春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
【 閲覧可能範囲 】
 
・過去半年間の公開済み作品が閲覧可能。
 更新は月単位に成ります。
・ジャンルは「コラム類」「物語類」
 
 
 

 
 
 
 
 
【 閲覧可能範囲 】
 
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・ジャンルは「コラム類」「物語類」
・月刊インフォメーションpaper
・新しい作品
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 【 会員の条件 】
 
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3.半年会費 :上記各国基本通貨に対して@10/月×6ヶ月分
       が基本。日本円は@千円/月、中国元@百元/月
      ex 6千円/60弗/60€/60£/60カナダ弗/6百元
        *指定口座に、入会希望月の前月までに入金。
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4.会員規約への同意
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.会員フロー :①入会意思の伝達 ②申込書の送付&記入 
       ③会員規約への同意④入会費&半年入会費入金 
       ⑤会員ID&PW等送付 ⇒ 利用開始
 

  
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.入会時に『甲斐源氏安田義定駿河、遠江の國』を1冊贈呈。
.半年会員の更新時に:春丘牛歩作品から、1冊贈呈。
.半年会員に「月刊インフォメーションpaper」をネット配信。
 
 
 
 
 
         「-下越、白川之荘安田郷編-
 
   
JR直江津駅前の居酒屋で知り合ったヒゲの先生達と、上越地域の鎌倉時代の國府や安田義資公につながる情報を交換・共有し合った後、ヒゲの先生が新たな郷土史研究家を居酒屋に呼んだ。
 馬づら顔のその郷土史研究家は、新潟県内の神社について詳しい人物であった。私たちは彼からもたらされた情報によって、新たな視点で当時の越後之国について知ることが出来、私自身の関心領域も当時の國府のあった上越とは100㎞近く離れた、下越にと拡がって行った。
 
            【  目    次  】
                
             1.武藤五郎の末裔?
             2.新潟の神社研究者
             3.猿田彦の命
             4.下越、白川之荘安田郷
             5.越後の流鏑馬
             6.上越の舞楽
 
 

武藤五郎の末裔?

 
 

トイレから戻った私がカウンター席に座ると、ヒゲの先生がちょうど携帯電話をしている最中であった。

私が席に着くと、しばらくしてヒゲの先生が電話を終えて、私に言った。

「改めて自己紹介させていただきますが、私は上越の文化財審議委員を務めています、渡会と言います。そしてこちらは先ほど彼がせ云った様に野尻町に住んでる武藤さんです」先生はそう言って改めて自己紹介をして、小柄な男性の事をも紹介してくれた。

「あ、どうも立花です、宜しくお願いします」私もまた改めて武藤さんに自己紹介をして、個人名刺を渡した。

「ところで、武藤さんとおっしゃるんですか?興味ある名前ですね、そうですか・・。で、ずっと野尻にお住まいなんですか?」私が聞いた。

「いんや、オラ婿で野尻に行っただ。元家は板倉の田井っちゅうとこの産で、ほこで生まれて育っただよ」武藤さんが言った。

「次男坊だったかい、武藤さんは・・」ヒゲの先生が言った。

「ソダ、野尻の家は遠縁に当たるで婿に行っただよ、おんなじコメ農家っちゅうことでな。もう五十年も前ぇのこんだ・・」武藤さんが応えた。

 

「そうですか、武藤さんなんですね・・。野尻の事は県道30号線沿いという事で何となく判ったんですが、その生まれ育った板倉の田井というのは、どの辺りに成るんですか?」私はMAPを出して武藤さんに尋ねた。

「オラほの生まれ家かい・・」武藤さんはそう言って、先ほどの長者原を南南西に下り関川沿いと云って良い関川の東岸域を、指さして、

「ここらだ・・」と言った。

「ん?長者原を関川沿いに下って、馬屋(まあ)のほぼ真西になるんですね、この辺りは・・。因みに距離的にはどのくらい・・」私がそう言うと武藤さんは、

「長者原から三㎞ちょっと、馬屋からは二㎞半ってとこだべかな・・」短く応えた。

 

「これだけ関川に近いと、やっぱり河川の灌漑工事で出来た新田に成るんですか?」私が聞いた。

「んだ、せ聞いてるだ・・。田んぼもピシって道路が張ってあって、きれぇーに四角く条里が出来てるだよオラほは・・」武藤氏が言った。

「そうでしたか・・条里がしっかり在って、区割りもきっちりしてるんですね・・」私は確認した。

「確かに長者原も、馬屋も田井もあの辺りはきれいに条里が整理されているよな、気持ちいいくらい・・」ヒゲの渡会先生が言った。

「『田井』って名前からして、条里が整ってる感じがしそうではありますね・・」私が呟いた。

「そうだぁ、駒林の方にも杉野袋(たい)ってとこ、あっだがやっぱり条里がはっきりしていて、ほこの杉野袋の袋はフクロって書くども、元はオラほと同じ田井だったでねぇかって、親父が語ってただよ・・」武藤さんが言った。

 

「そうでしたか・・。ところで武藤さんのお名前に関わることなんですけど、武藤という苗字は上越では、一般的なお名前なんですか?あまり珍しくない、というか・・」私はそう言って、武藤さんを見、次いで渡会先生を観て尋ねた。

「どうだべな、上越でもおらほの旧板倉町には割かし多いだどもな・・。どうだべ?先生・・」武藤さんは渡会先生に向かってそう言った。

「そうだな、どちらかっていうと上越に多いって名前では無いな・・。武藤の姓がどうかしましたか?」先生が私に聞いてきた。

「そうですか、上越地域でも旧板倉町に限って多い名前なんですね、武藤の姓は・・。で、他の地域にはそんなにはいらっしゃらないと・・。そうですか、いやありがとうございます」私はそう言って二人に頭を下げてから、話を続けた。

 

「実はですね、安田義定公の家来には先ほどの五奉行と共に、四天王と言われた人達が居りましてね。その中の遠江之國の目代を務めた武将に武藤五郎という人物が居りましてね、ひょっとして上越の武藤氏はその武将と何か繋がりがあるかもしれないな、とそんな風に閃いたものですから、つい・・」私がそう言うと渡会先生が、

「その武藤五郎の末裔ではないか、と言う事ですか?」と聞いてきた。

「あ、ハイ何らかの繋がりがあるかもしれないなと・・」私が言った。

「ほう・・、それはまた・・」渡会先生はそう言ったが、最後の言葉は飲み込んだようで口には出さなかった。たぶん「飛躍しすぎ」だとか、「大胆な」とかと思ったのかもしれない。私はニヤリとしながら、

「先生は飛躍しすぎ、と思われたかも知れませんが、私にはそれなりの理由もあるんですよ・・」と断ってから、私の閃きについて説明を始めた。

 

「武藤五郎は安田義定に仕えた幹部クラスの家来でして、彼一人が四天王でもあり五奉行でもあるんです。両方に出てくるのは武藤五郎だけなんですが、彼は義定公の重臣として『吾妻鏡』にもたびたび登場してくるんです。

因みに武藤という苗字は甲斐之國の八代郡に多い名前でして、古くから甲斐源氏に仕えた古参の家来衆だったようなんです。その武藤五郎自身は遠江之國で目代として、義定公の代官のような役割を担っていたようなんです。

ですから彼自身が越後之國で義資公の目代を勤めるような事は、さすがに出来なかったとは思うんですが、彼の兄弟や親族が義資公に仕えて、一緒に越後に来た可能性はあるかもしれないな、とそう思ったんです・・。しかも武藤さんの出身地である旧板倉町には、武藤姓の人が沢山いらっしゃると。

 

で、その武藤さん達が根を張っている地域は、かつての國府や國衙のあった『三郷地区』からは三㎞程度しか離れていない場所に在り、更に義資公に仕えた武将たちの本拠地だったのではないかと思われる『武士(もののふ)地区』からも、二・五㎞程度しか離れていない地区でもあるわけですよね、その板倉町というのは・・。

そう言った点を総合して考え合わせるとですね、ひょっとしたら・・、と私などはつい考えてしまうんですよね・・。マァそういう事です」私はそう言って渡会先生の顔をじっと見た。先生は肯いて了解の意思を示した。

「ところで武藤さん、武藤さんの一族には、かつて何か鎌倉時代の守護であった安田義資公に仕えた家柄だとか、以前は武士であったとか言った様な伝承や言い伝えとかって、ありませんか?」私はそう言って、武藤氏の顔を見た。

「安田義資の事は聞いた事ねぇども、なんでも武士の家だから武藤の名前には『武』の字がついてんだぞ、ってじいちゃんから云われたことはあったどな・・」武藤さんは、昔のことを懐かしむような顔でそう言った。

「やはりそうでしたか・・。いやありがとうございます」私がそんな風に言った時、店に新しい客が入って来た。

 

背が高く顔の長い七十前後の眼鏡をかけた男性で、ごま塩頭をオールバックにした知的な雰囲気の漂う人物であった。

細面で鼻も長く、頬から下も長めのその顔を見て私は思わず「馬づら」だ、と感じた。

彼は渡会先生を見つけると、軽く手を挙げて近寄って来た。

それを合図に渡会先生は店のスタッフに、カウンター席からテーブル席に移っても良いかと聞いた。

数分前にテーブル席の客が帰っていて、丁度そのテーブルの後片付けを終えたばかりであった。

先生の教え子の店主が快く応じたので私達はコップと酒の肴をもって、テーブル席に移動した。

 

              

 

 

新潟の神社研究者

 

テーブル席に落ち着くと、渡会先生は小林さんに私達二人を簡単に紹介してから、私達にもその新しい客を紹介してくれた。

その人は小林さんと言って、渡会先生と同様に上越の文化財の審議委員をしている人だという事であった。

「小林さんの専門は神社でしてね、上越はもちろんのこと新潟県の神社について永年研究・調査してきた方でして、立花さんが関心を持っている事に対しても、私以上に的確で適切な情報を提供してもらえるのではないかと、そう思って先ほど連絡を取ったわけです。

それに小林さんにとっても、立花さんの情報や考えは少なからぬ影響を与え刺激にも成るのではないかと、マァそんな風にも思いましてね、店に来てもらったわけですよ・・」渡会先生は私にそのように言って小林さんを紹介してくれた。

 

「鎌倉時代の越後初代守護の事を調査・研究している方、と渡会さんからお聞きしましてね、しかも神社仏閣が大いに関わっているようだと言う事で、こうしてやって来たわけです。どうか宜しくお願いします」小林さんはそう言って私に頭を下げた。

「いや、こちらこそ宜しくお願いします。そうですか、新潟県内の神社についてお詳しいんですね・・。いやホントに、こちらこそ宜しくお願いします。

私は鎌倉時代の越後之国の初代守護であった甲斐源氏の安田義資(よしすけ)公に関して興味ありまして、その義資公の足跡や痕跡が何かないものかと思って、昨日から上越に来て神社仏閣を尋ねたり、『埋蔵文化センター』の学芸員などにお会いしたり、図書館で調べたりしております立花です。宜しくお願いします」私はそう言って小林さんに頭を下げた。

ビールで、皆で乾杯をしてから、さっそく私は小林さんに尋ねた。

 

「早速で申し訳ないんですが、実はお尋ねしたいことがありまして・・。宜しいですか?そこの八坂神社や府中八幡神社に関する事なのですが、宜しいですか?」私は小林さんにそう断りを入れてから話しを始めた。

「実はですね、そこの八坂神社の『神馬舎』の事なんですが、その神馬舎の白馬は、ご存知かもしれませんが猿に手綱を曳かれていましてね、ちょっと珍しい神馬舎だなぁと思っております。

で、この珍しい神馬舎の謂れとかについて何か、ご存知ではありませんか?何故白馬が猿に曳かれているのか、何かご存知でしたら・・」私はそう言って小林さんの目をじっと見た。

 

「猿に曳かれた白馬ですか?八坂祇園神社の神馬舎の・・」小林さんはしばらく考えていたが、思い当たるフシは無かったようで、首を振って言った。

「明確な謂れも伝承も存じ上げませんです、残念ですが・・。

でもひょっとしたら日枝神社が合祀されている事が、関係あるかもしれません・・。ご存知なように日枝神社では猿が神獣として扱われていますからね。これはマァ単なる思い付きですけどね・・」小林さんはサラリとそう言って、ビールを飲んだ。

「なるほどそうですか、実は今朝祇園神社で神社の関係者と思われるご婦人に同じ事を聞いてみたんですが、日枝神社が合祀されたのは江戸時代に入った頃らしいんで、そのはるか以前平安時代頃からすでにあの神馬舎は在ったらしい、とかで・・」
私は今朝聞いてきたことを話した。
 

「おっしゃる通り八坂の祇園さんは秀吉による上杉家所替えの際に、上杉景勝候が会津に移封された時に、当時の宮司も一緒に会津に付いて行ったようです。

それで宮司不在で祇園さんの存亡が危ぶまれた時に、当時の日枝神社の宮司が入り込んだ、という経緯があったようですね・・。そうですか、あの神馬舎はそんなに古くから在るものなんですか・・」小林さんは感心するようにそう言って、私を観た。

「それからご存知だと思いますが、府中八幡神社に松平忠輝が寄贈した神馬舎もまた、猿に曳かれた白馬像であったと、云う事ですよね。因みにこちらの猿は二匹で祇園神社よりは一匹多くなってるようですがね、あはは・・」私はニヤリとしてそう言った。

「そう言えば確かそうでしたっけね、府中八幡神社の白馬は・・」小林さんは思い出したようにそう言った。

 
「因みに私が何故神馬舎に拘るかと言いますとですね、神馬舎が越後之国の初代守護であった安田義資公と、深い繋がりがあると思われるからなんです・・。
義資公とその父親である安田義定公とは、騎馬武者用の軍馬の畜産や育成にことのほか熱心な武将なんですが、それは彼らが甲斐源氏である事が影響しているんだと思います。

当時の中世の武将達はいずれも騎馬武者が中心でしたから、軍馬に力を入れるのは無理もない事なんですが、甲斐之國では四世紀ごろからずっと馬を飼う伝統がありまして、それなりのノウハウや人材の蓄積があるんですよね・・、他国以上に。

従って甲斐源氏の義資公が守護として赴任していれば、この越後でも騎馬武者用の軍馬の畜産や育成が相当活発に行われていたのではないかと、そんなふうに思っています」

私はそう言って小林さんの顔を見てから、また話を続けた。

 

「先ほども渡会先生達ともお話ししたんですが、当時の國衙・國府のあった三郷地区を拠点にして、県道30号線の新井・柿崎街道沿いに『武士地区』『野尻地区』『保倉ノ牧』『直海ノ牧』と南北に結ぶ幹線の軸を設けたのではないか。

更にその南北軸にクロスするように、『荒牧・菅原ノ牧』『旧牧村の上牧地区』および『猿ケ馬場地区』が在り、先程お聞きしたんですが『浦川原、飯室地区の巨大な厩』が東西の軸として、繋がっているんですよね。

私はこれらはいずれも安田義資公が造った、國衙や武将たちの館・拠点とそれぞれの牧き場や厩とを結ぶ、当時の都市計画道路だったのではないかと、マァそんな風に考えています。

で、その義資公が当時の直江津祇園神社と、府中八幡神社に奉納したのがこの『猿に曳かれた白馬の神馬舎』だったのではないかと、そんな風に仮説を立てていまして・・」私はこれまでの説明も兼ねて、長々と小林さんに説明した。

 

「その安田義資が祇園さんや府中八幡さんに神馬舎を奉納したと思われるのは、どういった考えといいましょうか根拠をお持ちなんですか?」そう聞いてきた小林さんの目は、笑っていなかった。

「そうですね、まずは府中八幡について申し上げますが、安田義資公は甲斐源氏ですので八幡神社は氏神に当たるわけですね。

ですから八幡神社そのものを自ら創建する事も含めて、積極的に支援したと思いますし、自らの心の拠り所にもしていたと思います。

ですから神馬舎の寄進や、多分当時でしたら活きた神馬そのものの奉納も、あったのではないかと私は想います。自らの牧き場から馬を選んでの奉納といいますか・・」私はそう言って小林さんの目を見た。彼は軽く頷いた。

 

「次に祇園神社との関係なんですが、安田義資公とその父親で遠江之守でもあった安田義定公とは、京都八坂の祇園神社と伏見稲荷大社とに深い関わりがありましてね、そこからの縁で直江津の祇園神社をも支援したのではないかと、私はそう思っています」私がそう言うと小林さんは、眼でその先を促した。

「具体的にはですね、『吾妻鏡』や九条兼実の『玉葉』等にも書かれているんですが、後白河法皇の勅命によって義定公父子は八坂の祇園神社と伏見稲荷大社の、大規模な造築や建て替え、改築・修理といった事を命じられているんですよね。

この両神社の大規模な工事は、源平の戦いや大規模な地震などによって荒廃した両神社の社殿・社屋を建て直す事で、義定公が願っていた遠江之守の重任を許すといった、交換条件として出されたものなんですけど、けっこう大変な建築工事で、三年近く掛かったようなんですね・・。

マァいずれにしてもそのような事があって、義定公父子と祇園神社や伏見稲荷大社とはかなり太いパイプや関係が出来まして、社殿・社屋の造・改築が済んでも祇園祭などにも積極的に関わって来た事が判ってきています」私がそう言った。

 

「祇園祭もですか?」小林さんは呟いた。

私は小林さんに対して、先ほど渡会先生や武藤さんにも話したようないくつかの理由を挙げて、祇園祭と安田義定公父子との関係について一通り説明をして、

「そういうわけで義定公父子と祇園神社との関係や、直江津が関川の氾濫の起こりやすい地理的環境であったという事。

更には後から越後に入部・入郷した守護職として、領民の人心を掌握するためにお祭りや神事が有効であった事を知っていて、祇園祭を奨励したのではないかと、私はマァそんな風に考えているんです」私はそのように付け加えた。

 

暫くジッと考えていた小林さんは、

「なるほどとりあえず立花さんのお考えは判りましたが、その推論を裏付ける何か証拠というか、物証の様なものが何かありますか?

お聞き及びかも知れませんがここ直江津では戦国時代末期に『御館の乱』という大きな戦乱がありまして、建物はもちろんそれまで伝わっていた伝承や古文書といったものが殆ど消滅しておりまして、そのお話を裏付ける様なモノや資料が殆ど残ってないんですよね。

それがマァ私達文化財や埋蔵物を手立てとして、過去の歴史や史実を解明していく者にとって、最も厄介な点でして・・」小林さんがため息交じりにそう言った。

「『御館の乱』は京都における応仁の乱の様な位置づけみたいですね、ここ上越では・・」私がそう言うと、小林さんや渡会先生は大きく肯いた。

 

「そうですね、証拠といえるかどうかなんですが、私達が神様の指紋と呼んでるものがありましてね、その指紋が残ってるかどうかをいつも確認するんですよ。その対象となる神社などでは・・」私がそのように言うと武藤さんが、

「神様に、指紋ってあるだかい?」と驚いたように渡会先生達に聞いてきた。聞かれた二人もちょっと戸惑っていた。

「あるんですよね、神様の指紋。神社なんかにけっこう残ってるんですよ・・」私はニヤリとしながら言った。

「具体的にはどんな事なんです?その神様の指紋って」渡会先生がちょっと真顔で聞いてきた。

 

「そうですね具体的にはですね・・。神様の指紋は幾つかあるんですけど、先ずは祀られている神様、これが一番おっきいんですけどね。要するに祭神ですね。誰が祀られているかどうか、です。

それから本殿や祠・お堂と言った建造物ですね。これはですね、建造物の瓦や幕・幟といったものに使われている、社紋というか神紋・寺紋ですね。

そう言ったマァ小道具や大道具の中にも発見することがあるんです、指紋をね。あと外せないのが神事やお祭りといった、伝承されている伝統芸能や風習ですね。その中にも沢山の指紋が残ってたりするんです」私はそう言って一気に神様の指紋について語った。

 

さっきから黙って聞いていた小林さんが聞いてきた。

「因みに京都の祇園神社の場合だと、どんな神様の指紋が在ったんですか?」

「そうですね京都の祇園神社に残っていた神様の指紋はですね、一番判り易いのが祇園神社の神紋ですかね・・。ご存知かもしれませんが八坂祇園神社の神紋には通常の木瓜唐花と共に三つ巴紋が折り重なっているんですよね。

ご存知なように三つ巴紋は源氏の氏神八幡神社の神紋ですよね。これが先ず一つ目の神様の指紋です」私がそう言うと、

「京都の八坂神社の神紋ってどんなでしたっけ?」渡会先生が聞いてきた。隣りで武藤さんも肯いていた。

「あ、そうですね・・。ちょっとお待ちください」私はそう言って、ウエストポーチからタブレット端末を取り出し、八坂祇園神社の神紋を検索して、皆に見せた。

 

「このように木瓜唐花三つ巴紋とが重なっているのが、京都の祇園神社の特徴でして、一般的な祇園神社でしたら、手前の木瓜唐花だけなんですよね。直江津の八坂神社もまさにそうでしたが・・」私は直江津八坂神社の方を指さしてそう言った。

「京都八坂の祇園神社には、八幡宮は合祀されてませんか?」小林さんが聞いてきた。

「ハイ、おっしゃるように合祀されています。神社の境内を外れた北参道といっても良い場所に他の神様と一緒に五社に含まれる形で・・」私がそう言うと、小林さんは

「その八幡宮の神紋だと考えることは出来ないんですか?」と更に聞いてきた。

 

「そうですね、それも多少は考えられますが、ご存知なように京都の祇園神社は十も二十も様々な神様を合祀して在りまして、大国主命や、蛭子神社などは境内に独立した神殿を持って社格を誇示しています。

ところが八幡宮は先ほども言った様に五社に纏められた中の一つでして、とても神紋に取り上げられるような、そんな特別扱いされるようなポジションには無いんですね。

ですから、その八幡宮の存在によって祇園神社の顔とでもいう神紋に特別に抜擢されたとは、ちょっと思えないんです・・」私はそう言って説明し、続けて

「その神紋が代表例ですが他にも幾つかあります。本殿や拝殿更に西楼門や南楼門、朱塗りの柱に白壁といった鮮やかな配色としっかりした建築で、祇園神社の象徴として社格を高めていると思います。
 
そしてそれらの神殿・社屋の天辺には、金色に輝く先ほどの二つの神紋が、交互に配置してあって、文字通り光り輝いているんです。その神紋は木瓜唐花と三つ巴ですね。それらの建造物はいずれも安田義定公が後白河法皇の勅命によって創られたものだと、私は確信しています」私はきっぱりと言い切った。

 

「ほう・・、因みにその根拠は何ですか?」小林さんは穏やかにそう言ったが、眼は詰問調で鋭かった。

「そうですね、百聞は一見に如かずでしょうから・・」私はそう言いながらタブレットを操作して、

「こちらが八坂祇園神社の本殿や楼門ですね、見たことあるかもしれませんが、ついでに天辺の金色の神紋も見てください」私はそう言いながらタブレットを操作し、部分的に拡大して皆に見せた。

「ご覧に成りましたか、宜しいですか・・」私はそう言ってから再びタブレットを操作して、

「で、こちらが伏見稲荷大社の本殿や拝殿、南楼門です・・」そう言って再び拡大などしながら見てもらった。

「如何ですか、二つの神社の神殿・社屋は似ていると思いませんか?双子のように・・。私はこの二つの神社のこれらの建造物はいずれも同じ設計思想やデザインコンセプト、美意識によって創られたものだと思っています。

違うのは天辺に金色に輝く神紋の種類だけです。祇園神社が『木瓜唐花と三つ巴紋』だったのに対して伏見稲荷大社の場合は『菊の御紋と三つ巴紋』である、という点だけです」私はそう言って画像を示したうえで、

「これが私の云う神様の指紋でもあり、根拠です」といった。

 

 

 

 

 

       吾妻鏡 第十 文治六年(1190年)二月十日

                  『全訳吾妻鏡2』139ページ(新人物往来社)

一 造稲荷社造畢覆勘の事。

右、上中下社の正殿、宗たるの諸神の神殿、合期に造畢し、無事にご遷宮を遂げしめ候ひをはんぬ。・・・・・・・・・・・・・・・・  

六条殿の門築垣の事と言いひ、大内の修造といひ、かれこれ相累なり候の間、自然に遅々とす。・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前の條々、言上件のごとし。しかるべきのやうに計ひ御沙汰あるべく候。恐惶謹言。            二月十日      (安田)義定

  進上 中納言(藤原経房)殿             註:( )は著者記入

 

 

                    

                京都祇園神社神紋

 

猿田彦の命

 
 

「ほかの神社も同じ様な、ってこと無いんだべか・・」武藤さんが呟いた。

「なるほど・・。ちょっとお待ちください」私はそう言って再びタブレットを操作して、

「ご覧ください」私はそう言ってタブレットの画像を示した。

初めに上賀茂神社、次いで北野天満宮、松尾大社・平安神宮といった京都を代表する神社の画像をそれぞれ検索し、三人に示した。

「北野天満宮や松尾大社とは明らかに違うのがお判りでしょうし、上賀茂神社や平安神宮は色彩は似通ってますがデザインコンセプトや屋根の瓦などはだいぶ違いますでしょ・・」私はそう言って三人に確認を取った。三人もそれには肯いて同意を示した。

「なるほどですね・・。確かに言われるように祇園神社と伏見稲荷大社とは双子のように似てますね・・。やっぱり同じ設計思想といったもので建てられていると、そう思って良いのかもしれませんね・・」小林さんはそう言って両神社の類似性を認めた。

 
「そして両神社に共通するのは、これらの建物の造築や建て替え工事を担ったのが安田義定公であった、という点なんですよね、後白河法皇の勅命によって・・。ですからこれらの本殿や拝殿・楼門は義定公が創ったものだと、推測することが出来るんです。

それからここで注目してほしいんですけど、この天辺の屋根瓦にはいずれも三つ巴紋が施されている、という点なんです。言うまでもなくこの三つ巴紋は出来合いの瓦とは違って、オーダーメイドの発注品に成るわけです。

源氏の氏紋を甲斐源氏の義定公が自分の事業であることを示すための、一種のマーキングと言いますか、残した痕跡であると私はそう思っています。

現に祇園神社や伏見稲荷大社の、他の建造物や社にはこういった特注の瓦は使われていなくって、殆どがツルツル無紋の大量生産品なんですよね。ここまでは良いですか・・」私はそう言って改めて三人の顔を見て、理解していることを確認した。

 

「したがって私には屋根瓦に三つ巴紋が使われているかどうかもまた、神様の残した有力な指紋であるとそう思っています。

因みに京都の祇園神社では先ほどの本殿・拝殿、西と南の楼門の他に三つ巴紋が確認出来た建物は、本殿真裏の『神馬舎』とその更に裏手の北側に在る『絵馬堂』の二ケ所でしたね。二ケ所だけだったといっても良いかと思います。

お気づきのように二つとも馬に絡んだ建物です。騎馬武者用の軍馬の畜産・育成に力を注いだ義定公が造ったものだと、私はそう思って確認しています」私がそう言うと、

「だども鎌倉時代なんてエライ昔の建物がまんだ、ずっと残ってたんだべか?」武藤さんが呟いた。

「いや、さすがに八百年も前のものがそのままずっと残ってはいないでしょうね。実際この間には巨大な地震も何百年おきかに襲ってますし、応仁の乱を始めとした大きな戦乱にも見舞われてます。

大火に遭遇したりもしてますからね、京都では・・。ですから鎌倉時代のものがそのまま、という事は無かったと私も想ってます」私は言った。

 

「したらその安田義定っちゅうお侍が造ったものとは、言えねぇだべさ・・」武藤さんが言った。

「そうですね、その件について私はこう考えています。先ずは有識故実という事ですね。神殿や社が損壊したり消滅した時に一旦は失われますよね。でもそれらは必ず修復したいとか、復元したいと考えるわけですね神社としては。

その時に立ち返るお手本のようなものがあると思うんですよ。私はそのお手本に成ったのが義定公が造った時の本殿や楼門だったのではないかと、そう考えています。

もちろん予算や費用的なことも考えるかと思いますが、やはり復興や復元したい時は、具体的なイメージやモデルがあったのではないかと思います。

そしてそれは一番華やかで立派な時の神殿や楼門ではなかったかと、そう思います。

具体的なイメージとしては、皇室の大きな伝統的な行事に平安時代の装束をまとったりして、有識故実をなぞっているのと同じですよね。一番華やかだった時の格式を踏襲しようとする・・。

それと同じことが復元の時に起こったと思うのです。そしてそのモデルに成ったのが一番華やいだ時の建築様式ではなかったか、とですね・・」私がそう言うと、渡会先生が、

 

「それが鎌倉時代初期の安田義定が建造した時の様式、というわけですね・・」と言った。

「おっしゃる通りです・・」私はニコリとそう言って、渡会先生に同意した。

「なるほどね、立花さんが言われる神様の指紋とは、そう云ったものに成るんですね・・」小林さんも肯きながら言った。

「マァ、とりあえず三つ巴の氏紋は立派な指紋ですね。それから義定公の家紋である花菱紋も重視します。伏見稲荷大社の神馬舎の白馬に掛けられていた緞子(どんす)を観ましたら、かなり派手な馬の背に掛けられた金襴緞子だったんです。

そしてその緞子には花菱紋が在りましてね、私は神馬舎の三つ巴紋と共に在る花菱紋を見て、この神馬舎を造ったのは義定公に違いないと思いました」私がそういった時、渡会先生が反応した。

 

「花菱紋ですか?あの武田菱をデコレーションした様な、派手というか華やかな菱紋ですよね・・」と言った。私が肯くと渡会先生は小林さんを観ながら、

「祇園さんの神輿が上越祭りで必ず立ち寄る、高田の陀羅尼八幡神社にも確か花菱紋が在りましたよね、小林さん・・」と思い出したようにそう言った。

「・・ん、そうでしたか・・」小林さんはすぐには思い出せない様だった。

「それに直江津祇園神社の神輿の紋は三つ巴でしたよね・・。う~んなるほどね、そういう事か・・」渡会先生はそう言って腕組みをした。先生の理解が深まったようだ。

「それともう一つ宜しいですか?実は直江津の祇園八坂神社の神馬舎と本殿裏手にある稲荷神社の屋根瓦もまた、三つ巴紋でしたよ。

私は今朝確認してきましたから、間違いないです。因みにそこの祇園神社の瓦紋が三つ巴紋だったのはその二つの建物だけでして、本殿やその真後ろに在った二つの社や祠には三つ巴の紋は無かったですね・・」

 

「松尾神社と、神明神社の事ですかね・・」渡会先生がフォローした。

「でしたかね・・。マァそう言ったこともありまして私は直江津の祇園神社と府中八幡の建設や造営に安田義定公親子が、とりわけ守護であった義資公が深く関わって来たのではなかったか、とそう思っています」

私は小林さんの顔を見てハッキリとそう言ってから、更に渡会先生や武藤さんを見てニコリとした。渡会先生もニコニコと肯いた。

 

しばらくの沈黙があってから、私は改めて三人に聞いてみた。

「先ほども言いました、神馬舎の白馬の手綱を引いた猿の事ですが、何か伝承や言い伝え、といったものとか、無いもんでしょうか・・」と。渡会先生と小林さんとは首を振って特に反応しなかったが、武藤さんが、渡会先生を観ながら、

「せいえば、祇園祭の町内の山車の中に猿田彦の飾り山があったんやなかったけ?先生・・」思い出しながらそう言った。

「ん~ん、本町・横町の山車の事かな?」先生が応えた。

「せだったかな、とにかくほかの山車は皆舟形の山車なのに、なしてあの山車だけ猿田彦の人形が神輿をお迎えに行ってるだか、オラはずっと気に成ってただよ。

あれって、さっきの立花さんの話と関係あるんだべか?」と、武藤さんが言った。

「ほう、猿田彦の飾り山の山車ですか・・」私がそう言うと、渡会先生は立ち上がって厨房に向かって行った。
 

しばらくして戻って来た渡会先生は、手にアルバムのようなものを持ってきた。

「いま、洋三から借りてきた祇園祭の山車の写真です・・」先生はそう言いながら私達に向かってアルバムを広げて見せた。

そのアルバムには各町内のものと思われる山車がたくさん映っていた。確かに武藤さんが言われるように舟に乗った舟形の山車が殆どだった。

その中に唯一天狗の神様のような格好をした人形=飾り山が在った。

この飾り山を除く他の山車が殆ど舟形である点を考えると、確かにこの山車は異質に思えた。そしてその事には何かが在るのではないかと、私は想った。

もちろんそれが何であるかは、これから考えて行かなければ成らないのであろうが、武藤さんが言うように、ひょっとしたら直江津の八坂祇園神社や府中八幡神社の神馬舎に在る、白馬の手綱を曳いた猿に関係する事なのかもしれない、と想う事は出来た。

 

「ところで上越には猿田彦を祀った神社とかって、在るんでしょうか?」私は渡会先生にそう言ってから、小林さんにも尋ねた。

「いや、多分なかったと思いますよ・・、ねぇ小林さん・・」渡会先生はそう言って、小林さんに確認した。小林さんはすぐに肯いてから、

「私の記憶では、ここ新潟には殆どと云って良いくらいに猿田彦を祀った神社は無かったと思います。唯一記憶に残っているのはかつての安田町、現在の阿賀野市の安田地区に在る『安田の猿田彦神社』だけです・・」と言った。

「そうなんですか、阿賀野市安田町の、猿田彦神社だけですか・・」私は呟いた。

 

 

 

    

          直江津祇園祭り猿田彦命の山車              

 
 
 

下越、白川之荘安田郷

 
 

「せいえばあそこの安田町はさっきから、おまんた(あなた)が言ってる鎌倉時代の越後の守護安田何とかとは、関係ねぇんだべか・・」武藤さんが私に向かってそう聞いてきた。

「えっ、そうなんですか?安田義資公とも繋がりがあるんですか?その町は・・」私は、確かに名前は同じではあるが、両者に何か関係があるのか、渡会先生に確認の意味で尋ねた。

「う~ん、どうでしょうかね・・。確かあそこに入部したのは、伊豆の御家人の大見氏だったはずですがね・・。

大見氏は頼朝の伊豆の平家追討の挙兵にも参加した古参の御家人だったと思いますから、安田義資と関係があるかどうかは、なんとも・・」渡会先生はそう言って、武藤さんの仮説には同意はしなかった。

「そうですか・・。頼朝の挙兵に参集した古参の伊豆の御家人ですか・・。大見氏っていうんですねその新しい地頭は」私がそう言うと、渡会先生が、

「確か安田町はかつての白川荘で、城氏の拠点の一つでしたっけね小林さん・・」と言って安田町の歴史的な背景に触れた。

 

「白川荘で、城氏の拠点の一つですか・・。確か城氏は越後之國では、平安時代からの平氏の有力な豪族だった一族ですよね、平清盛にも直結する・・。ふ~ん、そうですか・・」私はそう言いながらも、ちょっとした引っかりを感じた。

「白川荘は阿賀野川の流域で、その水源でもある会津との往還道路も在り、北上すれば出羽之國に繋がる出羽街道とも交差するエリアで、古代からあの辺りは地政学的に重要な場所でしたからね。

下越地方では、新発田市の奥山荘と共に城氏にとっては長い間本拠地であったし、とても重要な場所だったんですよ・・」渡会先生がそう言って、城氏と白川之荘安田郷について解説してくれた。

「なるほどね、そういった戦略的な場所なんですね・・。ふ~ん、そうでしたか・・。確か城氏は木曽義仲との信濃千曲川の合戦で敗れてから、勢いを無くしたんでしたよね越後では・・」私は平安時代末期の越後之國に関する、にわか知識を思い出してそう言った。
 
 
「そうですね、下越を中心に越後一国に威勢を張っていた平家方の城氏が、会津や出羽之國の豪族も含めた越後連合軍を編成して、千曲川近くの横手川で木曽義仲の源氏と戦って敗れましてね。
それ以来、越後之國とりわけ國府・國衙の在った上越地方では、権威・権勢を失って行きましたね・・」渡会先生が教えてくれた。

「ほう、そうするとその横手川の合戦は駿河之國の富士川の戦いと同じような、信越地区での源平の合戦として位置づけられるんですかね、ターニングポイントに成るような・・」

私はそう言って、「横手川の戦い」の歴史的な意味合いを理解した。渡会先生と小林さんは肯いて同意した。

 

「なるほどそういう事でしたか・・。そうすると上越とは違って、中越や下越ではまだまだ城氏の影響力も強くて、彼らの基盤が堅固なエリアでもあったんでしょうね・・」私はそう言ったが、その時閃くものがあった。

「ひょっとすると安田義資公が越後之國の初代の守護に任命されたのも、頼朝のしたたかな計算が働いたのかもしれませんね・・」と呟いた。

「と、いいますと?」小林さんが聞いてきた。

「いやね、実はここ越後の当時の状況が、遠州遠江之國の状況によく似ているなぁ、って思いましてね・・」私がそう言うと三人は私に注目してきた。

 

「当時の遠江之國は、尾張以西の西日本に拠点を置く平氏や朝廷と関東・鎌倉との、最前線に当たる國だったんですよ。で、まだまだ平氏の残存勢力の影響圏が大きく残る厄介な場所に、甲斐源氏の武将で戦さ上手な安田義定公の配置を認めてるんですよね、頼朝は・・。

その構図がそっくりそのままここ越後之國、とりわけ下越地方にも当てはまるな、とそう思いまして・・」私はそう言って、三人に説明した。

「城氏の勢力がまだしっかり残っている越後之國の初代の守護に、遠江之國と同様に安田義定の嫡子を任命した、って事ですか・・。でもそれはいったい何故ですか?そうまでして安田氏一族に頼る必要が、何かあったんでしょうか・・」渡会先生が聞いてきた。
 

「そうですね、当時の地方の豪族たちは、地頭や御家人としてある程度の規模の領主には成れても、一国を統治する能力を持った人材は、そんなに沢山は居なかったんだろうと思います。それが一番大きかったんじゃなかったのでしょうかね・・、多分。

次に、安田義定公が遠江之守を始めたのは治承四年の1180年の事ですが、嫡男の義資公が越後の守護に成ったのが文治元年の1185年の事でしたよね。この間に、五年の歳月が流れていますよね。

頼朝は義定公の遠江での統治がうまくいっている点を評価したんじゃないでしょうかね・・。平家の最前線に対峙する国守として。

実際遠江之國では、平家方の有力な豪族であった浅羽之荘の浅羽宗信についても義定公は、一旦は排除しましたが一ヶ月ほど後には再登用したりして、結局は取り込みに成功してますしね・・」私は遠州浅羽之荘であった義定公と浅羽宗信との関係について話した。

 

「ほう、そんなことがあったんですか・・」小林さんが小さく肯いた。

「まぁこれはあくまでも推測ですが、國衙・國府の在った上越から遠く離れた下越地方で、会津や出羽之國にもつながる地政学上の重要な場所に、拠点を構えた城氏の残存勢力に対する最前線の統治を、義定公親子の力を借りて任せる事にしたんではなかったんでしょうかね、頼朝や北条時政は・・」私が言った。

「そうすると大見氏の白川荘への入部の件は・・」小林さんが、私に聞いてきた。

「ん~ん、問題はその入部がいつだったかという事ですよね、義資公は建久四年の1193年に例の艶書事件で、頼朝に簡単に誅殺されていますからね・・。

その年の前か後かで大きく状況が違いますから・・」私がそう言うと、渡会先生が、

 

「私の記憶が間違ってなければ、大見氏の白川荘への入部は確か文治二年、西暦1186年頃だったかと思います」と言った。

「そうですか、そういう事だとすると安田義資公が守護として上越の國府・國衙に着任した文治元年の翌年に、その大見氏は白川荘の地頭として入部していた、という事に成りそうですね・・。

因みにそれまでの城氏一族は、合戦などの抵抗はしないまま白川荘から簡単に撤退し、恭順して居たという事ですか?」私がそう言うと、渡会先生が、

「入部してきたのは大見平次家秀で、本貫地は伊豆の大見郷だったかと思います。更にそれまで白川荘を治めていたのは城長茂で、例の横田川の合戦では越後軍の大将を務めた武将ですね」と教えてくれた。

 

「う~ん、という事はあれですか、木曽義仲と戦った平家方の大将のかつての本拠地に、その大見家秀が入部して来たというわけですね?その城長茂は横手川の合戦で討ち死にしたんでしたっけ?」私は確認の意味で渡会先生に尋ねた。

「いや、惨敗して手傷を負って自身の居城であった小川荘赤谷城に、引き籠ったという事です。それから数年して、文治四年の1188年に鎌倉幕府に投降したという事でした」と話してくれた。

「木曽義仲との戦いが1181年ですから七年近くはそのお城に籠ってたってわけですね、城長茂は。ところで小川荘赤谷というと・・」私がそう尋ねると、

「白川荘の奥というか山を越えた山間の集落の山城ですよ、赤谷という場所は・・」渡会先生が補足してくれた。

「という事はその城長茂は、横手川の戦いで木曽義仲に敗れた後、阿賀野川沿いの白川荘は捨てて山間の赤谷城に籠城してしまったわけですね・・。

で、その間の文治元年1185年に義資公が守護と成って上越に拠点を構え、その一年後に大見家秀が白川荘の地頭となって、白川荘安田郷に入部してきた、とそう言う事なんですね・・」

私がこれまでの事を整理し確認する意味でそう言うと、先生と小林さんとは大きく肯いた。

 
 
              
           
 
 
 
 

越後の流鏑馬

 

「因みに、大見平次家秀という事はその新しい地頭は、名前の通り平氏の一族なんですか?そうだとすると城氏と同じ平家に成る訳ですね・・。

じゃぁその安田町には平家の神社が在るんでしょうか、平氏の氏神を祀る厳島神社のような・・。長い間白川荘の領主だった城氏も平氏だったわけだし・・」私がそう言って、小林さんに確認すると、

「いや、それが確か安田町の神社は『安田八幡神社』があの地区の惣社だったと思います・・。例の猿田彦神社の比較的近くに在るんですがね、確か安田小学校のすぐ近くだったかと、思いますが・・」と小林さんは教えてくれた。

「えっ、そうなんですか・・。平氏一族の城氏が長年領主だったんですよね、そこは・・。それに後からやって来た大見氏も平次だから、平氏ですよね。

それなのに源氏の神社が惣社に成ってるんですか・・。ん~ん、何だか在りそうですねまだまだ判らないことが・・」私はそう呟いた。

「確かに、そう言われてみれば・・」渡会先生が言った。私の問題提起に先生も小林さんもその事について考え始めたようだ。

 

「せ云えば五泉市に大きな八幡神社が在るべしなぁ、お盆の屋台が有名だきゃ・・」武藤さんが久々に会話に加わって来た。

「おう、ソだったな・・。阿賀野川辺りでは一番の八幡様だよな五泉の八幡宮は・・」祭礼に詳しい渡会先生が言った。

「五泉市と言いますと?」私は知らない街なので、聞いてみた。

「白川荘の阿賀野川をはさんだ南側の街で、繊維産業の盛んな処ですよ・・」小林さんが教えてくれた。

「という事は、会津側にも近い場所でもあるんですか・・」私が尋ねると、渡会先生が、

「五泉市の東側が会津福島で、西側に行くと中越の三条市や弥彦、見附市にも通ずる上越と中越・下越とを結ぶ南北の街道軸の拠点都市でもありましてね、五泉は・・」と補足してくれた。

 

「確か古代や中世の越後って、阿賀野川や信濃川下流の現在新潟平野と呼ばれてるエリアは、河川の氾濫や洪水の度に大きな池や潟湖に成る湿地帯でしたよね・・」

私は先日長岡の県立歴史博物館で見て来た、新潟平野の歴史を思い起こしてそう言った。

「いやいやそんな昔の事では無くって江戸時代に入ってからですよ、新潟平野が稲作地帯として積極的に新田開発されるように成ったのは・・。

それ以来ずっと明治から昭和まで続いてましたからね、新田開発は・・」小林さんがそう言うと、隣で渡会先生も大きく肯いた。

「という事は、少なくとも江戸時代までは阿賀野川上流の安田町や五泉市がむしろ、主要な街道筋で人もモノもその街道軸を中心に往来していた、ってことですかね・・」私がそう言うと三人は肯いて同意した。

 

私は遠江之國でも痛感したのであるが、中世や古代の事を考える際には現在の私たちの目の前に在る地形や地理・道路などの、物理的な環境をそのまま当てはめてはいけない、という事をここ越後之國でも改めて認識した。

現在頭の中に残っている地図を一度払い落とさないと、古代や中世のその時代のリアルな姿は理解出来ないのだ。

八百年、千年前の遠州では現在の浜名湖の六倍近くある淡水湖が、磐田市や袋井市に今浦湖とかの名称で存在していた事を思い出しながら、ここ越後の今でも新潟市周辺の海抜が10mにも満たないエリアが、かつて大きな潟湖であった事を想像して、彼らの話すことのリアリティをしっかりと頭の中に叩き込んでおいた。

 

「ついでにもう一つ伺っても良いですか?」私はそう言って小林さんを見、渡会先生達を見てから話し始めた。

「神社の祭礼というか神事に成るんですが、ここ越後では流鏑馬の神事を執り行っている神社というのは在るんでしょうか・・。

昼前に訪れた『上越市埋蔵文化センター』では、そう言う神事を行ってる神社は無いと、まぁそんな風に聞いてはいるんですが・・」と言った。渡会先生は小林さんを見て、確認してから

「確かに上越には流鏑馬の神事を行ってる神社はありませんが、長岡の金峰神社や佐渡の羽黒神社では、今でもやってると思いますよ・・」と私に教えてくれた。

 

「長岡の流鏑馬は伝統ある行事で、県内でも割と有名な神事でしてね。今でも多くの人々が流鏑馬の祭には寄ってきますよ、毎年七月十五日にやってましてね」と小林さんがフォローしてくれた。

「そうですか、長岡や佐渡では今でもやってるんですね・・」私はそう言って確認した。

義資公の本拠地である國衙や國府の在った上越にその神事が無かったことは残念であったが、中越や佐渡のそれらの神社と流鏑馬の関わりについて、改めて調べてみる必要がありそうだと、そう思った。

「因みに長岡の金峰神社は、どの辺りに在るんでしたか・・」私が二人に尋ねると、小林さんが、

「金峰神社は、JRの北長岡駅の西方で信濃川の東岸辺りに成りますね、ご興味ありますか?」と私に聞いてきた。

 

「そうですね、やはり気に成りますからね。とりあえず事前に調べてからでも行ってみたいとは思っています。何しろ流鏑馬の神事ですからね・・。

ところで、金峰神社という事はやはり祭神は金山彦になるんですか?」私が確認すると、小林さんは肯いて、

「おっしゃる通りです、金山彦ですね。ただ金峰神社は本来『蔵王権現』と云われていたのですが、明治の神仏習合を分離させる政策で現在の金峰神社に換えさせられた、という経緯を持っていましてね。

その時に金山彦を祭神に据えたという事らしいです・・」と、小林さんが神社のいきさつを話してくれた。

「あ、なるほどね、本来は蔵王権現の方の金峰神社でしたか、金山彦の方じゃなくって・・。

明治維新後のどさくさに紛れて、当時の新政府によって直江津祇園神社が八坂神社に改称させられたのと、同じ問題が起きたわけですね、長岡でも・・」私がそう言うと、小林さんと渡会先生が大きく肯いた。

 

「でも残念ですよね金山彦が祭神でしたら、金山衆と繋がるかもしれないと期待したんですがね、蔵王権現の方でしたか・・。ん~んでも信濃川沿いなんですよね山岳ではなく・・。

それに金山彦は後付けなんですよね、明治維新後の廃仏毀釈政策の・・」と私が言うと、渡会先生が、

「それにしても神社の祭礼としては珍しいだね、蔵王権現の祭祀に流鏑馬が行われるというのは・・」と、ちょっとした疑問を投げかけた。

「確かにそうですね蔵王権現という事であれば、元来は修験者や山伏の神社ですから、険しい山や峰を歩いたり登ったりすることが、修行のはずですからね・・」小林さんもその点には、疑問を抱いているようであった。

 

「ん?という事は、本来は修験者や山伏たちの山岳仏教の道場であったはずの長岡の蔵王権現で、騎馬武者軍団の神事である流鏑馬が伝統行事として残っている、って事になる訳ですね・・。

確かに違和感がありますね、通常の感覚で言うと・・。やっぱりそこには何か謂れというか、蔵王権現で流鏑馬の神事を行うように成ったいきさつのようなものが、あったんでしょうかね・・。

それに山岳道場の蔵王権現が信濃川の川っぺりに在るというのも、何か大きな理由というかキッカケがありそうですね・・。別途に山宮や奥宮が在って、今の神社が里宮ってわけでは無いですよね、その金峰神社は・・」

私はそう言って三人の顔を見たが、三人には特段の反応はなく、思い当たる点は無いのだろうと思われた。

 

私は自分なりにもう一度考えてみることにした。

「長岡の金峰神社って、考えれば考えるほど何かが在りそうな神社ですよね。本来の蔵王権現を祀る神社であればもっと山奥の、それこそ山岳仏教の道場に相応しい場所に在るべきなのに、新潟平野の信濃川沿いに在るわけですよね。

しかも、騎馬武者のための神事である流鏑馬を伝統行事として執り行っていると・・。どんな謂われやいきさつがあったんでしょうね・・。ちょっと調べてみる必要がありそうですね・・。

ところで蔵王権現の修験者や山伏という事に成ると、何となく天狗をも連想させますね・・。神様の系譜から言うと金山彦よりも、猿田彦の方がフィットしそうな感じですし・・」私がそんな風に言うと、小林さんが

 

「長岡の蔵王権現は秋葉三尺坊という高名な修験者が、神様の化身として敬われているんです。伝説では、彼は修業を重ねて背中に羽を生やした天狗に成った、と云われているんですよ。ですから天狗そのものなんです、蔵王権現の神様というか仏様は・・。

それと本来の蔵王権現は、現在は長岡の信濃川沿いに在りますが、かつては栃尾の楡(にれ)原という場所に在って、将に山の中に在った様ですね・・」と解説してくれた。

「なるほど、そういう事でしたか・・。その方が普通ですよね・・。でもまぁ、何かあったんでしょうね本宮が山の上から平野部に降りて来たのは・・。
それに猿田彦の風貌って、どう見ても修験者や山伏に、天狗ですもんね・・。
ところで地理的には、先ほどの猿田彦神社と金峰神社ってどんな関係に成るんでしたっけ?」私がそう尋ねると、渡会先生が

「北北東に白川荘安田郷の猿田彦神社が在って、それを南の方に四・五十㎞下る感じで南南西に金峰神社が在るという南北に縦の関係に成りますね・・」テーブルの上に指でなぞって教えてくれた。

 

「ん?それってひょっとしてそのまま左下に線を伸ばしていくと、上越の國衙・國府が在った場所に繋がることに成りませんか?

要するに猿田彦神社と上越の國府の中間的な場所にその長岡の蔵王権現・金峰神社が在る、っていうか・・」私がそういうと先生と小林さんが肯いて同意した。

「う~ん、その関係って、ひょっとして新潟県に一つしかない猿田彦神社と、蔵王権現の流鏑馬の神事を行っている事に、何か関係してくるんですかね・・國府も絡んで」私がそう疑問を投げかけると、三人も少し考え込んだ。

 

私はタブレット端末を操作して現在の新潟県の地図を出して、改めて阿賀野川の北側に位置する阿賀野市安田町と長岡市の北長岡、更に上越市の長者原が在った辺りを確認した。

新潟の地図の右上から左下にほぼ一直線100㎞程度の距離に、三か所の拠点が重なった。更にその地図を三D地図に変換すると、山並みで繋がることが判った。栃尾の楡原もほぼその線上に入った。

 
中世から近世にかけての新潟平野が殆ど湿地帯であった事を想定すると、上越と中越・下越とを結ぶ出羽之國に向かう街道は、キットこの山並みを縫う様に形成されていたのに違いないと思われた。
 
そしてその出羽之國はまさに修験者たちにとっての一大修験道場があった、出羽三山の霊場にも繋がって行くことに成るのだった。

「猿田彦と修験者、秋葉三尺坊と天狗ですか、それにこの位置関係ですよね・・。何かが在りそうですよねこの関係には。

それに直江津祇園神社と府中八幡宮の神馬舎の、猿に曳かれた白馬。加えて、直江津祇園祭の猿田彦の飾り山・・」私はこれらが全く無関係ではないように次第に思えてきた。

 

                 

                
            左が現在の市町村図、右が古代の地図
              出典:「寛治三年七月越後絵」(杉村好章氏作製)
 
 
                   
 
 

上越の舞楽

 

しばらくの沈黙を破って、

「あ、それから猿田彦って道祖神の、導きの神様でもあるんでしたよね、確か。庚申塚とか康申講にも関係していて、旅人を目的地まで安全に導いてくれる神様という・・」私がそんな事を口にすると、武藤さんが、

「庚申塚って云うと、あの見ザル言わザル聞かザルの三つの猿が手を当てている格好の石碑なんかがあるやつだんべ・・」と誰に言うともなく、呟いた。

私はその武藤さんの呟きに、ちょっとしたインスピレーションを感じた。

「あッそうか・・。猿と猿田彦って、そういう関係に成るのか・・。やっぱり関係あるのかな・・」私がそう呟くと、

「それはまだ何とも言えませんが、安田町の猿田彦神社の庚申講は結構盛んだったんじゃなかったかと、思いますよ確か・・」小林さんが言った。

 

「そうなんですか、猿田彦神社の庚申講のね・・。ところで新潟県の山岳宗教の修験道場として、長岡の蔵王権現って割と特別な存在なんですか?
その越後之國の修験者にとって、惣社のような根本道場のような位置づけというか・・」私が小林さんに向かって尋ねると、

「蔵王権現の秋葉三尺坊は相当有名な修験者のリーダーで、浜松の秋葉神社の創設者でもあったらしく、門人というか傘下の修験者は数千人もいたとかいう実力者だったようですよ・・。ですから栃尾の蔵王権現はその世界では相当・・」小林さんが教えてくれた。

「え、遠州遠江之國の秋葉神社のですか?長岡の蔵王権現って、そっちに繋がって来るんですか?」私はびっくりしてそう言った。遠江の守安田義定公と繋がって来るからであった。

 

「なんでも秋葉三尺坊という修験者は、当時の道場が在った栃尾楡原の修験道場に居て修業を重ねて認められ、更にそこで一定の勢力を確立してから遠州に移って秋葉神社を開山した、とかいう事らしいです」小林さんが追加説明をした。

「いやぁ、そういう事でしたか、そっちでも義定公と繋がって来るんですね、ふ~ん・・。ところでその長岡の金峰神社というか蔵王権現には、八幡宮が脇神とかで合祀されたりしているんでしょうか?」私が小林さんに尋ねると、小林さんは

「いや、さすがにそこまでは・・」と云って知らないと言った。

「まぁ、そうでしょうね・・。脇神まではね・・。でも、仮に八幡神社が合祀されていたとすれば、私なんかグッと義定公との関係をイメージしちゃうんですけどね・・。そうですか、後で確認してみたいですね・・」私は嬉しく成って、にこにこしながらそう言って、小林さんにビールを注いだ。

 

「ところで、立花さんがそこまで流鏑馬の神事に固執するのは、どういうわけなんですか?良かったら教えてくれませんか?」渡会先生が聞いてきた。小林さんも隣りで肯いていた。

「そうですね、一言で言えば甲斐源氏と騎馬武者の関係が切っても切れない関係だから、でしょうね・・。多少長くなっても構わなければお話ししましょうか?」私がそう断りを入れると渡会先生達は肯いて同意した。

 

私は改めて安田義定公と流鏑馬の神事との深い関係について、皆に説明を始めた。

「甲斐之國と騎馬武者の伝統については先ほども渡会先生には話しましたけど、四世紀の古代遺跡などからも出土している様に、甲斐では相当長い歴史や伝統がありましてね。
甲斐源氏の義定公もまた軍馬の畜産や育成に熱心で、騎馬武者を組織して平氏との戦いにも臨んでいたようでしてね・・。
 
まぁそういった背景があるもんだから牧き場の経営にも積極的で、馬主神社や駒形神社等もそれらの牧き場近くでは沢山作ってましてね、軍馬の事を非常に大切にしてきたんですよ。そんな事もあって義定公は神事としての流鏑馬にも積極的に関わって来たんですね。

その痕跡は遠江之國の神社などでは多く残ってましてね、その伝統は第二次大戦で馬の供出が徹底的に行われ徴用されるまでは、結構盛んにおこなわれていたようです。まぁ戦前は伝統行事として八幡神社などを中心に残っていたようです。

それにご存知だと思いますが、流鏑馬の神事の家元といわれる『小笠原流』や安芸武田家の『武田流』のルーツはいずれも甲斐源氏でしてね、しかも小笠原氏の家祖の小笠原長清も安芸武田家のルーツの武田五郎信光も、偶然ですが義定公の甥にあたる人物でしてね・・。

まぁそういった事もあって私は流鏑馬の神事に関心がありまして、ちょっと確認させていただいたわけです」私は三人の顔を観ながら、そう言って説明した。

 

「越後の守護、安田義資も流鏑馬を奨励してたんではないかって、そう考えたってわけですか?」小林さんが私に聞いてきた。

「はい、おっしゃる通りです」私は即答した。

「上越地域には官営牧の伝統もあって、古代には上越だけでも六つも七つも牧き場が在った様ですからね。ここ上越には朝廷に納める馬の畜産や育成の歴史や伝統、それにノウハウや人材も揃っていたと思いますよ。

そういった環境に騎馬武者の伝統を持つ甲斐源氏が守護として入部してきたとすれば、双方にとってかなり恵まれた状況が生まれただろう、と思います。

それにご存知だと思いますが流鏑馬は神社にとっては、神事でありお祭りでもありますが鎌倉武者にとっては、武芸を競う武術大会みたいな要素もありますからね・・。

まぁ義資公の家来の武人たちや越後国内の地頭や御家人・豪族達にとっても、武芸の腕を磨く切磋琢磨の場にも成って、騎馬術や弓矢術の武芸奨励につながるわけです。

 

それが義資公が守護だった10年近くはずっと続いたんでしょうからね、それなりに定着もしていたでしょう・・。
そんなこともあって、初代守護義資公も盛んに行っていたんではないかって私はそんな風に想ってましてね、流鏑馬が彼の事績というか痕跡を知る手掛かりに成ると、そんな風に考えているんです・・」私はそう言って三人の顔を順番に見た。

「なるほどね・・、そういう事でしたか・・。立花さんにとっては騎馬武者の神事もまた神様の指紋に成るって、訳ですね・・」渡会先生はそう言ってニヤリとした。

「おっしゃる通りです。神様が残したかなり大きな指紋ですね。伝統行事といった形の、ですが・・。はっはっは・・」私はそう言って笑った。

 

「ところで、その神様の指紋につながるかもしれない神社の神事についてなんですが、ちょっと良いですか?」小林さんが私を見据えて、言った。

「あ、はい何でしょうか?」私は即答した。

「立花さんは祇園祭や流鏑馬に対しての関心が高そうですが、ここ上越では神社の祭祀としては舞楽もまた盛んなんですが、そちらには関心というかご興味はありませんか?」と小林さんが渡会先生をチラリとみてから、私に聞いてきた。

「舞楽ですか・・」私はちょっとイメージが湧かなかったのでそう呟いた。

 

「ええ舞楽です、まぁ御神楽ですね。上越と云っても隣りの糸魚川なんですがね、実際には。糸魚川の三大舞楽はとても盛んで有名な舞楽で、国の無形文化財にも指定されていましてね・・」祭祀に詳しい渡会先生が説明を始めた。
 
「ホウ、三大舞楽ですか・・」私が関心を示すと、渡会先生は
「『糸魚川の天津神社の舞楽』と『能生(のう)の白山神社の舞楽』『根知・山寺の延年祭、別名おててこ舞』の三つの舞楽でしてね・・」と具体的な説明を始めた。

「御神楽、という事ですか?」私が聞くと、

「マァ判り易く言えばですがね。こちらでは舞楽と言ってまして稚児舞という形をとるんですよ。その中にひょっとしたら立花さんが関心を持たれるかもしれない舞がありましてね、それでまぁどうかと、言ったんです」渡会先生は意味ありげにそう言った。

「ホウ、具体的には・・」私は詳しい話を聞きたく成って、先を促した。

 

「先ほど高津八幡神社に鶏(にわとり)の話がありましたよね、そのご神体の一つに鶏が祀られている点や、氏子たちは鶏を飼わないし食べないという伝統とか・・。
それに対して割と強く関心を持たれましたでしょ、金山衆でしたか安田義資の家来の・・」先生はそう言って、私が肯くのを確認すると、更に話を続けた。

「実は天津神社の舞楽の中の一つに『鶏冠』という稚児舞が含まれてましてね、その稚児舞にひょっとしたらご興味を持たれるのでは、と思ったんです。

因みに『鶏冠』というのは鶏の冠を被って子供達がちょっとした優雅な舞を踊るんですがね・・」と説明をした。

「なるほど、鶏冠舞ですか?鶏の冠を被った子供が踊る稚児舞なんですね・・」私は更に詳しい話が聞きたくなって、前のめりに成って

 

「おっしゃるように、金山衆に関係するかもしれませんね。鶏の鶏冠(とさか)の冠を稚児たちが被って舞うという事ですと・・。

それに糸魚川には確か『金山(かなやま)』という名称の山が三か所あるという事なんで、実は明日行ってみる予定でいたんですよ・・」私がそう言った。

「ほう、そうでしたか『金山』ですか、それも三か所もですか?」渡会先生はそう言って、しばらく考え込んだ。

「そう言えば糸魚川には何ヵ所か金山彦を祀った神社が在ったかと思いますよ、確か・・」小林さんが言った。

「あっそうですか因みにどの辺りに、何という名前の・・」私がそう聞くと、小林さんは

「即答できませんが、糸魚川市立図書館には神社に関連する出版物があったと思いますよ、それに・・」と言いかけると、渡会先生が

「『糸魚川市史』に書かれていると思いましたよ確か・・。ああ、それと『能生町史』も一緒に見たら良いですよ、現在は糸魚川の一部に成ってますが、それまでは能生町でしたからね・・」とアドバイスをくれた。

 

「糸魚川の市立図書館は・・」と私が誰とはなく尋ねると、

「JR糸魚川駅の南側で、市役所に隣接して在りますよ市立図書館・・」渡会先生がそういうと、小林さんが続けて

「先ほどの舞楽をやってる天津神社は、その図書館のすぐ裏手ですよ・・」と教えてくれた。
「あ、そうですか・・。そうすると市役所に行けば図書館にも神社にもすぐ行けるわけですね。了解です。いや、ありがとうございました」私はそう言って二人にお礼を言った。
 
「ところで立花さん、明日は糸魚川に行かれるとの事ですがどなたかお知り合いの方やお尋ねする先ってあるんですか?」渡会先生が聞いてきた。
 

「えっ、訪問先ですか?誰というわけではありませんが教育委員会に行って教えてもらおうかと、そう思ってます。ぶっつけ本番ですが・・。糸魚川の事は今日初めて知ったばかりでして・・」私は弁解がましく、そう言った。

「なるほどそうでしたか、実は先ほどの糸魚川の舞楽について長年研究している私達の仲間が居るんですがね、舞楽にご興味があるようでしたらご紹介しましょうか?」渡会先生がそう言った。

「あ、そうですね・・。先ほどの天津神社の舞楽にもお詳しい方なんですね。『鶏冠』を被った稚児舞の事、ぜひとも詳しく聴いてみたいですね・・。その方は先生のお仲間というと、やはり郷土史研究家に成るんですか?」
 
私はその時、山梨の郷土史研究家たちの顔を思い浮かべながらそう言った。渡会先生は肯くと、私に「アポイントを取って来る」と言ってガラケーを持って店を出た。

 

四・五分して先生が戻って来て、

「明日は予定があって都合が悪いようですが、明後日の午後なら何とかなるようですが、立花さん、どうします?」とケータイ電話を手で押さえたまま聞いてきた。

「ア、ハイ。明後日の午後ですね、大丈夫ですよ問題ありません。先方のご都合に合わせられますので、いつでも結構です。宜しくお願いします」私はそう言って渡会先生に頭を下げた。

先生は、私の返事を確認するとすぐに表に出て行った。

しばらくして再び先生が戻って来た。どうやらアポイントが決まった様だ。

 

「明後日の午後三時に、ご自宅を訪問してください。家で待ってるということです。良かったら私も付き合いましょうか?」渡会先生がそう言って、私に聞いてきた。

「えっ、ご迷惑ではありませんか?」私がそう言うと、先生は

「私もご無沙汰してるんで、久しぶりにお会いしたと思ってましたから、気にしないでください大丈夫です・・」そう言ってなんでもない、と言ってくれた。

「そうですか・・では、お言葉に甘えて・・。宜しくお願いいたします」私はそう言って、深々と頭を下げた。

「了解しました・・」渡会先生はそう言ってにっこりした。

 

その後私達は上越や中越下越の神社の話や糸魚川の舞楽についての情報交換を行って、更にお互いの理解を深め、お開きに成った。

渡会先生とは、明後日の待合場所と時刻を確認したうえで、互いのケータイ番号を教え合ってから別れた。

 

十時を過ぎた上越の街直江津は、すっかり人通りも無くなっていた。

夜空は澄んでいて、星をきれいに観ることが出来た。

下弦の月が印象的だった、

私は歩いて数分のホテルに帰って行った。

 

 

 

 

        「1150年(平安時代末期)の推定人口

                    :『明治以前日本の地域人口』鬼頭宏著(1996年)

        甲斐之國   ・・・・・・・・ 72、800人(124,500人)

        越後之國   ・・・・・・・ 172、100人(388,100人)

        山城之國(京都) ・・・・・ 185、000人(558,000人)

        遠江之國    ・・・・・・・ 94、000人(133,500人)

        駿河之國    ・・・・・・・ 71、000人(125,500人)

        相模之國(神奈川) ・・・・・ 83、300人(124,300人)

        武蔵之國(東京+埼玉)・・・・373、700人(708,500人)

        全国の人口  ・・・・ 6、836、900人(12,273,000人)

                  註:( )は1,600年(江戸時代初頭)の人口、同著  

 
 
 
                    
            
              天津神社、稚児「鶏冠」の舞
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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