春丘牛歩の世界
 
先週から、「行者ニンニク」が採れる様に成り、我が家の食卓にも乗るようになった。
行者ニンニクが採れる様に成ると、今年の春がやって来た事を実感する。
これまでの私の経験では「行者ニンニク」が生えてきてから、雪が降ったことは無いから、である。
 
 
      
 
 
野生の昆虫や動物たちが作る巣の位置で、颱風の影響を早い時期に推測できることがあるが、自然界の生き物たちは彼らなりのセンサーで、天候や自然現象を察知する能力がある。
そんな事から私は、「行者ニンニク」が我が家の林に生え始めることを、季節の到来のメルクマール(指標)にしているのである。
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制サイトとしてスタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規コラム」「新規物語」等のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPのシステム:新システム について     2024/05/06
 従来と同様の閲覧者の方々会員システムをご利用される方々:メンバー会員の方々
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            「- 糸魚川の舞楽編 -
 
   
 直江津の居酒屋で知り合った上越の郷土史研究家渡会先生の紹介で、知り合いの糸魚川市の郷土史研究家で、「舞楽」に詳しい人を訪れる事に成った私は、糸魚川一ノ宮の天津神社裏手に在るその家を、渡会先生と一緒に訪問することに成った。
 
 図書館などで天津神社の「舞楽」の内容を事前に知った私は、その舞楽が糸魚川でも活躍していた金山衆と浅からぬ繋がりがあったのではなかったか、と思うように成っていた。
と同時にその舞楽が、彼らの領主で非業の死を遂げた安田義資公と、その父親の義定公に対する「鎮魂の神事」という側面を持っていたのではないか、という印象を受け、その事をも糸魚川の舞楽の研究者に尋ねることにした。
 
 
              【  目 次 構 成  
 
       1. 糸魚川「舞楽」と京都祇園祭
       2. 氏子と祭神 
       3. 「鎮魂の神事」?
       4. 大久保長安
       5. 「重ね紋」の由来
                     6.    プロデューサー「鶏爺い」
       7. 浦川原の巨大厩遺跡
                       ― エピローグ ―
 
 
  

糸魚川舞楽と京都祇園祭

 

私たちは数分で、目指す吉田先生の家にたどり着いた。

そこには先日も会ったばかりの、新潟の神社関係研究者の小林さんと一緒に、見知らぬご老体がいた。糸魚川の舞楽に詳しいと聞いていた吉田先生であった。

道すがら吉田先生は渡会先生の元同僚で、先輩にあたる高校の教師で糸魚川天津神社の舞楽に関する著書も出しており、地元では舞楽研究に関する第一人者として一目置かれた存在であることを教えてくれた。

また居酒屋で紹介してもらった小林さんが今日来ている事もその時教えてくれた。小林さんとも旧知の間柄らしい。

小林さんは昨日改めて調べ直した事があり、その情報を私に教えてくれるということで、今日同席してくれることに成ったのだという。

 

私は、二人に近づくと改めて挨拶をした。吉田先生は白髪オールバックで背の高い、黒縁の眼鏡をかけた大柄で背筋をピンと伸ばした、カクシャクとした印象の八十前後の男性であった。 

私たちは、家の奥の先生の書斎と思われる部屋に案内してもらった。一通りの挨拶が済むと、私は持参した手土産を吉田先生に渡した。

渡会先生が、先日の居酒屋であった話を面白おかしく吉田先生に話すと、吉田先生はにこにこと笑顔でその話を聞いていた。

「立花さんは鎌倉時代の越後の初代守護、安田義資について調査研究をされているそうだが、儂(わし)はそんなに中世には詳しくはないんだが・・」と吉田先生が私に言ってきた。

「そうでしたか、それは残念ではありますが『御館の乱』でそれまでの古文書や宝物類、貴重な伝承物が殆ど灰塵に帰したと伺ってますから・・」と私は応え、その点は全く気にしていない旨を言った。

 

「先日渡会先生から糸魚川の三大舞楽のことを教えてもらいまして、先生がその道の権威であると伺いまして、その辺の事を中心にお聞かせいただければと思っています。

中でもそこの天津神社の舞楽に、私が調べている金山開発のスペシャリスト金山(かなやま)衆に関わるかもしれない、稚児舞が含まれているということで・・」私は、先ほど訪ねて来た天津神社のほうを指さしながらそう言った。

「『鶏冠の舞』の事らしいですな・・」吉田先生がそう言ったので私は、ニコリと肯いた。

「はいそうです、その『鶏冠の舞』です。それから、ひょっとしたらこれも関係しているかもしれないと思っているのが、一番初めに舞われる『振鉾(えんぶ)』なんですが、こちらについても教えていただけたら、と思っています」私がそう言うと、渡会先生が反応した。

 

「『振鉾(えんぶ)』も関係あるんですか?」と私に聞いてきた。

「あハイ、ひょっとしたら、ですが・・。実はあれから私も天津神社の舞楽に関する資料を多少目にしまして・・。あ、吉田先生が書かれたんじゃないかと思いますが『神遊びの郷里』もザッと斜め読みさせてもらいました」私はそう言って、糸魚川図書館でコピーしてきた資料の中からその書物の部分を取り出した。

「もう、3・40年も前のじゃがな・・」吉田先生はそう言って同書が自身が書いた書物であることを認めた。

 

「渡会先生からお聞き及びかもしれませんが、安田義資公の配下の甲州金山衆は鶏(にわとり)を神として尊崇してまして、甲州山梨の彼らの本拠地『鶏冠(とさか)山』にちなんで、ご神体としているんですよ鶏のことを。神社の御神体としても祀っていますし、彼らの職能神として金の鶏の御神体を、神輿などでも担いだりするんです。

それから京都の祇園祭でも『綾傘鉾』の傘の上に同じ理由で、鶏がご神体として祀られていまして・・」私がそう言うと、渡会先生が、

「立花さんは、その『綾傘鉾』は甲州金山衆が祇園祭に参加することで始まったと、そんな風に仮説を立ててられるんでしたよね、確か・・」といった。

「はい、その通りです。尤も私の中では仮説以上で、ほとんど確信と云っても良いくらいに、膨張していますけどねアハハ・・」私はそう言って笑いながら話を続けた。

「実は先ほどもチラッと触れましたが『振鉾(えんぶ)』もその『綾傘鉾』に関連してるんじゃないかって、そんな風に想ってます」

「ホウ、そうなんですか・・」吉田先生はそう言いながら、私からの詳しい説明を求める様に、黒縁眼鏡の奥から私の目を覗き込んだ。

 

「具体的にはですね、その『綾傘鉾』が祇園祭で巡行する際に、露払いのような役割をするのが『棒振り子』という、赤熊(しゃぐま)という赤いカツラを被った派手な格好をして、棒を振り回して大げさな所作をする舞手がいるんです。

笛や鉦・鼓の囃子手を伴ったとにかく派手な露払いなんですが、彼らを使って聴衆の耳目を集める役割をさせるんですけどね・・。の『棒振り子』とこちらの『振鉾(えんぶ)』とが関係しているのではないかと・・」私がそこまで言うと、渡会先生がニヤリとしながら

「それは確信ですか?それとも・・」と言って突っ込んできた。

「いや、さすがにまだ仮説ですよ・・」私もニヤリとして、そう言った。続けて

「その『綾傘鉾』の御神体である『鶏冠』と露払い役の『棒振り子』とが、こちらの舞楽の『鶏冠の舞』と『振鉾(えんぶ)』とに関係しているのではないかと・・」と呟いた。

 

「ただの偶然、という事はないんですか・・」渡会先生はそう言って、私に両者の関連性に対する検証を暗に求めた。

先日私からより詳しい話を聞いていた渡会先生は、初めて聞くことに成る吉田先生に判ってもらえるように、あえてそう言ってるのかもしれない、と私は感じた。

「そうですね、ただの偶然と思われるかもしれませんね、御尤もです・・。私も京都祇園祭りと、甲州金山衆及びその主君である安田義定・義資父子との関係について知らなかったら、そんな風に結びつけては考えなかったと、自分でもそう思います。

多少話が長くなっても構いませんか?」私はそう言って断りを入れて、皆が肯くのを確認してから、話しを始めた。

 

「先日も渡会先生達にはお話したんですが、遠江之守を務めていた安田義定公が後白河法皇から重任(ちょうにん)を許可するバーターとして出されたのが、京都祇園神社と伏見稲荷大社の建て替えと大規模な造改築だったんです。
 
これは源平の戦いや何回も起こった大地震などで荒廃した両神社の祟りが、自身の瘧病(おこりやまい)の原因であると考えた法皇の勅命だったんですね。
なにせ怨霊や陰陽師の時代の事ですから、こうやって神の祟りと自分の病が割と簡単に結びつく発想があった訳ですね・・」私はそう言って三人の顔を見廻した。

「この時の後白河法皇の勅命がきっかけで、三回目の遠江之守重任を願った安田義定公との取引が成立したわけですね、比較的すんなりと・・。それがきっかけに成って義定公と両神社の関係が深まったんですが、と同時にお祭り好きの義定公は祇園祭にも、積極的に関わって来たんですね。

実は直江津の祇園祭も義定公のそういった影響の下、嫡子の義資公が執り行ってきたのではないかと、私は推察しています」私はそう続けた。

「なるほどそういうことですかな・・。祇園祭と安田義定の関係は・・」吉田先生はそう言って、ひとまず私の推測を受け入れた。

 

「因みに安田義定は京都の祇園祭にはどのように関わって来たんでしたか?」渡会先生が更に先を促すかのように、私にそう言った。

「そうですね、具体的には義定公は二種類の山と鉾とに関わりがあったようです。一つは『八幡山』といわれる舁き山で、もう一つは先程の『綾傘鉾』という傘鉾の巡行です。

因みに前者は義定公の家来のうち武家衆が担当し、後者は職能集団である金山衆が担っていたと、私は考えています」私がそう言うと、吉田先生は目で先を促した。私は吉田先生が私の推測の理由を尋ねているように思い、応えた。

「ハイ、その理由はですね、『八幡山』は甲斐源氏の氏神である八幡様を武士の家来達が、甲斐源氏の象徴である騎馬に乗った応神天皇像をご神体にした、神輿の八幡宮を担ぐ形をとったわけです。

それから先ほど言いました『綾傘鉾』は、金山開発を担う職能集団である甲州金山衆が、金で造られた鶏をご神体にした綾傘の鉾を曳いて巡行し、そのお先棒を棒振り子の赤熊(しゃぐま)とお囃子たちが大仰に騒ぎ立てながら、先導するわけです」私がそう言うと、渡会先生が

「せ云えば『振鉾(えんぶ)』というのは鉾を振るって書きますよね。鉾を振るって書いてあえて『えんぶ』と読ませている・・」と思いついたようにそう呟いた。

 

「うん、確かに。いや実は儂はあの舞楽の一等最初の舞である『振鉾』は、本来は『演舞』と云っていたのが、いつの間にか目に映る所作である鉾を振るに、当て字したのではないかと考えていたんだ・・。

だからこうやって立花さんの推察を聞いていると、長年考えていた儂なりの仮説が、正しかったのかもしれないと、そう想うように成ったよ・・」吉田先生はニヤリとしながらそう言った。続けて、

「ところで立花さんは、その金山衆とこの越後之国とにも大きな接点があったと、そうお考えなんですかな?」吉田先生は、渡会先生をチラリと見ながらそう言った。

「はい、おっしゃる通りです。私は安田義定公父子の領国には、必ず荘園開発と一緒に金山開発と騎馬武者用の軍馬の畜産・育成がセットであったと思っているんです。

ですから義資公が守護を務めていたこの越後にも、必ず馬に関する痕跡や足跡と共に金山開発の痕跡があるに違いないと、そう思って今回新潟にやって来たんです」私は吉田先生の質問にそう応えた。

「立花さんは、上越市では多くの軍馬育成の痕跡や足跡は確認できた、と思ってられるんですよね・・」渡会先生が私に代わって、解説してくれた。

 

「はい、おっしゃる通りです。奈良時代から国衙や国分寺が在った上越には沢山の官営牧も在りましたし、馬場や厩といった馬にちなんだ地域や地名も沢山確認できましたから、現在の上越市とその周辺には少なからぬ痕跡や遺跡・足跡を確認することが出来たんです」私がそう言って同意すると、渡会先生が

「ところが金山開発に関しては・・」と言いかけたので私は、

「金山開発の痕跡などは殆ど見当たらなかったですし、金山衆が崇拝する金山彦を祀った金山神社は数社しかなかったんです。ほとんど唯一といってもよいのは飯田川沿いに在った杉野袋の『金山神明社』ぐらいのものでしてね。

それもどちらかって言うと、暴れ川の飯田川の氾濫をコントロールするための、灌漑治水用の護岸のための土木工事で、およそ金山開発とは云えない場所の、神社だったんです・・」私は神社に詳しい小林さんに同意を求めるように目で確認しながら、そう言った。小林さんは肯いてくれた。私は続けて、

「ところが上越埋蔵文化センターの学芸員の方から、こちらの糸魚川にはその名も『金山』という名称の山が三か所もある、と教えてもらったんです。

更にこちらの渡会先生や小林さんから、糸魚川には幾つかの金山開発につながる神社が在るらしいと教えていただいて、実は昨日から糸魚川市内の幾つかの金山神社を、実地見聞して来たところです」と話しをつなげた。

 

私が金山神社の話をしている時に、吉田先生の奥さんがお茶を運んできた。喉に渇きを覚えた私は、早速温かいお茶をいただいて喉を潤した。                      

「因みに糸魚川ではどちらの神社に行って来られました?」小林さんが私に聞いてきた。

「アはい、能生川を入ったとこの『槙の金山神社』や羽生の奥の『川久保の金山神社』とかですね・・」私がそう言うと小林さんは、       

「どうでしたか、期待通りの成果は得られましたか・・」と更に私に尋ねてきた。

「おかげさまで成果がありました。とりわけ『槙の金山神社』はバッチリでした」私はニコリとしてそう応えた。皆が具体的な説明を期待するような目で、私を見た。

 

「あぁそうですね、具体的な説明が必要ですね。判りました・・。まずは『槙の金山神社』の祭神は金山彦でした。それに神殿の土台の石組みがかなり精緻な造りで実に見事で、美しいものでして、間違いなく金山衆の手によるものだと確認出来ました。

更に屋根瓦は想ったように三つ巴紋でした。この時点で私はこの神社が義資公と甲州金山衆が建てた神社に違いないと、そう確信したんです」私が嬉しそうにそう言うと渡会先生がニヤリとして 

「そしたら神様の指紋が確認出来たんですね・・」と言った。私も同じくニヤリとして、「えぇ、おっしゃる通りです確認できました『神様の指紋』・・」と応えた。

それを聞いてた小林さんも同様にニヤリとしたが、吉田先生は怪訝そうな顔をしていた。無理もなかった。それを感知した渡会先生が、早速フォローした。

 

「いえね、『神様の指紋』というのは立花さんがおっしゃるんですが、神社にはその気になって探せば、神様が残してくれた指紋が沢山見つかる、って言うんですよ・・」とニヤニヤしながら言った。そしてその続きを話すように、私を目で促した。

「判りました、ではそれについて私からお話しましょう」そう言って私は話を引き継いだ。

「神様の指紋というのは何かといいますと、具体的には言うまでもなく神社に祀られている神様である『祭神』がありますよね。

加えて神社の紋である『神紋』『屋根瓦や幔幕・狛犬などの小道具や大道具』、更には『神事やお祭り』といった目に見えるモノや、伝統芸能なんかを指して、私が勝手に名付けたモノやコトの事でして・・」と解説した。それを聞いていた吉田先生はニヤリとしながら言った。

「面白い表現だね『神様の指紋』ね、確かにおっしゃる通りかもしれませんな。儂なんかも舞楽や神紋・伝承などを通じて、その神様が本来祀られて来た神社のルーツに辿り着く、なんてことがあったりしますよ。

そうですか『神様の指紋』ね・・」吉田先生は感心したように顎を触りながらそう言って、私の表現を理解してくれた。

 

 

 

 

          

        左図:京都祇園祭り「綾傘鉾の棒振り子」 右図:糸魚川稚児舞の「振鉾(えんぶ)の舞」

 両者は「大人舞」と「稚児舞」という点や「派手なアクション」と「静寂な舞」いった対照的な様相を呈しているが、両者の役割や意味するものは、同根から出ているのではないかと想われる。
 
 
 

氏子と祭神

 

「『槙の金山神社』の事で言えば、神社近くに住まわれてかつては宮司をしていた家の方は、通称『金山(かなやま)さん』と云われていたそうです。名字が金山というのではなく、あくまでも通称だそうです。通りがかったご老人が教えてくれました。

私はそれを聞いて、そのかつて宮司を務めた方の家というのは、甲州金山衆の末裔に違いないと確信しました。金山衆の幹部として槙の金山神社の近くに住み、宮司としてその神社の伝統をずっと守ってきたのではないかと、まぁそんな風に想ってるわけです。
 
更に、その金山神社の近くで能生川の脇には『金堀場』と呼ばれている場所が在って、かつてそこでは良質の金が採れた、という伝承が残っているとの事でした」私がそう言うと渡会先生が突っ込んで来た。
 

「能生川の流域で、かつて砂金とかが採れたってことですか?」

「はい、そうです。というのも能生川を溯って妙高連山の方に行くと、標高2千m級の例の『金山』『裏金山』という糸魚川の三か所の金山のうちの二つが在るんです。

ですから鎌倉時代の頃、金山衆が能生川が蛇行するその辺りで、太古からの手つかずの砂金などが沈金している『金堀場』を、見つけることが出来たんだと思います。

そしてだからこそ、その近くに金山神社を祀ったんだと、ですね。そんな風に想定することが出来るわけです」私は昨日見てきた能生川沿いの金山神社の事を説明した。

渡会先生も今の話で金山と能生川との関係を理解してくれたようだ。大きく肯いていた。

 

「実はこの構図は、羽生の『海川』の支流に当たる川の、川沿いに在る『川久保の金山神社』にも同じことが言えましてね、名前はちょっと判らないんですが、あの川久保地区の金山神社も、溯って行けば『金山』や『裏金山』に行きつくんですよね」私がもう一つの金山神社の在る川久保地区について、そのように説明した。

「『海川』の支流というとすると『水俣川』のことかな?」と吉田先生がアドバイスしてくれた。

「詳しいことは存じませんが、海川の上流で『観音堂』の方に向かう支流でした」と私が応えると、吉田先生が、

「うん、観音堂なら『水俣川』のようだな・・」と詳しく教えてくれた。続けて

「その槙のある辺りは、糸魚川でも古くから開けていた里でしてね。糸魚川では歴史ある集落なんじゃよ」と吉田先生が解説してくれた。

 

「そうでしたか・・、金山衆にちなんだ集落であれば鎌倉時代の頃からの集落だと思いますから、確かに8百年以上の歴史はあるでしょうからね・・。あ、それから私はあの辺りは金山衆にとってだけではなく、守護の安田義資公にとっても重要な拠点だったと、そう考えています」私がそう言うと、渡会先生が聞いてきた。

「その根拠というか、どうしてそんな風に立花さんは想うようになったんですか?」と。「それはですねあの『槙地区の金山神社』の周辺には『藤後の八坂八幡神社』や『下倉の駒形神社』と、1㎞にも満たない範囲の中に、三つの安田義定公父子に関係する神社が集中しているんです」私はそう言って渡会先生を初め、吉田先生や小林さんを見廻した。

小林さんは大きく首を振って肯いた。続けて、                   

「実は僕は今日そのことを立花さんにお話しするつもりで、こちらに来ていたんですよ」といって、バッグの中から資料を取り出した。

 

小林さんはA3版のカラーコピーした資料を私の目の前に広げながら言った。    

「これは糸魚川市の主な神社に関する民俗学的な資料なんですがね・・」と言って、資料について説明してくれた。更にその資料を3・4枚ずつ区分けして私に示して、話を続けた。

「こちらが『槙の金山神社』の分で、こっちが『藤後の八坂八幡神社』『下倉の駒形神社』となっています。いずれも先ほど立花さんが言われた神社で、先日直江津の居酒屋で立花さんから伺っていた『八幡神社』や『馬に関する神社』『金山彦の神社』を探していて、発見した神社の資料だったんです。

で、場所を確認したら立花さんが言われるように、三つの神社がほぼ隣接している場所に在ったもんですから・・」と言って、これらの資料に辿り着いたいきさつを話してくれた。

「そうでしたか、いやありがとうございます。この資料は初めて見ます・・」私はそうお礼を言って、その中から「藤後の八坂八幡神社」の資料を取り出し、パラパラと捲って内容を確認した。ちょっと気づいたことがあったので、それを口にした。

「僕が昨日寄って来たのは、真新しい神殿で檜の香りが強く残っていたのですが、この画像だともっと歴史のある社ですし、確かこんなに小高い場所ではなかった様でしたが・・」とそう呟くと、吉田先生が、

「母さんちょっと・・」と言って奥さんに声を掛けて、書斎に呼んだ。

 

奥さんが入ってくると先生は、

「母さん『藤後の八幡さん』が新しくなって遷宮したのは去年の事だっけ?」と言って、私からその資料を受け取り、奥さんに見せて確認した。奥さんは吉田先生と一緒に「藤後の八坂八幡神社」のカラーコピーを見ながら言った。

「これは、前の神社ですね、小高いとこに在った時の写真です。お父さん、遷宮したのは去年ではなくって最近の事ですよ、今年の春に棟上げをするとか言ってたと思いますよ、確か・・」と応えた。それを聞いた先生は私たちに
「いや、うちの女房の親戚が下倉に在りましてな、あの辺りの事には詳しいんじゃよ・・」と説明した。
 
「そうでしたか、ということは最近ここから現在の場所に遷宮したばかりなんですね、どうりで檜の匂いが強く香ったわけだ・・」と私も納得した。続けて私は、   
「実際あの三地区に在る神社は三つとも、全部安田義定公や義資公に関係してくる神社でして、先ほども言いましたがあの辺りに義資公の糸魚川における拠点があったんじゃないかって、そう考えています。
 
何しろ源氏の氏神『八幡神社』に金山衆の『金山神社』、能生川を渡った先には騎馬武者用軍馬にかかわる『駒形神社』がありますからね・・。
これはもう甲斐源氏の守護義資公に関係無い、っていうほうが無理ですよ。何しろこれだけ関連する神社が揃ってるんですから・・」と私はちょっとハシャギ気味にそう言った。

「因みに『八坂八幡神社』は八幡神社と八坂祇園神社が重なっていますが、今の名称に成ったのは明治40年に両神社が合併して、そう成ったようですね・・」と、小林さんが解説してくれた。その情報は、私も糸魚川の図書館で得た資料で確認していたので、肯いて聞いていた。

 

「ところでこの資料に書いてあったんですが『下倉の駒形神社』の氏子の間では、かつては犬を飼っていなかった、というんですが奥さん、それは本当だったんですか?」と小林さんが吉田先生の奥さんに聞いた。奥さんは大きく肯きながら、
 
「ええそうです、確かにその通りです。私の母は今お話の能生川沿いの『下倉地区』の出身で、そこでは犬を飼わない風習がある、と言ってました。私も知ってます。
で私はその風習を不思議に思って、母の実家に行った時に祖父に聞いたら、なんでも『犬がいると駒形神社にやって来る馬の神様が、驚いて寄り付かなくなるからだ』とそんなことを言ってましたね・・」と話してくれた。
 
「そうでしたか、昨日上越の武藤さんから聞いた『上越市高津の八幡神社』の氏子たちが鶏を飼ったり食べたりしない、と言っていたのと同じなんですね・・。
風習や伝統を辿って行くとそういう神様やご神体に繋がって行ったりするんですね・・」私は今の話を聞いて、そう呟いた。
 
 
 「下倉の『駒形神社』の祭神は、諏訪神社の神様『建御名方の命』と、伊勢神宮の『天照皇大神』と成ってますが、やはり本来は馬の神様なんですね。
それを氏子に残る言い伝えや伝承という形で、本来の神様の事をそうやって語り継いでいるという訳なんですね・・」と私がそんな風に言うと吉田先生が、

「それはね庶民ってもんは、実はそんなに祭神に拘らないことがあるんだな。特に田舎に行けば行くほど、そういう傾向があるようでね。

面白いことに宗教にも流行り廃りがあってな、下倉でも軍馬や農耕馬を飼育していた時はそれなりに馬の神様が大切にされてたんだろうけど、馬を飼わなくなってからは馬の神様も廃れたのかもしれないね。

それに諏訪神社の『建御名方の命』は山の神様だから、山仕事をするように成ってから祀るように成ったのかもしれんし、伊勢神宮の『天照皇大神』は幕末の『ええじゃないか』の時に入ってきたのかもしれんな・・」吉田先生はしみじみとそう言ってお茶を飲んで、更に話を続けた。

 

「たとえ祭神であっても融通無碍(ゆうずうむげ)、これが日本という多様な神様が併存し続ける、日本の神道の特色・特徴なんだとそう思うよ、儂は。

庶民にとっては、名称がどうであれ自分の生活の場である『山の神』や『産土(うぶすな)神』としての信仰を続けていければ良いわけで、祭神の名称などあまり気にしないのさ。そういうもんだと思うよ・・」と言って、私たちに氏子と祭神の関係について話してくれた。

私はそれを聞いて大いに得るものがあった。全くその通りだと、納得したのだった。

「日本は欧米のキリスト教や中東などのイスラム教と違って多神教の八百万(やおよろず)の神様、ですからね。その辺りは将に融通無碍なんですね・・」私がそう呟くと、吉田先生を初め三人は私の呟きを認めるように、肯いた。

神社の研究をしている小林さんは何度も大きく肯いていた。

 

「ところで、立花さんは天津神社の舞楽については大体そんな感じでよかったんですか?せっかくだから吉田先生にお聞きしたいことがあったら・・。それとももう何もありませんか?」渡会先生がそう私に聞いてきた。私は渡会先生の心遣いに感謝しつつ、吉田先生に尋ねる事にした。

「そうですね、ではせっかくですから申し上げます。実は僕、天津神社で行われている『舞楽』はひょっとしたら金山衆や守護の義資公の家来たちが深く関わってきた神事ではないかと、そう想ってるんですよ。

と言いますのは、先ほど京都の祇園祭との類似性を指摘させてもらったんですが、それは導入部の『振鉾(えんぶ)』や三番目に行われる『鶏冠の舞』についてだったんですけど、十二ある演目のうちの二つ、と云う事ではなくって舞楽の全体を通して関係しているのではないかと、そう想ってるんです・・」私がそう言うと、三人はその先を促すような目で私を見た。

「あの舞楽全体が、安田義定公と義資公父子の不運に依る死を、鎮魂するための『鎮魂の神事』ではないかと、そう感じているんです。

頼朝の甲斐源氏潰しによってほとんど言いがかりのようにして、義資公は首を刎(は)ねられ、義定公は息子への監督不行き届きを咎められて遠江之国の國守の職を取り上げられてしまった。

そして最後は頼朝によって派遣された梶原景時や加藤景廉によって、本貫地の甲斐之国牧ノ荘で誅殺された、義定公に対する鎮魂の神事ではなかったかと、そう想っているんです」私がそう説明すると、吉田先生が、

 

「初代守護の安田義定は、何が原因で首を刎ねられたんでしたかな・・」と誰に言うともなく呟いた。渡会先生が私をチラッと見たので、私は手のひらを上げて先生に発言を促した。

「越後の守護を八年ほど勤めた安田義資は、艶書事件という今で云うラブレターを行事に来ていた女御に、渡したことを頼朝に咎められて、その翌日に首を刎ねられたという事です・・」と渡会先生が吉田先生に説明した。

「何⁉ラブレターを渡した罪で、越後の守護職がその翌日に首を刎ねられたってか?」さすがに吉田先生もビックリして、大きなリアクションをした。

「きっかけは何でもよかったんだと思いますよ、頼朝は・・。頼朝にとって自分や一族が関東で権勢を保つのに、甲斐源氏はずっと目の上のたん瘤だったんですよ・・。

それで当時の甲斐源氏の氏の長者であり、遠江之守であった安田義定公と嫡男で越後の守護を務めた義資公とを、潰すきっかけがずっと欲しかったんですよ、頼朝は・・」私がやや感情的にそう言うと、吉田先生は目をギロリとさせて、

 

「ホウ、そうですか・・」と言って、腕を組んだ。私は続けて、

「頼朝は平家追討が済み、越後の平家城氏が降伏し、奥州藤原氏を滅亡させて東日本の騒乱が収まった時から、このタイミングをずっと待っていたんです。

そしてついに、後白河法皇が崩御した翌年に成って、いよいよ甲斐源氏の有力者であり遠江と越後の二か国の國守や守護を務めた義定公父子を潰しにかかった、というわけです」私が今度は多少感情を抑えてそう言うと、小林さんが、

「後白河法皇の崩御を待ったのはまた、何故なんです・・」と私に聞いてきた。

 

「それはですね、義定公と法皇との関係が良好だったからです。法皇が元気なうちは頼朝も手が出せなかったんです。

後白河法皇と義定公は例の八坂祇園神社や伏見稲荷大社の建て替えを初め、ご自身の六条の院の御所や法住寺の修復や修繕にも義定公を指名して、奉行させているんです。二人はお互いに信頼関係を持っていたようですね。 

それにしたたかな法皇は武将としての義定公一族を高く評価していたようで、朝廷や院の御所の守護を務める『大内守護』にも義定公を指名しているんです。

これは頼朝に対する対抗勢力として、法皇自身が甲斐源氏の氏の長者でもあった義定公を考えていたんではないかと、そのように私は推察しています。

平家が滅亡した後、関東武士団の源氏の中の有力な武将であった義定公に、いざという時の期待というか保険を掛けていたんではないかと、僕はそんな風に推測しているんです・・」と私は推測を強調しつつも、断定するようにそう言い切った。

 

「なるほど、そうすると後白河法皇の崩御の時期がだいぶ遅れていたら、その間頼朝は義定公父子に手を出せなかったと、立花さんはそう想ってるんですね・・」小林さんは肯きながらそう言った。

「はい、その通りです」私は大きく肯いて、その仮説に同意した。

ちょっとした沈黙があって、渡会先生が、                     「なるほどな、そういう安田義定公一族の不幸なことがあって、その鎮魂の神事として『天津神社の舞楽』が誕生したんじゃないかって、そう考えてるんですね立花さんは・・」と私を見ていった。私は再び大きく肯いて肯定した。

 

 

        

          第五段「破魔弓の舞」           第二段「安摩の舞」

 
 

「鎮魂の神事」?

 
 「糸魚川の舞楽の専門家の先生を前にして話すのは面はゆいのですが、天津神社の舞楽は全部で十二段ありますよね・・」私がそう言うと吉田先生は軽く肯き、目でその先を促した。
 
「先ほどの『振鉾(えんぶ)』からスタートして、『安摩(あま)』それから先ほど来の『鶏冠(けいかん)』の舞が続き、『抜頭(ばとう)』『破魔弓(はまゆみ)』『稚児納蘇利(ちごなそり)』『能抜頭(のうばとう)』『華籠(けこ)』『大納蘇利(おおなそり)』『太平楽』『久宝楽(きゅうほうらく)』そして最後の『陵王(りょうおう)』といった感じで・・」私は手元の資料に目を通しながら「天津神社の舞楽十二段」について話し始めた。
 
「その全部の十二段が、安田義定公父子の『鎮魂の舞楽』だと、考えられてるんですかな?立花さんは・・」吉田先生が聞いてきた。
 

「いや、さすがに全部だとは想っていません。何と言っても義定公父子が誅殺されてから八百年も経ってますからね・・。それに舞楽でしょ、この八百年の間には、当然付け加えられたものや逆に除かれたものもあっただろうと思います。

ちょうど京都の祇園祭や直江津の祇園祭がそうであったように、祭りもまた生きていますし、先ほど吉田先生が言われたように流行り廃りもあったでしょうから・・。

 それに義定公や義資公が守護として入部してくる以前から、糸魚川にはずっと以前から舞楽というか神楽(かぐら)というか、天津神社の神事として始まっていた可能性だってあり得ると思うんです。

そのベースの上に『義定公父子の鎮魂の舞楽』が加わった可能性だってあるんじゃないかって、そう思っています」私がそう言うと、吉田先生は何回か肯いた。

 

「ただそうは言っても、中心にある部分や絶対外せないものはあっただろうし、それはしっかりと受け継がれてきたのではないか、と私は想っています。根幹の部分ですがね・・」私は三人の顔を見ながら、説明した。

 
「その根幹とは?」渡会先生が聞いてきた。
「それはですね・・。具体的に申し上げますとこの十二段の内でも『振鉾の舞『鶏冠の舞』や『破魔弓の舞』『能抜頭の舞』『太平楽の舞』『久宝楽の舞』『陵王の舞』なんかは絶対に外せない根幹部分ではないかと、想っています・・」私はもう一度資料を観ながらそう言った。
吉田先生が目で先を促すので私は、その理由を具体的に述べることにした。
 
 
「私が根幹だと思っている七つの舞は、すべて安田義定公親子や金山衆に繋がってくると思われるからなんです。
具体的なことを申しますと、『振鉾の舞』と『鶏冠の舞』とは先程も言ったように金山衆に繋がってるんですね。京都祇園祭りの『綾傘鉾』やご神体である『鶏のとさか』というようにですね・・。
 
次に『破魔弓』と『太平楽』『久宝楽』とは、それぞれ武将の象徴である弓矢や、太刀を交えることで戦いを象徴している。これらはやはり騎馬武者として平氏一族と戦って、越後乃國の守護となった鎌倉時代の武将、具体的には安田義資公の事を現わしているのではないかと、ですね。
まぁそんな風に思ってます。ここまでは宜しいですか?」私が三人に確認すると三人はその先を促すような顔をした。私は肯きながら、続きを話した。
 
 
 
             
         
            天津神社舞楽のクライマックス「陵王の舞
        
 
「で、最後に『能抜頭の舞』と『陵王の舞』なんですがですね、これはいずれも安田義定公の心の内、すなわち頼朝に依っていともた易く頚を斬られた、嫡男の義資公の死の報を受けて、悲嘆にくれた義定公の心情を現わしているのではないかと、そう思うんです・・。
 
嫡男として自分の後継を託していた息子が、殆ど言いがかりと云って良いような理由で誅殺されてしまった事に対する、義定公の憤りであったり、恨みやつらみを表現しているんじゃないかって、そう思うんですよね。
実際『吾妻鑑』にも書かれていますが、義資公が誅殺された後、義定公はしきりに『五噫を歌』ってるって云うんですよね・・」私がそう言うと、渡会先生が
 
「『ゴイをウタウ』って、何でしたか?」と聞いてきた。
「あ、すいません、失礼しました。『五噫を歌う』ていうのは、周囲に不平や不満を言う、とか漏らすって意味らしいです・・」私が説明した。
 
 「そして最後はやっぱり、つまらないことで頸を斬られた義資公の無念や嫡男を失った義定公の魂を、鎮めるための鎮魂を意味しているんではないかと思うんです。とりわけ『能抜頭の舞』と『陵王の舞』のところは・・」私はそう言って、天津神社の舞楽についての考えを述べた。
 
 
「なるほどな、立花さんは天津神社の舞楽をそのように理解されているんですな・・」吉田先生はそう言って、しばらく目を閉じていた。
傍らの渡会先生が
「吉田先生、確か天津神社の舞楽は大阪の天王寺の舞楽の流を汲むと云われてましたよね、確か・・」吉田先生に向かって尋ねた。先生は肯いてから言った、
 
「そう、そのように伝承されているな・・。その伝承が正しいかどうかははっきりと儂には断言はできないが・・。
因みに天王寺の舞楽は聖徳太子とその一族の、不運を鎮魂するための仏事として始まったと、そういう人もマァいるんだわ・・」と言って私を見た。
 
「そうでしたか、確か聖徳太子の遺児や子孫は蘇我馬子によって滅ぼされたんでしたよね、一族もろとも・・」小林さんが言った。
「おっしゃる通りでしたよね、確か・・」私は以前読んだ古代の歴史書でその事を知っていたのでそう言いながら、頭に思い浮かんだことを口に出して言ってみた。
 
「両者とも不運な運命によって滅ぼされた一族に対する鎮魂のための行事である、という点では共通しているようですね・・」と。私のその発言に吉田先生は黙ったまま肯いた。
 
 
しばらく沈黙が続いたが、その沈黙を破るように、小林さんが言った。
「天津神社を初め糸魚川の舞楽はいずれも稚児たちが主役を務めてるんですが、その点については立花さんは特に違和感は感じたりしませんか?その、京都の祇園神社などと比べて・・」と私に聞いてきた。
 
「いや、実は違和感ではなくってむしろ共通点を感じているんです、僕は・・」と応えると三人が私を注目してきた。小林さんが、
「と云いますと・・」と聞いてきた。
 
「いや、実は義定公の領地で行われる神事では稚児が主役である事は、むしろ共通していることなんですよ。とりわけ義定公が始めたんじゃないかって思われる神事では、ですね。
 
具体的には遠州浅羽之荘の『稚児流鏑馬』もそうですし、遠州飯田の『飯田祇園祭』や『遠州森町のカサンボコ祭』も主役はみな稚児や子供たちなんですよ・・。
 
ですから私は違和感を覚えるよりもむしろ『ここでもか⁉』と、その共通する点に驚いてるくらいなんです・・」と説明をした。
 
 
「ホウ、そうなんですか・・。子供たちがむしろ主役に成ってるんですか・・。」渡会先生が感心するように言った。
「ただし京都の祇園祭の『綾傘鉾の棒振り子』は大人舞ですけどね、類似性を指摘したこちらのような『振鉾(えんぶ)の稚児舞』ではありません。
 
しかし祇園祭そのものは稚児たちが八坂の祇園神社を参拝することからスタートしてますし、祭りで大きな山や鉾が巡行するに際しては、ご存知なように稚児がメインの席に座って巡行に関わってきてますよね・・」私はそう言って、京都の祇園祭や安田義定公に関わる地域の神事や祭りについて説明をした。
 
 
先ほどからじっと聞いていた吉田先生が、私に聞いてきた。
「立花さん実はね、天津神社の奴奈川姫を祀った神社のご神体や、旧能生町の白山神社のご神体は平安時代の末期頃に作られた、と言われておってね・・。
ひょっとしたらそれらも安田義定や義資に関連しているんだろうかね・・」と呟くように言った。
 
 
「ホウ、そうなんですか平安時代末期にですか・・」と私も呟いた。続けて、
「安田義定公は、神社仏閣に対してはかなり尊崇の念を抱いておりまして、本貫地の甲斐之国や遠州の浅羽之荘や森町には、数多くの神社や仏閣を創建してるんです。
 
ですからその神社仏閣のご神体やご本尊を、奈良や京の仏師たちに作らせた可能性は大いにあるんじゃないかと、そう想いますよ・・」私はそう言って吉田先生の疑問に応えた。
 
「そしてその延長線上に『流鏑馬』や『祇園祭』『舞楽』といったお祭りや祭事を開催してきたのではないかと・・。マァそんな風に考えています。
尤もこちらは新しい領民の人心掌握を狙っている、といった意味合いもあったのではなかったか、と想ってますけどね・・」と私は続けて言った。
 
「先ほどの『神様の指紋』って事に成るのかもしれませんが、やはり安田義定や義資が残す指紋としては『三つ巴』が多いんですかな・・」吉田先生が確認するように呟いた。
「おっしゃる通りです。
やはり源氏ですから氏紋の『三つ巴』がまず、ありますよね。それから『花菱紋』もそうですね・・。義定公の家紋ですから」私が言うと、吉田先生が
 
「天津神社や能生町の白山神社、根知・山寺の日吉神社にも多くの三つ巴紋があってね。しかも境内の中にはもちろんの事、それぞれの神社の『舞楽で』用いられる大道具小道具の多くに三つ巴紋が、施されておるんだよ。
 
それに根知・山寺の日吉神社を管掌している『金蔵院』もまた、お寺であるにも拘わらず三つ巴紋が寺紋と一緒に・・」と言いながら、また腕を組んで目を閉じた。
 
 
「因みにその『金蔵院』というお寺はどのような字を書くんですか?」私が誰にともなくそう呟くと渡会先生が、
「金の蔵の院ですね」と教えてくれた。
「ん?それって金を蔵にとどめてるお寺ってことですか?」私は想わずニヤッとしてそう言った。
「そのお寺もまた三つ巴紋を、お寺にもかかわらず寺紋として用いているんですね・・。なんだか、匂ってきますね・・」私はそう言ってもう一度ニヤリとした。
 
 
 
 
 
          
       天津神社の舞台の四隅には「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」の聖獣が居る
 
 
           
 
      
 

 

                           『吾妻鏡 第十四巻』    安田義定梟首― 

                                                                           『同書』307ページ

建久四年八月十九日)安田遠州(義定)梟首。去年子息義資を誅せられ、所領を収公するの後、しきりに五を歌ふ。また日来好(よしみ)あるの輩類に相談、反逆を企てんと欲す。縡(こと)すでに発覚すと。      

                                    ( )は筆者の註  

「五噫を歌う」とは世間に認められないことを嘆く事、だという。安田義定公は、艶書事件などと言う言い掛りのようなことで、自らの後継者として育てて来た嫡男の義資公が斬首されたことがよっぽど悔しく、納得もいってなかったのであろうか。

ましてその時61歳という彼は、当時で云えば老齢の域に達しており、頼朝の鎌倉幕府と一戦を交える気力も体力もなかったとすれば、なおさらであろう。

自ら子供を成人させた経験を持ち、当時の義定公の年齢を過ぎた我が身を振り返り、彼の「五噫を歌う」気持ちは、よく理解することが出来る。

 
 
 
 
  
 

大久保長安

 
 「『舞楽』に『流鏑馬』『祇園祭』ですかな・・。実はね立花さん、舞楽は『天津神社』と共に能生町の『白山神社』根知山寺の『日吉神社』にも共通してるんだが、『祇園祭』は日吉神社以外の二つの神社でも執り行われとってね、更に言えば田伏の『奴奈川神社』でも行われているんだゎ。
でね、その『祇園祭』を執り行っている神社は全部奴奈川姫を祀っておってね・・」と吉田先生はそう言って、私を観た。
 
「『天津神社』や『奴奈川神社』は存じてましたが、能生の『白山神社』もなんですか、私はてっきり・・」と私が言いかけた時、吉田先生が遮る様に、
「能生の『白山神社』は元々は奴奈川姫を祀った神社だったんだが、奈良時代の八世紀に現在の『白山神社』に改称したという、いきさつを持っとりましてな・・」と教えてくれた。
 
「なるほどそういう事でしたか、という事は『白山神社』は元々は能生の『奴奈川神社』と云われていた、というとですね・・」私が確認するようにそう言うと、吉田先生は大きく肯いて同意した。続けて、
 
「その奴奈川姫を祀る、糸魚川の代表的な三つの神社で何故祇園神社が境内社として祀られていて、祇園祭が盛大に行われ、更に『三つ巴』が神社の神紋に用いられているのか、正直なところ儂も今一つシックリ行っとらんかったんだゎ・・」と、シミジミと言った。
 
「はぁそういう事ですか・・。という事はあれですよね当然『三つ巴紋』と共に祇園神社の『木瓜唐花紋』も使われているんですよね、御輿や太鼓・幔幕といった大道具や小道具にも・・」私がそう言うと、吉田先生は肯いて、
「舞楽の舞手の衣装なんかにもな・・」と続けた。
 
 
「なるほど、そうですか・・」私はそう言ってタブレット端末を操作して、京都八坂の祇園神社の『木瓜唐花』と『三つ巴』とが重なった神紋を、吉田先生に示した。
「これは京都の祇園神社の神紋ですが、こんな感じの重ね紋でですか?それとも別々にですか?」私が訪ねると吉田先生は、
 
「『三つ巴紋』と『木瓜唐花紋』別々にだな・・」と応えた。
「そうでしたか、どんないきさつがあるのかは判りませんが、直江津祇園神社の例を見てもお判りだと思いますが、義定公と祇園神社との紐帯はかなり太かったですからね・・。
因みに田伏の奴奈川神社というのはどの辺に在るんですか・・」私が吉田先生に尋ねた。
 
「田伏というのは梶屋敷の西側国道8号線に絡む集落で、日本海側に向かう一帯ですよ・・」渡会先生が、代わりに教えてくれた。
 「あ、そうですか梶屋敷ですか、あの立壁神社の在る場所で、低い金山(かなやま)がある場所の麓というか、そこの西側の日本海側に向かう集落、という事ですか・・」私は昨日訪れた立壁神社を思い出しながらそう言った。三人は肯いて、同意した。
 
 
「吉田先生、ちょっと私の推論を述べさせていただいても構いませんか?」と私は断りを入れて、話始めた。
「僕の様に安田義定公や義資公、更には金山衆といった立場で、祇園神社や祇園祭・『木瓜唐花』や『三つ巴』といった神紋を考えると、どうしても義定公父子や金山衆とのつながりを考えてしまうんですよね、先ほどの舞楽の時と同じように、ですね・・」
 
「マァ、皆さんには贔屓の引き倒しと思われるかもしれませんが・・。
舞楽の内容は義定公父子への鎮魂の儀式ではないかと想ったり、天津神社の石舞台の石組みを見ると、槙の金山神社の神殿の土台と同様に金山衆が造ったんじゃないか、といった様にですね・・」私がそのように言うと、吉田先生は、
 
「確かに、そう言った面もあるんだが、立花さんの視点もそれなりに・・」と言って、私の想像や推測を受容しても良いような口ぶりを示した。
 
「そうですか、ありがとうございます。でもあれですよね『金山彦』や『金山神社』といった金山衆につながるような神社や祭神は、それらの神社には祀られてはいないんですよね・・」と私が言うと、吉田先生は
 
「『金山彦』や『金山神社』は確かに無いが、本地垂迹につながる『十一面観音像』は在ったはずじゃよ、能生の『白山神社』に・・」と言った。
 
 
「えっ⁉『十一面観音像』があるんですか・・」私は驚いてつい、大きな声を出した。
「そうなんですか、『十一面観音像』がネ・・」そう言ってから、
「実は山梨の安田義定公の本貫地に『神部神社』という神社が在るんですが、そこは金山衆の鍛冶屋の里の近くの神社なんですが、その神社には将に『十一面観音像』が祀られてまして・・」私はそう言って両者の関係を解説した。
 
「『十一面観音像』は全国の金山神社の総社とでも云うべき、美濃の『南宮大社』でも祀られていましたよね、金山彦の仏教上の化身として・・」神社に詳しい小林さんがそう言って話に加わって来た。私はその話を山梨の郷土史研究家の西島さんから聞いていた事を想い出して、
 
「そうらしいですね岐阜の『南宮大社』を初め全国の主な金山神社では、金山彦の化身として『十一面観音像』が祀られているんだそうで・・」と相槌を打った。
 「という事はやはり奴奈川神社と金山衆とは深い繋がりがあった、という事なんですね。
 
あながち僕の思い込みや妄想による創造の産物、と言ったわけではなかったと・・。いや、嬉しいです。ありがとうございました」私がニコニコしながらそう言うと、吉田先生もにこやかに肯いて、
「いや、儂のほうもそうやって金山衆と奴奈川神社の関係が判って、スッキリしたよ」と言って、喜んでくれた。
 
 
「そうだ、立花さん。すっかり忘れてましたが直江津の八坂祇園神社と猿田彦命について、ちょっとお知らせする事があるんですよ・・」小林さんがそう言って私を見た。
「はい、何でしょう・・」私が応えると、
 
「立花さん、先日猿田彦の件と長岡の金峰神社の事に興味があると言われてましたよね?」小林さんが聞いてきた。私は肯いて、
「はいおっしゃる通りです。何せ越後之國では数少ない、流鏑馬の神事を執り行っている神社ですからね、金峰神社は・・」と応えた。
 
「実はですね立花さん、猿田彦命を祀っている神社が上越にも在ったんですよ・・。
一つは例の野尻の『正八幡神社』、それに北黒岩の『巌神社』なんですがね・・」小林さんはそう言って、バッグの中から資料を取り出して、私に見せてくれた。
 
そのコピーは猿田彦の命が野尻の「正八幡宮」と、北黒岩の「巌神社」に境内社として祀られている事を示す内容が記載されていた、上越の神社関係の資料だった。
 
 
「えっ‼野尻の『正八幡神社』にですか・・」と私は殆ど叫ぶように興奮して、言った。
「そうなんですよ、野尻の正八幡神社ですよ。そこの境内社として、猿田彦がですね・・」小林先生がニヤリとしながらそう言うと、渡会先生が
 
「確か、武藤さんの住まわれている近所で、『元屋敷』の近くでしたよね野尻は・・。更にその『元屋敷』は確か・・」と言いかけると、興奮していた私は渡会先生の言葉を遮って、
 
「ええ、私は『元屋敷』が越後の守護安田義資公の館跡だったのではないかと、そう想ってます・・」と言って肯いて、話を続けた。
 
「やはり野尻地区は義資公の上越の拠点だったんですかね・・。県道30号線の柿崎・新井線の・・」私がそう言いかけると今度は渡会先生が、
「『鎌倉時代の上越の都市軸』でしたかね、確か・・」ニヤリとしてそう言った。私もニヤリとして大きく肯いた。
 
「ん?鎌倉時代の都市軸?」と、吉田先生が怪訝そうに聞いてきた。
それを聞いて渡会先生が先日直江津の居酒屋で私が話した事を説明してくれた。渡会先生の解説を聞いて吉田先生も、ニヤリとして笑顔になった。先生もひとまず納得してくれたようだ。
 
 
「そうですか、殆ど上越には無いと思っていた猿田彦の命が野尻で祀られていたんですか・・」私が改めてそう言うと、小林さんが
「そうです境内社としてですけどね。それと北黒岩の『巌神社』は、その県道柿崎・新井線の北北東で米山の南側の麓にある地区なんですよ。ちょっと離れていますけどね・・。
 
因みにこの神社は、明治43年に秋葉神社が石動神社と合併して出来たんですが、猿田彦と共に誉田別命も祀られているんですよ」と言った。
 
「という事はその秋葉神社には猿田彦と共に誉田別命、すなわち八幡様も祀られていたって事ですね・・。それも鎌倉時代の上越の都市軸に沿う形で・・」と言って理解した、
 
「そうです、都市軸に沿うとは言っても7・8kmほど離れてはいますがね・・。
ところでですね立花さん。その秋葉神社の猿田彦を長岡の金峰神社の秋葉三尺坊と関連付けて考えてみたんですよ、僕は・・」と小林さんが言って私を見た。私が目でその先を促すと、
 
 
「金峰神社は元々が蔵王権現で、修験者の道場でしたよね、この前も言ったように・・。そして蔵王権現を大きくしたのが秋葉三尺坊で、のちに浜松の秋葉神社を創設するくらい大きな力を持った修験者だったと言われている・・。
 
因みに修行を積んで背中に羽根を生やした、とまで云われている秋葉三尺坊は、天狗の始まりとも云われてますよね。であれば、秋葉三尺坊が猿田彦命と重なってはきませんか?どうです・・」と小林さんは私に迫って来た。
 
「まぁ、確かにそのように考えることは出来るかも、しれませんね・・」私も同意した。
であればですよ、立花さんは直江津の八坂祇園神社の境内に祀られている秋葉神社の事が気に成りませんか?」と更に畳みかけるように、小林さんが熱っぽく語った。
 
 
「あぁ、そういえば確かにそうですね、現に『巌神社』の場合がそうですもんね・・。そう言えば直江津の祇園神社にも秋葉神社、在りましたね。確か商店街の参道から入って右手に・・」私はそう応えた。
 
「でもあれは、直江津でたびたび起きた大火に対する鎮火を願って勧進された、火除け火伏の神社ではなかったんですか?」と私は直江津の八坂神社境内社である、秋葉神社の事を思い出しながら、そう言った。
 
「確かにそういった面もあると思いますが、秋葉三尺坊と猿田彦のことを考え合わせればですね、秋葉神社を境内に祀った直江津祇園神社と猿田彦の関係が繋がって来ませんか?『巌神社』の様に・・」小林さんはそう言って、私の眼をマジマジと観た。
「まぁ、確かに・・」私は小林さんが投げかけた課題について少し考えてみた。
 
 
「あぁそう成ってくると、例の祇園祭の『本町や横町』の猿田彦の飾り山にも繋がって来ますね・・」渡会先生が肯きながらそう言った。
「という事はなんですね、秋葉神社について調べて行けば猿田彦命にも、更には長岡の金峰山蔵王権現にも繋がって来るという事にも、成ってくるわけですね・・」私がそのように言うと、小林さんは大きく頷いて
 
「えぇ、そうなんですよ立花さん。それでね私なりに上越市や糸魚川市の秋葉神社について調べて来たんですよ。とりあえず神社名でわかる範囲だけですがね・・」小林さんはそう言って私に、A4判の自作と思われる資料のコピーを渡してくれた。
 
その資料には、上越市内で10社糸魚川市内で6社分の、秋葉神社と蔵王権現の名前が記載されていた。蔵王権現は長岡の金峰神社と同じことから合算したのだろうと思われた。そしてその中には能生の白山神社も含まれていた。私がそれを確認しようとすると、
 
「なんだかだいぶ活発な議論が始まりましたな、秋葉神社も絡んでくるんですか・・。せいえば能生の白山神社にも境内社として祀られてましたな、秋葉神社」吉田先生がボソッとそう呟いた。傍らの小林さんも肯きながら、
「その通りです・・」と言って同意した。
 
 
「儂も時折思うんだがね、こう我々の様に目の前の課題を一生懸命追っかけている人間とは、ちょっと違う視点で考える人が出てくると、それまで想いもしなかったようなモノやコトが見えて来たり、繋がってきたり、別々だと思っていたものが関連してきたりすることがあるって、ね・・」と吉田先生がシミジミと言った。それを聴いていた小林さんが、わが意を得たりといったように大きく何度も頷いて、
 
「ホントにそうですよね・・。立花さんが現れて猿田彦の事や、金山神社や駒形神社が甲斐源氏に繋がっているとか、柿崎と新井を結ぶ県道30号線が鎌倉時代の都市軸だったなんて、最初はなんて突飛なことをこの人は言うんだろうと、想っていたんですが・・」と吉田先生の考えに同意するように、そう言った。
 
「そうでしたか、突飛でしたか・・」私はニヤニヤしながらそう言って、
「さしずめ異物が混入して化学変化が起きた、って事ですかアハハ・・」と言って笑った。それを聴いた皆が肯いて、そして笑顔に成った。
 
 
「話は変わりますが立花さん、私からもちょっとあるんですけどね・・」渡会先生がそう言って、鞄から資料を取り出して皆に手渡して、
「ほかでもない、直江津の府中八幡の事ですがね・・」そう言って先生は私の顔を見た。
 
その資料は直江津府八幡神社に残る古文書で「大久保長安」に関することが書いてあった。
「ホウ、大久保長安ですか・・。彼が直江津の府中八幡神社と関係があるんですか・・」私はそう言ってその資料に目を通した。皆も同様にそのコピーに目を通した。若干の沈黙時間が流れた。
 
その資料には江戸時代初めの慶長16年(1611年)に大久保長安が、直江津府八幡神社に所領として百石を寄進した、と書かれていた。
そしてそのタイトルは大久保長安社領寄進状と松平忠輝年寄連署社領寄進添付の写」と成っていた。
 
 
「大久保長安と安田義資とは、何か関係してくるんでしたかな?」と吉田先生が私達に説明を求めてきた。
「あはい、大久保長安は甲州金山衆の黒川衆に関わりのある人物でしてね。
武田信玄公によって見いだされ、家臣として登用された人物らしいんですが、黒川衆と共に甲斐之國を始めとした信玄公の領国で金山開発を担当して来た人物らしいんです・・」私がそう言うと、吉田先生が驚いたように言った。
 
「ホウ、そういう事でしたか・・。幕府の金山奉行だった大久保長安もまた、甲州金山衆に関わって来るんでしたか・・。
いや実はですな、能生の『白山神社』にも大久保長安は領地を確か寄進していたと記憶してますよ、五〇石ほど・・」吉田先生がそう呟くように言った。
 
「大久保長安は確か、徳川幕府初代の佐渡金山の奉行でしたよね・・」私が言った。
「確かにその通りだが、大久保長安は単にそれだけに留まってないんだよ・・」吉田先生がそう言った。
 
 
「と、言いますと・・」と、私が更に尋ねると吉田先生は、
「彼は金山奉行でもあったが、家康の命令で検地奉行として全国の石高を調査しておってね、その検地の際に能生の『白山神社』への寄進があったんだな、確か。
それに最後は徳川幕府の大老職にまで上り詰めとるんだよ彼は・・」と吉田先生は言った。
 
 「という事は老中より上座に就いていたんですか大久保長安は・・。
今で云えば総理大臣職にまで、上り詰めていたってことですか・・」私は大久保長安がそこまで出世していたことを知らなかったので、正直なところ驚いてしまった。
 
かつての甲州金山衆の幹部で武田信玄や勝頼に仕えていた大久保長安が、徳川家康の大いなる信頼を得ていたとはいえ、さすがにそこまで上り詰めていたとは、私も知らなかったのであった。
 
 
「吉田先生が言われるように彼は佐渡金山の奉行であったばかりではなく、ここに出てくる家康の六男で、越後高田藩の藩主であった松平忠輝の附家老でもあったらしいんですよ。どうやらその縁で直江津の八幡神社とも繋がりが出来ていたようです・・」渡会先生がそう言って府八幡神社と大久保長安の関係について解説してくれた。
 
「あぁ、なるほどね、そういう事でしたか・・」私は渡会先生の話を聴いて、何故大久保長安が府八幡神社に絡んでくるのかを、すんなりと理解することが出来た。
 
「でもそうやって甲州金山衆に縁りのある大久保長安が、四百年も経ってから『直江津府八幡神社』や『能生白山神社』にそれぞれ寄進しているという事は、やはり何かあるんですかね・・」と渡会先生が呟いた。それを聞いて私は、
 
「いや、おっしゃるようにひょっとしたら、関係あるかもしれないんですよ。
実は信玄公は安田義定公の事をかなり高く評価していましてね、義定公の菩提寺の塩山『放光寺』や『窪八幡神社』に領地を寄進したり、伽藍や神殿を建て替えたりといった支援をしてたんですよ。
ですから大久保長安が信玄公に仕えていたとすれば、義定公や義資公についても聞かされていた可能性は結構高いですからね。それに金山衆からもまた・・」と信玄公と義定公の関係を解説した。
 
 
 
            『新潟県の文化財一覧』32ページ  2015年4月1日
                         新潟県教育庁文化行政課
             
     「銅造 十一面観音立像:平安後期、糸魚川市能生宮ノ上 白山神社」
 
                  十一面観音立像のイメージ(木製)
 
 
 
       【 大久保長安の上越における寄進例 】
                  ー 『上越市史別冊3』(八幡宮関係文書)613ページ ー
 
      『上越市府中八幡神社』
 
       「越後国頸城郡府中八幡宮領高百石御寄進候、
      破壊之所加修理、神事不可有怠慢者也、仍如件
                 慶長十六年辛亥歳 九月十九日 石見守(花押)
                 八幡宮社家中   高百石府中八幡     」
                                  
                           
 
 
      『能生白山神社』
       
     「上杉氏の会津移封の後は、越後の守堀久太郎秀治が領地を没収し、祭祀料
      として七石のみを給与した。慶長十六年(1611年)検地奉行大久保石見守
       (長安)より五十石の寄進あり社運が復した
 
                 ー 『西頸城の神社』(平成18年6月1日)76ページ ー
 
         
 
 

「重ね紋」の由来

 
 
「大久保長安で思い出しましたが、越後高田や糸魚川には『高田小判』や『糸魚川銀』といった独自の金や銀の通貨があったそうですね・・」私は先日上越市埋蔵文化センターの畑中さんに教えて貰った話を想い出して言った。
 
「それらはやはり義資公によってもたらされた上越地区の金山開発、とりわけ糸魚川地区の金山開発や、能生川や海川の上流というか支流の水俣川って云いましたか、あの辺りの河川の沈金などの開発や、その延長線上で発見・発掘された金や銀が使われたんでしょうか・・」と私が言った。
 
「でもそんなに長きに亘って、糸魚川や上越で金や銀が開発され続けて来たんですかね・・。そうだとすると上杉謙信や江戸時代頃迄続いた、ってことに成る訳ですよね・・」と小林さんが私の考えに疑問を呈した。
 
「あぁ確かにおっしゃる通りですね、金や銀の鉱脈は長くても数十年程度しか持たないって云われてますからね、だいたい数十年単位で鉱脈も採り尽くされるようですしね・・」私は富士金山や甲州鶏冠山の事を想い出しながらそう言った。
 
 
「いやまぁ確かにそういう面はあるんだろうがね、この糸魚川や上越にはそれなりの金鉱山が見つかっていたようだよ・・。
因みに明治時代に発見され、大いに賑わったという糸魚川青海の『橋立金杭鉱山』では何ヶ所にもわたって鉱脈が在ったみたいだしね・・。
 
更に言うとその『橋立金杭鉱山』には、鎌倉時代から金山開発が行われていたという伝承さえ、あったというくらいでね。まぁこちらの立花さんが喜びそうな・・」吉田先生はそう言って私を見て、ニヤリとした。
 
「へぇ~⁉そうなんですか、鎌倉時代からですかそれはそれは・・」私はつい嬉しくなってニヤニヤしながら吉田先生に聞いた。
「因みにその橋立の金杭鉱山ってどの辺りに在ったんですか?」と。
 
「旧青海町『親知らず』の山ん中で、黒姫山の西麓の辺りでしたよね、先生」渡会先生はそう言って吉田先生に確認した。吉田先生は肯きながら、
「それにな、室町時代の伏見宮親王が書かれた『看聞日記』にも書いてあるんだが、室町時代前期においても、上越ではどうやら金や銀が沢山採れていたという事らしいんだな・・」と新たな情報を教えてくれた。
 
 
「えっ!『看聞日記』にそんな事が書いてあるんですか?」私はびっくりして、思わずそう口走った。
「いや実は祇園祭に義定公の家来金山衆の参加があった事を、私に教えてくれたというか、示唆してくれたのが伏見宮のその日記だったものですから・・」私はそう言って看聞日記と私との関わりについて説明した。
 
「その『看聞日記』には、確か当時の越後の守護をやっていた上杉朝方の館に招待された時の将軍足利義持が、将軍家のお成りへの返礼品として、越後布を初め沢山の金・銀を引き出物として贈られた、といったようなことが書いてあったらしいんだよ・・」吉田先生が記憶を辿るように、そう話してくれた。
 
 
「伏見宮の『看聞日記』に書かれるほど沢山の金や銀が贈られた、ってことですかね。そのォ噂に昇るほどの、というか・・」渡会先生がそう呟いた。
「まぁ、そういう事だろうな、親王の耳にまで入るくらいだからな・・」吉田先生は肯きながらそう言った。
 
「なるほどですねそういう事ですか・・。鎌倉時代の初期から始まって、室町時代や戦国時代・江戸時代迄金山衆の子孫たちは、越後で金山開発を営々と続けていたって事なんですね、そうでしたか・・。ということはそれだけ沢山の金鉱山が越後には在った、という事でもあるんですね・・」
私は自分が想像していた以上に、上越地区の金山開発が長期間に及んでいることに改めて感心した。
「糸魚川の三か所の『金山』を初め、その富山寄りの旧青海町の方にも金鉱山が在った、という事なんですね・・」私は糸魚川の金山開発の奥深さに、一層想いが至った。
 
 
 現在の糸魚川の市域である旧青海町「親知らず」近くの黒姫山の西麓に、「明治時代に幾つかの金鉱が在った」という事を知った私は、改めて同エリア周辺の神社について調べてみる必要性を感じて、
「小林さん、その『親知らず』というか黒姫山西麓の『橋立金杭鉱山』周辺には金山彦を祀った神社とかって在りますかね・・ご存知でしたら・・」と聞いてみた。
 
小林さんは首を横に振りながら、
「いやぁ、ちょっとそこまでは・・」と言って判ってないことを、素直に認めた。どうやら「橋立金杭鉱山」の事は、私同様彼もまた初めて知ったようで神社の事を、知らないのは無理もなかったのかもしれない。
 
それに私自身も昨日から今日にかけて、図書館で調べた糸魚川市内の神社関係の資料には、青海町地区でその様な神社の存在を見つける事は、出来てなかった。少なくとも「金山神社」や「金山彦」の名前を見つけることは出来てなかった。
改めて詳しく調べてみないと判らない事なのだろうと、納得した。
 
 
「了解です。すみませんね突然の振りで・・」私はそう言って小林さんに謝ってから、
「旧青海町ってことは『青海町史』なんかに書かれていますかね・・」と三人の顔を観まわして言った。すると吉田先生が、
 
「儂の記憶に間違いが無けりゃ、確か2種類ほど『青海町史』あったんじゃなかったかな・・」と言って、教えてくれた。
「あ、そうですか有りましたか、それも2種類もですか・・。ありがとうございます、早速帰りにでも図書館に寄って来ます」私は青海町史の存在が確認できた事を、吉田先生に感謝した。
 
 
「話は変わりますけど立花さん、先ほど見せてもらった京都祇園神社の神紋だが、確か重ね紋でしたね。京都ではわりかし重ね紋が多いんですかな、こっちでは殆ど見られない事なんだが・・」吉田先生が私に聞いてきた。
 
「『木瓜唐花』と『三つ巴紋』の事ですか?いや珍しいと思いますよ重ね紋に成っているのは・・。私の知る範囲では八坂の祇園神社だけではないかと・・」私はそう応えながら、眼で吉田先生に「それが何か?」と尋ねた。
 
「いや実はね、儂の実家は元々が浄土宗のお寺でね、浄土宗の総本山である知恩院の寺紋がやはり重ね紋なんだな・・。重ね紋自体には滅多にお目に掛れないものだから・・」吉田先生がボソッと、そう言った。
「知恩院ですか、祇園神社のすぐ北側でしたよね東山の麓というか・・。確か丸山公園を挟んだすぐ近くの・・」私がそう言うと、吉田先生は肯いた。
 
 
私は早速タブレット端末を操作して、知恩院の寺紋を検索して確認した。
知恩院の寺紋は確かに重ね紋であった。宗派の紋と思われる紋と徳川家の「三つ葉葵」の紋が重なっていた。私がそれを見せると、吉田先生は、
「おぉ、これこれ・・」と言って肯いた。
 
 
               
 
 
 
「先生これは宗派の宗紋のようですが・・」私がタブレットに映った寺紋を指して吉田先生に尋ねると、
「そうそうこれはだな、法然様の家に伝わる家紋で『月影杏葉(ぎょうは)』と言って、マァ杏子の葉っぱだわな、要するに・・」と教えてくれた。
 
「あまり見慣れない紋ですが『月影杏葉』って云うんですか・・『杏子の葉っぱ』で『ぎょうは』と・・」私は復唱するようにそう言って、
「因みに徳川家の三つ葉葵と重なっているのには何か訳というか、謂れがあるんでしょうか?」と吉田先生に更に尋ねた。
 
「うん、それはな知恩院が現在の様な大伽藍や山内を持つようになったのは、実は徳川家康の尽力に依るからなんだな・・」と吉田先生は言って、更に
「もともとの知恩院は、開宗開祖の法然上人が庵を結んだ場所なんだが、現在のような規模には到底及ばない、小ぢんまりしたものであったそうだよ。
 
その場所に天下人と成った家康が、実母の菩提寺を山内に設けたことがきっかけで、知恩院に大きな伽藍や念仏堂・山門といったものを次々に建立し、現在の威容を誇る山に仕立て上げた、といった歴史があってな・・」と、事細かに説明してくれた。
 
  
「なるほど、そういう事でしたか。要するに徳川家康の寺に対する尽力に感謝して、というかその恩を忘れないように寺紋に残こしているわけですね・・」私はそう言いながら、頭の中では祇園神社の事を想い出してた。
 
「まぁ、そういう事だな。それで浄土宗の宗紋である『月影杏葉』に『三つ葉葵』を重ねる華頂山知恩院の寺紋にしているわけだな・・」と吉田先生が言った。
「実はですね先生、先ほどの京都八坂の祇園神社の重ね紋も全く同じ事が言えるんですよ・・」私はニヤリとしてそう言って、吉田先生を初め渡会先生や小林さんの顔をゆっくりと見廻して、話を続けた。
 
「祇園神社の場合は安田義定公が、実は知恩院における家康の役割をしてましてね・・。尤も義定公の場合は自発的にというのではなく、後白河法皇との政治的な取引の産物だったんですけどね・・」私はそう言ってまたニヤリとした。
 
「あぁ、なるほどですねそういう事でしたか・・。私も何故京都八坂の祇園神社だけ重ね紋に成っていたのか、やっと得心しましたよ。はぁそういう事でしたか・・」小林さんがそう言って大きく頷いた。傍らで渡会先生がにこやかに肯いていた。
 
 
「これまでも何度か言って来ましたが、義定公が祇園神社の本殿や拝殿、西や南の楼門なんかを現在の建物に建て替えた事に、神社関係者がその尽力に感謝してその恩を忘れないようにという事で、神紋に組み入れて来たんでしょうね・・」私がそう言うと、
 
「なるほどな・・。知恩院と同じようないきさつがあったんだな、祇園神社にも・・。
尤も安田義定は鎌倉時代の武将で、徳川家康のはそれから四百年近く遅れての事だから、知恩院の方が祇園神社の例に倣った、ということに成るのかな・・」吉田先生はそう言って、自ら納得するように小刻みに肯いた。
 
「まぁ、そういう事に成るのでしょうね・・」私は我が意を得たりと嬉しく成って、ニヤニヤしながら何度も大きく肯いてそう言った。
 
 
 
 
 
                                                     
 
 
      
 
       糸魚川地図:「8.橋立金山」 「16.美山公園」表示の「梶屋敷」近くに「金山」
             「20.焼山」の左下に「金山」「裏金山」
 
 
 
 
 
            『看聞日記 2』
                     応永29年(1422年)6月26日の条
                                  宮内庁書陵部刊
 
   今日上杉朝方屋形へ室町殿(足利義持)入御す。御引き出物三千貫 
   ・金の鯉・金の俎・金の俎箸・銀の御盃等を進ず。・・・・・・・・
   翌日また越後布一両・干し飯一両を室町殿に進ず・・。
   お供の大名どもには鎧一両・馬一疋をそれぞれに進ぜられた。
 
                            註:著者が原文を読み下した。
 
   安田義資公が越後守護を務めていた頃より230年後においても、上杉氏が守護の
    越後では金や銀が沢山取れていたことを『看聞日記』はこの様に述べている。
 
 
 
                           
   
              = 橋立金山 
 
・・・まず、明治以前の展望をしておこう。鎌倉時代に試掘をしていたことがありとし、戦国時代には、上杉氏が盛んに採掘し、会津転封で廃山(村誌)とある。・・・
                『 青海―その生活と発展―』 867ページ
                       1966年5月刊行、青海町役場
 
 
 
 
 

プロデューサー「鶏爺い」

 
 
「ところで先生、天津神社の祭礼の始まりの行事として日本海で神輿の禊ぎをする時に、確か『鶏爺い』という祭の先導者が登場しますよね。緑の装束に赤いお面に鶏(にわとり)の烏帽子をかぶった・・」渡会先生が吉田先生に向かってそう言って確認した。吉田先生は肯きながら、
 
「鶏爺いか、その通りだがそれが・・」と、渡会先生に問い返した。
「いや、その鶏爺いは先ほど来立花さんが言ってられる、金山衆にも関係して来るのかな、とちょっと思いましてね・・」渡会先生はそう言って、私のほうをチラリと観た。
 
「おぉそうか、そう云う事か・・。ちょおッと待ってくれ・・」吉田先生はそう言うと、書棚に向かい一冊の分厚いアルバムを持ってきた。中の写真帳を繰り終えると、私たちの目の前にそのアルバムを見開いて置いた。
 
そこには御幣を付けた榊を手に持って、緑色の装束を身に着け赤いお面をかぶり腰に刀剣を差した、祭の先導者と想われる堂々とした武者姿の、役の者が映っていた。
 
彼は後ろに多くの氏子や宮司を従え、戦の軍配を振るうように御幣付きの榊を前方に示し、御神輿を担ぐと思われる赤や白のふんどし姿の氏子達に、日本海と想われる海に入るように指示していた。
 
 
将に彼がこの祭りの進行の采配を指揮しているように、映っていた。
今でいえば祭のプロデューサーといった感じで、祭りの進行を仕切っているように観えた。
そしてその彼の頭上には鶏(にわとり)頭の烏帽子、が載っていた。
 
舞楽で稚児たちが「鶏冠の舞」を舞う時にかぶっている鶏の頭と同類のものであった。
私はこれを見て、うなった。
 
「う~ん、なるほどね・・。この鶏爺いと呼ばれる人は明らかにこの祭りの主導者のようですが、この鶏爺はどうやら金山衆に縁りある人の様ですね・・」と私は呟いた。
「鶏冠をかぶっているから、かね・・」吉田先生が黒縁のメガネの奥の目を、ジロリとさせて言った。どうやらそれだけでは納得できかねる、と思っているようであった。
一瞬その場に、緊張感が走った。
 
 
私は少し考えて、頭を整理することした。
その上で数秒のインターバルを置いてから、言った。
「そうですねそれが一番大きいですね。甲州金山衆の象徴であり職能の神様である、鶏の冠を被っているという点がまず、第一にありますよね・・。
 
次に、これまでも云ってきましたが十二段ある天津神社の舞楽の、その内容の殆どが『安田義定公父子への鎮魂の神事』である、と想われる点も大きいですね。
 
更には石舞台を初め、祭りの主要な大道具・小道具には殆ど三つ巴紋が付いている。
これらの多くは豊かな財力を持っていた金山衆が、この糸魚川の舞楽のスポンサーに成っていた事を、象徴しているのではないかとそう思います。
 
そして最後には、天津神社や奴奈川神社・能生白山神社といった神社のご神体や、それに準ずる十一面観音像などは、いずれも平安時代末期から鎌倉時代初期の制作と云う事で、安田義資公が守護であった時代に符合している、といった点も重視して良いのではないかと思われます。これはまぁ推測がかなり入ってますけど、ですね・・」
 
 
吉田先生は腕を組んだまま、ぼそりと言った。
「実は儂も長い間、何故鶏爺いが天津神社の春の祭り一切を取り仕切っている立ち位置に居るのか、ずっと考えて来たが答えを得ることが出来なかったんだよ・・」そう言ってから、私の顔を見て
「正解だとは現時点では言えないが、参考にさせてもらうよ立花さん・・。これからじっくり、考えさせてもらう事にするよ・・」と、言って笑顔になった。
 
「ところで立花さん、あなたは4月10日のお祭りを見てはいるのかい?」と吉田先生は続けて言った。私が、
「残念ながら実物は見てません。Youtubeの動画を見て何となく空気は判ってるんですが、やっぱり実物を観ないとダメなんでしょうね・・。
 
祭に来て舞楽を目(ま)の当たりにして、視覚だけではなく聴覚や触覚・嗅覚といった五感全体をフル活用して、実際に体験しないとダメなんでしょうね・・ 」私がそう言うと、吉田先生は大きく肯いて、
 
「来年の春のお祭りにはぜひとも糸魚川に来られて、祭りを五感で体感したら好い。それが一番ですからな・・。
まぁそれまでには儂も天津神社の舞楽や祭礼の背景や成り立ち、鶏爺いについて、自分なりの答えを見つけておきたいと、そう思っとるよ・・」と言った。の時の先生の目は優しく穏やかであった。
 
 
「因みに立花さんは五感のうちの味覚については言ってませんが、それはどうしてなんですか?」と渡会先生がニヤニヤしながら聞いてきた。
 
「五感の内の味覚ですか、そうですね確かに・・。
まぁその味覚についてはお祭り前後にこちらに来て、お酒を呑んだり日本海の幸を沢山味わって、喉と舌をフル回転させて、味覚をしっかり体感させたいなと・・」私がニヤリとしながらそう言うと、渡会先生初めみんなが手を叩いて喜んだ。
 
「ほっほそれが好いね、その時は事前に声を掛けてくだされ、私も付き合いますから・・」と吉田先生はにこやかにそう言って、私に手を差し伸べた。私も微笑んで、
「ありがとうございます、その時はぜひとも・・」と言って吉田先生と握手を交わした。渡会先生と小林さんも、にこやかに何度も肯いていた。
  
 
その後しばらく現在吉田先生が力を注いでいる、「奴奈川姫」と「出雲大社」「諏訪大社」の三県の三社にまたがる「神話で結ぶご縁の会」についての話をお聞きした。
 
出雲から古志(越後)の国まで奴奈川姫に求愛に来た大国主命、更に二人の間に生まれた御子で、諏訪に鎮座した健御名方命とを結ぶネットワークの活動の事である。
吉田先生はその活動を主導的に推進しつつ、楽しんでおられるようであった。
 
八十を過ぎた今も、愛してやまない天津神社や奴奈川姫に関する活動に能動的に関わり、更にそれに繋がる出雲島根や諏訪長野にと、活動領域を広げられ行動している吉田先生の事が、私はうらやましく思えた。
 
 
果たして15年後20年後、吉田先生と同じような年齢を迎える頃の自分は、一体どんなことをやっているのだろうか?先生のように元気で活動していられるのだろうか・・。などといったことを考えながら、目の前の吉田先生を観ていた。
 
可能ならば八十前後の私も、吉田先生同様心身ともに健康で、新しい課題に積極的にチャレンジし、関わり続けていたいものだ、などと想いながら・・。
 
話に区切りがついたこともあって私達は、吉田先生のご自宅を出ることにした。
夕暮れの先生の家の玄関先で、私達は丁寧に別れを告げて、天津神社の鳥居近くの駐車場に向かった。
 
 
 
同じ駐車場に車を停めていた渡会先生達に別れを告げて、私はそこから数分の市立図書館に向かった。先ほど吉田先生に教えてもらった青海の「橋立金杭遺跡」やその周辺の神社について調べるためであった。
 
図書館二階の郷土史資料コーナーに行き、カウンターに座っていた図書館司書の女性に相談すると、所定の用紙に相談内容を記入するように言われた。
随分丁寧なプロセスを踏むものだ、と思ったが閉館時間を考えてそのまま記入し手渡した。
 
すると間もなく図書館事務所から若手の司書が現れ、素早く書架の間を動いて幾つかの図書を選んでくれた。
 
私は「橋立金杭遺跡」に関する記事の載っている『旧青海町史』や『糸魚川市郷土研究会の会報』を、まず提示された。
そしてそれらの本の中から、具体的に「橋立金杭遺跡」に関して記述のある個所を、司書に教えてもらった。
実に丁寧な対応をしていただいて、私は恐縮してしまった。
 
 
更にその中の記事に書かれていた「鎌倉時代に試掘されていた・・」といった箇所について、これを裏付ける資料や出典があるのかどうか尋ねると、やはりまたその若い司書とカウンターにいた司書は機敏に動き回り、先ほど戴いた書籍や資料に目を通していた私の基に、追加資料として提示してくれた。
 
当初は手続きにこだわるお役所的な対応だと、若干ネガティブなイメージを抱いていたのだが、逆にそこからの対応が実にスムーズで、スピード感がありかつ丁寧であった。おかげで私はとても助かった。
時間の節約にもなったし、そのきめ細やかな対応が何より嬉しかった。
 
閉館時間の3・40分前と云う事もあって、私はザッと資料を斜め読みして早速「ここは」と想われる個所を中心にコピーを始めた。
中身のチェックはホテルに戻ってからゆっくりやればいいやと思い、先ずはコピーを優先して取り掛かった。
 
図書館では「橋立金杭遺跡」と「その周辺の神社一覧」に関する資料のコピーを無事、閉館前に終えることが出来た。
短時間で何冊かの書籍や資料をスピーディに探し出してくれた二人の司書に、深く礼を言って私は図書館を出た。
 
 
すでに暗くなっていた公共施設の建ち並ぶ中を、私は数分先に在る天津神社裏手の駐車場にと向かった。
秋の日は釣瓶落とし、とはよく云ったもので秋分の日からまだ一月も経っていなかったが、午後の7時前にはすっかり暗くなっていた。
 
にぎやかな秋の虫たちの合奏の中を、自然環境の豊かな天津神社の駐車場から、私は糸魚川市内のホテルにと向かった。
 
ホテルに戻ってからは、近くの飲食店で日本海の地魚を中心に食べ、地元の蔵元産の日本酒を何種類か飲み比べた。
 
その夜は日本酒の酔いにさいなまれながら、図書館でコピーしてきた資料に目を通した。
ポイントとなりそうな箇所には付箋を貼り、明日以降改めて読むことにした。さすがに酔いが回っていては熟読はできないからだ。
11時前には床に就いた。
 
明日はいよいよ上越地区探訪、最後の日であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
        
                     祭りを先導し主導する「鶏爺い」
 
 
 
 
 

浦川原の巨大厩遺跡

 
翌朝ホテルを出た私は、まっすぐ根知・山寺に向かった。
糸魚川市を大きく分ける大河、姫川に沿う形で長野県側の北アルプスにと向かったのだ。
姫川は日本を大きく東日本と西日本とに分ける「フォッサマグナ」を象徴する川で「糸魚川静岡構造線」はこの川を起点にして、信州長野・甲州山梨・駿河静岡に至る全長250~60kmに及ぶ。
 
奇しくもフォッサマグナは、安田義定公の嫡男義資公が8年ほど守護を務めた「越後之國」から、義定公の領地であったと思われる富士山西麓の富士川及び義定公が13・4年間領地とした「遠江之國」とを縦に結んでいる。
 
そしてこのラインは、修験道の世界では秋葉街道と呼ばれ「浜松秋葉神社」と「栃尾蔵王権現」とを縦に繋げ、間には信州戸隠山がある。秋葉三尺坊と呼ばれた偉大な修験者が活躍したエリアでもある。
 
その姫川を2・30分溯り、姫川の支流である根知川沿いを根知・山寺にと向かった。
右手にスキー場をやり過ごして更に北上すると、根知川を西に渡る橋が見えてきた。
どうやら目指す根知・山寺エリアであるらしい。
根知川を挟む両側は山が迫ってきており、ここもまた北アルプスから流れ来る河川によって浸食されたエリアの集落であった。
 
 
根知川に架かる橋を渡ると正面にちょっとした寺院が見えた。昨日吉田先生達が言っていた「金蔵院」のようだ。真言宗の寺らしいが寺紋は三つ巴であった。境内のいたるところで三つ巴紋がみられた。あたかも三つ巴を誇示しているかのような印象を私は覚えた。
 
そのまま坂道を登り、日吉神社に着くと石の階段を昇り神社に参った。この神社では天津神社同様に舞楽が行われると云う事であり、「根知・山寺の延年祭」と云われているようだ。
天津神社同様、国の無形文化財に指定されている、と云う事である。やはり建物には幾つかの三つ巴紋を認めることが出来た。
 
そして境内には糸魚川の天津神社同様、石組みの舞台の石舞台が在った。どうやらここで舞楽が行われるようだ。私は三つ巴紋と共にこの石舞台の存在によって、この神社での舞楽にも金山衆が関わって来たのではないかと、そう推測した。
 
 
北アルプスの麓と云って好い根知・山寺には、先ほどの「金蔵院」を初め全部で十二の、修験者のためのお寺がかつては在ったようで、どうやらこの山に囲まれたエリアは糸魚川というか上越の、修験者のための道場のメッカだったのではないかと、想うことが出来た。
 
尤もそれらの十二坊も江戸時代には衰退し始めて、明治維新の廃仏毀釈の頃には二・三の坊しか残っていなかった、という事である。
吉田先生が言ってたように宗教にも流行り廃りが、やはりあるようだ・・。
 
いずれにせよ、糸魚川には金山衆との関りを推測される神社が、天津神社のほかにこの日吉神社が在るのであった。そして両者に共通するのは石舞台で行われる舞楽であり、三つ巴紋であり金山衆であった。
 
因みに「根知山寺の延年祭」においても、武士の装束に刀剣を帯び大きな鶏の烏帽子を被った、祭りを主導する役の者が金蔵院から日吉神社までの「道行き(練り歩き)」を先導するということだ。
天津神社における「鶏爺い」の役割を担っている。
 
 
 
            
        根知・山寺の延年祭の道行きを先導する武者は頭に大きな鶏の烏帽子を被っている
 
 
根知・山寺を実見した私は、続けて三つ目の糸魚川舞楽の開催場所である「能生の白山神社」に向かうことにした。位置的には糸魚川市の左下の標高の高い場所から、右端の海抜の低い日本海沿岸に向かうことになった。距離にして4・50km、移動には1時間弱は掛かった。
 
能生の白山神社は、日本海側に沿う形で上越市に向かう途中に在った。
国道8号線の左手に弁天岩を確認出来る辺りを右折すると、すぐ右手に神社は在った。石の鳥居が神社の入り口であることを示していた。
 
やや小高い場所の神社の駐車場に車を停めて、先ほどの石の鳥居をくぐり数十段の石段を登ると、早速風格のある立派な狛犬が出迎えてくれた。
長い年月の風雪に晒されてきたのであろう、その角を生やした立派で愛嬌のある狛犬は、存在感の漂う一級品と云って好いものであった。
そしてその傍らには三つ巴紋を施された石灯篭が、オブジェのように在った。石灯篭の三つ巴紋に私は初めて遭遇した、珍しいものである。
 
 
石段を登った左手には茅葺屋根の拝殿が在った。天津神社と同じであった。
正面には宝物殿が在り、右手には神泉が在った。祭りの際はこの神泉に「水舞台」が特設され、舞楽が披露されると云う事である。
そして左手拝殿の後ろには、白山神社の神様である「奴奈川姫命」と「大国主命」の二神が鎮座していた。
 
白山神社は元来産土神の「奴奈川姫」を祀っていた神社であったが、奈良時代末期の8世紀に加賀白山神社の影響を受け「白山神社」と改称した、といった経緯を辿って現在の神社名に成ったらしい。
そんなこともあって、白山神社の主神「菊理姫命」がこの神社には祀られていないのだという。
 
因みに拝殿などには、やはり三つ巴紋を確認することができた。
 
また神社の境内には、スサノウ命を祀る「八坂神社」や「秋葉神社」が境内社として鎮座していた。いずれも義定公や修験者との関りを、私は想定した。
 
神社での参拝を済ませて来た道を戻ろうとした時に、愛嬌のある狛犬越しに日本海が見え、弁天岩が確認できた。
国道8号線のバイパスなどが出来る以前であれば、この白山神社はかなり海に接近した場所であったに違いないと思われた。
 
 
 
              
 
 
 
能生町を後にして、私は真っ直ぐ上越市の浦川原地区を目指した。
 
平成3年に発見されたという巨大な厩の遺跡を確認するためであった。
能生白山神社からは40㎞近く、日本海に沿って北上することに成った。
直江津に入ってからは日本海から離れ、国道253号線を真っ直ぐ東の山側に向かった。能生からは一時間弱掛かった。
 
遺跡のあるといわれている場所は、浦川原地区飯室という事であったが、その近辺を回っても簡単にはその場所は判明しなかった。もう一度国道253に戻って地元の漢方薬局で、所在場所を尋ねた。薬剤師さんもご存じないようだったが、ご主人に連絡を取り教えてもらうことが出来た。
 
飯室西の交差点を左折し、奥に入って行き「大池」を目指した。程なくして教えられた鉄工工場の先で、遺跡が発見された場所に辿り着くことが出来た。
 
葦やススキの生い茂る茫々とした遊休地に大きな看板が在った。秋の野草をかき分けながらその大きな掲示板のある場所に辿り着いた。
「境原遺跡」と書かれていた掲示板は上越市の教育委員会が造ったもので、左側に厩遺跡の模式図と発掘時の写真があり、右半分に解説が記載されていた。
 
同掲示板によると、72房あったとされる厩からは常時100頭以上の馬がこの場所に集められていたのではないかと推測できる、といったことが書かれていた。
そしてこのような様式の厩は奈良時代の朝廷などにおける、全国の官営牧からの貢馬や献上馬を管理・飼育していた馬寮処の関与が窺われる、といったことを示唆していた。
 
しかしその「馬寮」であったとすると、奈良や京都の朝廷に近い場所ならいざ知らず、5・6百㎞以上離れた日本海側の越後之国に在るのは不自然であった。実際のところ同様の遺跡は、奈良や京都の畿内からしかまだ見つかっていないのであった。
 
 
そこで私は思い出した。山梨の郷土史研究家の藤木さんが言っていた安田義定公の五奉行の事をである。その五奉行と云われるメンバーの中に、右馬守や右馬允という役職に連なる人物がいたことを。宮道遠式の事である。
 
(さきの)右馬(うまの)(じょう)宮道遠式は、明日香・奈良時代より馬寮において朝廷に仕えてきた物部氏の一族の末裔であるという。その宮道遠式が関わっていなかっただろうか、と云う事を考えてみたのだ。
 
現在の国道253号線のこの辺りは県道30号線の、私が勝手に「鎌倉時代の上越の都市軸」と言っている当時の上越を南北に結ぶ幹線道路から、そう遠くない場所に位置していた。そしてこの上越の「鎌倉時代の都市軸」の周辺には「直海ノ牧」「保倉ノ牧」「菅原ノ牧」といった官営牧が在った場所の近くであった。
 
それぞれの牧で騎馬武者用の軍馬を積極的に畜産・育成していた越後の守護安田義資公が、ここに一旦集積していたと云う事はあり得るのではないか、という想像力が働いた。
それに宮道遠式は物部氏の末裔である。
 
 
実は先日来上越市や糸魚川市の神社仏閣を調べているうちに、「物部神社」があることを知った。「武士(もののふ)神社」が武士地区に在ることは上越埋蔵文化センターの畑中さんから聞いていたのだが、その神社の近くで馬屋(まぁ)近くに別途「物部神社」が祀られてあったのである。私はそのことが気に成っていた。
 
そして今同じ県道30号線につながる浦川原地区に、巨大な厩遺跡が見つかっていたのである。私は県道30号線の縦軸につながる「馬屋」「物部神社」「境原厩遺跡」に、義定公の五奉行「先右馬允、宮道遠式」を添えてみたら、全てが繋がった気がした。
 
宮道遠式は馬寮経営の専門家として、この上越浦川原地区に京や奈良の都近くに在った官営の厩を模した巨大な厩を造って、越後の多くの牧で畜産・育成された騎馬武者用軍馬をここに、集約していたのではないかと考えたのだった。
 
 
そのようなことを考えながら、掲示板の掛かる保倉川沿いの河川敷をぼんやり眺めていると、私のスマホが鳴った。渡会先生からであった。
「立花さん、昨日は糸魚川まで、ご苦労様でした」と渡会先生は切り出して早速要件について語りだした。話を要約すると以下のようなことだった。
 
先日直江津駅前の居酒屋でご一緒した野尻町の武藤さんからの連絡で、武藤さんの出身地上越市板倉区に在る八幡神社に関する情報であった。
旧板倉町の中心部であった板倉町針地区に「塚之宮八幡神社」という神社が在ることを思い出した、というのだ。
 
地元では略して「塚之宮神社」と呼んでいるのだが、武藤さんは八幡神社であることを思い出したという。更にその神社の宮司は武藤姓で、野尻町の武藤さんの遠い親戚筋の人物だという。
それを聞いた渡会先生が神社の場所を確認すると、将に県道30号線の沿線で私が名付けた上越の「鎌倉時代の都市軸」に在る、古い神社だと云う事であった。
 
で渡会先生は、もし興味があるようなら一度行ってみたらよいと教えてくれたのだった。
その神社の所在地を写メで撮って送るから、それを頼りに行ってみたらどうか、という情報だったのである。
 
 
私はこの浦川原地区の巨大な厩遺跡を確認した後は、ゆっくりと北陸新幹線の駅がある「上越妙高駅」に帰る予定でいた。レンタカーの返却時間まで時間に余裕があったので、新幹線駅に向かう途中「塚之宮八幡神社」を訪れることにした。
 
渡会先生には丁寧にお礼を言って、私は国道253号線から県道30号に出て旧板倉町を目指した。「鎌倉時代の都市軸」に沿って、日本海側近くから妙高山に向かって南下するのである。
 
 
途中「杉野袋」「野尻/高津」「武士/馬屋」といったおなじみの地区を右や左に見ながら、30分ほどで目指す「塚之宮八幡神社」に着いた。神社は旧板倉町の中心部から少し外れた、稲田に囲まれて鎮座していた。
同神社はその名前の通り、古い塚の上に神殿が祀られていた。
 
八幡宮であるから「三つ巴紋」は当然であったが、塚の上のお社は積み上げられた大きな丸い石によって底上げされており、お社自体を安定させていた。
その小高い丘のような丸い石組が金山衆によって組まれたものであったとしても、不思議ではなかった。しかしその石組には能生町の「槙の金山神社」程の精緻さは見られなかった。
 
 
私はここから10分もしないで上越妙高駅近くのレンタカー会社に到着し、車を返却した。同じ上越市内という事で乗り捨てに料金の加算はなかった。
 
 
 
           
              浦川原「境原遺跡」の巨大厩の模式図
 
 
 

エピローグ

 
 
上越妙高駅に着いた私は、新幹線を一本遅らせて座席を確保した。
駅構内の飲食店でゆっくりと最後の食事をとるために、一本見送ったのであった。
 
土産物などを扱う店と併存していた飲食店はあまり落ち着いているとはいえなかったが、新幹線駅構内の店であれば、それもまぁ仕方ないことだと思いつつ私は、喉の渇きを潤すためにビールを注文して、上越エリアの地酒と酒の肴を幾品か頼んだ。
ビールを飲んで落ち着いたところで、今回の上越のリサーチ&取材旅行を振り返った。
 
 
当初の目的であった、安田義資公の領地経営に関する足跡や痕跡はある程度確認する事が出来、その意味では実りあるものであった。
「騎馬武者用の軍馬の畜産・育成」という点では、奈良朝時代以来の官営牧が7・8か所もあった上越はその伝統の故に、牧き場経営のインフラがある程度整備されており、それを担ってきた人材やノウハウが蓄積され、継承されていたのだと想う。
 
その伝統の上に、騎馬武者軍団を組織してきた甲斐源氏の守護が赴任してきたことで、その事業は水を得た魚の様に、加速されたであろうと推測することが出来た。
そして何よりも、先ほど確認してきた浦川原地区の巨大な厩の存在である。
義資公の軍馬経営に関して言えば、この巨大な厩の存在は将に画龍点睛の施設であっただろう。
 
 
次に「金山衆による金山開発」である。軍馬の育成が主として現在の上越市エリアで行われてきたのに対し、金山開発は西隣りの糸魚川市を中心に行われていたことが判った。
そしてその拠点はどうやら能生川沿いの中流「槙金山神社」を中心に、隣接する「下倉の駒形神社」「藤後の八坂八幡神社」辺りであったらしいことも判明した。
 
当初、槙金山神社近くの「金堀場」において偶然見つかったと思われる、太古以来堆積された上質の沈金の採集から始まり、それを取り尽くしてからは能生川を順次溯り、ついには標高2000m級の北アルプスの妙高連山に行き着いたのではないかと、私は想っている。「金山(かなやま)」や「裏金山」がそれである。
その際の金山衆の活動拠点が在ったのが、この槙地区周辺ではなかったかと推測することが出来た。
 
そしてこの能生川と共に羽生地区の「海川」の支流「水俣川」の川久保地区でも、同様の事が行われてきたのだろうと、推測することもできた。下流は異なっても、源流を辿ると同じ「金山」や「裏金山」に行きつくからである。
 
 
金山衆の金山開発によって得られた富は、安田義資公が守護であり続けた期間、能生や糸魚川の産土神であり、数百年来の伝統を古代より継承してきた奴奈川姫を祀る神社への支援や、伝統的神事へのスポンサーという形をとったのではなかったか、と想われる。
 
その支援が祭りや舞楽に使う石舞台の設置や、平安末期制作と云われるご神体の寄贈、更には神輿や装束・大道具・小道具といったハードやソフト面での支援という形をとったのではなかったか、と思われるのだ。
 
それを示すのが多くの神社に残る三つ巴紋による、マーキングである。
「奴奈川神社」や「天津神社」「能生白山神社」さらには「根知・山寺の日吉神社・金蔵院」の祭事や神事などがそれである。
 
 
お祭りが好きで、新たに赴任した領地の領民の人心掌握に、祭りや神事が有効である事を熟知していた安田義定公や嫡男義資公は、積極的にこれらの神社の祭や神事に関り、支援してきただろうと想われるのだ。
もちろんその経済的な原資は、金山からもたらされた豊富な金や銀であったであろう。
 
「天津神社」の春の祭における「鶏爺い」や「根知山寺の日吉神社」の「鶏の烏帽子を被った武者姿の先導者」の存在は、これらの神事へ積極的に関わって来た金山衆の、象徴でありまた痕跡であると私は想っている。
 
いずれも「鶏(にわとり)を自らの職能神として「金山(かなやま)まつり」のご神体とし、尊崇してきた金山衆だからである。
 
 
そして「天津神社」や「能生白山神社」の舞楽は、頼朝によって誅殺された安田義定公父子への「鎮魂の神事」だったのではないか、と私は感じている。
もちろん全てが、というわけではないがその主要な部分が、である。
 
おそらく伝統的に行われてきた神楽や神事に編入する形で取り込んだのだろう、と想われる。そしてその編入を主導したのは金山衆であったと、私は推測している。
鶏爺い」としてその金山衆の長老であるリーダーが、この神事に登場し重要な役割を担って残っているからである。
 
 
次にそのようにして新たな「舞楽」が完成したのは、たぶん頼朝自身が死去し頼家・実朝といった頼朝一族が、北条氏の策略によって強殺された13世紀中ば以降の事ではないか、と私は想像している。
 
頼朝の鎌倉幕府に謀反を起こしたとの濡れ衣で、義定公一族が誅殺されたことを考えれば、公一族を偲ぶことに成る神事を上演するのにも、ある程度の時の経過は必要であったであろうと、思われるからである。
 
それにある程度の完成度を持った舞楽が確立されるためには、それなりの時間を有したであろう事は、想像に難くない。
 
 
そしてその間、即ち義定公父子が誅殺されて以降も、糸魚川周辺では金山の開発は枯渇することなく、継続して行われていたのではないかと想われる。
『看聞日記』に書かれているように越後では、応仁の乱以前までは多くの金や銀が産出されていたことが判明しているからである。義定公父子が没してから240・50年ほど後の事である。
 
更に言えば、糸魚川地区の金や銀の開発は「糸魚川銀」「謙信小判」「高田小判」という形をとって、戦国時代はもちろん江戸時代まで続いていたのだと、推測することも出来る
さらに明治になっても糸魚川西部では金山開発が盛んに行われてきたという。
そしてそれを担ってきたのは、やはり金山衆の末裔達だったのではないかと、私はそう想っている。
 
そのような裏付けがあったから、このエリアの三大舞楽は「鶏爺い」や「鶏の烏帽子を被った武士達」に先導されながら、途絶えることなく継承し続けたのだ、と思うことが出来るのだった。
 
 
富士山西麓の富士金山や遠州森町辺りの遠州金山では、金山開発が比較的早く枯渇したために金山衆の関わる神事が、八百年という期間までは継承され続かなかったのではないかと、私は推測している。
 
いずれにしても糸魚川地区において義定公父子の死後も、越後における金山開発は行われてきたのだということが判った。
 
そしてまたこの糸魚川地区の金山開発の成功があったから、越後の國府や國衙・国分寺が当初の上越市三郷地区の長者ヶ原から、より日本海に近くかつ糸魚川に近い場所に移設されたのではないかと私は考えている。すなわち現在の五智国分寺周辺にである。
 
糸魚川の領地経営における重要性が高まったから、その必要性に迫られての國府や國衙・国分寺の移動・移設が行われたと、私は考えている。
 
 
奈良朝時代に創建された越後國府や國衙は、当時数百年を経過して相当毀損しており、建て替えが必要だったのではないかと思われる。
頼朝がほぼこの時期に東海道などの他の自らの領国の国分寺や國衙を建て替えさせているように、である。
 
さらに糸魚川地区への移動が便利な日本海の近くに、新たに郷津(=神津)を設けたのもやはりこのタイミングであっただろうと私は考えている。
神津は國府や國衙の近くに開設される港=津だからである。
 
それに伴う莫大な費用の捻出を可能にしたのは、やはりまた金山開発であったと私は想う。
現存している五智国分寺エリアの「国分寺」や「居多神社」の神殿や大伽藍に残っている三つ巴紋が、それを示唆しているのである。
 
 
また今回の調査で判ったことは、何故安田義資公が頼朝の関東六国と云われる直轄地の初代守護に任命されたのか、その理由が判明した事である。
私には大きく二つの理由があったと、想うことが出来た。
 
一つは下越に勢力を有していた平家の豪族「城氏一族」の存在である。 
元々平清盛との関係の深かった城氏は、源平の戦いに際し支配下に置いていた越後之國はもちろん、近隣の出羽山形や会津の豪族たちを糾合して、千曲川の支流横田川において木曽義仲と源平の戦いを繰り広げ、敗れた武将であった。
 
いうなれば関東の北方の越後の下越エリアは当時においても尚、有力な反鎌倉政権の本拠地であった、と云う事である。
奥州藤原氏ほどではないにせよ、背後をつかれる危険性を孕んでいたのが、当時の越後之國であったのである。
その城氏の勢力が残る越後之國の守護は、普通の御家人や地頭ではとても務まらなかったであろう。
 
 
城氏が信州横田川での敗退後、奥の山間部に退いてから、関東の御家人達が新たな地頭として入部して来たが、関東方の地頭達全体を指揮統括する力量のある守護が必要だったのである。
ちょうど駿河之國の富士川で甲斐源氏が平維盛の軍と戦った構図が、この越後之國にも適用されたのであった。
 
下越を中心に大きな勢力を持っていた城氏に対抗させるのには、甲斐源氏の氏の長者である安田義定の力が必要である、と頼朝や北条時政は考えたのだと、私は推察した。
京や西国の勢力の最前線、遠江之國を安田義定公に任せたのと同様に、である。
 
 
二つ目の理由は遠江之國国守安田義定の領地経営の能力が、秀でていた事によるものと想われる。
13・4年の間、重任に重任を重ねまだ平氏の残存勢力の残っていた遠江之國を、治め続ける事が出来たその統治能力を、頼朝や時政は高く評価していたからであったと想う。
 
当時の多くの関東武者は殆どが一郷や一村を納めていた地頭や御家人たちである。いうならば現在の市町村長クラスである。
 
彼らの多くには一郷一村を統治する能力はあっても、一国を統治する能力が有ったとはとても思われないのだ。
一郷一村を経営する能力と一国を統治経営する能力とには、大きな違いがあるのは明らかであろう。
 
 
一国の統治能力を有するのは3・4百年後の戦国時代のように、領主の統治能力の高さや領国の統治システムを構築出来得る、能力を持った大名クラスでなくてはとうてい務まらないのである。上杉謙信や武田信玄の時代の様にである。
 
因みに安田義資公はほぼ8年間「越後の守護」を務めたが、それは父親の義定公が遠江之国守を5年間務めた後の、時期であった。
 
義定公の統治能力の実績はすでに遠江之國で、証明されていたのである。
結果的にはそれが後に災いするのであるが、この時点では鎌倉幕府の思惑はその点にあったのだと想う。
これらの理由によって、何故頼朝たち鎌倉幕府が安田義定公の嫡子義資公を、越後之国の初代守護に任じたのかを、私は理解することが出来たのである。
 
 
今回この上越に5・6日間滞在し、多くの人たちと出遭い図書館などで関連資料を読み、神社や仏閣を実際に見聞することで多くの事が確認できた。そのことは素直に喜んでいる。
と同時にまた新たな課題が明らかになってきたのも事実であった。
 
これまでは「騎馬武者用軍馬の畜産・育成」や「金山開発」「治水灌漑に伴う新田開発」といった義定公の領地経営の特徴と共に、「流鏑馬の神事」や「祇園祭」といった祭りや神事が重要であった。
 
それらの上に、糸魚川の舞楽に代表される「神楽」や「鎮魂の神事」といった新たな祭祀が重要な要素として、加わってきたのである。
義定公の領地領国である甲斐之国の本貫地や富士山西麓、遠江之國の神事の中に、これら舞楽や鎮魂に繋がる神事や祭祀が行われ、かつ継承されて来なかったかを確認する必要性を私は感じたのである。
 
 
それと共に私にとって修験者の役割が、従来以上に重い存在に成って来たことを感じた。
具体的には「猿田彦命」や「蔵王権現」「秋葉三尺坊」といった大修験者の存在が大いに気に成って来たのである。
しかも秋葉三尺坊は、本拠地の在った中越の長岡や栃尾と共に、遠江之國において「秋葉山神社」と深く関わって来た、というのである。
 
いうまでもなく安田義定公の領国と、義資公が守護であった国において「三尺坊」は活躍していたのだという事に成る。
しかも一説によると秋葉三尺坊の時代は義定公と同時代といってよい、平安時代から鎌倉時代にかけての事だという。
 
更にまた、長岡の秋葉三尺坊の本拠地とされる「金峰神社」は、越後之國では殆ど唯一と云って良い「流鏑馬の神事」が行われている神社である。
気に成らずにはいられない存在である。
 
今後の課題として、私は先の「舞楽や鎮魂の神事」と共にこの「秋葉三尺坊や秋葉山神社」についても調査・研究の対象としていく事に成るだろう、と感じている。
 
 
「越後之國」に関しては一定程度理解はできたように思っている。
ところが次にまた新たな山が見えてきたのである。その新しい山の事をこれからまた調べてみなくてはならない、と私は思い始めている。
 
それにしてもそのきっかけと成ったのは、「直江津八坂=祇園神社」や「府中八幡神社」の神馬舎の「猿に曳かれた白馬」であった。
更に、直江津の祇園祭りで唯一と云って良い「飾り山」であり、祭りのご神体を納めた御神輿を迎えに行く「猿田彦命」の存在であった。
 
これらの神や神獣はこれまでの甲斐之國や遠江之國、京都の神社や祭りには登場してこなかった神や神獣である。
 
 
私はこれらの新たな神や神獣によって、安田義定公父子の領地経営の実態の新たな側面を知る事に成った。
言い方によっては導きの神「猿田彦命」や言わザル見ザル聞かザルの「三猿」の導きによって、8百年前の義定公たちに一歩近づいてきたのかもしれない、などと想い、思わずニヤリとしてしまった。
 
午年生まれの私はその時、直江津祇園神社や府中八幡神社の例の「神馬舎の猿に手綱を曳かれた白馬」と自分とを重ねてしまったのである。地酒と地魚や山菜の肴に、酔ったせいだったかもしれない。
 
そんなことを想いながら私は、18時前の新幹線に乗って上越越後を後にした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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