春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
【 閲覧可能範囲 】
 
・過去半年間の公開済み作品が閲覧可能。
 更新は月単位に成ります。
・ジャンルは「コラム類」「物語類」
 
 
 

 
 
 
 
 
【 閲覧可能範囲 】
 
・過去の牛歩作品(アーカイブ)すべてが閲覧できます。
・ジャンルは「コラム類」「物語類」
・月刊インフォメーションpaper
・新しい作品
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 【 会員の条件 】
 
1.募集会員数:100人
2.入会金  :5千円(日本)/50弗(米ドル)/50€(ユーロ)
       50£(英ポンド)/50カナダ弗/500元(中国)
3.半年会費 :上記各国基本通貨に対して@10/月×6ヶ月分
       が基本。日本円は@千円/月、中国元@百元/月
      ex 6千円/60弗/60€/60£/60カナダ弗/6百元
        *指定口座に、入会希望月の前月までに入金。
         詳細は会員申込者に対して、個別にお伝えします。
 
4.会員規約への同意
      :入会時に「会員規約」への同意が必要です。
.会員フロー :①入会意思の伝達 ②申込書の送付&記入 
       ③会員規約への同意④入会費&半年入会費入金 
       ⑤会員ID&PW等送付 ⇒ 利用開始
 

  
 【 会員の特典 】
 
.入会時に『甲斐源氏安田義定駿河、遠江の國』を1冊贈呈。
.半年会員の更新時に:春丘牛歩作品から、1冊贈呈。
.半年会員に「月刊インフォメーションpaper」をネット配信。
 
 
 
 
 【 第一部 : 『 甲斐之國牧之荘 』 】 は、
 
   『 勝沼ぶどうの丘編 』と『 黒川金山編 』とによって構成されています。
 そのうち当該編は『勝沼ぶどうの丘編に成ります。
安田義定公と京都祇園神社や伏見稲荷大社との関係を探ってきた主人公(立花)が、改めて山梨県を訪れ旧知の義定公研究者である郷土史研究家達との間で、「祇園神社や祇園祭と義定公との関わり」等の情報共有を行うと共に、「義定公の五奉行」についての新たな情報を藤木さんから受け、義定公の領地経営の実態が少しづつ明らかに成ってきます。
 
           — 目次 —
       1.プロローグ
       2.勝沼ぶどうの丘
       4.義定公五奉行
       5.人材登用
 

プロローグ

 

その日の17時過ぎに私はJR中央線勝沼ぶどうの郷駅で、特急かいじ号を降りた。

駅前のロータリーでは、久保田さんが待っていてくれた。

迎えの車に乗ると、久保田さんは私を早速「勝沼ぶどうの丘」に連れて行ってくれた。「ぶどうの丘」では西島さんと藤木さんとが、私たちの到着を待っていてくれることに成っていた。

この三人はいずれも山梨県郷土史研究会のメンバーで、鎌倉時代の甲斐源氏の武将安田義定公の研究者達であった。久保田さんは私と同世代の60代前半で、西島さんと藤木さんは共に70代前半であった。

私は彼らと二年ほど前に知り合ってから、共に函館や静岡県を旅行している間柄で義定公の研究仲間であった。いずれも八百年前の甲斐源氏安田義定公に関連する史跡や痕跡を求めるための、いわば歴史検証旅行とでもいう、一種のフィールドワークであった。

彼らとはほぼ一年ぶりに逢うことに成った。去年の富士山西麓や遠州地方を共に訪れて以来のことである。もちろんその間もメールやケータイでのやり取りは続けていたが、面と向かってお会いするのは殆ど一年ぶりであった。

今回は私が去年の秋ごろから進めていた京都祇園神社と安田義定公との関係を調べた事の報告と、その間彼らが個別に進めていた義定公に関する調査結果の情報交換を行う事と、義定公の本拠地甲斐の國牧之荘安田之郷を探訪する事とが、主たる目的であった。

 

「勝沼ぶどうの丘」はブドウの栽培やワイン造りが盛んな、かつての勝沼町現在は甲州市勝沼町の小高い丘に在る観光商業施設で、勝沼地区で作られる殆どすべてのワインを味わうことが出来る、ワイン中心のテーマ型商業施設である。ワインの物販と試飲・レストランを核にキャンプ場や天然温泉まで備えたホテルも併設している、総合観光施設である。

私達はぶどう狩りの観光シーズンが本格化する、九月下旬の数週間前のタイミングを計って、この観光施設で情報交換会を行う予定を立てていたのだった。

九月の連休の直前の平日という事で、何とか施設内のホテルも確保することが出来た。今日はレストランで食事を兼ねた情報交換会を中心に行うことに成っていた。

そして明日にはかつての義定公の本貫地である牧之荘安田之郷の縁(えにし)の地や、黒川金山(かなやま)衆の本拠地「鶏冠山の金山跡地」をも訪れる予定を立てていた。

 

周りをブドウ畑に囲まれた「ぶどうの丘」はかつての里山級の丘の頂上を切り開いて開発された施設で、坂道を登り切った場所からは富士山や甲府盆地・南アルプスがよく見渡せる眺望の良い場所であった。

あいにく富士山には厚い雲が架かっていてその雄姿を見ることはできなかったが、時間の経過とともに見ることが出来るだろうと久保田さんが慰めがてら解説してくれた。

 

 

 

 

勝沼ぶどうの丘

 

JR駅から10分もしないうちに車はぶどうの丘の駐車場に着いた。

正面玄関から入り、物販のコーナーに入ると西島さんと藤木さんとが、ワインの品定めをしているところだった。

私達が二人に向かって近づいていくと、西島さん達も我々に気づいたらしくニコニコしながら軽く手を振ってきた。

あいさつしながら近づくと二人ともすでに赤い顔をしていた。どうやら地下のワインカーヴで勝沼地ワインの試飲でもしてきたのだろう、と思われた。

私もかつて利用したことがあるが、この商業施設の地下にはワインの蔵(カーヴ)が在ってそこには数万本のワインが貯蔵してあり、千円ちょっとの料金で試飲をすることが出来るのだった。

 

十数年前に初めてこの「ぶどうの丘」に来た時は、私もまだ四十代後半と若かったこともあって、四十分だかの制限時間内にカーヴにストックされていた、「赤」「白」「ロゼ」の三種類のワインを一口ずつであったが二百種類ほど片っ端から試飲し、自分の好みに合う銘柄を探したものだ。

もちろんその時はすっかり酔ってしまい、百本目を越したあたりから舌がかなり鈍感になってしまった記憶がある。最後は殆ど意地で試飲を続けた。

西島さんと藤木さんがワインを購入している間に私達は、ホテルのチェックインの手続きを済ませ、荷物を片付けるべく部屋に入った。部屋はツインベッドのルームで、久保田さんとは相部屋であった。

荷物を収めてから再び物販のコーナーに行き西島さんたちに合流し、皆で連れ立ってレストランにと向かった。

 

レストランでは甲府盆地を見下ろせる側のテーブルを確保した。

秋分の日にはまだ数日あったが、あと一時間もしないで日没が予測されることから、眼下に甲府盆地の夜景を楽しめるこちらの席に向かったのだ。

久々の再会を祝して、ビールで乾杯をした。

ワインと食べ物のセレクトに関しては今回も地元の久保田さんの博識にゆだねた。雑学の久保田さんの本領発揮であった。

乾杯のグラスを飲み干して、さっそく西島さんが私に言ってきた。

「立花さん、この前送ってくれた京都祇園祭と安田義定公のレポートなかなか面白かったよ。よく色々調べたジャンけ、お疲れ様・・」西島さんの労らいに藤木さんも久保田さんもにこにこと肯いた。

「立花さんは図書館や資料館でうまい具合に、よく見つけてくるじゃんね・・。なんか秘訣でもあるだけ?」久保田さんが早速聞いてきた。

「いやぁ~、特に何があるわけでは無いですよ」私が応えた。

「ほれでも何ンかあるじゃねえだけ?」久保田さんが重ねて聞いてきた。

 

「いやいや、ほんとに特別のことは無いですよ。僕がやってるのは図書館や資料館に行って、該当する箇所を端から端まで隈なくチェックして、面白そうなタイトルを選んで目次を見るくらいですよ」私は言った。

「悉皆(しっかい)調査をされるですか?」藤木さんが聞いてきた。

「そうですね、関心のあるコーナーの、一応すべての蔵書に目を通します」

「めんどくさく無ぇけ?」久保田さんが呟いた。

「そりゃまぁそうかもしれませんが、僕は昔っから網羅的に全体をチェックだけはするんですよ、一通り・・。でないと、何となく落ち着かないんですよね、チェック漏れがあったりするんじゃないかと・・」私はそう言った。

 

「今回は祇園神社のスタッフにヒヤリングしてから始めたんだっけね、確か・・」西島さんが聞いてきた。

「あはい、そうです。権禰宜(ごんねぎ)で文教部の主任を兼ねた仲原さんとおっしゃる方にですね・・」私が応えた。

「やっぱり義定公と祇園神社の関係について聞いてみてぇって、事前にアポを取ってから行ったんだかい?」西島さんが聞いてきた。

「そうですね、事前に連絡を取ってどんな事をお尋ねしたいかをお伝えした上で、ヒヤリングさせてもらいました・・」私が言った。

「初めての人ずら?よく判ったジャンけほの人のコン・・」久保田さんが言った。

「もちろん初めてですよ、でも社務所の総務辺りの窓口でちゃんと事情を話せば、しかるべき人を紹介してもらう事は出来るんですよ」私はさらりと応えた。

 

「スムーズに行ったんかい?」西島さんが聞いてきた。

「いやぁ~たまたまですよ祇園神社ではですね。たまたま応対してくれた人が真面目というか面倒くさがらないで、誠実に応対してもらったのでラッキーだったんですよ・・」私が言った。

「ほういう、まじめな人ばっかじゃ無えらに・・」西島さんが呟いた。

「あはっ、おっしゃる通りですよホントに相手次第ですね。現に伏見稲荷ではあまりまともな対応してもらえなかったですからね」私は去年の暮れと今年の二月に京都を訪ねた時の事を話した。

 

「どんなこと言われたで、伏見稲荷じゃぁ・・」久保田さんが身を乗り出して聞いてきた。

「そうですね、まぁ僕は祇園神社の時と同じように事前にアポを取りに行っただけなんですけどね、鎌倉時代初期という事で安田義定公の名前を出したんですが、応仁の乱以前の資料は殆ど残ってないという事で、ケンモホロロでしたね伏見では」私はその時のことを思い出しながら言った。

「やっぱり相手に依るんでしょうね対応された・・。でもまぁ祇園神社では結構収穫があったみたいで良かったじゃないですか・・」藤木さんが慰めるようにそう言った。

「確かにそうですよね、あの権禰宜さんは親切で丁寧にいろいろ教えてくれました、助かりましたよ・・」私は長身細面の権禰宜の仲原さんの顔を思い出しながらそう応えた。

 

「まぁ、相手も立場があるから立花さんが期待した応えを聞けたかどうかは別にして、ほれでも義定公と祇園祭に関するヒントを、幾つか示唆してもらえたみてぇで良かったじゃんけ・・」西島さんが言った。

「そうですね特に鎌倉時代の古図『元徳の古図』は役に立ちましたね、それから『綾傘鉾や『八幡山に関する情報も・・。八幡山について教えてもらった時はホントにびっくりしましたよ。

曳山の八幡宮が金箔で造られてたとか、ご神体が騎馬に乗った応神天皇像だとか、まさかそこまでとは、さすがに僕も思ってませんでしたからね・・。

まぁ祇園神社には八幡宮が鎮座してたり、八幡神社絡みだから義定公との関係が何かあるだろうとは、想っていましたけどね・・」私は祇園神社で仲原さんから教えてもらった時の驚きを、思い出しながらそう言った。

「いやほんとですね、私もそこまでとは思ってなかったから、立花さんのレポートと画像を見てビックリしましたよ」藤木さんも感心したようにそう言った。

私は藤木さんの話に触発されて、八幡山や綾傘鉾に関連する画像を思い出し、ストックしておいたタブレット端末機をカバンから取り出して、改めて三人にその時の画像を見せた。

その画像を見ている間にレストランのスタッフが、注文しておいたワインとおつまみのアラカルトを乗せたオードブルを運んで来てテーブルに置いた。

 

私達は、しばらく祇園祭の山鉾に関する話で盛り上がっていた。

端麗辛口系の白ワインは、私の好みを覚えていた久保田さんが注文してくれたのだろう。

私たちはその白ワインを味わいながら京都祇園神社にまつわる義定公との関わりについて引き続き話題にした。

外は黄昏時から夕暮れ時にと移り替わるころ合いで、眼下の甲府盆地には薄暗がりに灯りがそこここに点(とも)りだした。

正面の南アルプスにはうっすらと残照が残っていた。

秋の日のつるべ落としとは、よく言ったものだ。

 

「去年遠州に行った時におらんとう(私達)が建てた仮説の多くが、京都に行って確認するコンがで来たみてぇだね・・」西島さんが言った。

「そうですね、その通りです。やはり祇園神社と義定公とのつながりは相当太かったですね、それから伏見稲荷大社も、ですけどね・・。

祇園祭の八幡山は間違いなく義定公由来の曳山だと思います。私は確信しました」私は自信をもって言った。

「決め手は、金箔と騎馬像の応神天皇のご神体かい?」西島さんが言った。

「そうですねそれも決め手ですが、祇園祭の仕組みがはっきりしたんですよね。とりわけ町衆が主役に成ってくる前の、応仁の乱以前の古いというか古(いにし)の祇園祭の仕組みが、ですね・・」私がそう言うと三人はその話を詳しく聞きたいという様に、その先を眼で促した。

 

「祇園祭の山や鉾の巡行っていうのはどうやら、祇園神社の中に鎮座し祀られたもろもろの神様に向かってその神様につながる氏子や神人達が、神輿を担いだり曳山を引いたり風流(ふりゅう)舞を踊ったりしながら、目指して行ったってのが、その起源のようですね・・。

そして当初は京の洛中ばかりではなく、大阪に近い洛外の山崎や久世あたりからも、八坂の祇園神社に祀られた自分達の信仰する神様を目指して、練り歩いたというスタイルだったらしいんですよ」私はそう言って、ワインを一口飲んだ。

「しかもその担い手達も応仁の乱以降主役になる町衆たちとは違う人種が、多く含まれていたようです。具体的に言いますと武家衆であったり朝廷に仕える職業集団達も、そうやって参加していたようです。

ちょうど阿波踊りなんかののようなチームを結成して、お互いが競い合っていたみたいです。刺激し合いながら、というか・・」私が言った。

「レポートにあった『北畠の武家衆』や『織部の大舎人(とねり)衆』のコンかい?」西島さんが聞いてきた。

「ハイ、おっしゃる通りです。その辺のことが『看聞(かんもん)日記』という伏見宮親王の日記に書かれてましてね・・。まぁそういった事から鎌倉時代の初期に安田義定公の武家の家来達が八幡宮を担いで、六条八幡神社から八坂祇園神社に向かったという事は、ほぼ間違いないと僕は想ってます」私は自信をもってそう言った。

 

「特別に祇園神社の許可とか認可が必要だったわけじゃ無かったっちゅうこんけ?」久保田さんが聞いてきた。

「そうだと思います。もちろん祇園神社の中に鎮座している神様に連なる氏子たちや神人達のお練りだから、という事でしょうけどね・・」私が応えた。

「綾傘鉾の場合も・・」藤木さんが金山衆とのことを呟いた。

「そうですね、金山衆の場合は職能集団としてチームを作って参加したようです。八坂神社に祀られていた金峰山神社の祭神、金山彦を目指してですね。

どうやら四条烏丸の小さな神社大原神社辺りから出立したようです。今の保存会がある場所でしてね・・。大舎人の織部という機織(はたお)り系の職能集団が、そうやったようにですね・・」私はそう言った。

「ちゅうこんは義定公の家来衆は『武家衆の八幡山』と、『金山衆の綾傘鉾』の二つのチームを作って、それぞれのゆかりの場所から八坂の祇園神社を目指して練り歩き、巡行をしたってコンに成るだけ・・」久保田さんがニコニコと目を細めながらそう言った。

「ほぼ間違いない、と思います」私は自信をもって、そう言った。

 

「『看聞日記』って言っただかい、ほの伏見宮親王だかの日記は・・」西島さんが確認するように呟いた。

「ハイ、そうです。応仁の乱より三・四十年前の室町時代に書かれた日記で、看護のに、新聞のって字に日記でしてね・・」私が応えた。

「よく見つかったジャンけ・・」久保田さんが言った。

「いやこの情報は僕が見つけたんじゃなくって、右京大学の准教授の方に教えていただいたんですよ、藤原先生っていう・・」私はその時マチコデラックスを彷彿させる准教授を思い出しながら、そう言った。

「知り合いだっただけ?」久保田さんが尋ねてきた。

「いやいや偶然知り合った方の、知人でして・・。その方は後白河法皇について研究されてる民間の研究家で、『京都学・歴彩館』で偶然知り合いに成った人なんですが、その方に教えてもらったんです。一緒に食事をしたりして・・」私は古武士を思わせる風貌をして、知的で品格のある山口さんのことを思い出しながらそう言った。

 

「後白河法皇の研究家と知り合っただかい・・」西島さんが呟いた。

「そうです、奥さんの実家の京都と自身の家のある東京を行ったり来たりしている方で、お二人とそんなに年齢違わないと思いますよその方・・。

あ、その方山口さんっておっしゃるんですけど、その山口さんに『後白河法皇日録』のことを教えていただいたんですよ」私が言った。

「確か、後白河法皇の動静が日ごと月ごと、年ごとに逐一判るって書いてありましたね立花さんのレポートに・・」藤木さんがそう言って、身を乗り出した。

「あ、そうだ・・」私はそう言って、カバンの中から三人に持ってきた『後白河法皇日録』『看聞日記』『元徳の古図』のコピーを取り出して、

「これ渡すの忘れてました・・」そう言って皆に配った。三人はしばらく私の渡した資料をざっと読んでいた。

 

私はその間すっかり日が落ちて暗くなった甲府盆地の夜景を見ながら、端麗辛口のすっきり味のワインを飲み、オードブルをつまんだ。

 

 

                 

                   ぶどうの丘ワインカーヴ(蔵)

 

「成功(じょうごう)」による造築・改築

 

「確かにこりゃすごいゎ、役に立つな・・」西島さんが『後白河法皇日録』を見ながらそう言った。

「九条兼実の『玉葉』の比率が多すぎますが、朝廷の視点での後白河法皇の動静が手に取るように好く判りますよ」私が若干の補足説明をした。

「この本はどこに行けば手に入るで、やっぱり京都まで行かんとダメかい?」西島さんが聞いてきた。

「山梨県立図書館に蔵書が在るかどうかですが、広尾の東京都立中央図書館には間違いなく在ります。私はそこでコピーしてきましたから・・」私が言った。

「八幡宮と金山彦を祀った神社はどの辺にあったずらか?」久保田さんが『元徳の古図』のカラーコピーを見ながら私に聞いてきた。

「これは鎌倉時代の末期に書かれた当時の祇園神社の配置図なんですが、向かって左側現在の四条門の側にたくさんの小さな祠や社が在りますでしょ。その小さな神社の中のどれかだという事です。

明治10年に明治政府によって『五社』『十社』として纏められるまでは、そんな風にして境内に鎮座して在ったという事です」私は権禰宜の仲原さんに教えてもらった事を話した。

 

「ところで立花さんのレポートにも書かれてましたが、祇園神社や伏見稲荷大社の大規模な造・改築のきっかけとなったのは後白河法皇の病を平癒するのがきっかけだった、と云う事でしたか・・」藤木さんが私にそう聞いてきた。

「ハイその通りです。後白河法皇が瘧病(おこりやまい)に罹(かか)った時に、その原因が保元・平治の乱以降の源平の戦いで被害を被った、祇園神社や伏見稲荷が大きく損傷して、ずっとそのまま放置されている事に神様が怒って後白河法皇に祟った、と考えたらしいです。

九条兼実がそうアドバイスしたと『後白河法皇日録』にそんなふうに書かれてました。ちょっと意外でしたね・・」私が言った。

「ほんじゃぁ法皇が自分の病気を治すために義定公に二つの神社の造改築を命令したってコンだね・・」久保田さんが言った。

「まぁ、そういうことに成りますね・・」私が応えた。

「それゃ、災難だったね義定公も・・」久保田さんが続けた。

 

「確かに災難といえば災難でしたけど、そのおかげで僕たちは義定公の痕跡というか足跡を八百年後の今でもこうやって、知ることが出来るわけですからね・・」私はそう言った。

「ほれに、遠江守の三度目の重任(ちょうにん)も叶ったわけだしな・・」西島さんがニヤニヤしながら言った。

「それにしても文治三年から六年に掛けては両神社の大規模な造・改築の他に、法皇の院の御所の在った法住寺や天皇の内裏の修築もやらされていますから、義定公も物入りだったと思います結構・・」私がそういうと、西島さんは

「おかげで新田の開発もたくさんやる羽目に成ったしな、特に遠州では・・」と呟いた。

「結果的にはそれで公田から上がる石高(こくだか)も著しく増えたんでしょうけどね・・」私が言った。

『浅羽之荘』や『向笠(むかさ)之荘』『遠州山梨之荘』」のコンけ・・」久保田さんが言った。私は肯いた。いずれも去年の遠州のフィールドワークで訪れたエリアだった。

 

「そういえばその時に気が付いたんですが、祇園神社や伏見稲荷大社の造・改築は後白河法皇の病を治癒するためとはいえ、いずれも『成功(じょうごう)』として扱われていますよね、要するに遠江守の重任を認める代わりに、義定公が私財を投入して行なわなくては、成らなかったわけですよね。

その成功であったという点が、結果的に祇園神社や伏見稲荷大社と義定公の『個対個の紐帯』を深めていったんじゃなかったかって、そんな風に想いはじめてましてね僕は」私がそういうと三人はちょっと戸惑いを見せた。西島さんが

「もっと噛み砕いて言って貰えんかい立花さん・・」と詳しい説明を求めてきた。

「失礼しました。いやね、成功ってことはまさに遠江守安田義定公が身銭を切って両神社の大規模な造・改築工事をすることが条件で、三度目の重任を許可されたという事ですよね。要するに交換条件として出されたわけですね義定公は・・」私はそう言って三人の顔を見廻した。三人は肯いた。

 

「ってことは義定公にしてみればそんなに大規模な工事を、しかも京都を代表する二つの大神社で同時に行うはめに成ったわけですよね、それも全額私費で。

そうだとすれば、フツー費用負担を軽くするために出来るだけ手を抜いた工事といいましょうか、出費を抑える事を考えるわけですよね。

何せ私財を投じて行うわけですから、支出を抑えればそれだけ懐は痛まないで済む、蓄財は進む・・。ここまでは宜しいですか?」私が尋ねると三人は肯いた。

「ところが義定公は実際には手を抜いてないんですよね両方とも。むしろ相当手の込んだ造築や改築をやってるんですよね。

屋根瓦一つ見てもわかるんですが、出来合いのツルツルのではなく源氏の三つ巴紋と祇園神社の神紋木瓜唐花とのオーダーメイドを発注したり、伏見稲荷では菊のご紋三つ巴紋を同様に発注して造らせてるんですよ。いずれもオーダーメイドでわざわざ造らせているんですよね。

って事は当然費用が掛かるわけです。支出も増えるし納期だって遅くなるわけです、出来合いの屋根瓦でない分・・。

僕は両神社の造・改築に時間が掛かってしまい、朝廷が懲罰するほど遅れてしまったことの原因は、こういった義定公の生真面目さというか、凝り性が影響しているんではないかと思っています・・が、どう思います?」私は三人に聞いてみた。

 

「確かにほうかな、ほういうコンに成るんだろうな・・。ところでほの『個対個』とか云うのはどういうコンだい?」西島さんが更に、私に聞いてきた。

「あハイ、要するに成功として私財を投じて施工するって事は、出来上がり具合は義定公の胸先三寸で決まってしまう訳ですよね。

で、そうであればあるほど祇園神社と義定公との個対個の関係が、仕上がりの質に影響してくるって事に成りませんか?工事の内容というか質が・・。そういう意味なんです僕が言うのは・・」私がそう言うと三人は頭の中でしばらく私の言った事を咀嚼(そしゃく)しているようだった。私は続けて、

「神社と義定公との関係の個対個の関係が重要になれば成るほど、神社としても良いお社を作ってもらうためには義定公に、それなりの働き掛けもするでしょうしね・・。

そういった神社側からの働き掛けに対して、真面目で神社仏閣に対して尊崇の念の強い義定公であれば、多分誠実に応えたんじゃないかと僕はそう思うんですよ・・」と言った。

 

「ほれで、納期が遅れて竣工がずれちゃったから、朝廷から懲罰人事で遠江守から下総守に左遷されたってコンだけ?」久保田さんが言った。

「まぁ、そういう事です。さっきも言いましたように、義定公はかなり気合を入れて両神社の造・改築に取り掛かったわけです。

瓦をオーダーメイドで造ったり立派な楼門を建立したり、屋根の天辺に純金製の神紋と三つ巴紋を一番目立つ場所に設置したりと、いろんな事をしたんだと思うんですよ義定公は・・。

それで、結果的に両者の結びつきが太くなり、深まって行ったんじゃないかと・・」私は去年観てきた二つの神社の建物のことを頭に描きながら、そう言った。

「ほの個対個の関係が深まったから、義定公と両神社の関係というか紐帯が太く深く成ったって、立花さんは言いてぇわけだな・・」西島さんが私に確認するようにそう言った。

「まぁ、そういう事です」私は肯きながらそう言った。

 

「ひょっとしたら、祇園神社の神紋に本来の木瓜唐花と、源氏の氏紋の三つ巴紋が折り重なっているのも、ほう云う両者の紐帯の深さが原因じゃねぇかって考げてるだかい、立花さんは・・」西島さんはニヤッとしてそう言った。私もニヤリとして肯いて、

「アハッ、おっしゃる通りです。判っちゃいましたか?相当飛躍してるかもしれませんけどね・・あはは」と言った。

「なるほどな、成功による工事だったってコンが一番のポイントだったと、ほう考げぇてるわけだな・・」西島さんは自分でも納得するかのようにそう言った。私は大きく肯いて肯定した。

 

「キッカケは後白河法皇の病を治癒させる事から始まったわけですけど、結果的にそれが成功として扱われたことで、両神社と義定公の関係は深まって行った。

それに加えて義定公の朝廷での評価も相当高まったわけですよね。三度目の重任はもちろんの事、義定公は従五位下から従五位上に官位も昇任してますしね、その真面目で誠実な働きぶりを後白河法皇からも高く評価されてるわけですよ。

だからそれ以降も後白河法皇の、六条の院の御所の修築工事に際して、義定公は指名されてもいるんだと思います・・」私は義定公の仕事ぶりに対する朝廷、とりわけ後白河法皇の評価・信任の高さについて、そう語った。

「なるほどそういう事なんですね・・。私なんかは『吾妻鏡』に書かれていたこの辺りの記述に、そこまで深い意味があったなんて中々思わないまま読んでましたが、視点を変えると色々と判ってくる事があるもんなんですね・・、いや勉強に成ります」藤木さんはそう言って、私にワインを注いでくれた。

私の祇園神社と祇園祭に関する報告にひと区切りが付いたので、今度は西島さん達がこの間調べてきたことに対する情報交換をすることに成った。

 

話題が変わったことをきっかけに、メインディッシュを頼むことにした。

馬刺しや甲州ワインで育てた牛肉などの肉類と朝採れ野菜を素材としたサラダを中心に頼み、ワインも赤に替えて頼むことにした。そしてお気に入りのぶどう酵母を使ったパンも頼むことを忘れなかった。

 

 

        

  同じ設計思想、美意識・デザインコンセプトで造られている「伏見稲荷南楼門」「祇園神社西楼門」

 屋根瓦と天辺には「菊のご紋と三つ巴紋(伏見)」「木瓜唐花と三つ巴紋(祇園)」とが施されている。

 

 

 

      『 吾妻鏡 第十巻 』文治六年(1190年)二月十日の条

                『全訳吾妻鏡2』139ページ(新人物往来社)

造稲荷社造畢覆勘の事。

 右、上中下社の正殿、宗たるの諸神の神殿、合期に造畢し、無事にご遷宮を遂げしめ候ひをはんぬ。・・・・・・・・・・・・・・・・  

 六条殿(院の御所)の門築垣の事と言いひ、大内(天皇の御所)の修造といひ、かれこれ相累なり候の間、自然に遅々とす。 ・・・・・

以前の條々、言上件のごとし。しかるべきのやうに計ひ御沙汰あるべく候。恐惶謹言。

            二月十日         (安田)義定

  進上  中納言(藤原経房)殿          

                             註:( )は著者記入

 

 

 

     『 吾妻鏡 第八巻 』文治四年(1,188年)七月十一日の条

                  『全訳吾妻鏡2』55ページ(新人物往来社)

七月十一日

六条殿の御作事、二品(源頼朝)御知行の国役は、中原親能奉行として、大工国時をもって増進せられんと欲す。遠江國所課の事、御教書を下され、今日到来す。

すなわちかの国司(安田)義定に付せらるると。六条殿作事の間、六条面の築垣一町(約100m)、門等せらるべしてへれば、院の御気色によっ、執達件のごとし。   

                             ( )は筆者の註

当時六条西洞院に在ったとされる「六条殿」は、後白河法皇の院の御所があった処で「長講堂」がそのシンボルであったという。その六条殿の長講堂が火災に遭ってその建て替えを任すにあたって、後白河法皇は遠江守安田義定を、頼朝に対して指名して来たとの事である。

この建築工事は「頼朝知行の国役」なので本来義定公は関係の無い筈なのだが、後白河法皇は当該工事の執行に当たりそのプロデューサー役を、御教書を下すまでして義定公に指名してきている。

それは以前、六条殿の築垣や門を義定公が修築・修繕した際の、仕事ぶりが気に入っていたというのが、その理由のようである。このエピソードから後白河法皇は義定公の建築工事に対する仕事ぶりを、相当高く評価していたことが窺える。

因みにこの長講堂の工事は「祇園神社」「伏見稲荷大社」等の大規模な造改築をやっている最中(文治三年~六年)の指名工事だったのである。

 

 

 

 

義定公五奉行

 
 
最初に口火を切ったのは藤木さんであった。

昨年の「駿河及び遠江之國」の歴史検証旅行以来のこの一年間で、それぞれが行なって来た研究や調査結果の情報交換が行われたのである。もちろん安田義定公に関連する事についてであった。

藤木さんは私たちに手書きの資料をコピーして来ていて、それを配りだした。達筆な文字で「義定公五奉行」とタイトルが書かれていた。そのタイトルに私はちょっと驚き、同時に期待感を抱いた。初めて聞く言葉だったからである。

義定公に関しては、「四天王」についてはこれまで共通認識となっていたから、既知の情報であったが「五奉行」はまだ共通認識には至ってなかったからである。藤木さんはその資料を基に説明を始めた。

 

「ここでいう義定公五奉行というのは、建久五年西暦1194年に義定公一族が甲斐之國の本貫地牧之荘を、梶原景時・加藤景廉を大将副将にした伊豆の御家人グループを主力にした、義定公一族討伐軍によって攻め入られた際に、鎌倉の義定公の屋敷に控えていた義定公の中核メンバーで、頼朝の命令で和田義盛の執行により誅殺された五人を指しています」

藤木さんはそのように淡々と語り始めた。

「すなわち武藤五郎柴藤三郎榎本重兼宮道遠式麻生平太胤國の五人についてであります。私は去年からこの五人について調べてきました」
 
藤木さんの話に私はどんなことが判ったのか大いに関心を抱いた。この三人の内、榎本・宮道・麻生に関しては殆ど判っていなかったからだ。
 
「武藤五郎と柴藤三郎については、既に皆さんもご存知でしょうから、残りの三人について報告させていただきましょう・・」藤木さんはそう言って私たちの顔を見廻した。
 

「まずは榎本重兼についてです。彼については『吾妻鏡』では『前(さきの)瀧口、榎本重兼』と書かれていることから、その役職『瀧口』について調べてみました。

この瀧口という役職は、一言でいえば天皇の寝所である清涼殿を警護する武人で瀧口の武者といわれた人達です。要するに天皇の寝所を守る警護役を担っていたわけです、親衛隊ですね・・」藤木さんがそう言うと西島さんが、

「瀧口の武者って言うと、確か平将門も若い頃やってたんじゃなかったかい?藤木さん・・」と口を挟んだ。藤木さんは肯いて言った。

「その通りですね、平安時代中期の話ですけど・・」

「やっぱり弓矢・刀の腕に自信がある武者たちが選ばれたってコンけ?だけんが北面の武士とは一体どう違うで?」久保田さんが聞いてきた。私も両者の違いを知りたかったので一緒に肯いた。

 

「北面の武士は天皇の守護ではなくって上皇や法皇の院の御所を担当した侍ですね。ですから歴史的には天皇を守護する瀧口の武士の方が、ずっと古くからあった役職なんでしょうね。上皇や法皇が出現する前ですから・・」藤木さんが教えてくれた。私はついでに聞いてみた。

「義定公は確か内裏の大番も務めていましたよね、大番役とはどう違うんでしたっけ?」

「ン?大番役かい?大内(おおうち)守護じゃなくって・・」西島さんが私に確認してきた。

「えっ?両者の違いって何ですか?実はあんまりよく判ってないんです・・。大番役って御家人たちの役務でしたっけ?」私は言い訳がましく、慌ててそう言った。

「ほうけ、じゃぁその辺を教えてやるじゃん」西島さんはニヤリとそう言ってから説明を始めた。

大番役は立花さんが言う様に、地方の御家人なんかが京の都に長期赴任して、天皇や上皇・法皇といった公家や、摂関家なんかの有力な朝廷官僚の身辺警護なんかを務める役目だっただよね。始まったんは、平安時代の後期っからのコンだと言われてるだよ。

ほれから鎌倉幕府が出来てっからは京都と同様に鎌倉でもやるように成っただ・・」西島さんは私に判り易く話してくれた。続けて、

「で、大内守護の方は天皇や法皇なんかの御所の警護が中心の役割だっただよ、まぁ大番役よりは対象が絞られていたわけだよね。より高貴なお方を守護していたってわけさ。

ほんだから、瀧口の武者や北面の武士と重なり合う場面もあったわけだね」西島さんが言った。

「瀧口の武者や北面の武士が既にいる中に、改めて大内の守護が設けられたのには、何かきっかけがあったんですかね?」私が西島さんに尋ねた。
 
「うんほうだよ、あっただよでかいキッカケが、例の木曽義仲の平家追討のコンさ。京洛で源氏と平家が戦いをおっぱじめただから、平時の役職では機能しなくなったってコンだね」西島さんが無精ひげをいじりながらそう言った。

「あぁなるほど、そういう事ですか・・。平時の警察のような業務から、戦時の軍隊のような業務に替わったって事ですか、それって・・」私が呟いた。

「うん、ほういうコンだよ、ほの通り」西島さんが大きく肯きながら、そう言った。

 

「それでその大役を担ってきたのが安田義定公だったわけですよ、木曽義仲追討の頃からですね・・」藤木さんが少し誇らしげにそう言った。

「もともとは源頼光の摂津源氏がその任務を継承してただけんが、源平の戦いで京の都が大荒れに荒れた時に、ちょうど関東武者の義定公が入ってきたわけだね」西島さんが教えてくれた。

「ずっと義定公が大内の守護をやってたんですか?」私が尋ねた。

「いやずっと継続してでは無かったようですね、むしろ摂津源氏を補完するようにポイントポイントで加勢・補佐していたようです。

木曽義仲の時とか、その後は例の文治年間ちょうど都で祇園神社や伏見稲荷・院の御所・内裏の造・改築をやってた頃とかですね・・。

ひょっとしたら神社の建築工事を指揮しに京都に来ることが多かった事にも、関係あったのかもしれませんねタイミング的に考えると・・」藤木さんが推測を交えながらそう言って、教えてくれた。

「すげぇじゃん、大忙しだね義定公は・・」久保田さんが嬉しそうにそう言った。

 

「なるほどそういう事だったんですか、なんとか大内守護や大番との役割の違いが理解できました。いや、ありがとうございます。勉強に成ります・・

それに朝廷は義定公には経済力だけではなくって、武力にも割と頼ってたりしてたんですね・・」私はそう言って藤木さんと西島さんにお礼を言った。西島さんはニヤリとしながら続けた、

「立花さんよ、言うまでもねぇこんだけんが義定公は武将だからね・・ハッハ。

まぁほういうコンもあって義定公と後白河法皇との関係も、それなりに太かったってコンが言えるわけさ。神社仏閣の建築に対する信頼だけじゃなくってね・・」西島さんが嬉しそうに付け加えた。

「なるほど、そうすると後白河法皇の朝廷にとっては鎌倉幕府に対するカウンター(対抗)勢力としても頼りにされていた面があった、ってことですか義定公は・・」私がそう言うと西島さんは大きく肯きながら、

「ほういうコンだね。したたかな後白河法皇にすれば、自分のために忠誠を誓ってくれる関東の有力な勢力だったわけさ、甲斐源氏の当時の氏の長者でもある、義定公はね・・」と言った。

「ん?それで瀧口の武者と義定公とが、繋がって来るわけですか・・」私は両者の関係がやっとつながった、と思ってそう言った。西島さんも藤木さんもニヤリとして大きく肯いた。

「なるほどね~、そういった事もあって後白河法皇の崩御があるまで、頼朝や北条時政は義定公には手が出せなかったんですね・・。ん~ん、好く判りましたよ」私は大いに納得してそう言った。

「と、同時に鎌倉幕府にとっては相変わらず目の上のたん瘤であり続けたわけですよ、義定公一族は・・」藤木さんが残念そうに、そう言った。

「ほれが後で幕府から攻撃される口実やきっかけにも成った、ってコンだね・・」久保田さんがため息交じりにそう言った。一瞬沈黙がその場を覆った。

 

「話を戻しますが、という事は先の瀧口武者の榎本重兼は、義定公と天皇や朝廷との連絡役のような任務も持っていたのでしょうかね、パイプ役というか・・」私が言った。

「それは考えられますね、多分義定公が大内守護を補佐していた時にでも榎本重兼と知り合って、自身の家来衆の幹部に取り立てたんでしょう。と同時に、朝廷の警護部門との連絡役や調整役を担当していたのかもしれませんね・・」藤木さんが言った。

「ところで、ほの榎本重兼個人に関する情報は何ンか見つかっただけ、藤木さん・・」西島さんが藤木さんに確認した。

「そうですね、大した情報は見つかってませんが、榎本重兼はどうやら熊野地方の豪族の出身という事らしいので、そこらへんに後白河法皇と接点があったのかも知れませんね・・」藤木さんが言った。

「あ、なるほどそういう事ですか、法皇は熊野が大好きで確か生涯に三十数回熊野詣でをしてましたよね、そっちの人脈ですか彼は・・」私が言った。

「だと思います。法皇が熊野詣でを重ねるうちに、現地で近習としてお仕えするように成ったのかも知れません。その時にでも気に入られたのでしょう・・彼は。

その縁で朝廷でも重用されるように成ったのかも、しれませんね・・」相変わらず藤木さんは慎重な言い回しをした。

 

「なるほどね、そうすると榎本重兼は鎌倉の義定公の屋敷に居て、義定公と京都の朝廷や法皇たちとのパイプ役を担った京都担当奉行のような役割だったのでしょうかね、義定公にとっては・・」私がそう言うと、西島さんが

「と、同時に鎌倉幕府の宿老麾下(きか)の幹部として、法皇や朝廷に鎌倉方の情報を流してたのかも知れんだよ義定公も、アハハ」と笑いながら言った。

「なるほど諸刃の剣ですね・・」私もニヤリとして言った。

「ちゅうこんは、榎本重兼が五奉行の一人だとすると、義定公の京都担当の外交奉行だったちゅうコンに成るだけ、藤木さん・・」久保田さんがそう言って確認した。藤木さんは軽く何度も肯いた。

(さきの)瀧口榎本重兼について話が盛り上がっていると、レストランのスタッフがメインディッシュを運んできた。

私はそれを契機にトイレにと向かった。

 

私が戻ると大皿に盛られてた肉類や野菜サラダが小皿に小分けされていた。こういう事は気配りをする久保田さんがやったのかな、と私は想い久保田さんに目礼した。

しばらくメインディッシュを食べてる間は、あまり会話も無かったが、ひとあたりお腹が満たされた感が漂ってから、再び藤木さんが説明を始めた。

「次に(さきの)(う)(まの)(じょう) 宮道遠式について報告しましょう。まず右馬允ですから、その役職は言うまでもなく馬絡みですね。朝廷が保有する馬の飼育や調教を担っていたわけですね右馬允は・・。

でまぁ、その職業は言うまでもなく義定公の領地経営に直結してきますよね。騎馬武者用の軍馬の畜産や調練を、甲斐や駿河・遠江・越後で手広く展開していた義定公ですから・・。その道の京都の朝廷におけるスペシャリストだったわけです宮道遠式は。

しかも朝廷に仕えていたわけですから、当時のその方面の最先端の情報を持っていたんだと思われます。情報もノウハウも人脈も、ですね・・。さらにという役職は今でいえば局長級の幹部に当たるわけです。

更に右馬允は同時に朝廷の騎馬隊も担当していたようですから、騎馬親衛隊の幹部であったとも推測できます。まぁ、瀧口の武者と重なる部分が結構あるわけです、右馬允という役職は・・」藤木さんが説明を続けた。

「なるほど義定公の領地経営の柱である、軍馬育成のスペシャリストを雇ったってわけですね・・。そうすると義定公は結構幅広いネットワークを、朝廷の中に築いていたって事ですかね・・」私がしきりに感心していると、西島さんが藤木さんに尋ねた。

「で、ほの宮道遠式の固有名詞につながるコンは?」と。

 

「あハイ、そちらはですね、さっきの榎本重兼以上に情報が少なかったですね、残念なことに・・」藤木さんはそう言って事前に断りを入れてから、続けた。

「宮道っていう氏は、奈良時代からの物部氏の末裔と言われてるらしいですから、義定公よりさらに数百年前から朝廷の軍馬の育成や調練、更には騎馬による警護なんかに携わってきた一族かもしれません。

いずれにせよ数百年間朝廷で馬に関する実務を担ってきた幹部の家柄の人物だと、推測することは出来るかと思います」藤木さんは手元のノートを見ながら、慎重にそう説明した。

「でも判り易いですよね。先ほどの榎本重兼といい宮道遠式といい、いずれも義定公の朝廷での役務や領地経営に、直接関連する分野のスペシャリストだったわけですから・・」私が言った。

 

「義定公もだいぶ助かったズラよ。ほういう最先端の馬の畜産・育成の情報やノウハウ・人脈を持ってる朝廷の人間を、自分の麾下に組み込んだだら・・」西島さんも感心するようにそう言った。

「ほうすると宮道遠式は、義定公の馬絡みの実務を担当する馬奉行だったってコンに成るだね・・」久保田さんがワインを飲みながらそう言った。藤木さんは何回か小さく肯いた。

「なるほど、二人が京都との外交奉行と馬奉行だとすると最後の麻生平太はどんな人物だったんですかね・・」私は藤木さんがもたらす新しい情報に、期待しながら尋ねた。

「そうですね麻生平太胤國の事ですよね、これがまぁ一番の難関でしてね・・」藤木さんは渋い顔をしてそう言った。

 

 

                   

 

 

人材登用

 

「麻生氏の系統は『常陸之國行方(なめかた)郡系』と『下野(しもつけ)之國宇都宮系』の二系統がありましてね、どうやら麻生平太胤國の場合は常陸系統らしいんですがね・・」藤木さんは慎重にそう言った。

「因みにそう思われたのはどういったわけで・・」私がその理由を尋ねた。

「えぇそれはですね下野宇都宮の系統は、出は下野なんですが、後に任地が豊前大分に成って以降九州北部に拠点を移しましてね、向こうで定着してしまって関東とは縁が切れるんですよ。

一方常陸麻生氏の方は行方郡(なめかたこおり)っていって、霞ケ浦の東側に本拠地が在りまして、そこから殆ど動いてないんですよね。

尤もその麻生氏の末裔も、戦国時代には滅びてしまいましたがね、結局は・・。それ以降常陸行方に地名は残っていても、氏族としては北九州方面に定着した宇都宮系の麻生氏が生き延びているだけらしいです」藤木さんは時々メモを見ながら、そう言った。

「あの総理大臣を一年ばっか務めた麻生氏は確か北九州方面だっただよね、ちゅうコンはあのおっちゃんは宇都宮系の麻生氏の末裔ってコンけ・・」久保田さんが言った。

私はそれを聞いてダミ声で、漢字の読み間違えを幾度も繰り返した元総理大臣の顔を思い浮かべた。

「そうみたいですね」藤木さんが応えた。

 

「で、常陸の方だと思われたのはどんな・・」私は再度、藤木さんに尋ねた。

「あ、失礼しました、忘れてました・・。常陸の麻生氏は常陸平氏の名門大掾(だいじょう)氏の一門で、平安から鎌倉・室町と常陸之國で、ずっと生き延びるんですよ戦国時代に滅亡するまで・・。それが一つですよね、ですからこっちはずっと関東に残っているわけです。義定公の時代も含め・・。

それに名前の通り平太ですから平氏の系統であることが考えられるわけです、麻生平太胤國は・・。更に言えば甲斐源氏のご先祖源義光がかつて常陸の介として勤務してましたから、常陸とは縁がある訳ですよ。

同じ義光公の子孫の常陸源氏の佐竹氏も、甲斐源氏とは縁戚関係にありましたしね。因みに義定公のお母さんは佐竹氏ですしね・・。

それやこれやを考え合わせると、常陸麻生氏の可能性が高くなってくるんですね、下野宇都宮系統よりも・・。まぁ、そう言った点から私は常陸麻生氏ではないかと思った次第です・・」藤木さんの説明に私は納得して、大きく何度か肯いた。

 

「なるほどな、麻生氏の氏素性は何となく判ったケンが、職務というか職種はいったい何だったズラかね義定公の麾下(きか)としての・・」西島さんが聞いてきた。

「それが一番よく判らんですよ・・」と、藤木さんはまた渋い顔をしてそう言った。

「しいて言うならば常陸大掾氏はその名の通り、大掾職を継承してきた一族でしたから、目代の下で地方官僚の幹部を務めてきた家柄だったと、そういう事は言えそうです。

ですから、常陸麻生氏はどうやら地方の国衙(こくが)や郡担当の幹部として、遠州や富士山西麓・越後の国衙や郡を束ねる実務を担ってきたと、そう考えられるんじゃないかなと、そんな風に推測する事は出来そうなんですね・・」藤木さんが自信無げに、そう言った。

 

「あぁ、そういう事ですか。いやよく判りますよ、成る程ですね・・。きっと藤木さんがおっしゃる通りかもしれないですよ。義定公はもともとが甲斐の牧之荘という一介の荘園の領主から起こって、源平の戦いで力をつけて短期間に多くの領国や新たな本貫地を獲得してきたわけですからね。

急拡大した領国の経営をスムーズに管理・経営していくためには、経験豊かでノウハウを持ってる有能な人材の確保に迫られてたでしょうから、そういう人材を渇望していたでしょうね・・。きっとそうですよ。それに違いないですよ藤木さん・・」私はそう言って藤木さんの説を積極的に肯定した。

「麻生胤國は常陸之國で、目代配下の幹部として領国経営の実務に精通していたから、甲斐・富士山西麓・遠江・越後にまたがる、広大な義定公一族の領地・領国を取り仕切る役割を、担っていたに違いありませんよ・・」

 

私は当時の義定公の多くの領地・領国を考えると、それらをしっかりマネジメントできる有能な幹部の存在は不可欠だと考えていたので、藤木さんの言うように常陸平氏の大掾氏の一門である麻生平太胤國が適任だと考え、藤木さんの仮説を肯定・支持し、そう主張した。

「ちゅうコンはほの麻生平太は複数の郡(こおり)を束ねた、統括的な郡奉行だったってコンけ・・」久保田さんが確認するように、そう言った。

「たぶんそんなとこでしょう・・。個々の國の経営を鎌倉に居て全体を串刺しにして統括管理できる人材がいたら、義定公も心強かったと思いますよ」私は藤木さんに代わって、肯きながらそう言った。

やや強引と思える私の推察に、西島さんも藤木さんも特に異を唱える事は無かった。

 

「ほうすると義定公一族が討滅されたときに和田義盛に首を切られた、五人衆というか五奉行の役割は、榎本重兼が京都との外交を担当した京都奉行というか外交担当で、宮道遠式は義定公の領地経営の柱だった騎馬武者用軍馬を担当した馬奉行、さらに麻生平太胤國統括郡奉行だったっちゅうわけだね。

ほれに柴藤三郎が遠州の本貫地浅羽之荘の目代で武藤五郎が遠江之國の目代だったちゅうコンに成るってわけだ、ほういうコンけ・・」

久保田さんは私たちの顔を見廻しながらそう言って、確認を取った。私達は肯いて久保田さんのそのまとめに同意した。

私は久保田さんの話を聞いて気付いたことがあったので、さっそく口にした。

 

「でもそうすると何となくですが、柴藤三郎の浅羽之荘の目代ってのが軽いというか、バランスが悪そうに思えてきますね・・」と。私の呟きに三人は、?といった顔をした。

「いやね、他の四人のメンバーの役職に比べて一介の浅羽之荘の目代だと、彼らと釣り合いが取れ無いというか・・」私の投げ掛けた疑問に、三人は少し考え始めた。

「あのさ、実はオレ柴藤三郎の『柴』は、ひょっとしたら司馬遼太郎の司馬じゃねかって、前っからほう考げえてただケンがどうずらか?」と、久保田さんが私たちにおそるおそると言った様に尋ねてきた。

「ん、というと・・」私が聞いた。

「いやさ、柴藤三郎は遠州浅羽之荘で平氏の浅羽宗信に取って代わられるまで、『勧学院』を始めとした藤原氏の氏の学寮の荘園管理をやってたと、オレもほう思うだよ。だけんが浅羽之荘の後ろには、朝廷の牧だった『笠原之牧』が在ったジャンね?

氏の学寮の荘園管理ももちろんだけんが、ほっちの『笠原之牧』の管理もやってたんじゃねぇかって、ほう考げえてみただよ、柴=司馬だし・・」久保田さんが言った。

 

「んん~ん、そうすると浅羽之荘の管理と共に、笠原之牧の管理も担当してたんじゃないかって事ですか、兼務というか・・。柴藤三郎の一族は・・」私は久保田さんに確認しながら、自分でもよく考えてみた。

確かに遠州灘の小笠山を中心とした小高い山々が連なる、現在の牧之原市や袋井市の辺りは殆ど地つながりであった。

また平安時代や鎌倉時代のあのエリアは淡水湖の比率がまだまだ多くて、水田や畑地への開拓が不十分な開拓途上のエリアだった。去年浅羽郷土資料館で見てきたとおりだ。

だからこそ新田開発の余地が沢山あったわけだし、確かに浅羽之荘は笠原之牧とは隣りあわせでもある、それはその通りだ。

 

遠く離れた京の都から観れば、浅羽之荘と笠原之牧を別々の管理者に任せるより、あのエリアをまとめて管理させるといった方が都合も良いだろうし、合理的だったかもしれない。

まして平安時代は藤原氏の摂関家が絶大な力を持っていたし、その支流だと考えられる柴藤三郎の一族に遠州灘近郊のエリアを、氏の学寮の荘園「浅羽之荘」と共に一緒に担当させ、管理させたことは十分あり得るかな・・、と思った。

それに久保田さんが言う様に、芝は司馬から転訛したのかもしれない。

「う~ん、そういう事ですか・・」私は久保田さんの説を肯定的に捉えるように成った。

 

「ほれで柴藤三郎のが、本来は牧を管理する司馬だったんじゃねぇかって、考げえたわけだな久保田君は・・」西島さんが肯きながら、そう言った。

「ほういうコンです。ほんだから柴藤三郎はただ単に浅羽之荘の目代だったってコンだけじゃなくって、義定公が遠州森町の大久保あたりで畜産・飼育した軍馬を、育成・調教するために笠原之牧に移してっからの管理も、また担当してたじゃねかって考げぇてみたですよオレは・・。

さっきの馬奉行の宮道遠式なんかと一緒に、彼を補佐しながら・・。どうずらか・・」久保田さんが鼻を膨らませて言った。興奮しているのかもしれなかった。

 

「なるほどそうすると、柴藤三郎は浅羽之荘の目代でありながら、同時に司馬の藤三郎として遠江之國の新田開発や騎馬武者用軍馬の畜産経営の中心人物として、武藤五郎や宮道遠式と共に力を合わせて、遠州の目代を務めていたかもしれないって事ですね・・。ん~んなるほどね・・」私が言った。

確かに久保田さんの仮説が正しければ、他の四人の奉行クラスと柴藤三郎は肩を並べられるかもな、と私は想った。それなら五奉行の一画としてのバランスも取れるかもしれない、と私も思った。

「そういう事でしたら他の奉行達と一緒に和田義盛に首を切られたのも、何となく合点がいきますね・・」私はそう言って久保田さんの仮説を受け入れた。

西島さんも藤木さんも一緒に肯いていた。二人とも特に異論は無さそうだった。

 

私達は藤木さんの五奉行についての仮説を含む詳しい報告を聞いて、義定公の領地経営の実態が一層ハッキリと見えるようになった。

「義定公五奉行」と藤木さんが名付けた、その道のスペシャリストをそれぞれ登用する事で、「甲斐牧之荘」「富士山西麓」「遠江之國」「越後之國」といった日本海から太平洋を縦断する宏大なエリアの領地・領国の経営を、大きく破綻させることもなく十四・五年間の長きにわたって維持し続けることが出来たのであろうと、得心した。

平安時代末期という摂関政治の国守の任期は、長くても四年程度であった。

しかも当時の武将である地頭・御家人達は荘園単位の管理・運営には長けていても、荘園の集合体である「郡」や、更には郡の集合体である「一國」を管理・経営する能力があったとは、なかなか思えない。

地頭や御家人とは次元の違う統治能力「ガバナンス」が必要になるからだ。

 

そんな中での安田義定公である。牧之荘という、甲斐之國の一介の荘園の領主であった彼も出発点では、当時の他の地頭・御家人たちとそんなに大きくは変わらなかっただろうと、私は思っている。

そう言う中で通常の地頭や御家人とは違う能力を発揮し、荘園を飛び越え「郡」や「一國」を大きく破綻させることなく、14・5年の間支配し統治し続けてきたのである。

しかも「富士山西麓」や「遠江之國」「越後之國」では嫡男の安田義資(よしすけ)と共に、新しい領主として赴任し、通常の領主の任期の三倍も四倍も長く統治し、管理・経営してきたわけである。

 

これは義定公個人の能力を超えた、組織としての統治機構の構築やマネジメントシステムの構築が無ければ、務まらないことであったと思う。

そういう意味では、義定公は同時に複数の國や本貫地を抱えながら、大きな破綻なく統治の仕組みを作ってきた、有能な領地の経営者であるという事が出来るだろう。

ただ単に戦上手の武将、という事では務まらない領地・領国経営をしてきた、当時としてはまれな武将であったと、私は認識を新たにした。

そして何よりも人を見る力、人材登用能力が高い人間であったに違いないと、思うように成った。

彼はまた自分自身の能力だけに頼るのではなく、他人の能力をうまく使うことの大切さが判っている人間でもあったのではないだろうかと、改めて私は想い始めたのである。

 

私は今回の藤木さんの調査結果によって得た「五奉行」について知ることで、義定公の領地・領国での領地経営の仕組みや、領主としての統治能力の非凡さについて義定公の武将像の認識を新たにした事を皆に話し、納得してもらった。

その上で領主としての義定公を支えて来たのが、藤木さんが言う「義定公五奉行」であったのだろうという事に成り、私達は五奉行のそれぞれの役割や機能について、改めて共通の認識を持つことが出来た。大きな成果であった。

 

私達は安田義定公一族の領地・領国を奉行として長年支え、そしてその貢献度の高さの故に頼朝による、義定公一族の誅滅と共に運命を共にした、有能で義定公に対して忠臣でもあった五奉行に対し、少なからぬ敬意を払った。

そして結局は非業の死を遂げることに成った彼らを想って、最後に皆でスパークリングワインで献杯をした。

 

 

 

      『 吾妻鏡 第十四巻 』建久五年(1194年)八月二十日の条

                       『全訳吾妻鏡2』307ページ(新人物往来社) 

 (安田)遠江守が伴類五人、名越の邊にて首を刎ねらる。

  いはゆる

  前瀧口  榎本重兼

  前右馬允 宮道遠式

  麻生平太胤國

  柴藤三郎

  武藤五郎

  等なり。和田左衛門尉義盛このことを奉行すと云々。

「義定公五奉行」についてはこれまで述べて来たとおりであるが、その中の「前右馬允 宮道遠式」に関しては、騎馬用軍馬の畜産・育成・調教といった「馬事」の他に、彼の前歴から朝廷の「騎馬隊」を統括していたことも推測されることから、義定公の騎馬隊の訓練を初め、その戦闘方法についても指導していたかもしれない。

宮道遠式の存在は甲斐駒を率いた安田軍の主力である騎馬軍団の、質的な向上に一役買っていたのかもしれないと、想像する事が出来そうである。

 

 

                

 

 

 

 

 

 

 

 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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