私はそういって菊地さんを始めとした北海道のメンバーに確認を取った上で、話を進めた。
 
 
「では、次のテーマに移りたいと思います。

二番目の検証レポートのテーマ『荒木大学に関する資料や史実・史跡等が存在するか』についてですが、この件については先ほどの藤木さんのお話しで、殆どご理解いただけたと思います。

先ずこのテーマにつきましては、結論から言うとNOです」私はこう言って、一旦メンバーの顔を見てから、話を続けた。

「ですが敢えて若干の補足させていただきますと、次なような事は言えると思います。先ず、資料や史跡といったものは全く見つかりませんでした。残念です。

しかし荒木大学という固有名は出てきていませんが、彼は安田義定公の家来で金山開発を担当していたと思われる四天王の一人『竹川家』の一族の一人であった、かも知れないと推測することは出来るわけです。先ほどの藤木さんのご説明であった通りです。

また、義定公が荘園などの農業用地としては、痩せた土地として殆ど評価されてなかった、富士山西麓を高く評価して、その領地である『甲斐之國いはら郡』で騎馬武者用の軍馬の育成や金山開発と言った独自の領地経営を行っています。先ほど話した通りです」
私はここで若干、弁解がましいことを言った。
 
 
「しかしながら現時点では、それを証明する史跡や痕跡は残念ながら見つかっていません。それは事実です。ですから私共としては、今後に期待するしかありません。
 
後皆さんのお仲間である富士宮市周辺の郷土史研究家や、山梨・静岡辺りの大学などの研究機関の、研究者の方々の努力に期待したいと思います。
 
また富士宮市などの自治体が、力を入れて人と時間とお金を投入すれば、何かが出てくるかもしれません。まぁ今の時点では後世に委ねるしかない、といったとこですね」私はそう言って、今後に期待するしかないことを、強調した。
 
「一応、このテーマについては、この様に考えていますが、如何でしょうか?何かご質問があれば承りますが・・」私はそう言って、菊地さんのほうを見た。菊地さんは肯きながら私に話を進めてよいといった仕草をした。
 
「特にご質問等が無ければ三番目のテーマに移りたいと思います」私はそういって確認した上で、話を進めた。

 

「三番目のテーマは『甲斐之國いはら郡八幡の別当大野了徳院は実在したかどうか』についてです。

この件につきましては『甲斐之國いはら郡八幡』を、固有の神社名として考えるのでなく、駿河之國庵原郡の内、富士山西麓エリアの八幡神社の別当と考えれば、それは十分考えられるのではないかと、思われます」私はここで手元の情報ノートで、確認しながら言った。
 
「因みに、静岡県の神社について書かれた資料に依りますと、駿河之國の庵原郡には八幡神社が大小25社ほどある事が判っています。
この中には鎌倉時代以前から創建された神社もあれば、徳川家康の時代に成ってから新たに祀られた八幡神社も含まれています。
 
山岳修験者である大野了徳院がその庵原郡に在った25の八幡神社の内の、いずれかの八幡神社の別当であったことは、十分考えられる訳です。
 
また大野了徳院が『大野土佐日記』に書かれているように、山岳修験者であるとした場合、山岳修験者と金山開発の金山(かなやま)衆の交流は大いに考えられます。
共に山に携わる者として、両者には古くから接点があったことは充分考えられるわけです。
 
実際、鶏冠山を本拠地とした黒川金山のすぐ近くの大菩薩峠周辺は、修験者の山岳道場として有名な山です。両者の接点や交流を推測することは十分出来るわけです。
 
 
更に甲州や駿河から蝦夷地への金山衆の大移動を考えた場合、日本全国の山々を修行で行き来していた修験者が、先達として彼らを蝦夷地に導いたことは大いに考えられます。荒木大学達幹部も、その様な先達が居ればきっと安心したでしょう。

またその際、大野了徳院が持っていた東日本の修験者のネットワークを活用したことも、大いに考えられます。この事は、金山衆が山で働く職業集団である事を考えますと、山路を渡り歩いて蝦夷地を目指したことも、大いにあり得るわけです。

慣れない海を行って船酔いしながら向かうより、慣れ親しんでいた山道を歩くことの方が山で生活する彼らの抵抗は少なかったでしょうし、その方が無理が無かったんじゃないかと思われます。

 

その一方で例の水炊き後の荒木外記を水先案内として、船舶での移動も行われていたと思います。すべての金山衆が山路を行った、というわけではなくって、ですね・・。

しかしそちらのルートは金山衆の幹部たちを中心にして、山路では運搬が困難な金山開発に必要な道具類や工具・機械類といったものを運んだのかもしれません。

或いは新天地である蝦夷地で生活するための、少なからぬ生活用品などを運んだことも考えられます。何しろ千人規模の人間が、新天地の蝦夷地で何もないところから生活を始めていくわけですから、そのための準備は相当なものだったと、思われます。

陸路は身軽な金堀衆を中心にし、海路は幹部たちが金山開発の道具類や生活用品と一緒に船で蝦夷地を目指したと、考えることも出来るのではないでしょうか・・。

そして両者は、あらかじめ決めておいた津軽半島や陸奥湾の何処かの港で合流した上で、蝦夷に向かったと考えるほうが、現実的ではないかと思われます。

敵対する鎌倉幕府の眼を逸らすためにも、千人規模の人間がひと固まりになって行動するよりも、分散することで怪しまれることもなく、効果的であったと思われます」私はここまで一気に話して、珈琲を飲んで一息入れた。

 

「また、鎌倉時代の初期といった時代であることを考えた場合、当時の船舶建造の技術水準では、千人規模を一気に搬送する船を建造することが出来たとは、なかなか考えられません。無理があるのではないかと思われます。

この様に考えてみますと、甲州金山衆の蝦夷地への大移動を考えた場合、修験者大野了徳院の存在は、必要不可欠な存在でありむしろキーマンであったとさえ、言うことが出来るのではないかと思われます。

黒川金山や富士金山の金山衆を、蝦夷地に移住させるという大事業を成功させるためには、修験者の先導が必要だったと考えられるのです」

このくだりに成ると、知内のメンバーは嬉しそうに何度も肯いていた。

 

                 

 

 
 

ご神体「金の鶏」

 

「最後に、先程も話に出ました『金の鶏』に関わる事をお話しします。『大野土佐日記』にも書かれているように、『金山祭りを行うために修験者の大野了徳院を連れて来た』という点です。

藤木さんがお話しされた様に、金の鶏をご神体とした金山祭りは黒川衆にとってはとても重要で、大切な神事でありイベントであったと思います。

その金山衆にとって大切な神事である金山祭りを行うために、大野了徳院を連れて来たんだ、という事も忘れてはならないと思います」私はここまで話して、北海道側のメンバーに向かって結論を述べた。

「したがって、三番目のテーマ『甲斐之國いはら郡八幡の別当大野了徳院は実在したかどうか』については、YESといって良いのではないかと思います。というか、修験者大野了徳院の協力がなかったら甲斐之國からの大規模な金山衆の大移動は、成し得なかったのではなかったかと思います。このテーマについては、以上です」
 
 
私は再度、出席者の顔を観廻して、尋ねた。
 
「・・この点について何かご質問はございませんか?」私の促しに知内の内山さんが、手を挙げて質問してきた。

「黒川金山の『金山祭り』といったものは一体どんなものだったのでしょうか?若し判っているようでしたら、是非とも教えて頂きたいんですが・・」

私は藤木さんや西島さんと短く話した上で、応えた。

「この件は藤木さんがお詳しいようなので、藤木さんにお応えいただきたいと思います」私はマイクを藤木さんに渡して着席した。

 

「『金山祭り』についてですが鎌倉時代の事はもちろん判らないのですが、現在といいますかつい数十年前までのことでしたらお話しすることが出来ます」藤木さんはまずそのように断りを入れてから、話を始めた。

「黒川金山の麓で鶏冠権現様を祀ったお祭りを執り行っておりました、一ノ瀬高橋地区の『金山祭り』についてお話しさせていただきます。
これは数年前に八十代半ばの地元の区長さんに直接お聞きした話ですが、
 
『自分たちが若い頃は、集落の在った高橋地区にある里宮鶏冠神社から、2km以上離れた鶏冠山の山頂付近にある奥宮の鶏冠権現までの山道を、村の若者数十人で黄金の鶏をご神体にした神輿を担いで、練り歩いた、練り登った』ということでした。
近年はその神輿を担ぐ担い手である若者が居なくなり、自然消滅しているようですが・・。

尚、ご神体の黄金の鶏は何で出来ていたのかをお尋ねしたところ、当時は金属製のご神体に金のメッキを施した物だったということでした。因みに言い伝えでは、古(いにしえ)の時代のご神体は本物の金で造られた『黄金の鶏』であった、ということだそうです。

区長さん曰く、ですが・・。まぁ黒川金山の金山衆の『金山祭り』のご神体ですから、当然といえば当然のことなんですがね・・。

そのご神体と同じものを先ほどの荒木大学が蝦夷地に持って行った、と考えられるわけです『金山祭り』のためにですね・・」藤木さんはそう言って、内山さんに目礼し着席した。

 

「内山さん『金山祭り』に関しては、藤木さんのご説明で宜しかったですか?」私はそう言って内山さんに確認した。内山さんが大きく頷いたので、私はそのまま話を進めようとした。その時、福佐さんが遠慮がちに手を挙げた。

私は福佐さんに向かって、

「何でしょうか?福佐さん」そう言って福佐さんにマイクを渡した。

「黒川の『鶏冠山の金山祭り』を参考にして、知内で執り行われたかも知れない『知内の金山祭り』を推測するとしたら、どのような祭りであったと推測することが出来るんだべか・・」福佐さんが藤木さんに向かって、尋ねるとも呟くとも取れるような言葉を漏らした。

「そうですね・・、黒川の場合は鶏冠山の象徴である黄金の金の鶏をご神体にした神輿を、若い金山衆が担いでた訳ですよね。

黒川衆の集落があったとされる高橋地区の『里宮鶏冠権現神社』から、2kmほどの山道を練り歩いて登り、鶏冠山の頂き近くの『奥宮鶏冠権現』に向かったと云ったような事ですから・・」藤木さんがここまで先程と同様の話をした時、西島さんが話を継いだ。

 

「黒川の場合は、里宮と奥宮の間を黄金の鶏をご神体にした神輿で練り歩いた、ってこんだからね、ほりょう参考にして知内に当てはめて考げえるとすると、金山衆が初めて上陸した『イノコ泊』はまず外せんじゃんね。何せ初上陸の記念すべき場所だから・・。

ほれからほの近くに在ったっちゅう神社、例の古銭が沢山出土したっちゅう・・」西島さんが言い淀んでいると、

「涌本神社だべか」と、福佐さんがフォローした。

「おう、ほの『涌本神社』だよ。ほこにも立ち寄ってから、さっきから話に出てる毛無嶽に在るっちゅう『あらがみどう』までの間を練り歩いたのかも知れんじゃんね・・。

もちろん黄金の鶏をご神体にした神輿を担いで、だよ。まぁ、あくまでもオレの推測だけんがね・・」西島さんは推測であることを、強調してそう言った。

「そうすると、『金山祭りの為に』蝦夷地に来たと『大野土佐日記』に書かれている修験者の大野了徳院様は、どんな役割したんだべか・・」福佐さんが誰に言うともなく、また呟いた。
 
 
「ところで『あらがみどう』の在る、『毛無嶽』というのは海抜というか標高はどのくらいあるんでしたか?」私は知内のメンバーに尋ねた。
「だべなぁ、小高い丘だから二・三百mってとこだべか?内山さん・・」福佐さんは内山さんに確認した。内山さんは腕を組みしたまま肯いた。

「その程度の高さでしたら、修験者である必然性はなかったかも知れませんね・・」私も誰に言うともなく、言った。

「確かにほうだな。だけんど『千間岳』のほうなら出番がありそうだな・・」西島さんが言った。

「確かに・・。 千間岳は渡島(おしま)で一番高い山でしたっけ1000m級の・・」私は西島さんの言わんとすることを理解して、話を続けた。

 

「いずれにしても、黒川の金山祭りを参考に知内の金山祭りを推察するならば、『イノコ泊』を出発し、『涌本神社』に立ち寄り更に『毛無嶽』の丘の『あらがみどう』まで練り歩いたのではないかと。

の場合、金山衆が中心に成って黄金の鶏をご神体にした御神輿を担いだ、と。まぁ、こんなイメージでしょうか・・」私が言った。私のとりまとめに対して、西島さんが言った。

「確かに、初めん頃は立花さんが言うようなこんだったかも知れんですね。けんど、何十年かして毛無嶽周辺で金が枯渇して、千間岳のほうに採掘の中心が移ってからは、変わったかもしれんですよ。

ほん時は、黒川の祭りみてえに里宮と奥宮とに分かれて、ほの間を神輿を担いで練り歩く、っていうか練り登ったかも知れんだよ。
ほん時はきっと大野了徳院さんも奥宮の山の祭りで活躍したかも知れんじゃんね。黒川でやったかも知れんみたように・・」

西島さんや私の推測に、福佐さんも内山さんもそれ以上は尋ねてこなかった。私達の推論にそれなりに納得したのだろうと、私は想った。

「そうしましたらこのテーマについては、このへんで終わりにさせていただきたいと思います。如何でしょうか?」私はそう言って知内のメンバーに目で確認した上で、プロジェクトチームのリーダー菊地さんのほうを見た。

菊地さんは、肯きながら私に話を進めてもよい、といった仕草をした。

 

「ではこれから四番目のテーマに移りたいと思います」私はそういって、話を進めた。

 「四番目のテーマは『二代将軍源頼家との関係についてですこの点につきましては、現実的ではないと思われます。最大の理由は、言うまでもなく年の矛盾ですね。

荒木大学らが蝦夷地に渡ったのが1205年(元久二年)と成ってますが、頼家がその前年に北条氏によって暗殺された歴史的事実は、如何ともしがたい。

『吾妻鑑』をはじめすべての歴史書にそのように明記されています。したがって、この個所は間違っていると言わざるを得ません。

それに何よりも、荒木大学らの甲州金山衆と鎌倉幕府の関係を考えた場合、このような関係が成立することは考え難いと思ってます。
 
金山衆の最大の庇護者であり、かつ大恩人あった安田義定公とその一族を滅ぼした張本人である、源頼朝の嫡子頼家と荒木大学とが親しい関係であったと考えるのには、さすがに無理があります。

あるいは面従腹反ということもあったかもしれませんが、鎌倉幕府や頼朝の嫡子頼家に対しては、怨念や恨みこそあれ、といった関係ではなかったかと思われます。

腹の底ではですね・・。従って、このテーマに関しては史実とは異なる、と言わざるを得ません。如何でしょうか?」私はそう言って北海道のメンバーに確認を取ったが、この点に関しては特に異論は出なかった。

 

「では、そういう事で次のテーマに進ませていただきます」私はそう言って、五番目のテーマに移った。

「五番目のテーマは甲州金山衆と大野土佐日記を関連づける点が他にも何かあるのかということです。

この点についてはこれまで検討してきた通りですし、先ほどの藤木さんの話や秋山館長のお話の中で出てきた通りだと思います。

話を整理する意味で申し上げますと、先ずは『毛無嶽』と『毛無山』の関係ですね。荒木大学の知内の最初の拠点があった毛無嶽と、甲斐と駿河に跨る『いはら郡』毛無山の名称の類似性ですね。

次にアイヌの襲撃を受けた時に、荒木大学が真藤寺の井戸に投げ込んだと言われている『金の鶏』の存在です。

荒木大学が大事にして保管していたのが『金の鶏』であり、黒川金山で黒川衆が尊崇した『鶏冠山権現』のご神体も同じ『金の鶏』であった、という共通点ですね。先ほど藤木さんがご指摘、ご説明された通りです。

 

更に先ほど西島さんも言われましたが、知内の金山でもある『千軒岳』と同じ名前の山が甲斐之國の黒川金山の周辺にも在る、といった点ですね。

北海道ではアイヌが使っていた山や川・土地の名称をそのまま漢字に当てはめてることが多いんですが、そういった中に明らかに内地での名前を転用している、と思われる名称があるわけですから、そこには何らかの明確な理由があったと思ってしかるべきですね。

この千軒岳といった名称も、そのように考えても良いのではないかと思っています。

要するにアイヌの名称ではなく黒川衆にとって、意味のある金山開発に連なる名称を付けたんではなかったのか、と言う事ですね」私はここでいったん区切って、改めて参加者の顔を見廻したうえで、話を続けた。

 

「またこれは、今後の確認作業が必要な事だと思いますが、中国から渡って来た知内と黒川の渡来銭の分析結果を、比較検証することがポイントになってくるんじゃないかって私は思います。

例の『涌本神社』近くの道路工事の時に発見された古銭と、黒川金山の遺跡で発見されたという古銭との、類似性と相違性を比較検証することですね。

知内で発見された古銭と黒川遺跡から出土した古銭とを考古学的に比較検証することが、何よりも重要になってくるんじゃないかと、私は想っています。その結果両者の類似性と相違点とが、明確になって来るのではないかと思うんですよね。

まぁ、この点については秋山館長にお願いするしかないんですが・・」私はそう言って秋山館長の方を見た。館長は判っている、といったように肯いた。

 

「いずれにしましても知内の地名や伝説に連なる名前と、黒川金山や富士金山に関わる地名、更にはお祭りのご神体が繋がっている重なっているといった類似性を、無視することは出来ないと思います。

これらの多くは、私が山梨で調べてきたこと以上に、今日ここで行われました情報交換や交流の場で、新たに明らかになった点が少なからずあったと思います。私はもちろん、こちらの山梨から来ていただいた面々も、きっと同じ様にそう思ってられる事でしょう。 

また知内をはじめとした北海道側のご出席者の方々も、その点は同じように感じられたのではないかと、思います」私はそう言って、もう一度出席者の顔を見廻した。参加者は山梨のメンバーも北海道のメンバーも皆、肯いていた。

「その意味では、我々はとてもラッキーだったのかもしれません。いくつかの新しい発見がなされた場に居合わせ、異なる地域の出席者がこうやってお遭いすることで起きた化学反応が発生したその場面に、偶然とはいえ居合わすことが出来たわけですから・・」私はそう言って、このテーマに区切りをつけた。

「五番目の課題については、ここまでとさせていただきます」

 

「最後に、六番目のテーマであります大野土佐日記』に対する山梨側視点での総合評価、について、言及させていただきたいと思います」

「まぁこの点に関しましても、先ほど来の山梨のご出席者の方々の反応を見ていただければお判りなように、全体的には『大野土佐日記』を大筋では認めていらっしゃる、と思います」私の話に山梨のメンバーは皆、相槌を打った。

「取り分け冒頭部に書かれている部分、即ち鎌倉時代の初期に甲州金山衆が蝦夷地の知内にやってきたという伝承に関しましては、大筋では信用してよいのではないかとそのように思ってられるのではないか、と思います。一部を除いてですがね・・。

その一部とは言うまでもないことですが、先ほど来申し上げている二代将軍源頼家と荒木大学の関係を除いて、ですね。それで宜しいですか?」私は山梨側のメンバーに確認しながら、話を続けた。

 

「そして何より私達が注目しているのは、この『大野土佐日記』の存在によってこれまで長く不明とされてきた、甲州金山の歴史に生じたミステリー、即ち安田義定公滅亡後の鎌倉時代初期から、武田信玄公の戦国時代までの間に生じた、金山開発の二・三百年の空白期間。
 
これまでハッキリしていなかったこの点を解明するのに『大野土佐日記』が非常に役に立つのではないか、ということです。

更に言えば地元で長らく伝承されて来たように、黒川金山の開発時期が鎌倉時代初期の義定公の頃にまで、遡ることが出来るのではないかと思われるわけです。

そういったことを裏付ける有力な資料として、この『大野土佐日記』を位置づけることが出来るのではないか、と思います」私のこの発言に、西島さんを始めとした山梨側のメンバーは皆大きく肯いた。

 

「鎌倉時代初期の、黒川金山の開発を裏付ける遺品や遺跡といったものが乏しいために、これまで歴史家の間では定説に成り得なかった点が、『大野土佐日記』を始めとした知内の金山開発の伝承や考古学的な証拠の出現に依って、近い将来確信と成って評価される日が来るのではないかと、期待されるわけです。

 
そして、その際にポイントとなるのは伝承や伝説、といった民俗学的なエビデンスや歴史学的な考察もさることながら、やはり考古学的な検証が大きな役割を果たすことになるのではないか、と思います。

そういう意味では先ほど頂いた知内の渡来古銭の分析データと、黒川の遺跡から発掘された古銭のデータの突合せが、改めて重要な意味を持ってくるのではないかと私は想っています。しつこいようですが、秋山館長の今後に期待するところが大きいわけです。

決してプレッシャーではありませんので、その点ご理解のほど、宜しくお願いします」

私は出来るだけ穏やかに、そう言って館長に念を押した。館長は大丈夫だという様に、ここでも大きく頷いた。

 

「なお、秋山館長から古銭の比較分析結果が出ましたら、知内の皆さんを初め『北海道砂金・金山研究会』のプロジェクトチームにも送らせていただきたいと、思っています。

西島さん、それで宜しいですよね」私は山梨側のリーダーでもある西島さんに確認を取った上で、私の報告を締めるために言った。

「では以上をもちまして、私からの『検証レポート』に基づくご報告は終わらせていただきます。長時間に亘ってのご清聴、ありがとうございました」私はそういって深々と頭を下げた。出席者からは拍手が起こった。

 

 

                 

 

 

上弦の月

 

私からマイクを引き取った菊地さんが、私に向かって言った。

「いやぁ~、立花さんご苦労様ですそしてありがとうございました。面白かったです。今回皆さんに山梨からわざわざ北海道まで来ていただいて、ほんとに佳(い)かったです。

あ、いかったってのは北海道弁でして、佳(よ)かったという意味です。決して怒ってるって意味ではございません。その点誤解なきようお願いします」

菊地さんのユーモアを交えた感謝の弁に山梨側のメンバーから笑いが起きた。会場に何となく緊張が緩んだ空気が流れた。

 

「もちろん現時点では民俗学的な検証や歴史学的な検証が中心ですが、古銭の存在によりどうやら考古学的な検証も可能になりそうです。私達もその分析結果を心待ちにしてます。

やはりデジタルな物証といいますか考古学的な検証データが有ると無いとでは、説得力や影響力が大きく違ってきます。
ういう意味では、私達からも秋山館長のご報告ご連絡を心待ちにしています」菊地さんは秋山さんに深く頭を下げたうえで、話を進めた。
 
「さて、立花さんの『検証レポート』報告を終えたことで、本日の情報交換会の課題といいましょうか、目的はほぼ達せられたものと思います。
今回の情報交換会は私達の研究会にはもちろんのこと、山梨の方々にも少なからぬ収穫があったものと思っています。

北海道だけ、山梨だけでそれぞれ個別にバラバラにやっていただけでしたら、決して得られなかった成果が得られたものと確信しています。先程立花さんが言われたように、私は化学反応が起きたのだと思っています。

それが今回の成果となって、実りあるものになったのではないかと思っています。改めて、山梨の皆様に感謝いたします。ありがとうございました」菊池さんはここで山梨のメンバーに頭を下げて、感謝の気持ちを現した。続けて隣の杉野君に向かって言った。

「そして杉野さん、ありがとうございました。あなたからの熱い想いや問題提起があったからこそ、今回の交流会が実現しこうして『大野土佐日記』に対する、従来の評価・定説を覆すことに成るかもしれない事実や推論がいくつも明らかになり、誕生もしてきました。ホントにご苦労様でした」菊地さんはそう言って杉野君をねぎらった。

 

そして、ガラリと口調を変えて言った。

「さて、皆さん時間も6時近くになりました。この会議室の予約時間が間もなく終了します。タイムアップです。そこで、これから二次会と申しましょうか、懇親会に移りたいと思っています。如何でしょうか?」

菊地さんがそう言って皆を見廻した時、会場からは大きな拍手が起こった。皆、この時間を楽しみに待っていたようだ。

「懇親会はここから会場を移しますので、6時半からの開始を予定しています。尚、懇親会のセッティングは地元の杉野さんに任せていますので、詳細は杉野さんに話していただきたいと思います。
また、この後のことは杉野さんに仕切っていただこうと思います。杉野さん、宜しくお願いします」菊地さんはそう言って、マイクを杉野君に移した。
 
 
マイクを握った杉野君は休憩をはさんで、6時15分に1階のエスカレータ付近に集合するよう皆に案内した。このホテルは低層部が商業施設になっていて、エスカレータが設置されているのだ。
そのメインエントランスの近くにあるエスカレータ付近に集合するように、と彼は言ったのだった。
 
懇親会場はホテルから歩いて10分もかからない小料理屋で、市役所に向かう途中の落ち着いた飲食店が集積するエリアに在る、ということであった。

懇親会の会場となるその店は地元函館を中心とした道南渡島の食材を使った、魚介類の料理が自慢の地産地消型の小料理屋であることを、杉野君は強調した。

海のない山梨からのメンバーにとって、それは喜ばしいことであるに違いないと私は杉野君の選択を喜んだ。

 

杉野君の懇親会の案内が終わった後、菊地さんが締めの挨拶をした。北海道のメンバーからも山梨からのメンバーからも共に大きな拍手が出た。今日の情報交換会に多くのメンバーが、満足していた証だと私は感じた。

その後自然解散になり、私達はそれぞれの所用を終えた後で改めてエスカレーター前に集合した。それから杉野君の案内で、函館の街に向かった。

七月の北海道は日が長く、6時半を過ぎてもまだ充分明るかった。

 

懇親会場では座席をあらかじめ決めることなく、それぞれの意思に任せて席に着いた。先ほどの情報交換の場で、出席メンバーの専門知識や特徴・個性が充分出席者の間には浸透していたこともあり、敢えてそのようにセッティングをしたのだ。

その考えは杉野君と私とで話し合い、菊地さんと西島さんにも事前了承をとっておいた。目的意識や問題意識の高いメンバー同士ということもあって、懇親会は大いに盛り上がった。誰一人として、孤立する人はいなかった。

四つあったテーブルにはそれぞれ人が集い、また席を移動する人もあり、議論や会話が随所で盛んにおこなわれ、時に大きな笑い声が起きることもあった。

メンバー間で交流がスムーズ、かつ活発に行われていた。

懇親会の名にふさわしい時間がゆっくり流れていった。
その日は10時過ぎまで小料理屋で懇親会を行い、再度締めを行ったうえで解散となった。

ほとんどのメンバーはホテルに戻ることもなく杉野君の案内で、三次会に向かうことになった。もちろん私もその中の一人であった。

三次会の店に向かう途中、上弦の月を津軽海峡側の空に見ることが出来た。

 

その時私はフト学生時代にあった、嵐山渡月橋でのあの歌会のことを思い出した。あの時の月は京都で観た中秋の満月であったが、今日は北海道に来てこうして杉野君と共に二人で上弦の月を眺めて歩いている。

私達は当時のことを語りながら、暗くなった函館の街に消えて行った。

 

 

 

 

    「北海道知内町涌元の道路工事で昭和26年に発見された渡来古銭の内訳」

古銭名

初鋳年

 枚数 

古銭名

初鋳年

 枚数

古銭名

初鋳年

 枚数

開元通宝

 621

  53  

至和元宝

1054

   4

紹熈元宝

1190

   0

乾元重宝

 758

   0

至和通宝

1054

   4

慶元通宝

1195

   0

光天元宝

 918

   0

嘉祐元宝

1056

   7

嘉泰通宝

1201

   0

乾徳元宝

 919

   1

嘉祐通宝

1056

  17

開禧通宝

1205

   0

周通元宝

 955

   1

治平元宝

1064

  11

嘉定通宝

1208

   3

唐国通宝

 959

   0

治平通宝

1064

   7

紹定通宝

1228

   0

宋通元宝

 960

   0

熈寧元宝

1068

  87

端平通宝

1234

   0

太平通宝

 976

   2

元豊通宝

1078

 109 

嘉熈通宝

1237

   0

天福鎮宝

 984

   1

元祐通宝

1086

  74

淳祐元宝

1241

   1

淳化元宝

 990

   6

紹聖元宝

1094

  21

皇宋元宝

1253

   1

至道元宝

 995

  10

元符通宝

1098

   8

開慶通宝

1259

   0

咸平元宝

 998

   7 

聖宋元宝

1101

  24

景定元宝

1260

   0

景徳元宝

1004

  20

大観通宝

1107

   5

咸淳元宝

1265

   3

祥符元宝

1008

  29

政和通宝

1111

  23

至大通宝

1310

   0

祥符通宝

1008

  12

宣和通宝

1119

   0

開泰元宝

1324

   1

天禧通宝

1017

  15

紹興元宝

1131

   0

大中通宝

1361

   0

天聖元宝

1023

  50

紹興通宝

1131

   0

洪武通宝

1368

  20

明道元宝

1032

   2

正隆元宝

1157

   1

永楽通宝

1408

 205

景祐元宝

1034

  22

淳熈元宝

1174

   0

宣徳通宝

1433

   3

皇宋通宝

1038

 121

大定通宝

1178

   0

朝鮮通宝

1423

   0

 

 

 

 

 

 

その他/不明

 

   5

 

 

 

 

 

 

  合  計

 

 996

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

         出典:『知内涌元古銭の調査研究』函館工業高等専門学校埋蔵文化財研究会

             註:上表は、函館高専の発表結果を筆者が加工作成したものである。

開禧通宝(1205年)の鋳造年は、荒木大学が知内に来た年とされている。

従って中国からの渡来銭が日本に入った年次のタイムラグを考えると、10~20年は遡ったそれ以前に鋳造された渡来銭が、荒木大学一党が持ち込んだ可能性のある銭種であると考える事が出来る。

 
 
 

古銭は何を語るか

 

函館での交流会を終えて十日ほど経った日に、「甲州金山博物館」の秋山館長から連絡が入った。

知内で発掘された「涌元古銭」を函館高専の学生サークルのメンバーが分析したデータと、黒川金山遺跡の発掘調査の際に出土した「黒川古銭」の分析データを比較した調査結果が、判明したのだった。

秋山館長の声が興奮気味であったことから、私は良い結果が出たのだろうと推測した。館長は理系の人間ということもあってか、西島さんや私のような文系の人間と違って、論理的でデータを重視する冷静沈着な人である。
その彼が感情を隠さなかったことに、私はある種の期待感を抱いた。

秋山館長の話の概略は以下のようなものであった。

 

二つの古銭群を製造年別に分類した結果、多くの類似性がみられたと云うことであった。函館での情報交換会の際にも言っていたが、荒木大学達が知内に上陸したとされる1205年(元久二年)を境に、

①  両者の古銭の枚数を分類したところ、上陸以前に鋳造された古銭の分布状況は「知内涌元古銭」が996枚中の754枚で75.7%であるのに対し、「黒川古銭」は87枚中の66枚で75.9%であった。

上陸以後の古銭は「知内涌元古銭」が237枚で23.8%、「黒川古銭」が10枚で11.6%であった。

②  銅銭の種類を同様の区分で分類したところ上陸以前の銅銭は「知内涌元古銭75.7%、「黒川古銭」76%であった。

上陸後はそれぞれ24.3%、24.1%であった。

二つの古銭群の分布状況はほとんど同じ結果を示している、ということであった。尚黒川古銭では判読不明の古銭があるため、計算対象外のものもあるという事であった。
 
 
この事は、この時代の日本全国での銅銭の分布状況との比較検討が必要ではあろうが、甲州の標高1700m級の山中の黒川金山の遺跡から発掘された古銭の種類と、北海道知内の海岸近くで発見された古銭の種類とが、その立地場所の著しいギャップがあるにも関わらず出土枚数及び銭種が、同じ分布状況を示しているということである。
 
更に両者の古銭の鋳造が同じ年のもの、すなわち同じ年に鋳造された銅銭の種類がどれだけ重複するかを調べたところ、黒川で発掘された古銭全87枚23種類の内20種類、実に87%が知内で発見された古銭と重複することが判った。
 
すなわち古銭全体の分布状況もさることながら、黒川の遺跡から発掘された古銭87枚の内鋳造年が共通する古銭の87%が、知内で発見された古銭と同じ銭種であり、両者の古銭の種類の相当数が一致すると考えることが出来そうである、との事であった。
 
 
「函館の時の西島さん流に言えば、知内の古銭と黒川の古銭の混ざり具合が一番似ている、という事だよ」と秋山館長は笑いながら言った。

その上で「甲州の標高1,700m級の山の中にある黒川金山の鉱山地区で流通していた古銭と、混ざり具合が殆ど一緒の古銭が1,000km以上離れた蝦夷地の、津軽海峡近くの海岸の集落でも流通していた、ということに成る」と。そして、

「この事は黒川金山に関わる人達が、蝦夷地に渡った可能性が非常に高いことを裏付けるエビデンスに成り得るのではないか、と言って差し支えなさそうだ」
秋山館長はそのように言い、黒川と知内の古銭群の分類分析表の詳細を改めてメールで送ることを約束してくれた。

 その際秋山館長は館長の勤めている「湯之奥金山」の発掘現場から採集された古銭と、黒川金山の在る同じ甲州市内でも、黒川金山とは全く隔たった別の場所、即ち甲州市塩山千野地区でも大量の古銭が発見されてることから、それらのデータと比較検討してみたいと言っていた。

「『湯之奥金山古銭』と『塩山千野古銭』の古銭分析を加えることで、甲州=山梨県で発掘発見された古銭と、『知内涌元古銭』との更なる関係の特徴や傾向が明らかになるのではないか、と思っている」と付け加えていた。

「残念なのは、館長の地元の「湯之奥金山」で発掘発見された古銭は8枚しかないから、比較検討するのにはデータ不足感があるのは否めない・・」と言ってはいたが。

 

因みに、秋山館長が言っていた塩山千野地区の古銭群と云うのは、現在の甲州市の母体でもある旧塩山市が、平成の大合併前に作成した公文書『塩山市史―文化財編―』に記載されている、旧塩山市千野地区で発見された古銭9,370枚のことであった

黒川金山の採掘現場で発掘された87枚の108倍の量である。
 
その大量の古銭が発見された千野地区は旧塩山市のほぼ中央地区にあり、市街地といってよい平地であり、黒川古銭群の発掘された山の中の金鉱とは、明らかに異なる生活環境であり立地だという。

塩山市千野地区は黒川金山から直線で12kmほど南下した、標高差1,000m以上さがったJR中央本線にそう遠くない里である。

標高1,700m級の黒川山中の金山採掘現場で流通していた古銭群と、甲府盆地の市街地の一画である塩山の里で発見された古銭群との比較が、より一層知内との関連性を明確にしてくれるのではないかと館長は期待しているのであった。

 

私はこの秋山館長からの連絡を聞き、館長同様に興奮を覚えた。いよいよ荒木大学を始めとした黒川衆を核にした甲州金山衆が、知内に大移動したことがこの古銭の比較分析によって、証明されるのではないかと思ったからである。

しかもその大移動の年代は古銭が示しているように、1205年(元久二年)前後と云っても良さそうであると思ったからである。

このことを知れば、知内のメンバーを始め「北海道砂金・金山史研究会」のメンバーもきっと喜ぶだろうと、想った。

そして何よりも、八百年近く『大野土佐日記』を守り続けてきた、雷公神社の宮司である大野家の人々を始めとした、知内の人達も同様であろうと・・。

秋山館長からの連絡を受けた私は、さっそく函館の杉野君に第一報を伝えておいた。もちろん、杉野君も喜んでいた。いや興奮していたといったほうが的確だった。

杉野君には秋山館長からの古銭の分析結果が入手出来たら、早々にデータを転送することを約束しておいた。北海道でのそこから先のことは、彼に任せておけばよいだろうと、私は想った。

 

その夜私は独りで祝杯を挙げ、喜びを噛みしめた。真夏の暑い夜であったがマンション八階のベランダに出て、ロッキングチェアに揺れながら三多摩の夜景を眼下に見下ろし、ワインを呑んで独り祝った。

ワインは甲州勝沼産の地ワインの白であった。

そして肴は、函館で買い求めてきた「鮭のトバ」であった。

市街地とは逆の山梨に向かう山側に、満月が掛かっていた。

満月の後背とでもいうべき夜空は、黒に近い深い紫であったか・・。山の容(かたち)が濃い緑のシルエットに観えた。

その時私は唐の詩人李白の「月下独酌」という漢詩を思い出しながら、八百年前の甲斐源氏安田義定や、黒川衆の頭領荒木大学に想いを馳せた。  

 

 

   

 

 

 

 

 

 




〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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