春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制システムを導入し、再スタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規公開コラム」「新規公開物語」のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPの新システム について     2024/05/06
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          「- 上越の甲州金山衆編 -
 
 JR直江津駅前の居酒屋で知り合った、上越の郷土史研究家達との情報交換を
 通して、新たな視点での情報を得た私は翌日、昨日までに得た幾つかの情報を
 この目で確認すべく、話題に上った上越地域の何ヶ所かの場所を訪れ、実地に
 見聞をすることにした。
 それらの場所を自分の目で確かめることで、幾つかの新たなインスピレーション
 をる事も出来た。
 また上越市を離れて富山県側西隣りの糸魚川市を訪れることで、新たな発見を
 するが出来た。
 糸魚川においては金山衆の足跡や痕跡を、多く得ることが出来た。
 
 
            【  目 次 構 成  
     
             1.上牧「府殿」
         2..暴れ河川の新田開発
         3.能生川沿い、金山衆の里
         4.一ノ宮 天津神社
            
 
 

上牧「府殿」

 
翌朝私はホテルを出ると早速レンタカーに乗って、昨日教えてもらった国分寺や國府・國衙が在ったとされる三郷の「長者原」を訪ねた。
 
上越市の中心市街地である、高田城址の在る「高田地区」とかつて「菅原ノ牧」の在ったエリアとを結ぶ、東西の主要県道の一つ198号線が、南北の県道である186号と交わる三郷地区は、頚城(くびき)平野の真ん中に在って周囲は稲田に囲まれた田園地帯であった。
 
地区の集会場のある場所がどうやらかつての国分寺が在った場所らしい。市の教育委員会が設置した案内板が、遺跡発掘場所であることを指し示していた。
 
 
その後県道198号線をそのまま東に向かい武士(もののふ)地区の「武士神社」に行き「馬屋(まぁ)地区」にも足を延ばした。
「馬屋地区」では、馬にちなんだ駒形神社や駒神社等を期待したが残念ながらそういった類の神社は見当たらず、馬屋地区の小高い丘に在ったのは「豊國神社」であった。   
 
しかしこの地区はその名が示すように、「菅原ノ牧」や「荒牧」で畜産・飼育・育成し、成長した馬を飼育していた厩が、かつて在った集落なのではないかと推察することはできた。
 
 
そこからさらに県道184号線を北上し、元来た県道198号線と合流する場所に次の目的地「荒牧地区」があった。荒牧地区は頸城平野からはそれなりに高く丘と言って良い場所であった。標高は7・80m近くあるようだ。
 
周囲は櫛池川沿いに山が迫ってきていた。更に上流の「菅原ノ牧」で畜産を終え、ある程度成長した馬を調練・調教するエリアとしては、ここはよい場所だろうと想うことはできた。
 
そしてさらに訓練を重ね、軍馬として成長した馬を先ほどの「馬屋地区」に移管したのではなかったかと、私は想った。
 
 
山峡いをさらに上流に上ったその「菅原ノ牧」エリアは、現在は棚田になっている場所が雛壇のように何箇所か散見出来、標高の高さと相まって馬の畜産エリアとしては、かなり良い場所なのではないか、などと想った。
 
「菅原ノ牧」地区を確認した後私は、櫛池川沿いに県道198号線を元来た道に下り、武士地区で県道30号線の交差点を右折して「野尻町」に向かった。昨日私が鎌倉時代の「上越地区の南北の都市軸」、と渡会先生たちに話したその30号線を日本海に向かって、北上したのだ。
 
「武士地区」から数分で着いた野尻の交差点を、左折してすぐの「正八幡神社」にお参りし参拝した後、神社の境内から近くの「元屋敷」地区を観た。
 
 
今ではすっかり稲田になっているその「元屋敷」地区は、ひょっとしたら当時の越後之國の守護安田義資公の屋敷=館が、在った場所かもしれないと、私が想像した場所である。
この朱色の立派な鳥居が目立つ「正八幡神社」は、安田義資公がみずからの屋敷近くに造った源氏の氏神を祀った神社だと、そう考えたからである。
 
神社を出て、旧牧村に続く国道405号線を山に向かっていく途中、高津地区の「高津八幡神社」に立ち寄った。
野尻町に住んでいる武藤さんが言っていた鶏を神社の御神体の一つにしているという神社である。
 
私はその話を聞いて、ひょっとしてこの地区は越後守護安田義資公の屋敷近くに拠点を構えた、金山衆の集落ではないかと想像を膨らませた地区であり、その地域の産土神となっている神社であった。 
高津八幡神社の参拝を済ませた後、そのまま稲田の続く国道405号線を山に向かって登って行くと、直ぐに山間いに入ったと私は感じた。
 
 
国道の両側には山が迫り、そこからの道は登り坂がずっと続いた。平成の大合併が行われる前の旧牧村、現在の「上越市牧区」である。
途中地元の方々に道を尋ねるなどして、目指す上牧地区には20分足らずで到着した。
 
「牧猿俣川」にへばり付く様に在った、その集落にたどり着くまでの景色は「菅原ノ牧」地区に似て、ところどころに纏まった棚田が点在する、標高の高いエリアであった。地理的には長野県との県境に成る山側に向かうことに成った。
 
その山峡いの「上牧」地区では、川沿いに在る「上牧八幡神社」に参拝した。
今では社殿も見当たらず、かつて社殿が在ったと思われる場所には小さな石の祠が在り、その周囲には風雪に耐えきれず倒壊したのかと想像した、旧社殿の残材と思しき朽ちた廃材が在っただけである。
 
集落の家屋の少なさすなわち氏子の少なさや、風雪の厳しい環境、住民の高齢化や林業の衰退といった幾つかの要因が重なった結果だったのかもしれないが、今では侘しい神社と成っていた。
境内入り口付近の、祭礼時に幟が建てられたと思われる木の柱が、妙に印象に残った山の中の神社であった。
 
 
牧猿俣川を超えた向こうにも集落が在った。「府殿」地区である。私は昨日草壁さんたちに教えてもらった時にその名前が気になっていた事もあって、その集落を訪れることにした。
 
私がその名前から受けた印象は「府殿」すなわち國府から上牧に遣わされた、一種のお役人の居た場所=出張所だったのではなかったかと推察したのである。

上牧地区での出張所ということであれば、やはり馬がらみのお役人が國府からこの地区に派遣されていたのではないかと、推測したのである。その仮説を裏付ける痕跡のようなものが何か残っていないかと、期待したのであった。

山に向かって牧猿俣川の左岸に位置する府殿の集落は、川の流れに沿う様に在ったために傾斜があり、道路は川に沿って坂登るように在った。山間部の道路ではあったが対向車が来ても道を譲る必要のない、道路幅が確保されていた。

 

ちょっと行くと、傾斜が少なく平らな場所と云ってもよい処に、しっかりした造りの家が数軒在った。
 
その家の土台は石垣で出来ていたのであったが、石と石の間にほとんど隙間がなくピシッと組み込まれていた。数百年は経っていると思われるその精緻な石垣を見て私は、山梨の黒川金山に至る山道に在った石垣を思い出した。
 
その時私は、ひょっとしてこの石垣は黒川衆の手による石垣ではないかと、そう想ったのである。精緻に組み込まれたこの石垣は、石を知り尽くした人達によって造られた石垣ではないかと、そう感じさせられたのである。
 
 
とはいえ府殿地区のすべての家がそのような造りの石垣だったわけではなかった。私がそう感じたたのはその一画の石垣だけであった。
 
他の家の石垣は石と石の間が隙間だらけでセメントか何かで目地(?)を埋めたものや、近代的なブロックの組み合わせで出来ているものが多かったのであるが、その一画だけが隙間の殆ど無い精緻に組み込まれた石垣で出来ていたのだ。
 
それから類推してこの一画はかつての國府の、馬役人の出張所のお屋敷が在った場所ではないかと、そう推測したのである。
 
その事実を確認して、私の仮説はたぶん間違っていないだろうと思って、ニヤリとした。 かつてその石垣の在る一画は國府の馬担当の役人の出張所が在った場所で、その家・屋敷の土台を造ったのは守護義資公の意向を受けた黒川衆だったのではないかと、そう想ったからである。
山間いの場所でこれだけの技を持った石垣を造れる人は、そう多くはいないだろうと、想われた。
 
 
そのポジティブな気持ちのまま私は、府殿を後にして牧猿俣川沿いを下り、次の目的地の棚広新田の「猿ケ馬場遺跡」に向かった。その時の私は「府殿」で発見したことが嬉しくて、車の運転も軽やかに成った。
 
牧猿俣川に沿って下って行き、牧区「原地区」でヘアピンターンして「棚広新田」に向かい、「猿ケ馬場遺跡」を一気に目指した。

上越埋蔵文化センターでもらった地図を頼りに教えられた場所に向かって行くと、そこはほとんど山の天辺といってよい場所であった。その道路はそのまま尾根の頂上といってよい場所まで続いた。

その道路の沿線は山の最上部ではあったが、「棚広」の名称のとおり所々にまとまった棚田が在った。
 
現在はその広めの場所は棚田に成っていたのだが、馬の畜産が盛んな頃であったなら、きっと馬の放牧場に成っていたのではないかと、推察することが出来た。
 
この棚広のエリアに騎馬武者用の軍馬のための、畜産や調教・教練の場所や馬場が在ったとしてもおかしくはなかった。
 
私はそれらの場所を実見して「猿ケ馬場」の地名に納得したのであった。ここなら馬場が在ってもおかしくないなと・・。 
 
 
 
 
 
                
 
 
 
 
 

暴れ河川の新田開発

 
 
棚広新田の「猿ケ馬場遺跡」近辺を確認した私は今来た道を戻って、一路「駒林地区」を目指した。
そのまま山道を下って行き、国道405号線に合流した。
 
更に先ほどの野尻の交差点を右折し県道30号線を北上した。私が勝手に鎌倉時代の都市軸であったと思っている道路である。
更にしばらく行って東西にクロスする県道43号を左折した。
 
そのまま道なりに行って、上真砂の交差点で交わる県道77号線を右折した。
しばらくして飯田川に架かる「金山橋」に着いた。ここは上越市で殆ど唯一と云ってよい金山彦を祀る神社である「金山神明神社」の在る、目的地付近であった。
その「金山橋」付近ではちょうど護岸工事をしていた。
 

目指す金山神明神社が飯田川沿いに在ると聞いていた私は、橋を渡ったところで車を留めて降りた。

入口に車止めがあって今では車の侵入は無いと思われるそのアスファルトの道路は、雑草が高く茂っていた。

そのまま数百mほど川沿いに下って歩いて行くと、胡桃の実がたくさん落ちている場所に出遭った。数百はあると思われた胡桃の実は狭いアスファルト道の通行の妨げになっていた。

そしてその胡桃の実が散在している場所の先には、古びた朱色の鳥居が見えた。どうやら目指す「金山神明神社」に到達したようだ。私は胡桃の実に導かれたのかもしれないな、とフと想った。
 
 
今では、すっかり氏子などの参拝も行われていないのであろうと想われた、その神社の境内は雑草が伸び放題であった。その雑草だらけの参道を数十m進んで行くと小ぶりの神殿が鎮座して在った。
目指す金山神明神社の社であった。
 
私はその神殿に正礼で参拝した後、神殿の周辺をじっくりと観た。その小ぶりの神殿はぐるりをトタンで覆われていた、簡易な造りの社であった。
屋根もまたトタン造りで、神紋などは付いていなかった。残念である。三つ巴紋を期待したからである。
 
神殿の数m先には自動車道が在った。先ほどの県道77号である。道路の敷設により神社の境内が削られたのであろう。
 
 
私が来た道を戻って停めておいた車付近に着いた時、その視線の先に飯田川の護岸工事の作業状況を確認することができた。
大きく蛇行する場所に夥しい数の石垣が敷設されていたのである。
 
そしてそれが水の勢いを削ぎ氾濫を防護するために設置された、水勢をコントロールするための「石垣」であることを、私はほどなく理解した。
 
私は早速タブレット端末を操作して、付近の地図を出して川の流れを確認した。想ったとおりである、飯田川はこの付近で大きく蛇行していた。S字型にカーブしていたのである。
 
そしてこの飯田川の上流は、先ほどまで私が居た上越市牧区に水源を持っている。上牧や府殿の「牧猿俣川」もこの飯田川の源流の一つであった。
 
 
山間部を大雨や颱風が通過すると山々から沢山の水が発生し、合流する。
そしてその勢いのまま一気にこの河川を流れてやって来るのであった。
という事はこの蛇行に成っているエリアは、水害が発生し易い場所なのである。
 
「上越市埋蔵文化センター」の草壁さんも、飯田川が関川同様に暴れ川であると言っていたことを、私は思い出した。
 
 
実は私はこの場所に来て、何故ここが「金山地区」と云われるのか今ひとつ判らなかった。周囲は平たんな頸城平野の一画で、およそ「山」と称されるような場所では無かったからである。
しかしこの石垣によって造られている護岸工事の現場を見て、その名称の由来が判ったような気がした。
 
この飯田川の下流で大きくS字にカーブする、今ではすっかり稲作地帯と成っている「駒林」「下百々」「杉野袋」といったエリアは、かつては大雨が降った後などには河川の氾濫が頻繁に起きた場所に違いない、とそう確信したのだ。
 
それにひょっとしたら鎌倉時代の頃、この辺りは未だ湿地帯だったのかもしれない。
現在でもこの近辺は飯田川や保倉川やその支流が、流れ込んでいるエリアであり、今でも大小の沼や池が散在している。
 
さらに東西に流れる飯田川がS字にカーブする南側のエリアは、「米岡」「米町」という名称の集落で、駒林や下百々・杉野袋同様に条理のハッキリした区画の、稲作の拡がる田園地帯なのだ。
 
それらの新田地帯といってもよいエリアは、この飯田川の治水灌漑に依ってもたらされたものと推測することが出来るのであった。
 
 
してみると、このS字カーブの暴れ川が石垣の護岸工事に依って、水勢をコントロールされた結果、生み出された稲作地帯であるとすれば、守護の安田義資公の指示によって金山衆が石垣を敷設して造り出した新田地帯かもしれない、と考えることが出来た。
「米岡」「米町」といった名称が新田地帯であることを示唆していた。
 
そのような金山衆の活躍という歴史的背景があって、この場所は「金山」地区と云われ「金山神明神社」が祀られたのかもしれない、と想うことが出来たのである。
 
そうすると「山」とはとても云い様の無いこの平坦な場所で、更には周囲には鍛冶屋の里などが在ったとも想えないこの場所に、「金山」の名称が名付けられこうやって神社が祀られている事にも、納得がいくのであった。
 
そしてこの構図は、遠州森町の太田川沿いの集落「飯田地区」及び、その新田地帯でもある。「遠州山梨地区」と重なってくるのであった。
 
「遠州山梨地区」は、鎌倉時代の頃に太田川が今浦湖に注ぐ湿地帯の治水灌漑によってもたらされたのではないか、と推察した私や甲州山梨の郷土史研究家達の見解が、ここ越後之国の上越でも適用できるのだ。
安田義定公の嫡子義資公が守護として治めた国だから、そう考える事も出来るのである。
 

 

そしてこれは全くの偶然なのかもしれないが、遠州森町の「飯田」地区と上越の「飯田川」である。共に河川の治水灌漑に依ってもたらされた稲作地帯の名称なのであった。

更には飯田川南側の「米岡」「米町」には「指(さし)(で)街道」という名の街道があるが、安田義定公の本貫地である甲斐之國牧之荘を流れる笛吹川には、古今和歌集でも歌われた「指出の磯」で有名な「指出地区」が在るのである。

 
これは妄想なのかもしれないが、安田義定公一族は自らの本貫地の名称を新しい領国にも付けたのかも知れなかったのだ。
 
遠州においては新田の開発地に「山梨」地区と名付け、越後においては「飯田川」や「指出街道」を名付けたのかも知れないのである・・。
 
私は自分でも相当イマジネーションを働かせていることを思い、ニヤリとしながらも愉快な気持ちに成った。その愉快な気持ちのまま車を運転し、次の目的地にと向かった。
 
 
稲作地帯の拡がる県道77号線を日本海に向かってそのまま北上し、国道253号線を左折しJR直江津駅にと向かった。次の目的地は「上越市立直江津図書館」である。
 
昨日渡会先生に教えてもらった巨大な厩遺跡に関する資料である「境原遺跡」や、これから訪れる予定の糸魚川市に関する神社仏閣の情報を得るためであった。
 
杉野袋の金山地区からは20分もしないで直江津図書館に着いた。図書館は、昨日まで泊まっていたホテルのすぐ裏手であった。
 
「直江津図書館」は合併する前の旧直江津町の図書館であったのだろう。街中にすんなり溶け込んでいた。この商業の街の図書館は、旧越後高田藩の高田城址公園に在る「上越市立高田図書館」とは、だいぶ趣を異にしていた。
 
高田図書館が江戸時代の武家屋敷の残る街の図書館という印象だったのに対して、こちらは商人の街の図書館という印象なのである。将に湊町「直江の津」の図書館なのであった。
 

 

 

 

         『古今和歌集 巻第七 -賀の歌- 
                           114ページ(岩波書店)

   しほの山 さしでの磯にすむ 千鳥

                君が御世をば 八千代とぞなく

 上記は甲州市塩山近郊の名勝「指出の磯」(山梨市)のことを歌った和歌として名高い。

 

 

         「杉野袋 金山神明社」 

                         『上越市史別編3』182ページ
          ー神社明細 明治16年)

 

      中頸城郡杉野袋村字金山 金山神明社

      祭神 金山彦命

      由緒 創立年月不詳

      境内 147坪

      追記  明治四一年に金山神明社へ八幡、春日八幡を合併する

 

                          

                      左図:飯田川「杉野袋」の拡大図、右図:金山神明神社:「コスゲ」左下クランク飯田川沿い

 

能生川沿い、金山衆の里

 

図書館ではいつものように「郷土史資料コーナー」に向かい、『糸魚川市史』『旧能生(のう)町史』『旧名立町史』『旧直江津町史』といった資料を選び、「中世鎌倉時代」に関する箇所や「神社・仏閣」「祭事」といった箇所を抽出し、コピーした。

昨日渡会先生達が言っていたように、糸魚川や能生町では舞楽に関する記述が充実していたので、その箇所もしっかり押さえておいた。また三か所在ると聞いていた「金山」の場所もそれぞれ確認しておいた。
 
神社名を調べても糸魚川辺りでは「金山神社」の数も多く見ることが出来た。
ここ越後之国にあっては同じ上越地区といっても、富山寄りの糸魚川辺りがどうやら金山衆が活躍した場所であったようだ。
上越では殆ど見ることの出来なかった「金山神社」であるが、糸魚川地区には多かった。
 
 
中でも旧能生町の能生川上流の「藤後」「槙」「下倉」地区が目に付いた。
この三地区は隣り合っていて1㎞の円の中に納まる近さに在るのだが、そこにはそれぞれ「八坂八幡神社」「金山神社」「駒形神社」という神社が在ったのである。 
      
この三か所の神社は言うまでもなく、私がずっと上越でも探し求めていた種類の神社である。それがほとんど隣りあわせといってよい場所に、纏まって存在しているのである。
 
しかもそのうちの藤後の「八坂八幡神社」は、八幡神社に八坂祇園神社が被さっている神社である。これだけ安田義定公や義資公に関係してくる神社が揃って在ると、私には彼らとは無縁の地域だとはとても思えないのだ。
 
そう思って私は糸魚川に行く途中、この地区に寄っていくことにした。
他に糸魚川のエリアの「金山神社」は、「羽生ノ牧」を遡った「川久保地区」にも在るようだ。ここもチェックしておいた。
 
 
また糸魚川市に三か所在る「金山」はいずれも旧糸魚川市域で、日本海側から1㎞ちょっとしか離れていない、北陸自動車道横の海抜190m程度の低い「金山」と、長野県との県境に成っている妙高山系の一つで標高2千m級の高山であった。
 
日本海からは20㎞程度離れた場所に在り、隣接するように「金山」と「裏金山」とが在った。
いずれも「藤後・槙地区」の能生川沿いとは、十数㎞西南西に離れていたが川の源流を辿ると二つの金山にも、繋がった。
 
その内の日本海から1㎞程度しか離れていない近い方の「金山」の麓には「梶屋敷」、という名の集落が在るようだ。
要するに「金山」で採れた金鉱石などを加工・精錬する鍛冶屋の里が、山の麓に在ったわけである。「梶屋敷」は「鍛冶」の屋敷地区なのである。
ところがその梶屋敷の産土神を祀っている神社は「立壁神社」と云い、金山神社ではなかった。
 
資料レベルではここまでしか判らなかったが、いずれにしても梶屋敷地区の産土神と思われるところから、この「立壁神社」にも行ってみることにした。
 
 
妙高連峰の一つで2千m級の長野県との県境の二つの金山は、車で行くようなレベルの山ではなかったので、私は海抜2百mクラスのアクセスが容易な「金山」の麓の鍛冶屋の里を訪れることにした。
 
糸魚川エリアでのチェックポイントがある程度確認できたこともあって、私は昼過ぎには図書館を出て、直江津からは富山県側に40㎞近く離れた糸魚川市へと向かって、車を走らせることにした。
 
途中で昼食を済ませたこともあって、能生川上流の藤後地区に着いたのは15時を過ぎていた。直江津からは国道8号線を、日本海側の海岸線に沿う形で西に向かって下り、JR能生駅近くの県道88号線を左折した。
 
地理的には南下するのだが、方位としては長野県との県境に成る妙高連峰に向かって登って行くことになった。ほぼ能生川沿いを溯ることになった。
日本海側から5・6㎞程度で目指す「藤後地区」に着き、「八坂八幡神社」近くのわき道に車を停めた。
 
 
「八坂八幡神社」は建て替えてまだ何年も経っていないような、真新しい社であった。の匂いがまだ強く香るこの神社の神紋は、八幡神社の「三つ巴紋」と共に、花菱紋であった。
そのうちの花菱紋は屋根瓦の上部に在り、注意して観ないと見つからなかったが、確かに花菱紋であることは確認できた。
その時点で私はこの神社が安田義資公に繋がる神社に違いないと、想った。
 
気をよくした私は、そのまま県道を南下し数分で「槙地区」に着いた。距離にして1㎞あったかどうかで、すぐ隣りの集落であった。
 
「金山神社」は「宮の下」というバス停の近くに在り、県道から登る道が参道に成っていた。小高い丘の上に在る神殿のぐるりは板が施してあったが、注目すべきはその社の基礎に成っていた石垣であった。その石垣は見事であった。
 
 
後世の名城の石組みにも引けを取らない精緻で美しい組み合わせの石垣は、石を知り尽くした金山衆の神社に相応しい、立派なものであった。
 
この石垣を施工した人達の技術・技能の高さやプライドの高さを感じた。山梨の鶏冠山の黒川金山に至る山道や上越市府殿で見てきた石垣同様、金山衆の高度な技を見せつけられた感じがした。数百年の風雪にも耐え得る立派なものであった。
 
金山神社の銅葺きかと思われる緑がかった屋根の天辺の瓦の神紋は、やはり三つ巴紋であった。八幡神社との関連性が確認出来た。
 
 
バス停近くに停めた車に戻った時、近くを歩いていた70代後半と思われる老人に遭った。その老人に神社の事を聞いてみると、神社参道脇の家はかつて同神社の宮司をしていた家であったが、勤務先の関係で今では宮司を廃業した家であるという。
 
因みにその家のことを近隣では今でも「金山(かなやま)さん」という屋号で呼んでいる、との事で金山衆の末裔であることを覗えさせた。
 
氏名は金山ではなかったのだが、昔からそのように呼ばれている家だという。金山衆の子孫で数百年の間、小高い丘の上の神社を守り続けて来た、金山衆の幹部の家だったのではなかっただろうか、と私は推察した。その時私は富士宮市の「金之宮(かんのみや)神社」の氏子総代だった金森氏の事を思い出した。
 
 
また老人の話では、金山神社と八坂八幡神社のほぼ中間の場所に、これから行く予定の「下倉地区」に向かう道路が在るのだが、その能生川を越える橋の手前県道側には「金堀場」という場所が在り、「かつてその辺りで見事な金が採れた」という伝承が、今でも残っているという。
 
因みにその能生川を更に溯って行くと、標高2千m級の「裏金山」や「金山」にも通ずる事から、それらの山から流れ着いた太古からの砂金が、この辺りに沈金として堆積していたのかもしれないのだ。ちょうど「田子の浦の砂金」がそうであったように・・。
 
そう考えると「金堀場」からそう離れていない小高い場所に「金山神社」が祀られている事も理解することが出来るのである。
そしてその金山神社を祀ったのは、私の推測通りであるとすれば越後之国の守護を8年程務めた安田義資公の配下の黒川衆であった、と思われるのであった。
 
その根拠が神社の土台を支える「精緻で、見事な石組みの石垣」と「三つ巴紋」であり、徒歩圏にある先ほどの「八坂八幡神社」と、これから向かう「駒形神社」の存在である。

私は地元の情報を教えてくれた老人に丁寧にお礼を言って、次のターゲットである下倉地区の「駒形神社」にと向かった。

 

県道を戻り先ほど教えられた「金堀場」近くを眺めながらゆっくりと通過して、能生川を渡り切ったエリアが目指す「下倉地区」であった。

川を渡って数百mで、山道に差し掛かるちょっと開けた場所に出た。能生川の支流である段差の在る川沿いに車を停めた私は、近くを通った老女に「駒形神社」の場所を尋ねた。

老女は川に沿った道路側の小高い山を指さして教えてくれた。お礼を言って私は早速、神社にと向かった。「駒形神社」には数分で着いた。鎮守の森に囲まれた場所、というよりは小高い山の山裾の神社、といった感じであった。

 
坂道を登った私を迎えてくれたのは、立派な造りの阿吽の姿をした唐獅子様の狛犬であった。トタン屋根の神殿は唐獅子ほど立派ではなかったが、それはこの数百年の間に何回となく建て替えられたからであろうか・・。やはり板敷きのぐるりで社殿は覆われていた。

板で社殿の周りを覆うのは雪深い場所の知恵なのであろうか、などと想いながらトタン葺きの屋根の天辺を見ると、やはり三つ巴紋が施されていた。

 

因みに図書館で得た資料によると、この「駒形神社」の祭神は「天照大神」と「健御名方命」であったことから、三つ巴紋とは本来関係がないはずである。
という事は、この神社は創建以来のこの数百年の間に、「駒形神社」とは本来無縁な隣県信濃の「諏訪神社の信仰」や幕末の「ええじゃないか」の影響を受けた祭神が、祀られるように成ったのであろうと思われた。
 
しかし神社名や神紋といった神様の残してくれた幾つかの「指紋」によって、今の私にもその神社が辿って来た歴史を、推察することが出来るのであった。そのようなことを感じながら私は「駒形神社」を下り、次の目的地「梶屋敷」を目指した。
 
 
「下倉地区」から「梶屋敷」迄は概ね15・6㎞ほど離れていて、20分ほどで着いた。糸魚川の在るエリアは、新潟県の西端で越中富山に隣接していた。
このエリアは北アルプスの日本海側の玄関口と云ってよい場所に当たるのであるが、街並みは概ね北アルプスの山々から日本海に注ぐ河川の、河川敷に沿って形成されていた。
 
したがって集落の真ん中を大きな河川が流れているのである。能生町の「能生川」しかり、糸魚川の「姫川」しかりである。そしてこの梶屋敷の集落には「早川」が在り、市街地はこの河川敷に沿う形で形成されていたのだ。
 
「能生川」沿いの市街地に比べこの梶屋敷の集落が多いのは、「早川」の河川敷が広いことに依っているのだろう。それだけこの「早川」は周囲の山を侵食することの多い、暴れ川だったのかもしれない。
「早川」という名称は、「荒川」の名称と同様にこの川の勢いの強さを現わしていた。
 
糸魚川市に在る三つの「金山」のうち、日本海側に近く標高が最も低い「金山」の麓に在る集落がこの「梶屋敷」である。因みに事前で調べた神社一覧などを見ても、「梶屋敷」の集落には他の神社が確認できず、これから向かう「立壁神社」のみであった。
 
この神社が梶屋敷の産土神と成っているのであろう。「金山」の麓の神社ということもあって、私のこの神社への期待は高いものであった。

 

 
 
                
               槙「金山神社」神殿、美しい石組の土台
 
 
 

一ノ宮天津神社

 

JR「日本海ひすいライン」の線路近くに在るその神社は、迫りくる山に寄り掛かるかのように鎮座していた。

後背地というか、側面を山に囲まれていたこともあって「鎮守の森」いや「鎮守の山」の神社という感じで、神社全体を包む空気感は「厳そか」と云って好いものであった。

山裾ということで空間的には水平的な拡がりはあまり無かったが、神社としての品格は中々のもので、上越地区でも指折りと云っても差し障りないのではなかろうか、などと私は感じた。
石段を上った境内に入ってすぐ右手には「御神輿倉」が在り、神輿が納められているようだった。その木造の建物の瓦紋は、想ったように三つ巴紋であった。
 

境内は山に沿う様に横に長いのであるが、その横に長い境内には何故か山の崩れを防ぐような石垣による壁が、ずっと横長に組まれていたのであった。

「立壁神社」の名称はこの横長の境内に沿う様な形状の「石垣の壁」から採ったのかも知れないと、私は想像してしまった。

また横に長い「石垣の壁」の造りは独特で、大きな楕円形の丸石を重ね積みにして在り、詳しい事は判らないが石の特性を熟知した人達によって、このような形状に造られたのではないか、という印象を抱いた。
そしてこの独特な形状に積み上げられた石垣によって、この山の地滑りは防がれているのではないかと、想像した。
 
 
更に根拠は無いが、その石垣を見て黒川衆の技術が活用されているのではないかと、私はここでもそのように想った。
 
また右端の「御神輿倉」から左端の神殿までは一直線で百m以上はあるようで、私は遠州森町大久保神社の、かつて流鏑馬が行われたと云われている旧大久保小学校の、真っ直ぐな校庭を思い出してしまった。
 
そんな連想も働いてひょっとしたらこの直線で、かつて流鏑馬が行われていたかも知れない、と私はつい想像力を豊かにしてしまうのだった。

因みに左端を少し上がったところに鎮座して在る神殿と、その手前の社務所の瓦紋はやはり源氏の氏紋「三つ巴紋」であった。

 
その後私が糸魚川の図書館で見つけた神社一覧で確認したところ、「立壁神社」は大正六年(1917年)1月23日に、「稲荷神社」と「熊野神社」とを合併し「立壁神社」と改称したと書いてあった。
どうやら2つの神社は元々は別々の神社であった、ということらしい。
 
しかしそうだとすれば何故、両神社に殆ど関係の無い三つ巴紋が、各建物の屋根瓦に使われているのか、その疑問は残る。「稲荷神社」も「熊野神社」も本来は、三つ巴紋とは無縁だからである。
 
ただし直江津の八坂神社境内の稲荷神社の瓦紋と同じ理由で、安田義定公や義資公が絡んでくるのであれば、その疑問は氷解するのである。
 
私はこの神社の境内に、横に長く張り巡らされた独特の石垣と三つ巴紋とを見て、日本海に近い「金山」の麓のこの梶屋敷の産土神と云って好い、「立壁神社」(旧稲荷神社と熊野神社)にも金山衆の関りがあったに違いないと、そう想ったのであった。

 

次に私は、かつての越後の古代牧の一つである「羽生ノ牧」にと向かった。
国道8号線に出て10分程度で、私はかつて「羽生ノ牧」が在ったとされる地域に着いた。現在の「海川」の右岸の小高い台地である「真光寺地区」である。
 
「真光寺地区」は標高が百2・30mはある小高い場所で、日本海とは3・4㎞程度しか離れていなかったが、海抜が高いこともあって暑さの苦手な馬の畜産や育成の場所としては、良好なエリアだったのではないかと私は想った。
 
「羽生ノ牧」を確認し終わってそのまま西南西に下って行って、「海川」沿いの集落である「羽生」にと降りた。「羽生」の集落もまたこの糸魚川の多くの集落がそうであるように、北アルプスの山々から流れ落ちた河川によって浸食されたエリアに、街が形成されているのであった。
 
その「海川」の両サイドには小高い山が迫っているのである。先ほどの「真光寺地区」はその小高い山の上に在った訳である。
 

羽生の集落から日本海側に戻った私は、JR線の手前数百mを左折し糸魚川市役所や市立図書館の在る、糸魚川市の中心部にと向かった。

時刻が17時に近かったこともあり私は、市役所横の市立図書館に真っ直ぐ向かった。
図書館では二階閲覧室の「郷土史資料コーナー」で、神社に関する情報・資料や郷土に伝わる伝統芸能、とりわけ渡会先生が強調していた「糸魚川の三大舞楽」に関する資料をピックアップして、必要箇所のコピーを撮った。
 
この中の神社関係の資料に、先ほどの梶屋敷の「立壁神社」に関する記述があり、かつては「稲荷神社」と「熊野神社」とが別々に在ったものが、大正六年に合併した神社であるといったいきさつも、知ることが出来たのであった。
 
 
一通りの資料をゲットした私はその日の宿であるJR糸魚川駅近くのビジネスホテルにと向かった。
数年前に大火に襲われた糸魚川駅から日本海側に向かう側の一画の、駅前の寂しい商店街で夕食を済ませた私は、その夜は早めに床に就いた。
 

翌朝は、朝食を済ませると宿を出て、昨日通った「海川」沿いの「羽生地区」に向かい更に北アルプスに向かう形で「海川」の上流にと向かった。

昨日図書館で得た『神社一覧』によって知った、金山神社の在る「川久保地区」にと向かったのだ。「海川」の支流を遡って、車一台がやっと通れるような山道を登った先の「川久保地区」は、海川の支流の川沿いを山道から降りて行くと、川に沿うように在った低い場所の小さな集落であった。

そこは名前の通り、川の窪地に造られた集落であった。しかも数少ない家々は既に人の住んでいない廃屋であった。その集落の小さな祠の「金山神社」に参拝して、私は元来た道を戻った。

 

この山里の河川敷の窪地に祀られていた「金山比古命」と「金山姫命」は、やはりかつてこのエリアに金鉱山か砂金類が採れた採掘場所だったのだろう、と想った。

ひょっとしたら昨日寄って来た「能生川」の「金山神社」近くに、かつてあったという「金堀場」と同じように、川底に太古以来の砂金類がそれなりに沈金・堆積していたのかもしれないな、などと「能生川沿いの金堀場」に関連付けて想像力を働かせた。
 
そのような事を想いながら私は「川久保地区」を出て、次の目的地である糸魚川市役所裏手の山の、中腹に在る「長者ヶ原考古館」に向かった。
 
 
「長者ヶ原考古館」という名称に魅かれて、私は運動公園なども在るスポーツ関連や文化系の公共施設が集積している、小高い丘の上の公園に向かったのである。

ところが実際に行ってみたその「考古館」は、世間一般で言うところの考古学博物館の小振りなタイプであった。糸魚川市内で発掘された考古学遺跡や遺構、更には埋蔵文化財等についての情報や陳列がなされていた博物館だったのだ。

糸魚川の伝説の支配者「奴奈川姫」や勾玉・ヒスイ等に関する展示物が多かった。私の関心がある「中世」よりはるか以前の古代、それも神話の時代に関する博物館であった。
残念な想いで私は「長者ヶ原考古館」を出て、更なる目的地の市立図書館に向かった。
 
 
昼食時間という事もあって、私は市役所内の喫茶店でパスタを食べて腹ごしらえを済ませた。その上で昨日も寄った市立図書館に行き、「神社関係」や「祭事」等に関する書籍や資料を中心にチェックし、昨日漏らしていた資料をピックアップしコピーを済ませた。
 
渡会先生との約束の一時間ほど前には図書館を出て、図書館や市立体育館のすぐ裏手に在る糸魚川の一ノ宮神社である「天津神社」にと向かった。
 
 
「天津神社」は「ニニギノミコト」を祭神とした天孫系の神社で、境内も広く多くの樹々に囲まれている。その神社は糸魚川の一ノ宮神社と呼ばれるに相応しい、緑豊かな自然環境の中に鎮座していた。そしてその境内の中心部に在ったのが、大きな茅葺屋根の拝殿であった。
 
その拝殿の佇まいは、この「天津神社」が古代からの伝統と歴史とをしっかり継承してきた神社であることを、参拝者にストレートに感じさせることが出来た。私自身もその茅葺の社(やしろ)を目の前にして、神社の持つ歴史を強く意識した。
 
奴奈川姫が嫁いだ先とされる出雲大社に比べると、さすがに社の規模が落ちることは否めないが、それでも古代からこの地に鎮座しているこの大きな茅葺の神社は、伝統や品格をしっかり感じさせる、趣きある神社であった。
 
取り分け茅葺の大きな社殿が特徴のこの「天津神社」は、後世の瓦葺の社の神社が登場するはるか以前から、この地に鎮座していたことを示唆しており、やはりその佇まいの視覚効果に、私をはじめ参拝者たちは歴史を感じるのである。
 
 
そしてその存在感のある拝殿の向かいには、大きな石組みの舞台が在った。
たぶんここで先日渡会先生が言っていた「舞楽」の神事が演じられるのだろうな、と私は想いながらその石組みの大舞台を見ていた。
その石の舞台は石組みで造られていたが、槙の金山神社ほど精緻とは言えなかった。
 
私はこの石舞台そのものの造作に金山衆が関わっていたのではなかったか、と思いを巡らせた。そして国の無形文化財に指定されているというその舞楽が、この石舞台で演じられている場面を想像してみた。
 
この後渡会先生の紹介でお逢いする予定の、舞楽に詳しい郷土史研究家の事を考えながら私は、舞台の周りを歩き廻った。
渡会先生が話してくれた「鶏冠」を被った「稚児舞」の事を想像し、その舞が果たして甲州金山衆にどう関係しているのだろうか、といった事を私は考えていたのだ。
 
 
私の頭の中では、糸魚川市に残る幾つかの金山神社の存在からすでに、甲州金山衆と「鶏冠舞」とが結びついていた。
甲州山梨県の鶏冠(とさか)山の麓が彼らの本拠地であり、金山祭りにおいては「金の鶏」をご神体として担ぐ黒川衆だけに、私の期待感は高かった。
 
更にはこの石組みの舞台である。槙の金山神社同様この石舞台の造営に金山衆が深く関わって来たのではないか、との想いを強くした。
 
そしてお祭り好きの安田義定公とその嫡子義資公が、八年間守護を務めていた越後之國なのである。流鏑馬や祇園祭に積極的に関与してきた彼らの痕跡が、果たして糸魚川の舞楽に何らかの形で残っていないだろうか、残っていてほしいものだ。
などと思いながら舞台の周りを歩き廻ったのであった。
 
 
私はそのような事を考えながら境内をしばらく彷徨し、同時に神様の指紋を確認することを怠らなかった。そしてその確認は難なく済ますことが出来た。
 
天津神社の象徴である茅葺屋根の拝殿を始めとした、神社内の幾つかの建造物や幔幕などにおいて、義定公父子の氏紋である源氏の「三つ巴紋」をしっかり確認することが出来たのである。
 
私はそれらを見て、この天孫系の神を祀る「天津神社」もまた、鎌倉時代初期に甲斐源氏の守護安田義資公や金山衆が関与して来た神社の一つであったに違いないと、そう想うことが出来た。
 
その様な想いと多少の自信と共に、私は待ち合わせの時間前に渡会先生と約束した場所である、境内南側の鳥居にと向かった。
 
 
私が鳥居でしばらく待っていると、神社南側の道路を挟んだ奥の集落に連なる小路から渡会先生が現れた。
 
私は渡会先生に手を振って挨拶をし、先生に近づいて行った。
それから渡会先生は私を、今来た戸建て住宅が集積する小路の奥にと連れて行ってくれた。

 

 
 
 
                 天津神社拝殿    
                                  
               舞楽の行われる石舞台
 
 
 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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