春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
【 閲覧可能範囲 】
 
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 更新は月単位に成ります。
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                   【 目    次 】
         1.小田野山城
         2.鍛冶屋の里
         3.一ノ瀬・高橋
         4.黒川金山跡地
         5.黒川千軒
 
 

小田野山城

 

昨夜は、藤木さんの調べてきた義定公五奉行についての情報交換を行ってるうちに時間が来てしまった。ぶどうの丘の眺望の良いレストランは20時で営業が終わりなので、遅くまでは居ることが出来なかったのだ。丘の上の施設という事もあってその後二次会に行くことも無かった。

その日はそのまま解散となった。

 

ホテルの部屋に戻って少し寛いでから、私は久保田さんと二人で敷地内に在る天然温泉に入ることにした。

ホテルとは渡り廊下でつながっている「天空の湯」という名の温泉に向かうと、西島さんと藤木さんとに逢った。二人はすでに温泉を利用し終わり、ホテルの部屋に戻るとこだった。

西島さんの感想では、甲府盆地の見晴らしが好い良い湯だった、という事で大満足のようであった。

明日は一緒に朝食をとる約束をして、二人と別れた。

「天空の湯」は西島さんが言う様に見晴らしの良い天然温泉で、ゆっくりとした寛ぎの時間を過ごすことが出来た。

尤もアルコールが身体に十分浸み込んでいたこともあって、そんなに長湯はせず見晴らしの良いロビーで休息をとってから、私たちは部屋にと戻った。

そのまま部屋に戻るとしばらくして、私達は眠りについた。

 

翌朝7時半の約束通り朝食会場に行くとすでに西島さん達は到着していた。

皆で今日の日程について打ち合わせをした。

ざっくりとした予定は、義定公の菩提寺である「塩山放光寺」に行き、かつての居城があった「小田野山」、続いて馬の畜産が行われたと思われる「乙女高原周辺」、更に鍛冶屋の郷があったと思われる「下小田原」、最後に黒川金山のある「鶏冠山周辺」等をポイントにして、行ける場所に行ってみよう、という事に成った。

ただし黒川金山跡地の在る鶏冠山に登るとすれば、登山靴あるいは最低でもトレッキングシューズでないと難しいのではないかと、山歩きに詳しい久保田さんが忠告した。

 

8時半にぶどうの丘正面の駐車場で私たちは待ち合わせをした。

合理的に行動しようという事で、藤木さんの乗っていた軽自動車はそのまま、ぶどうの丘の一番利用者の少なそうな駐車場に置いてくことにした。四人で久保田さんのSUVカー(スポーツ用多目的自動車)に乗って行くことにした。

一番最初に訪れたのは、藤木さんの地元でもある塩山の高橋山放光寺であった。

この寺は安田義定公によって建立された寺で、義定公の菩提寺でもあった。高橋山山門の入り口すぐ横に義定公を祀る立派な石碑があった。

藤木さんの先導で放光寺の伽藍を案内してもらった。私も以前この菩提寺には来ていたし西島さんも久保田さんも、既知の義定公の菩提寺であったために主な施設を一巡して、あまり長居はせず三十分程度で切り上げた。それから次の目的地の「小田野山城」にと向かった。

小田野山城は義定公のかつての牧之荘安田郷の拠点の一つで、笛吹川の支流の一つ皷川沿いに在る山城であった。と同時に小田野地区は、義定公が騎馬武者用軍馬を畜産・育成したと思われる乙女高原に続く街道との、結節点でも在った。

 

「小田野山城」に向かう途中、私は誰とは無く話しかけた。

「放光寺に在った愛染明王なんですけどね、あの像については何か判ってる事ありますか?」と。

「ン?どういう事ですか?」後部座席の藤木さんが反応した。

「いえね、ご本尊の阿弥陀像や大日如来像・不動明王については何となく判るんですよ。真言宗であった点とか、その昔は天台宗であった点とかを考えればですね・・」私がそう言うと運転席の久保田さんが、

「毘沙門天像も何となく想像がつくじゃんね。武将である義定公が、軍神でもある毘沙門天をお寺で拝むのは・・」と言った。続けて、

「愛染明王って、どっちかっちゅうと恋愛関係や染物関係、水商売絡みの仏様ズラ?なんであのお寺に在るのか、オレもいまいち不思議に想ってたですよ・・」と言った。

「確かにそうかもしれませんね。ただ愛染明王は不動明王と共に大日如来の左右に配置し、三尊として真言宗なんかでは祀られることが多いですから、私などはそう解釈して特に疑問も持たずに納得してたんですが、何かあるんですか?立花さん・・」藤木さんはそう言って、私に聞いてきた。

 

「えぇまぁ・・。実はですね、例の『後白河法皇日録』に愛染明王のことが時々出てくるんですよ。後白河法皇の院の御所でもあった法住寺でのことですがね・・」私がそう言うと、西島さんが

「後白河法皇と放光寺の愛染明王像とに縁があるって、思ってるだかい?立花さんは・・」とさっそく反応した。西島さんは何かを感じたのかもしれなかった。

「えぇまぁ、そういう事なんです。何しろ法住寺の改修や造作にも義定公は駆り出されてますからね、それも法皇のご指名で・・」私は『後白河法皇日録』に書かれていた法皇と愛染明王の記録を思い出しながらそう言った。

「それに後白河法皇は女色はもちろん、男色も結構盛んでしたからね・・」私は続けた。

 

「はっはっは、確かにそうだよな、あの法皇は頭を丸めてっからもほっちの道は死ぬまで続いてたズラ・・。ほれに確か愛染明王は『色即是空』ならぬ『煩悩即是空』で、愛欲を否定しない仏様だったよな、藤木さんよ・・」と西島さんは笑いながらそう言って、私の妄想を否定しなかった。

「『煩悩即是空』はどうだったか判りませんが、確か世俗の愛や欲を否定しないで仏教の英智でそれらをろ過して『大愛』や『大欲』に昇華させるといったような、教義だったかと思います・・」藤木さんは隣の西島さんにそう言って、補足説明した。

「で、要するに立花さんは、放光寺の愛染明王の仏像は義定公が後白河法皇から貰ったんじゃねかって、ほう考げえてるっちゅうコンけ?」と久保田さんが前を向いて運転しながらそう言った。

「まぁその可能性がありはしないかって、そう想ったんですよ僕は・・。『後白河法皇日録』と、これまでの義定公と法皇との関係を結び付けてみて、ですね・・」私は自分の推測をそう言って久保田さんに説明した。

「そういえばあの愛染明王は平安時代の作だとか言われてましたね・・」藤木さんが言った。

そのような話をしているうちに車は笛吹川沿いの幹線道路から、西側に左折し支流の鼓川に沿う形で山狭の集落にと向かって行った。

 

甲州金山博物館の在った下部(しもべ)温泉郷程狭くはなかったが、あまり広いとは言えない道を川沿いに遡って行った。

集落は鼓川の浸食や氾濫によって開かれたのではないかと思われる様に、川の流れに沿って住居や畑が点在していた。畑はどうやらブドウが中心のようで、巨峰と思われる大きな房がひとつずつ紙袋に覆われていた。

稲田はあまり見ることが出来なかったので、このエリアも甲府盆地に比べ稲作に適さない痩せた土地だったのだろうと、私は想った。

そしてその痩せた土地であったからこそ、かつてこのエリアの地方官僚の豪族であった三枝(さえぐさ)氏が支配していた国衙に近い山梨郡でありながら、この山狭の地に八ヶ岳山麓から安田義定公が遅れて進出して来ることが可能だったのだろう、等と想いながら私は山城に向かう車に揺られていた。

 

幹線道路から分かれて十分もしないうちに目指す小田野山城跡近くに着いた。バス停の名も「城下」とあった。私達はその近くの、車の往来に支障のない場所に車を停めて降りた。

小田野山は皷川沿いにせせり出る形で、小高い丘のような容(かたち)をしていた。またその周辺はそれまでの川沿いに開かれていた集落に比べて、広めであり畑地の面積も広いように思われた。

小田野地区は、我々が「雁坂みち」と呼ばれた先ほどの幹線道路の東南方面から入って来た道と、そのまま北西に乙女高原に登って行く道、更に真南に下る河川である市川沿いに下って行く道との三差路の結節点にも成っていた。

小田野周辺は幾つかの河川が合流する場所でもあり、それら複数の河川による浸食や氾濫で、他の集落より土地も畑地も広く成ったのではないかと、藤木さんが解説してくれた。

また、小田野山城を南下する市川の下流には牧之荘の、というか峡東地方と呼ばれる山梨県東部地区を代表する古刹「窪八幡神社」が鎮座していると、藤木さんが教えてくれた。

従って義定公の牧之荘にとってこの小田野山城は、政治的軍事的にも更には経済的にも重要な結節点であり、地政学的にも要となる場所であるという事が理解できた。

 

「窪八幡神社」は安田義定公にとって、牧之荘の八幡神社として相当重要な神社でなかったかと、藤木さんは想っているようであった。

八幡神社は言うまでもなく源氏の氏神であり、これまでの駿河や遠江之國・京都で見てきたように、義定公の自らの領地にあっては必ず精神的な支柱として、力を入れてきた神社であったからである。

この峡東地区において、窪八幡神社を超える規模や格式の八幡神社が無い事からそう確信している、といつも慎重な藤木さんが珍しく言い切った。

その説には西島さんも同じ考えでいる様で、久保田さんもまた同様に想っているようだった。いずれにしても小田野山城は、義定公にとって地政学的に重要な意味を持つ拠点であることが、藤木さんの説明で十分理解する事が出来た。

 

その後私達は丘の上の小田野山城址に登って、小高い丘の上から皷川沿いに広がるエリア全体を俯瞰した。その際皷川を超えた向こう側に在る平たい場所を指して藤木さんが、そのエリアが「馬場」という名前の地域で、その名の通り義定公が上流の「乙女高原」や「牧平」「塩平」で畜産・飼育した軍馬を、ここの馬場で一人前の軍馬に育てるために調教・訓練した場所なのだろうと言った。

更には流鏑馬などの神事もここで行われたのではないかと、推測を交え解説してくれた。

 

小田野山城跡を降りて車に戻った時には10時半を回っていた。

これから皷川を遡って「乙女高原」に向かうかどうかを私達は協議した。乙女高原に行って帰るだけで二時間近くは掛かるだろうという事で、相談したのだった。

私自身は若い頃夏と冬とに一度ずつ訪れており、既知の場所だったのでそんなに固執してないことを話した。冬場はかつての「乙女高原スキー場」に行った事があったのだった。

結局乙女高原には向かわず、小田野山から引き返すことにして「雁坂みち」に在る道の駅で早めの昼食をとることにした。

 

「雁坂みち」は埼玉県の秩父地方と山梨県とを結ぶ主要国道140号の愛称であった。西沢渓谷の甲武信山系を超えて行く二千m級の山並みの間を通る道路であり、その一角には大菩薩峠や鶏冠山=黒川山が在り、黒川衆や山岳修験者には縁のある場所であった。

道の駅で早めの軽い昼飯を食べながら、私達は西島さんの調べてきた「田子の浦の砂金」について話題にした。

去年駿河之國、遠江之國の義定公の痕跡を求めた検証旅行の際に、掛川の元日本史の教師で今は郷土史の研究をされている横須賀さんから聞いた情報であった。

義定公が鎌倉時代初期に進めた富士金山の痕跡が「長者ヶ岳」での金鉱石の採掘から始まり、それを麓の田貫湖「長者が池」まで運び、そこから更に田貫湖の水運を使い潤井川を下って鍛冶屋の里「上井手」で精錬加工をする。

義定公の富士金山の開発はそうやって行われて来たのではないかというのが、私達が富士山西麓の現地調査で得た仮説であった。

 

その私たちの得た仮説は富士山西麓、現在の富士宮市の「金之宮神社」や「富士浅間大社」の神事の中から得たヒントを基に、現地で確認して得た結論であった。

しかし考古学的な検証データは無く、明確な文献上での記録も見つかってはいなかった。ある意味推論の積み重ねで、まだ弱かった。

そこにもたらされたのが横須賀さんから聞いた『續日本紀』に記されていた田子の浦での産金に関する古い記録であった。

『續日本紀』に書かれていたその記述は、八世紀の奈良時代、当時の孝謙天皇が完成させた奈良東大寺の大仏を銅と金で覆う塗金に用いられた金の一部が、駿河之國の国守から献上された金であったという事であった。

 

駿河の守従五位下楢原造東人等廬原郡(いはらごおり)多胡浦濱、獲黄金献之」と『續日本紀』には記述してあり、現在の田子の浦で採れた浜金が朝廷に献上された、との事であった。

八世紀の奈良時代の廬原郡多胡浦濱は、現在の富士市田子の浦と同様に潤井川が駿河湾にそそぐ浜であった。当時の富士川は河の中瀬が十五瀬も在って、その川幅は四・五㎞ほど在った。

そして田子の浦の近くでその富士川に合流していたのが、富士山西麓を流れる潤井川であったのだ。

従って田子の浦に堆積した浜金は、太古より連綿と蓄積された「長者ヶ岳」から「長者ヶ池」を経て「潤井川」によって運ばれて来た、富士金山であった可能性が高くなってきたのである。

もちろん更なる考古学的な検証は求められようが、私達が去年富士山西麓のフィールドワークで立てた推測を裏付ける資料となる事には、間違いなかった。

西島さんはそれを確認するために『續日本紀』を熟読すると言ってたのであった。私はその事の成果を尋ねたのだった。

 

「オレもあの後さっそく『續日本紀』を手に入れてしっかり読んでみただよ。東大寺の大仏建立に関わる個所を中心にな、ほしたらな・・」西島さんはもったいぶって私たちの顔を見廻して言った。

「ほしたら、何~んにも出てコンだっただよ、残念ながら・・」西島さんはニヤリとそう言って笑った。私達はがっかりした。

期待値が高かっただけに私は大いにがっかりした。私は更に食い下がって

「何~んにも出なかったんですか?ほんとに・・」と聞いてみた。

「うん、残念じゃんね・・。東大寺の大仏に使われた国産の金は、田子の浦の前に陸奥之國から結構大量に献上されてるだけんが、田子の浦以降はイッサラ(全然、全く)書かれちゃいんだよ。

もっぱら陸奥から献上された金のコンしか書かれちゃいんだから・・。ほんとに残念だよな・・」西島さん自身も心底残念に思っている事が伝わって来たので、私はそれ以上尋ねることはしなかった。

 

「長者ヶ岳から長者ヶ池さらにそこから潤井川を経由して田子の浦に辿り着くまで、結構距離が在りますからね、無理ない事ですよ・・」藤木さんはそう言って、田子の浦の産金がそれ以降確認されなかった事を冷静に分析した。

その間タブレット端末を操作していた久保田さんが言った。

「どうやら長者ヶ池の田貫湖から田子の浦までは、直線だけでも25・6㎞は在りそうだよ・・」と教えてくれた。

「なるほどね、そんなに在りましたか・・」私は25・6㎞と聞いて納得した。

 

金はその質量がとても重い物質だから、川に流されても曲がり角や河川が合流する場所に沈金することが多く、砂金堀り達の体験によると河川が合流する箇所は、砂金などの沈金を獲得しやすい場所であった、という。

従って人為に依らない自然界の現象としては、田貫湖の長者ヶ池から25・6㎞も下流の田子の浦に金が堆積する確率は相当低いと思わざるを得ないのだ。

八世紀に駿河守が献上した後、更なる献上が可能になるほどの量の浜金が堆積するのは、数千年いや数万年先のことかもしれないのである。『續日本紀』を熟読しても記述が無いのは無理もない事なのだ。

 

西島さんからの残念な報告を聞き終えて、私達は再び牧之荘に残る義定公の痕跡を訪ねることにして、道の駅を出立した。

次に私たちが目指したのは、黒川金山から得た金鉱石などを粉砕・精錬すると同時に、金山開発に関わる道具類を製造する拠点でもある、鍛冶屋の里ではなかったかと藤木さんが推測している、牧之荘における鍛冶屋の里「下小田原地区」であった。

 

 

 

 

   『 續日本紀 巻第十八 』天平勝宝二年(751年)三月十日の条

                   『續日本紀史料』51ページ(皇學館大學史料編纂所)

三月戊戌。駿河の守従五位下楢原造東人等。於部内廬原郡(いはらごおり)多胡浦濱。獲黄金献之。練金一分沙金一分。於是。東人等賜勤臣姓。

                           註:( )は著者が記入

上記は孝謙天皇が国家行事として推進していた東大寺大仏殿を造営するにあたり、陸奥之國の砂金と共に駿河の田子の浦で採れた沙金(浜金)を用いたことが記されている。

                                

 

                  
                      小田野山城址
 
 

鍛冶屋の里

 

「下小田原地区」は、下流では同じ笛吹川に合流する事に成るのだが、鶏冠山/黒川山などを水源とする甲武信山系東部の有力な河川「柳沢川」の甲州側の下流、「重川」の川沿いに在る集落であった。

「雁坂みち」が埼玉県秩父方面と甲州山梨をつなぐ幹線道路であるのに対して、東京側に流れる柳沢川や山梨側に流れる重川沿いの街道は、「青梅街道」と呼ばれ東京都奥多摩町に抜ける甲州と江戸とをつなぐ甲州街道の、いわば裏街道という位置づけであった。

この青梅街道は黒川衆の本拠地「黒川山=鶏冠山」や大菩薩領を含む山並みを、縫う様にして山を登り、下って行くのであった。

街道の頂上は「柳沢峠」と言い、標高1,4040~50mは在り、夏でも涼しい峠であった。

藤木さんの解説によると柳沢峠を境に甲州側に下る川を「重川」と言い、奥多摩川に下る川を「柳沢川」という事であった。

 

「雁坂みち」から「青梅街道」に向かう県道を西から東に抜けると2・30分で目指す「下小田原地区」に着いた。勝手知ったる藤木さんの人間カーナビが大いに役立った。

重川に架かる「小田原橋」を渡るとすぐ現れた集落が「下小田原地区」であった。重川は水量の多い一級河川である。

 

「青梅街道」沿いの商店の角を左折し、しばらく行くと目指す「下小田原鍛冶屋遺跡」に着いた。周囲を里山にぐるっと囲まれた遺跡のある場所は、民家や畑の混ざり合うのどかな集落であった。

私達は車を降り、周辺を見廻して語り合った。

「ここは重川からは少し離れてますがここが鍛冶屋の里だったんですか?」私が藤木さんに尋ねた。

「ハイそうです。ここからは古代・中世の鍛冶屋の遺跡が出てましてね、その点は間違いないです」藤木さんはそう言って話を続けた。

「こちら側が重川に成り、反対のこちら側に下小田原の集落が続くんですが、ご覧の様にこちらは里山が切れますよね」藤木さんは最初南側に向かってそう言い、次に北側を指してそう言った。

「なるほど、こちらの北側から山風が吹き下ろすってことですか・・」私が言った。

 

「これって富士宮の『上井手の鍛冶屋の里』に似てるじゃんね⁉」久保田さんが言った。

「遠州森町の鍛冶屋の里にもな!」西島さんが続いた。

「潤井川と太田川のそれぞれ上流でしたね、向こうは・・」私が言った。

「そうなんですよ、私はこちらの下小田原のことが頭に在って、駿河や遠州に行ったもんですから向こうに行った時そう感じたんですがね。『下小田原』によく似てるな、と・・」藤木さんが言った。

「確かに、川の上流に金鉱山が在って、そこから川沿いに水流を使って鍛冶屋の里に運んで、そこで金鉱石の粉砕や精錬加工を行うって構図ですよね。しかもいずれも北風がよく吹き抜ける場所でしたね・・」私は三か所の持つ河川や地形を思い浮かべながら、その地理的構造を理解した。

 

「ただあれじゃんね、ここには潤井川の上井手に比べるとセギが在るにはあるけんが、ちっこいし水の勢いが全然違うじゃんね、ほのへんは大丈夫だったずらか・・」久保田さんが小さな声で疑問を呈した。

確かに久保田さんの言う通りであった。桃やスモモと思われる果樹園を囲む道路沿いにはコンクリの蓋をした暗渠に成っている、小さな水路が在るだけであった。

「確かにおっしゃる通りなんですよね、ここはまぁ『原之京鍛冶遺構』と云って平安時代の鍛冶屋の遺跡ではあるんですが、おっしゃるように金鉱石を加工するとしたら水量が足りなすぎるな、と私も思ってはいたんですがね・・」藤木さんもその点は課題だと感じてはいたようだ。

 

「藤木さん、今更お尋ねするんですけど・・」私はそう断ってから藤木さんに向かって、

「金山開発と鍛冶屋の関係なんですが、下部の甲州金山博物館でも見てきたんですが、鍛冶場というのは金鉱石の発掘現場近くと、こちらの様に里というか現場を離れた場所の二か所に在ることに成るんでしょうかね・・」と尋ねた。

「どうもそのようですよ。どちらか一つではなく『山鍛冶』と『里鍛冶』の二種類がですね、在るわけです・・」藤木さんは教えてくれた。続けて、

「『山鍛冶』は現場の近くで掘削に使う金山道具なんかを新しく作ったり、道具が破損した時に修繕する必要がありますから、金堀の現場近くでないととても間に合わないですね。その辺は臨機応変に対処しないと・・」藤木さんが追加説明をしてくれた。

 

「なるほどね・・。そうすると『里鍛冶』の場合は掘削工事とは違って、金鉱石などから金を粉砕・剥離したり冶金するための、もっと大掛かりな加工場のような働きに成るんですかね・・」私が尋ねた。

「まぁ、ほういうコンさ。金鉱石の粉砕・粉石作業や金とほの他の付着物を取り分けたりで、結構やるコンがあるだよ。砂金みてぇに自然の力でほのプロセスが終わってるモンを、ひょいひょい拾ったり採集するのとは訳が違ごうだから・・」西島さんが付け加えた。

「エライこんだね」と久保田さんが言った。

 

「確かにそうですね・・。って事はあれですか、金鉱山を掘り出したり開削して岩石から金を抽出する作業であれば、砂金や金片を拾い集めたりするのと違って、里鍛冶はそれなりに大きな仕掛けが必要になるって事なんですね。なるほど・・」私がそう言うと、西島さんが

「ほういうコンだよ。砂金や沢金みてぇに、ほこらへんに落っこってたり川底に堆積してるモンを拾い集めるのとは訳が違ごうだよ、山で金を掘り出すってコンは・・」と言った。

「なるほどそこに金山(かなやま)衆のノウハウがあり、経験が必要になる訳ですね・・。金山衆なりのビジネスモデルが確立している必要が、あるんですね・・」

私は金山衆の仕事と、明治に成ってから北海道で盛んにおこなわれた、砂金採りや沢金を採集していた「砂金取り」との違いを理解した。

やはり高度な技術の蓄積と共に分業に基づく協業体制、といったようなシステムがそれなりに必要なのだろう、と理解した。

 

「そういうビジネスモデルというか、金鉱石の採掘から最後の冶金までの一貫したシステムをしっかり構築している点が、黒川衆と一般的な砂金取りの違いに成ったんだと思いますよ・・」藤木さんがまとめるようにそう言った。

「おっしゃる通りですね・・。でもそうであればある程、富士宮上井手の鍛冶屋の里や、遠州森町のような『山鍛冶』と『里鍛冶』のような、しっかりした協業体制が必要になって来るんでしょうね・・。

そうだとすればここの鍛冶屋の遺跡の規模も、もう少し大きい必要はありませんか?ここが里鍛冶の集落跡だとすると・・」私は周囲を見回して、藤木さんにそう言った。

 

「確かにそうかもしれませんね・・」藤木さんは力なく私の指摘に、同意した。

「だけんがこの地形っていうか、位置関係は鍛冶屋の里としては申し分ないじゃんね・・」久保田さんはそう言ってこの下小田原が鍛冶屋の里に相応しい場所であることを肯定した。

「確かにそれは言えてますよね、実際そういう地の利があったから平安時代からこの場所で鍛冶が行われてもいたんでしょうね・・」私もこの場所が鍛冶屋の里である点には疑問を抱いてなかったので、久保田さんの考えに同意した。藤木さんも傍らで肯いていた。

 

「ところでこの近くには金山神社というか、金山彦を祀った神社とかは無いんでしょうか?」私は鍛冶屋の里としての裏付けを確認するべく、藤木さんに尋ねた。

「ええ『金井加里(かないかり)神社』と『神部(かんべ)神社』という氏神様が在ります。金井加里はこの近くなんですが、祭神が山王大権現でして、一方神部神社の方は十一面観音という形をとってますが、金山彦が祀られてます」と教えてくれた。

「なるほど十一面観音だけど金山彦なんですね。いわゆる神仏習合ってやつですか・・」私がそう言うと、藤木さんが肯いた。

 

「まぁ、『本地垂迹(ほんじすいじゃく)でもあるわけだよな・・」西島さんが言った。

『本地垂迹』って、何だっけね・・」久保田さんが呟いた。

「仏教用語で、仏様が日本の神様に身を変えた姿っちゅう様な意味だよ・・」西島さんが教えてくれた。

「話は変わりますが、この近くなんですねその『金井加里神社』は・・。歩いても行ける程度の場所ですか?」私がそう言うと藤木さんが

「ちょっとした坂道を、登らなきゃなりませんがね・・」と言った。

それをきっかけに私達は車を移動させて「金井加里神社」近くのお寺の大きな駐車場に車を留めた。

 

駐車場からお寺の道を抜けて「金井加里神社」に向けて坂道を登った。

境内に着くと私達は、その小高い場所から下小田原や上小田原などを見下ろした。

「向こうに見えるのがさっき言いました神部神社です」藤木さんが境内のほぼ正面に在る山の中腹を指さして、私たちに神部神社の場所を教えてくれた。

 

「藤木さん、ところで『金井加里』って珍しい名前ですが何か謂われとかあるんですか?」と私は尋ねた。すると藤木さんはニヤリとして、

「『いかる』って、甲州弁で埋めるって意味があるんですよ。ですから金井加里神社ってのはその名の通りだとしたら、金が埋まってる神社って意味なんです・・」といった。

「ん?ほういうコンけ、『金井加里』って・・」久保田さんが驚いたように言った。

「ほの辺も藤木さんが黒川衆と関係ある鍛冶屋の里だって、思ってる根拠の一つに成ってるだかい?」西島さんがニヤニヤしながらそう言った。藤木さんはにこにこしながら肯いた。

 

金井加里神社を後にした私達は、この地区のもう一つの代表的な神社である「神部神社」にと向かった。金山彦が祭神だったからである。

神部神社は、重川を渡った向かい側の山すそに在る神社で、その境内に温泉旅館が在るのには私達も驚かされた。

藤木さんの解説によれば神部神社は別名、岩間大明神とも湯山明神とも云われ、裏手に在る神部山に本宮が在り、その神社の岩の間からはお湯が沸き揚がって来るのだという。

ご神体が岩の間から湧き揚がって来る温泉であることから、古くから神社の境内に温泉旅館が在るのだ、という事であった。これもまた八百万(やおよろず)の神の信仰対象なのであろうか、と私は想った。

 

長い石段を上って行くと結構広い境内が現れた。

境内の案内板には祭神に金山彦の名は出ていなかったが、金山彦の仏の化身である十一面観音が祀られていたと書かれていて、やはり藤木さんが言ったとおりだった。

金山神社の全国の総本山である岐阜の「南宮大社」を初めとした金山彦を祀る神社には、仏像である十一面観音像が一緒に祀られていることが多いと、西島さんが教えてくれた。

 

この神部神社では黒川衆との関係を結びつける、「神様の指紋」を特に見つけることは出来なかったが、藤木さんの考える鍛冶屋の里の近くに、こうやって金山彦を祀る神社が地元の氏神として、古くから鎮座している事に何らかの関係があったのだろうと、類推することは出来た。

因みに両神社のあるエリアは神金地区とも呼ばれているが、それは先ほど見てきた「金井加里神社」とこの「神部神社」の名称の頭を取ってつけられた名前だという。

いかにも、黒川衆の金山開発に縁のありそうな名前であると、私達はそう言いながら神部神社を後にした。

この後黒川山の鶏冠山に向かう予定であったが、その途中に「雲峰寺」という古刹があるので寄って行こうという事に成り、我々は寄り道をすることにした。

 

「雲峰寺」は八世紀の天平年代に行基によって創建された古刹で、安田義定公に縁があるというよりは、武田勝頼に縁があるお寺である、という事だった。

勝頼が織田・徳川の連合軍に攻められて天目山で自刃する際に、武田家伝来の幾つかの宝物をこのお寺に託した、という謂われのある寺でそれらが寺の宝物殿で閲覧できるという事であった。

信玄公が用いた有名な孫子の「風林火山」の幟や、神功皇后由来と謂われてる日本最古の「日章旗」の一部などが含まれているという事であった。

義定公と孫子との関係を推察している久保田さんの強い意向で、皆で立ち寄ることにしたのだった。

 

大菩薩峠に向かう道路沿いの雲峰寺参詣者用の駐車場に車を留めて、私達は二百段近い石段を上ることに成った。石段を登り切ったころには私達は息を切らしていた。山歩きが趣味の久保田さんはさすがに平気だったようだが・・。

案内を乞うと、寺の後継者と思われる若い住職が現れ彼に案内されて私達は宝物殿に入った。

宝物殿の中には噂の孫子の一文を記した「風林火山」の旗や、信玄公や勝頼公と縁が深かった「諏訪神社」に関わる軍旗の実物が、高い天井から窮屈そうに展示されていた。

更に、甲斐源氏の家祖に当たる源義光、通称新羅三郎義光が父の源頼義から贈られたという伝神功皇后由来の日章旗が、ガラスケースに入って展示されていた。

 

これは武田家の家宝で「御旗(みはた)楯無(たてなし)」と称されるうちの一つで、「御旗」の方だった。

「楯無」の方は武者着用の鎧のことで「楯が必要ない」くらい強く頑丈な鎧という事で、こちらは甲州市役所近くの菅田天神社に奉納されているという。

いずれにせよ両方とも名だたる宝物で、書物やTVの世界で伝え聞いていた武田家伝来の家宝で、実物はやはり迫力があったし、リアリティが感じられた。とりわけ御旗と呼ばれる日章旗は、存在感があった。明治以降制定された、汎用性の高い「日の丸」とは明らかに格が違っていた。

私はその御旗を見て、かつて聖徳太子が遣隋使に持たせた親書に書いてあったという「日いづる国」という言葉を思い出した。この御旗の日章旗であればまさに「日いづる国」を象徴するに相応しいと、そんな風に想ったのである。

 

雲峰寺の宝物殿を出ると藤木さんが、境内の拝殿の向こう側を指さし、

「あの辺りで、大正時代に平安時代作と思われる古い経典を入れる筒や壺・和鏡等が発見されたらしいですよ」と教えてくれた。

「経塚ですか?」私がそう言うと藤木さんは肯いた。

「宝物殿には無かったジャンけ・・」久保田さんがそう呟くと、藤木さんは

「なんでも発見されて早々に東京の国立博物館に寄贈された、という事です」と解説した。

「ひょっとしてほれに、義定公は関係しちゃぁいんズラか?」と西島さんが言った。

「義定公は遠州森の岩室寺なんかでも確か、般若波羅密多経を書写したりしてたジャンな・・。ほれにこの辺りはもちろん牧之荘で義定公の本貫地だったし、時代は符合するな・・」と続けた。

その呟きに対し藤木さんは明確な答えは出さなかった。

 

「国立博物館では義定公に関係してるなんて、きっと思ってもいないでしょうから、そういう観点からの分析を誰かがやらないと判らないですよね・・」私はそう呟いた。

「ほんじゃぁ立花さん、やってみるかい・・」西島さんが、ニヤニヤしながら言った。

「えっ!そうですね、ハッハッ考えておきますよ・・」私もニヤニヤしながらそう応えた。

それから私達は雲峰寺を後にして、次の目的地の黒川衆の本拠地にと向かった。

 

 

 

       

        十一面観音像     雲峰寺「風林火山」の御旗

 

 

 

          「 原之京鍛冶遺構 」  ー平成十年三月―

                   (旧)塩山市教育委員会の「案内板」より抜粋

 

昭和四六年五月、農作業中に多数の礫を伴う遺構が発見され、・・・発掘調査が行われた。

その結果、平安時代の竪穴式住居跡一軒と鍛冶遺構一基が隣接して検出された。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出土遺物は集積部上面から発見された鉄滓四個以外存在しないが、切り合い関係から10世紀代の竪穴住居よりやや古い遺構と判断されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらは平安時代の集内における鉄製品などの生産及び保守・管理体制などを知る上でも非常に貴重な発見例といえる。

 

 

          「 神部神社 」  ー平成十四年二月―

                       (旧)塩山市教育委員会の「案内板」より抜粋

祭神は伊弉諾(いざなぎの)(みこと)が黄泉の国から戻って禊(みそぎ)(はらい)をした時化生した「祓戸の九神」を祀る。

古くから温泉湧出の霊験があったので 岩間明神とも湯山明神とも称された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また当社には神仏混淆期に山宮に安置されていた本地仏の十一面観音菩薩が祀られており・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            山梨県指定文化財

                       神部神社本殿

                       附金銅 十一面観音菩薩像一躯

 

「十一面観音菩薩」は、神仏混合においては金山彦と同じ仏であるとされており、金山神社の全国の惣社とされる岐阜県垂井町の「南宮大社」においても、主祭神「金山彦命」と共に「十一面観音像」が祀られている。

 

 

 

一ノ瀬・高橋

 
 
雲峰寺を後にした私達は国道411号線の青梅街道を、重川沿いに北上した。

くねくねした坂道は、日光のいろは坂ほどではなかったが、それなりの勾配とカーブのある坂道であった。ファミリーカーではなくSUVカーを選んだ久保田さんの選択は正解であった。

 

青梅街道の頂上部は柳沢峠と云い標高で千四・五百mは在るらしい。雲峰寺がおよそ千mだったから、四・五百mは登って来たことに成る。

峠頂上付近の駐車場のある施設でトイレに寄ると、その設備は完全に北方仕様で冬場の寒冷地対応がしてあった。水道類の凍結対策である。

柳沢峠は空気も地上とは違ってた。周辺が針葉樹で囲まれていてオゾンの濃度が高いのかもしれなかったが、気温も地上とは2・3度は違うのではないかと思われた。靄の張ってる場所もあった。

 

柳沢峠から先は下り坂が続いた。流れる川は柳沢川といった。水源は同じなのだろうが峠を境に南と北では名称が変わる。南の甲府盆地に向かう川は重川で、笛吹川に合流しやがて富士川に成って、最終的には駿河湾に注ぐ。

他方北側の柳沢川は奥多摩町に向かい多摩川の主源流となって、東京湾に注ぐ。

してみると牧之荘の領主であった安田義定公は地理的には、富士川沿いの駿河之國にかつて在った「甲斐之國いはら郡」の領主に成ることを、ある意味運命づけられていたのかもしれない、などと私は想ったりもした。

義定公の領地に在る水源地の、柳沢峠を含む鶏冠山/黒川山一帯から滴り落ちた水滴が、重川を経て笛吹川を経てやがて富士川という大河に成って、駿河之國に流れて行くことに成るからだ・・。

 

柳沢峠を下ってすぐのエリアは甲州市の落合地区であり、ここは鶏冠山の登山口に成っている。その落合から更に柳沢峠を背にして下ってから、左折して行くと一ノ瀬・高橋という地域に成るという。

この一ノ瀬・高橋地区は鶏冠山の北側の山麓に当たり、甲州金山衆のレジェンドである黒川衆の本拠地が在ったエリアである。

その一之瀬高橋地区には黒川衆から伝えられたという「春駒踊り」という民族芸能が、今でも伝わっているそうで、山梨県の無形文化財に指定されているとのことである。

 

その一ノ瀬・高橋を含む針葉樹の山々は、間伐などがきれいに整理されており山の維持管理が徹底しているように思えた。私がそのような事を呟くと、藤木さんが

「この辺りの山は明治時代から東京の水源として東京都が取得して、管理してるですよ。だからこうやって山にも手入れがちゃんと入ってるですね・・」と教えてくれた。

「へぇ~そうなんだ!甲武信連山が多摩川の源流という事は知ってましたが・・。

そしたら私はここらから来る上水道を飲んでいることに成るわけですね・・」私がそう言うと、隣で運転していた久保田さんが、

 

「立花さんは国立だっけね・・」そう聞いてきたので、私は肯いて

「えぇそうですよ・・」と応えた。それを聞いた西島さんが、間髪を入れずに

「立花さん、ほしたら間違ってもこの川にションベンしちゃだめだよ⁉」と後ろの席から大きな声でそう言って、笑った。

「あはは、ほんとですね気を付けなくっちゃ⁉自分で自分のおしっこを飲む羽目に成りかねませんからね・・」私も笑いながらそう言った。

 

しばらく青梅街道を下って行くと藤木さんが言った、

「この後はまず何処に寄りましょうか?」と私たちに聞いてた。

柳沢峠で休憩した時、寄るべき場所が二・三ヶ所あると藤木さんは言っていた。

「鶏冠山権現の里宮」「オイラン渕」「黒川金山の金鉱跡」であった。藤木さんはその中のどこから行くべきかを、私たちに聞いていたのだった。

「一番遠いところはどこでぇ」西島さんが言った。

 

「距離的にですか、それとも心理的にと言いますか物理的なアプローチの困難さですか?」と、藤木さんが西島さんに確認した。

「ほうだな、じゃぁアプローチの難しい順だと、どうなるで?」と西島さんが応えた。

「難しい順ですと、金鉱跡、鶏冠山権現の里宮、オイラン渕、ですかね・・。オイラン渕はこのままずっと坂を下って行けば、道路沿いといっていい場所に在りますし、里宮の方は山合をちょっと入って行くんですが、車でも余裕で行ける道なんですよね。

で、金鉱跡は鶏冠山の中腹ですから車を留めてそれなりに時間をかけて、山を登って行かなくちゃ行けません・・」藤木さんがそう丁寧に教えてくれた。

 

「道順と言いますか、最も合理的な順序で言うとどうなりますか?」私が尋ねた。

「そうですね、まずは『鶏冠山権現の里宮』に行って、それから『オイラン渕』を通って、そのまま下って三条橋から『黒川金山の金鉱跡』に行くってのがいいんじゃないですかね。合理的っていえばですけど・・」藤木さんがそう言った。

「ほしたら、ほれで行くじゃん!」西島さんがそう言った。特に異論は出なかったのでそうすることに成った。

私達は落合を下ったところを左折して山道を入った。数分で「鶏冠山権現の里宮」に着いた。ちょうどY字路になっていて左側に行けば高橋地区があって、右側を行くと一ノ瀬地区に成るという。藤木さんが教えてくれた。

そしてその分岐点の要に在るのが「鶏冠山権現の里宮」で、小高い岡のように成っていた。

 

私達は神社の手前で車を下りて、枯葉の積もる勾配のきつい境内の参道(と言っても道は厚い枯葉で埋もれていて、ほとんど無きに等しかった)を坂登って社に向かった。

私は先をスタスタ登って行く久保田さんに、なんとか付いて行ったが、急勾配に息は上がっていた。

藤木さんと西島さんも後からゆっくりとマイペースで上がってきたが、私同様メタボ気味の西島さんは、やはり息を切らせていた。

小高い岡の上の社(やしろ)は、ここ数十年は祭祀なども行われていないのではないか、と思われるような感じで、窓越しに見えた本殿の中の祭祀用の道具類は埃にまみれていた。

地域の過疎化や後継者不足といったことが、祭の継承や存続そのものを困難にさせているのだろうかと、私は想った。

 

そのあと高橋地区の山間いの中の、比較的平坦といって良いエリアに到達し、かつての黒川衆の集落があったと思われるそのエリアを私達は訪れた。

小さく浅い川沿いに向かって左側に小さなお堂が在り、右手奥にぽつぽつと家が散在する間にやや広めの雛壇状に成った場所が在り、そこには立派なお墓が数十基並んでいた。

そのお墓の足元の駐車スペースに私達は車を停めて降りた。

その足で、小さな川を超えたお堂に皆で向かった。お堂はお寺のようで法光山高橋寺と書かれていた。

 

「あれ、これって塩山の放光寺に何だか似てるじゃんね、法の字は違うみてぇだけんが。何か関係あるずらか・・」久保田さんが、びっくりしたように言った。私もなんだか聞いたような名前だと、さっきから思っていた。

「久保田さん、ほの通りですよ。ここは今朝寄って来た放光寺と関係ある寺って言われているです。放光寺の伝承では寺の開基はこの寺に縁ある住職で、義定公がその住職のために牧之荘の安田郷に寺を建て、勧進した事が始まりだと言われているようですから・・」藤木さんが解説してくれた。

「という事はあれですか、その頃には義定公と高橋寺やその檀家衆であった黒川衆との間には、すでにそれなりの親密な交流があった、という事ですか・・。因みに塩山で法光寺が開基したのはいつごろに成るんでしょうか?」私は藤木さんに尋ねた。

 

「そうですね、源平の戦いが終わって義定公が遠江守に成っていた頃の事だそうです。確か和暦の寿永三年、西暦の1189年頃だったかと思います・・」と藤木さんが教えてくれた。

「なるほどそうすると、義定公の遠州や富士山西麓の領地経営が10年くらい経って、かなり安定してきた頃の事ですね。しかも京都での祇園神社や伏見稲荷の造築や改築、更には院の御所などの普請もほぼ終わっていて、義定公の懐具合もわりと安定しているタイミングに成るんですね・・」私がそう言うと、西島さんが、

「ほう云うこんさ、しかも京や奈良の宮大工や仏師なんかともほれなりのパイプや人間関係が出来てた頃だったじゃねぇかと、ほう思うよ・・。

だから当時の甲斐之國であっても京や奈良の寺院にも負けん位の、立派なお寺が建立出来たっちゅうわけだよ・・」西島さんがやや誇らしげに、そう言った。

私達はしばらくそのような事を語らいながら、今は殆どが廃屋に成っていると思われる人気(ひとけ)の無い高橋地区の集落を散策してから、次の目的地である「オイラン渕」にと向かった。

 

国道411号線青梅街道を東京方面に向かって下っていくと、数分でちょっとしたトンネルに入った。一つ目のトンネルを過ぎたあたりで、藤木さんが右手の川を指さし「オイラン渕」を教えてくれた。

411号線沿いの柳沢川の上流であるその辺りは、水量もそれなりに豊富であり、かつ川筋に高低差がしっかりあるために、流れる川は白い水しぶきを立ちあげ、川の中の岩にはじけていた。

水の流れに勢いと、力強さとを感じた。

私はその光景を見て、黒川衆の治水灌漑の土木技術は金鉱山の採掘はもちろんのこと、このような急流で水流の強く速い柳沢川を日常的に目にしていて、養われたのかもしれないな、とフト想った。

 

即ち、水の勢いを止めるのに大きな岩の存在が、有効であるといった様な事に気付いていたのではないかと、そう想ったのであった。

信玄堤などで生かされた、大きな岩や人工的に作られた工作物を設置して、川の流れを変え勢いを削いでいく技術は、こういう自然現象をしっかり観察することで出てきたアイデアかも知れない、と私は想像力を働かせたわけである。

 

伝説によると、この「オイラン渕」は黒川衆の堀子達を初めとした金山採掘の労働者を相手とした女郎達=花魁(おいらん)が、金山を閉山するに際して口封じのために命を奪われた場所であったというのだ。

この流れが速く水量の大きな川の淵で、彼女達に最後の晩餐ならぬ宴会を行って、そのまま細工のしてあった木造りの宴会場もろとも、柳沢川に落とされて命を奪ったといった伝説の残る場所であった、と藤木さんが解説してくれた。

金鉱山が無尽蔵であるならまだしも、多くの鉱山が数十年単位で枯渇してしまうことを知っている私としては、この伝説をそのまま素直には信じられないのであるが、それに類した何か不幸な出来事が、オイランたちの身の上に起こった事はあったのかもしれない。

そのような事を車中で話しながら私達は「黒川金山採掘の跡」に向かう山登り口に当たる、柳沢川に架かる三条橋を目指して向かった。

 

やがて国道411号を右に折れ柳沢川に架かる三条橋を超えた処で、私達は「黒川金山跡地」を目指すグループと、山には登らないで再び「一ノ瀬・高橋地区」等を見て回るグループとに別れた。

「黒川金山跡地」は、山間いに在り比較的急な坂で道幅が狭い事から、西島さんと藤木さんは参加しないことにしたのだった

二人は以前に何回か訪れていたこともあったし、年齢的な事もあって参加を取り止めたのであった。従ってまだ行った事の無い久保田さんと私との二人で「黒川金山跡地」に向かうことに成った。

三条橋からは行きで約二時間、帰りで一時間半程度、現地での休息と滞留を含め都合四時間程度は掛かるだろうという事であった。

西島さん達とは四時間後に再びこの駐車場で逢おう、という事に成って私達は別れた。

 

 

                   

                     柳沢川「オイラン渕」

 

 
 

 黒川金山跡地

 
 

国道411号から入った三条橋を背に右折して、久保田さんと私は林道を川沿いに「黒川金山跡地」にと向かって、山道を登って行った。

途中こぶし大程度の石が人工的に敷設させられた歩きずらい箇所を通りながら、鳥のさえずりをBGMにして、オゾン密度の高い山道を緩やかに登って行った。

 

川に架かった丸太を簡易に組み合わせた木橋を渡った辺りから、それまでの緩やかな林道とは明らかにアプローチが変わった。

目の前に迫る山を縫う様に、つづらに折れる山道を登り始めたのである。

次第に傾斜はきつくなり、道幅は殆どが5・60㎝しかなかった。当然のことだが人がすれ違う事は出来ない狭い登り坂である。

 

しかしながら、さすがに黒川衆が作った山道だと思わせる点が幾つか在った。

山を縫う様に歩くけもの道のような坂道は所々に、しっかりとした石垣が組まれていたのである。足場がしっかりしている箇所には殆どなかったが、逆にこの石垣が無かったら山のノリ面に滑り落ちるかもしれない、と思われる足元の覚束ない危なっかしい箇所には殆ど必ずと云って良いように、石垣が組まれていた。

 

その石垣は自然石をうまく組み合わせて出来ており、どう見ても近代的な土木技術が登場する遥か以前の代物、といった感じであった。

またその組み合わせは、実に石を知り尽くした人達の知恵と、経験やノウハウによって敷設されたものに違いないと、そう思わせるような石垣であった。

私は久保田さんとそのような事を話し合いながら、さすが黒川衆の造った山道だと感心し合った。

 

「この道だら、荷駄を乗せた馬でも通ることが出来たに違げぇねぇよ立花さん・・」山登りの得意な久保田さんが、後ろをついていく私を振り返ってそう言った。

「たしかに、しっかり造られていますよねこの坂道。四・五百年前の信玄公の時代のモノか、八百年前の義定公のモノかは判らないけれど、ですね・・」私は勾配のきつい登り坂に息を喘ぎながら、そう言って相槌を打った。

 

それから所々に大きな自然石が据え置かれた場所が、何か所も在った。

人馬が通ったと思われる登り坂に沿う様に、それらの大きな石が組み合わせられているのだが、直径1m以上ある石や岩には明らかに人の手が入ったと思われた痕跡があった。スパッと石が割れていたりするのである。

それは岩石の特質や性格を知り尽くした人達が、この大きな石を割るのにはこの個所に上手くノミを入れれば、そんなに大きな力を入れなくても割ることが出来る、といった様な事を知り尽くしている人達がやったに違いない、と思わせるような割り方であった。

そしてそれら人の手が入ったと思われる大きな石や岩が配置されていた場所は、ひょっとしたら大雨に成ったらこの辺りは山上から土砂が流れて来るかも知れないな、流木が上から落ちてくるかもしれないな、といった事を思わせるような場所で必ずと云って良いように、確認する事が出来たのであった。

 

鶏冠山の中腹に在る「黒川金山跡地」に向かう山道には、そういう箇所が数えきれないほど沢山確認出来て、それらを見るにつけ私達は黒川衆のノウハウや技術力・知恵といったものに感心するばかりであった。

その想いは山梨や長野辺りの南アルプスや北アルプス等の山登りが趣味だという久保田さんは、私以上にその事を実感しているようで、しきりに感心していた。

「この道はほんとに良く出来てるじゃんね、歩き易いし手入れも良く行き届いているしね・・。尤も手入れの方は東京都の水源だから、都の水道局の人間が日常的に管理してるんだろうけんどね・・」久保田さんはそう言いながら、感心していた。

 

途中ブナの森に入った辺りから、大きな自然石を抱くように生えているブナの樹に幾つか出遭った。

「立花さん見てみろシネ、まるで蛸が岩に引っ付いてるみてぇジャンね」と先を行く久保田さんが、私にその石を指し示した。

その樹は直径2m近くあると思える大きな岩を、抱きかかえる様に五・六本の木の根が絡み合っていて、まるで蛸の脚が岩を抱きかかえている様に見えた。

そのブナの樹の根っこは数m岩に絡んだ後、岩の真下の大地にしっかりと潜り込み、根を張っていたのである。樹の高さも周囲の樹木同様に高く、数十mは在った。

自然界というものは我々の拙い想像力をはるかに超えた営みを行うものだと、つくづく私達は感心した。

 

更に進んで行くと私達が歩いている坂道を少し入った辺りで、山の中腹を掘った坑道の入り口と思われる場所を取り囲むように、沢山の大きな岩や石が山のノリ面を覆った場所に出くわした。

その中に人一人が出入りできるくらいと思われる大きさの穴が、山の中腹に向かって掘られていた。

その穴の入り口は、とても少人数では動かすことは難しいだろうと思われるような、大きな石や岩によって塞がれていた。

「あれは、金鉱の跡ズラかね?」久保田さんがその場所をピッケルで指さして、私に聞いてきた。

 

私達はその穴に近づいて周辺を見廻した。

「どうやらそのようですね・・。この岩は人が入らないためにブロックするためのモノでしょうかね・・」私はそう言ってその穴が金鉱の跡地であるという久保田さんの仮説に同意した。

「何年前のモンずらか・・」岩に苔が生えていた姿を見て久保田さんがそう言った。

「さぁねぇ・・、全く僕には見当がつきませんけど数百年は経つんでしょうかね・・」私はそう呟いた。

いずれにしてもこの辺りに金鉱の跡が在るとすれば、目指す「黒川金山跡地」にそろそろ到達し始めたのだろうと、私達は語り合った。三条橋を出発してからまだ二時間は経ってはいなかったが、近づいている予感はあった。

 

 

         

 

 

 

黒川千軒

 

目的地に入ったと思った私たちの足取りは軽かった。

そのまま10分も経たないうちに私達は、かなりの平たんな場所が在る処に到着した。

ほぼ真ん中を水量の豊かな小さな川が流れていた。その小川を取り囲むように幾つかの台地が散在していた。川の左右・上下を合わせると十か所近くは在っただろうか・・。

「どうやらこの辺りが黒川衆の山の拠点だったズラかね・・」台地の山道近くに在った大きめの岩にどっかりと腰を下ろして、久保田さんは私にそう言った。

「ちゃんとした案内板でもあれば、判るんでしょうけどね・・。でもまぁこれだけまとまって人間が生活できそうな場所はこれまで無かったですからね、きっとそうでしょうかね・・」私は久保田さんの考えに同意した。

実際ここに来るまでの間、これだけまとまった規模の平坦な場所はここより他には無かった。

 

「ここに拠点を置いて、さっきのような金鉱に出向いて金鉱石を採取していたんでしょうかね・・。きれいな飲料水もここでしたら容易に取れそうですしね・・」私が続けた。

「水が無ぇとどうするコンも出来んからね、やっぱりここが一番良さそうじゃんね・・。

ほうするとここに山の現場の拠点を築いて、ここから採掘場まで毎朝弁当でも持って、出向いたズラか・・」久保田さんは周囲を見廻しながらそう言った。

「でしょうね、僕が金鉱開発の現場責任者だったらここを選ぶでしょうね、きっと・・」私も周囲に目をやりながらそう言って、久保田さんに同意した。

 

「あそこのちょっと広くなってる処は、堀子たちの寄せ場だったズラかね・・」久保田さんが小川に沿ったほぼ中央に在る、広めの台地を指してそう言った。

「そうですね、そうかもしれませんね。でもまぁひょっとしたら、集会場のようにみんなが集まる時の大きな建物があったかもしれませんよ・・」

私はその時、青森市郊外の縄文人の集落である三内丸山遺跡に在った、大きな茅葺の集会場を思い出しながらそう言った。

 

このエリアであれば数十人規模の金山衆も生活する事が可能だっただろうし、それだけの人員が一緒に生活していれば、全員を集めての伝達や情報交換、更には宴会や祭りごと等を行う事もあっただろうと思われたからである。

 

いずれにせよこのエリアが、黒川金山で働く金山衆の金鉱山現場の、生活の拠点であることに私達はもはや疑いを持っていなかった。

「ほんどうけんが、藤木さんも言ってたけんがこの場所を『黒川千軒』って云うのはちょっと大げさな呼び名ジャンね、ほうは想わんですか立花さん・・」久保田さんが聞いてきた。

「確かに・・」私も即答した。

「まぁ、『黒川千軒』の千軒というのは実際に千軒の家が軒を連ねていたっていうより、そのくらい賑やかな場所っていう程度の意味なんでしょうね・・。藤木さんも言ってましたが・・」私はそう話を付け加えた。

実際鶏冠山の中腹であるこの金山採掘の場所の中でも、比較的平たんな場所であるこの「黒川千軒」は、どう多く見積もっても千軒の家が建てられるような空間では無かった。たとえそれが掘っ立て小屋だとしても・・。せいぜい数十軒が限度であろうと思われたのだ。

 

その集落跡と思われる場所の小川に沿う様に「黒川金山遊歩道」と書かれた標識が在ったが、その入り口には侵入を禁止するためのロープが張られてあった。

今月の初めにあった颱風の影響で、遊歩道の散策が不可能になっていたのかもしれない、と久保田さんが推測した。久保田さんの話では山梨県の北東部はこの前の颱風の雨風で、少なからぬ被害をこうむり何日か停電も続いてた、という事であった。

実際ここに至るまでの山道や沢には、樹齢数百年と思われる年輪を有した大木が何本も倒れていて、私たちの歩行を遮っていたのだ。

「ひょっとしたらこの進入禁止の『遊歩道』を回遊したら、もっと沢山の金鉱跡を見られたかもしれんジャンね・・」久保田さんが残念そうにそう言った。

 

私達はその場所でしばらく時間を過ごして、来た道を戻ることにした。

藤木さんの話では、この集落を更に2・30分登って行くと「寺屋敷」という場所が在るらしいのだが「鶏冠山」の奥宮を目指すのでなければ、敢えて行くことも無いであろうと事前に聞いていたのだった。

それに帰りの時間を考えると、あまりのんびりもしていられなかったのである。秋分の日の前とはいえ山の夕暮れは、駆け足でやって来ると指摘する久保田さんのアドバイスに、私は従った。

私達が合流場所である「三条橋」に到着したのは、周囲が薄暗く成った18時前であった。

 

駐車スペースで待っていた西島さん達と合流すると、早速私達は柳沢峠に戻り更に甲府盆地にと向かってつづら折りの坂道を下って行った。

そのまま私達は甲府駅近くまで一気に戻った。一時間とは掛からなかったが、すっかり陽が落ち暗くなっていた。

最後に私達は駅近くのちょっとした郷土料理の店に立ち寄り、最後の食事を共にした。ご苦労さん会であった。久保田さんの乗ってきた車は息子さんが取りに来てくれたので、久保田さんも心置きなく一緒に酒を飲むことが出来た。

駅前のその店は甲州名物の「ほうとう」が売りの店で、県内に幾つかの店を展開している、民芸調の郷土料理のチェーン店であった。

その店では「鳥のもつ煮」や「馬刺し」「山女魚の塩焼き」などを食べながら、私達が見てきた「黒川金山跡地」の話をした後で、これからの事について話し合った。

 

西島さんが私に聞いてきた。

「立花さんは今回改めて義定公の本拠地について観て来れたから、ある程度納得もしてるズラ?どうだい・・」と。

「えぇ、だいぶ収穫ありましたよ。『小田野城跡』や『神金地区』『雲峰寺』もでしたが、やっぱり一番良かったのは『黒川金山跡地』をこの目で確かめられたことですね。

黒川衆の技術水準は想ってた以上に相当高かったですね。あの山道の整備具合や大きな石や岩をうまく活用しているのには、ほんとに感心させられましたよ・・」私がそう応えると、西島さんは更に聞いてきた。

 

「しばらくは義定公の本貫地の領地経営を咀嚼する作業をやるとして、ほの後立花さんはユックリするだかい?」と。

「そうですね・・」と私は言ってから、

「今月いっぱいは今回の牧之荘のことを整理してみたいとは思ってますが、それが片付いたら新潟県の上越に行ってみようかと思ってます」と応えた。

「安田義資(よしすけ)公の領国だった『越後之國』に行かれるですか?」藤木さんが興味津々といった風に聞いてきた。

 

「アはい、その通りです。やっぱり気に成りますからね・・」私は今後のプランについて今考えていることを話した。

「立花さんは行動力があるじゃんな、羨ましいよ・・」西島さんはそう言って私にビールを注いだ。

「いやまぁ、そういう性格というか性分でして僕は・・。自分が関心ある事や興味のある事には真っすぐ向かっていくタイプなんで、まぁ仕方ないですよこればっかりは、良くも悪くも・・。

それに冬に入ると雪が降り始めますからね。そしたら半年は上越にも行けなくなるでしょうし・・」私はそう言って、雪が本格的に降る前に上越に行っておきたいと思っている、と話した。

 

「新潟市や長岡じゃなくって、やっぱり上越に成るだけ?」久保田さんが聞いてきた。

「そうですね、鎌倉時代初期といえばどうしても上越に成らざるを得ないでしょうから、まぁそういうことに成りますね・・」私はそう応えた。

「やっぱり図書館や市の教育委員会を中心に行くコンに成るだけ?」久保田さんが更に聞いてきた。

「たぶんそうでしょうね、それから神社を探して尋ねることにも成るでしょう・・」私は、遠州や京都の時のことを思い浮かべながら、そう応えた。

「『金山神社』『馬主神社』『八幡神社』といったところに成るだかい?」西島さんが確認してきた。

「その辺は外せないですよね。後は『祇園神社』や『国府・国分寺跡』も行ってみようかと思っています。『流鏑馬』や『祇園祭』といった神事や祭礼をやってる神社があるかかどうかも、確かめてこようと思ってはいます」私は付け加えてそう言った。

 

「一回じゃ無理ズラほれだけ調べたり、観て廻ったりするとすれば・・」西島さんが呟いた。久保田さんが続いて、

「因みに京都の時は、結局何回行ったで?」と聞いてきた。

「そうですね・・」私はそう言って頭の中で回数を数えてから、

「京都は結局、三回は行って来ましたね。一度ではどうしても、まだまだですからね。 行くたびに新しい疑問が湧いて来ちゃうんですよね。

この点はどうなんだろうと更に疑問が湧いて来て、改めて突っ込んでみたり、あまり確かとは言えない記憶をもう一遍行って、再度確かめて来たり・・。

まぁそんな事の繰り返しでしてね・・。結局そのくらいは行く羽目になるんですよね・・」私は応えた。

 

「じゃぁ、上越でも・・」藤木さんが確かめるように、そう言った。

「たぶん、そう成るかと・・」私はまだ見ぬ上越のことを思い浮かべながら、そう言った。

「確か上杉謙信の春日山城が在っただよな、上越には・・」西島さんが遠い記憶をたどるような顔をしてそう呟いた。傍らの藤木さんが肯いた。

「謙信と信玄公は永遠のライバルだったじゃんね・・」久保田さんがニコニコしながらそう言った。

「上越は長野に近かったからですよ、キット。川中島にも・・」私がそう言った。

「越後の上杉謙信からすれば信玄公の領国『信濃』も『上州』も隣接してる國だからな・・。越後の立場に立って考げえれば、両方とも背中に当たるだから後顧の憂いを断つ意味もあったズラよ、謙信にすれば・・」西島さんがそう言って上杉謙信と武田信玄の関係を推察した。

 

いつの間にか話題は「越後之國」に移っていた。

三人は私が新たに上越に行って、義資公のかつての領地経営の足跡や痕跡を発見してくる事を期待してると言って、私を激励してくれた。

私も出来るだけ来春には「越後之國と義資公の関係」についてご報告が出来るようにしたいと、抱負を述べて彼らの期待に添うようにしたいと応えた。そうして、今回のご苦労さん会を終えた。

 
私はその日の21時過ぎの特急に乗って、東京の家に戻った。

今回の義定公の本貫地探訪もまた、実りの多い旅であったことを喜んでその日はぐっすりと眠ることが出来た。

 

              

      

 

 

 

 

 

 

 

 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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