春丘牛歩の世界
 
このGWの後半には、道東十勝エリアや更にその東に位置する、北海道の最東端「根室エリア」のエゾヤマザクラが開花したという事である。
 
 
       
        南十勝のエゾヤマザクラ
 
 
その根室の東端である「納沙布岬」からは、肉眼で「北方領土」の歯舞諸島が、そんなに遠くないところに確認できる。
「北方領土」は第二次大戦後のドサクサにまぎれ、領土拡大が国是のロシアに依る武力占拠エリアである。
日本にとって、ウクライナと同じ構図のエリアなのだ。
 
 
 
           
 
      
 
 
 
 
 
 
    記事等の更新情報 】
*4月19日 :「コラム2024」に、「青い春」と「チャレンジ虫」を追加しました。
*3月25日:「相撲というスポーツ」に「新星たちの登場、2024年春場所」を公開しました。
*2月8日:「サッカー日本代表森保JAPAN」に「再びの『さらば森保!』今度こそ『アディオス⁉』を追加しました。
*01月01日:本日『無位の真人、或いは北大路魯山人』に「無位の真人」僧良寛、或いは・・を公開しました。
これにて本物語は完結しました。
12月13日:  『生きている言葉』に過ぎたるはなお、及ばざるが如し」を追加しました。
 
 

  南十勝   聴囀楼 住人

          
               
                                                                  

新しいご利用方法の
     お知らせ
 
2024年5月16日から、当該サイトは従来の公開方法を改め、新しい会員制システムを導入し、再スタートいたします。
 
・従来通り閲覧可能なのは「新規公開コラム」「新規公開物語」のみとなります。
「新規」の定義は、公開から6ヶ月以内の作品です。
・6ヶ月以上前の作品は、すべて「アーカイブ作品」として、有料会員のみが閲覧可能となります。
 
皆さまにはこれまで(6年間)全公開してまいりましたが、5月16日以降は過去半年以内の「新規作品」のみの「限定公開」となりますので、宜しくお願いします。
 
「会員サイト」の利用システムは、近日中に改めて公表いたします。
          2024.05.01
              牛歩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
      

                       2018年5月半ば~24年4月末まで6年間の総括
 
   2018年5月15日のHP開設以来の累計は160,460人、355,186Pと成っています。
  ざっくり16万人、36万Pの閲覧者がこの約6年間の利用者&閲覧ページ数となりました。
                       ⇓
  この6年間の成果については、スタート時から比べ予想以上で満足しています。
  そしてこの成果を区切りとして、今後は新しいチャレンジを行う事としました。
     1.既存HPの公開範囲縮小
     2.特定会員への対応中心
  へのシフトチェンジです。
 
  これまでの「認知優先」や「読者数の拡大」路線から、より「質を求めて」「中身の濃さ」等を
  求めて行いきたいと想ってます。
  今後は特定の会員たちとの交流や情報交換を密にしていく予定でいます。
  新システムの公開は月内をめどに現在構築中です。
  新システムの構築が済みましたら、改めてお知らせしますのでご興味のある方は、宜しく
  お願いします。
             では、そう言うことで・・。皆さまごきげんよう‼    5月1日
                                
                                   
                                      春丘 牛歩
 
 
 

 
              5月16日以降スタートする本HPの新システム について     2024/05/06
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昨年は北大路魯山人の没後60年にあたっていた。美術館やデパートの展示会やイベントでそのことを知った主人公(柳沢)は、30代に強い関心を抱いていた魯山人への想いが、久しぶりに高まっていた。
定年退職し、子供たちも家を巣立ってから時間にゆとりが出来たこともあって、焼け棒杭に火が付いたようで、もう一度魯山人についての興味が沸き上がって来た。
そして以前から疑問に思っていた、魯山人が何故人間国宝の栄誉を二度も拒んできたのか、その理由を調べてみることにした。
その想いを抱きながら、水戸偕楽園の観梅にかつての仕事仲間で、以前から波長が合っていると感じていた、都内在住の立花さんを誘うことにした。
そしてついでに水戸に隣接する、笠間の「春風萬里荘」を訪れることにした。
同荘は魯山人が生前北鎌倉で暮らしていた住居=生活の場であったからである。
  
             ―  目  次 ―
              1.プロローグ
            2.久方ぶりの再会
            3.「人間魯山人」
            4.水戸の梅樹
            5.笠間「春風萬里荘」
            6.魯山人のメタモルフォーゼ
            7.料理で大切なこと
 
 
  

プロローグ

 
 
 一年で一番寒い季節である「大寒」を過ぎ、いよいよ立春が過ぎた頃、長らく出不精になっていた私は、TVの情報番組で知った梅の名所である水戸の「偕楽園」の開園が迫っていることを知って、その梅見に行ってみようかと思い始めた。
 
二月中旬の穏やかな日和の週末の、ある日の事、私は都内国立在住の友人である立花さんに、誘いの電話をいれることにした。
彼はそのような物見遊山を愉しむセンスを有している、私の知り合いの中では数少ない風流を解する人物であった。
会社を定年退職し、それから更に5年間続けていた嘱託も終え、仕事とは殆ど縁の切れた私には、ともに時間を過ごすパートナーの数は著しく少なくなっていたのであった。
 
 
「ご無沙汰してます、柳沢です・・」私がそういうと彼は、
「あぁ、柳沢さん・・。珍しいですね、昨年の避暑以来ですか・・。お元気でしたか?」と相変わらずの元気な声が返ってきた。
「おかげさまで風邪一つひかずにやってますよ・・。ご存じなように元気だけが取り柄でして・・」私がそう軽口をたたくと、
「それは好かったですね、何よりです・・。ところで今日はどうしました?」と立花さんは聞いてきた。
 
「いやね、今年は暖冬のせいか春の到来が早いようで、水戸あたりでは梅の花の開花もいつもよりは早めだとか・・」
「あぁ、なるほど、そういうことですか・・」立花さんはそう言って私の久しぶりの連絡の意図をくみ取った。相変わらず勘が働いているようだ。
 
 
「立花さんは話が早いから、楽ですワ・・。どうですか、久しぶりに遠出しませんか、水戸辺りまで」私がそう言うと、彼は
「そうですね観梅ですか、悪くはないですね・・」と、満更ではないような口ぶりであった。私はすかさず
「御多忙中とは存じますが・・」と言った。
「アハハ、よく言いますよ。ご存じなように時間は持て余してますよ・・」彼がそう言ったので私は、気になっていたことを聞いてみた。
「安田義定のほうは・・」と、彼が近年熱中している鎌倉時代の武将の事を聞いてみた。
 
「あぁ、安田義定ですか?
いや実は去年の暮で一区切りついたとこでしてね・・、一息入れてるところです・・」彼がそう言った時、私は年賀状の事を思い出して、
「そういえばそんな事が年賀状に書いてあったような・・」と言うと、
「ハイ、その通りです。年賀状にも書いてたと思いますが、やっと『秋葉山神社』の物語を書き終えましてね、今は何にもしないで毎日ボーっとしてるとこですよアハハ・・」と言って笑った
 
「なるほど充電中なんですね。そしたら・・どうですか『偕楽園の梅』、観に行きませんか?北関東の春を感じに・・」私がそう提案すると、彼は
「水戸の偕楽園ですか、久しくご無沙汰してますね・・」ポツリとそう言った。
 
「前に行かれたのはいつ頃でしたか?」私が尋ねると、立花さんは
「30前後の独身時代の事ですから、35・6年前といったところですかね・・」とスマホの向こうで、思い出したように、そう応えた。
 
「そうですか、実は僕も似たような感じでしてね。久しぶりに、と思いまして・・」私がそう言うと彼は、
「奥さんは?」と聞いてきた。
「あ、女房ですか、女房は娘の出産が近づいてるもんですから、相模原に行ってるんですよ。上の子の面倒見たり家事のお手伝いに・・」私はそう説明した。
 
 
ちょっと間が開いて、
「今月はちょっとバタバタしてるんで、来月に入ってでしたら問題ありませんよ・・」立花さんはそう言って、私の提案に同意してくれた。
 
「そうですか、では3月の初旬にでもしましょうか?・・それとついでと言っちゃぁなんですが、笠間にも足を延ばしませんか?1泊して・・」私は続けて提案をした。
「笠間、というと・・」立花さんが聞いてきた。
「ええ、魯山人の”春風萬里荘”に行ってみませんか、ついでに・・」私がさらに具体的な説明をすると、立花さんは、
 
「そういえば魯山人のファンでしたっけ、柳沢さん・・」と言って、私の提案の意図を読み解いた。
「ええ、よく覚えてましたね僕の趣味を・・。実は去年魯山人の没後60年ということで、都内で幾つかのイベントがありましてね、久しぶりに刺激を受けまして・・」私がそう言うと、彼は
「なるほど、そういうことでしたか・・。もう60年も経つんですか、魯山人が亡くなって」と感慨深げにそう言って、続けて
 
「そしたら笠間焼の窯元なども幾つか覗きながら、久しぶりに魯山人に逢いにでも行くとしますか・・」と言って、私の提案に賛意を示してくれた。
 
「いやぁそう言っていただけると嬉しいですよ・・。
そしたらちょっとしたツアーのスケジュール案を作って、後でメールを差し上げますよ。それをご覧いただいた上でキャッチボールして、調整しませんか?」と私が提案すると、立花さんは快くその提案を受け入れてくれた。
 
 
それから数日して、私はザッとした立ち寄りポイント候補を箇条書きしたスケジュール表を作成し、ホテルの候補も添えてメールを送った。そのうえで数回のやり取りがあって、3月の第一週目の平日に水戸に行くことに決まった。
 
 
立花さんとは、私が勤めていた不動産会社のショッピングセンターのリニューアルの仕事を担当していた時に、彼は広告代理店のマーケットリサーチを依頼してからの付き合いで、かれこれ30年来の仕事仲間であった。
 
彼と私は年齢が近く同世代であったことや、彼の市場調査の仕事ぶりやそこから導き出される課題や提案のセンスを私は気に入っていて、その後も長く一緒に仕事を依頼する波長の合うビジネスパートナでもあった。
 
 
更に私の趣味の一つである陶磁器や美術品への関心にも理解があって、仕事を離れた個人的な付き合いも行っていた間柄でもあった。
 
近年お互いに会社を定年退職してからは、個人的な人間関係を深めてきており、昨年の猛暑の頃には奥多摩の川合玉堂の美術館を訪ね、一緒に近くの多摩川沿いの旅館に泊まってきたのであった。
 
その時の川合玉堂の作品に対する彼の評価や鑑賞力には、私が感じた感性と相通ずるものがあり、ますます彼との間の距離が縮まったような気がしていたのであった。
 
 
立花さんは当時彼のライフワークといってもよい、甲斐源氏の武将安田義定と遠州浜松の秋葉山神社との関係を調べ始めていて、梅雨のころから取り掛かっていた新しい物語を半年ほど掛けて、昨年末にやっと書き上げたと聞いていたのであった。
 
そんなこともあって、この間私からは特に連絡をすることもなく、音信が途絶えていたのであった。
そして今度ほぼ半年ぶりに,、私から連絡を取ってみたのであった。
 
 
 
 
 
             
 
                 奥多摩玉堂美術館辺り
 
 
 
 
 
 
 

 久方ぶりの再会

 
私が水戸駅から数分の、旧水戸藩城址三の丸近くにあるホテルに入ったのは三月上旬のことであった。
ホテルの予約自体は私がインターネットで取ったのであったが、立花さんはそのホテルに2日ほど前から連泊していた。
 
彼は水戸に梅見に来ることを決めてから、自らのライフワークである鎌倉時代の武将安田義定と、当時の常陸之國とに関係する事柄を調べたいから、と言って早くからこのホテルに入っていたのであった。
 
水戸駅近くのこのホテルを拠点に彼は、かつての常陸之國の國府のあった「石岡市の府中跡」や、安田義定の家臣の本貫地である常陸之國行方(なめかた)郡現在の「行方市麻生町」、更には甲斐源氏の祖先がかつて常陸之介として赴任しその後、任を解かれてからも生活の拠点を構えていた武田郷、現在の「ひたちなか市勝田、武田町」などを訪れて、資料集めや情報収集を行っていたのであった。
 
 
従って偕楽園の観梅を誘った私より3日ほど前から、立花さんはこの水戸に入って既に活発に行動を始めていたのであった。
彼の行動力とそのスピードについて私は、若い頃から知っていたのであったが改めて今回もそのことに気づかされた。
 
 
私がホテルのチェックインを済ませ、約束の18時前にフロント近くのロビーで待っていると、エレベーターを降りてきた彼がニコニコと手を振って近づいて来た。
 
私たちは軽く挨拶を済ませると、早速夕飯を食べに街に出ることにした。
店のセレクトはこのホテルに連泊している立花さんに任せた。私が出した注文は、じっくり話ができる個室風の和食の店、ということであった。
 
 
城址とは反対側の交通量の多い道に出て、その先の飲食街に向かって行き、飲食店が塊って在るゾーンに入った。
立花さんは今夜のことを想定して、ある程度目をつけていた店に私を案内してくれたのである
店は地元のローカルチェーンの経営する、海鮮料理の充実している個室居酒屋であった。
 
個室といっても区画間は1間(1.8m)程度の高さで区切られており、区画間の通路はノレンで区画されていただけであったが、独立性は確保されていたので周囲を気にせずじっくり話すのには、問題のない造りに成っていた。
 
ベンチ状のテーブル席であったことから、立ったり座ったりするのも便利でトイレに立つのもスムーズに移動できそうであり、室内は使い易げな空間構成の店であった。
 
大洗や阿字ヶ浦辺りで取れるという魚介類と野菜料理を何品か注文してから、早速運ばれてきたビールで乾杯をし、久闊を叙した。
それからお互いの近況を話すことになった。
 
 
「ところでこの年末に書き上げたという『安田義定と秋葉山神社』の物語というのは、概ねどんな話だったんですか?」私がそう切り出すと立花さんは、ビールをぐっと飲んでから、
「概略ですか・・」と言いながらニヤリとして、
「短い概略と、長い概略とがありますが、どちらが良いですか?」と私に聞いてきた。目は笑っていた。
 
「そうですね・・まだ6時過ぎたばかりですから・・」私がニヤニヤしながらそう言うと、
「では遠慮なく・・」とやはり立花さんもニヤニヤしながらそう言って、話を始めた。
 
「柳沢さんもご存じなように、昨年の春先に書き上げた前作の『越後之國』と安田義定公父子の物語の、エピローグでも書いてたんですが、越後では猿田彦命や秋葉三尺坊の事が非常に気になりましてね、それでその辺のことを自分なりに調べてみたくなって、遠州の秋葉山神社の事をいろいろ調べてみたんですよ・・」立花さんが言った。
 
『秋葉山神社の本宮』が安田義定の領国である遠江之國に在ったから、でしたかね・・」私が確認するようにそう言うと、彼は大きく肯いて、
「そうです、『秋葉山本宮』の在る遠州春野町は、義定公が14年ほど領地・領国として治めていた遠江之國に含まれてますからね・・.。
それに秋葉三尺坊という、修験者にとって神様のような存在のレジェンドが、越後長岡にも遠州秋葉山神社にも共通してましてね・・」と言った。
 
「そうですか秋葉三尺坊ですか・・。『秋葉山神社本宮』の在る遠州春野町は、確か遠州平野が途切れた、北遠の山狭の中の神社でしたよね・・」私がそう言うと、
「ええ例の遠州森町の後背地とでもいう、北遠の山中に在る標高900m程度の、修験道に関係した神社ですね・・」立花さんはそう言って、秋葉山本宮の位置関係を話し始めた。
 
 
「三年ほど前だかに書かれた、『駿河之國、遠江之國』の舞台にもなった遠州森町でしたかね?」私が思い出しながらそう言うと彼は、
「そうです。その森町はいわば遠州平野と、信州から伸びてきている南アルプスの南端部分が接する、結節点とでもいうべきエリアなんですが、その森町の山を越えた南アルプスの南端辺りを入った集落になるんですね、遠州春野町は・・」と続けた。
 
「遠州森町は、安田義定の重臣であった武藤何とかの領地になるんでしたか・・」私がさらに記憶を辿りながらそう言うと、
「そうですね義定公が最も信を置いていた家臣で、遠江之國の目代でもあった武藤五郎の本貫地だった場所でしてね、森町一帯は・・」立花さんが補完説明をしてくれた。
 
「ところでその遠州春野町の秋葉山神社本宮と、安田義定との間に接点はあったんですか?結局・・」私が改めてその点を聞いてみると立花さんは、
「そうですね、それはほぼ間違いなかったようですね・・」と、頷きながら応えた。
 
「やはり秋葉三尺坊がキーだったんですか?越後とも関係があったとかいう・・」私はその接点が秋葉三尺坊だったのかを確認した。ところが立花さんは首を振って、
 
「いやいや残念ながら、秋葉三尺坊とは直接関係は無かったですね。
三尺坊は秋葉山を拠点にしていた山岳修験者達が信奉していた、彼らの尊崇する修験界のレジェンドではあったんですが、そのこと自体に特別な意味合いは無かったようでしてね・・」と解説した。
「と、いいますと?」私が更に尋ねた。
 
 
「秋葉三尺坊は信州戸隠で生まれて、越後栃尾の蔵王権現で修業を重ねたその世界のレジェンドではあったのですが、たまたま秋葉山の修験者達が尊崇していただけだった、という事が判りましてしてね・・。
同じ春野町にやはり山岳修験者達が幾つもの坊を構えた修験の山が在りまして・・。
その名も『春埜山』と言って、春野町の名前の由来にもなった山なんですが、この山は秋葉山とは対に成ってるんですよ」
 
「なるほど『春』と『秋』といった感じですか?」私がそう言うと彼は頷きながら、
「将にそういうことですね、しかもどちらも標高900m弱で高さも殆ど同じでしてね。
位置関係としては『東の春埜山』に対して『西の秋葉山』といった感じでして・・。で、その春埜山の修験者達が信奉していたのは、『太郎坊』っていうんですよ」と言った。
 
「・・と、いうことは?」私が改めて聞くと、
「アはい、東の春埜山の修験者達が『太郎坊』であったのに対して、西の秋葉山の修験者達は『三尺坊』であった、といった構図に成るわけです」立花さんはニヤリとしてそう言った。
 
「あぁ、なるほどね・・。要するにどちらがどちらでも好かったんですね。
極端な話『三尺坊』でも『太郎坊』でも・・」私は妙にその説明に納得出来て、両者の関係が腑に落ちた。
「まぁ、そういうことでしてね・・。私もそのことに気が付いて・・」立花さんは苦笑いしてそう言うと、ビールをグイっと吞み干した。
 
「確かにそれじゃぁ安田義定は関係してきませんね・・。あはは」私は笑いながら、瓶ビールを彼に注いだ。
 
 
私達がそのような会話をしていると、店のスタッフが刺身の盛り合わせを載せた大皿を運んできて、テーブルの真ん中に据えた。
スタッフの帰りがけにビールの追加注文をして、再び秋葉山本宮神社と安田義定の話を始めた。
 
「そうすると、結局秋葉三尺坊との接点は無かったとして、それで終わったんですか?秋葉山神社と安田義定の関係は・・」私は興味津々と言った目で立花さんを見て、探りを入れた。
 
「いやいや、もちろんそれでは終わってませんよ・・」彼はニヤリとしながら言った。
「でしょうね・・。そんなに簡単な話だったら、半年も掛からなかったでしょ立花さん・・」私もニヤリとしながらそう言って、彼の次の言葉を待った。
 
「秋葉山神社本宮はですね、実は山岳宗教の拠点であったという他に、幾つかの注目すべき特徴がありましてね・・」彼はそう言って私の目をじっと見た。
「ほう、具体的にはどんな?」私が尋ねた
 
「秋葉山神社の宝物には夥しい数の刀剣がありましてね・・」彼はそう応えた。
「刀剣、日本刀ですか・・」私がそう呟くと彼は頷きながら、
 
「二百数十振りの刀剣が宝物として収められてましてね、中には国宝と成っているものが三振りも含まれてるんですよ。
武田信玄や豊臣秀吉も奉納しているらしいんですが、更に遡って室町時代のものや鎌倉時代のモノまで含まれてましてね・・。
 
で、その中で最古と確認されているのが、平安時代末期から鎌倉時代初頭に造られたという、古備前派の刀剣でしてね・・。
その一つが国宝でもある『安縄』という刀でして・・」立花さんは嬉しそうにそう言うと、コップのビールを美味そうに呑んだ。
 
「ほう、それはそれは・・」その時私は、彼が探していたものに廻り逢えたんだな、と感じて、話を続けた
「『安縄』というその刀剣の名前からして、なんだか安田義定に縁がありそうですね」私がニヤリとしながら誘い水を差し向けると、立花さんは、
 
「その名称がどう関わってくるかは未だよく判らないんですが、古備前の刀工集団には『縄派』という系統がいたらしいんですね。
どうやらその『縄派』の刀工の作なんだそうです『安縄』は・・。
で、刀剣の鑑定家に依るとその作は、平安時代末期から鎌倉時代初頭であっただろうと・・」立花さんはやはり嬉しそうにそう言った。
 
「そしたらビンゴ!ですね・・」私は思わずそう言って、喜んだ。その時の私の目が笑っていたのが、自分でも判った。
「そうなんですよ、義定公の時代に符合するんです。ドンピシャに・・」そう言った立花さんの目も、にこやかに笑っていた。
 
 
「それにですね、どうやら秋葉山神社に刀剣が奉納されるようになったのは、その『安縄』の頃かららしいんですよ・・」立花さんがそう続けた。
「ほう、そうなんですか・・。と、いうことは・・」私が閃きを感じてそう言うと、
 
「そうなんですよ、ひょっとしたらですが義定公が國守であった、鎌倉時代初頭の14年間の間に始まった習慣である可能性も、あり得るんですよね。
 
尤も秋葉山本宮に盛んに刀剣が奉納されるように成ったのは、室町時代以降の事らしいんですがね。その先鞭を切ったのが義定公ではないかと・・。
現に3本の国宝に成った刀剣はいずれも鎌倉時代の古刀でしてね。その中でも義定公に繋がりそうなのが将に・・」立花さんは嬉しそうにそう言って、詳しく説明してくれた。
 
「先ほどの『安縄』というわけですか・・」私がニヤリとしてそう言うと、彼は嬉しそうに小刻みに何度か頷いて同意した。
 
「その通りなんです。ここから先は裏をまだ取れてない、全くの私の推測というか妄想なんですがね・・」立花さんはワザワザそう断りを入れてから、続きを話し始めた。
 
 
「義定公は当時の武将同様に、神社仏閣を結構尊崇していた武将だったんですがね、その彼が領国である遠州の山狭に在って、権威があり歴史ある神社でもあった秋葉山神社に、國守としてその『安縄』を奉納したのが秋葉山神社に刀剣が奉納されたキッカケではなかったかとですね、そんな風に想像力を働かせているところでして・・」と彼は嬉しそうに言った。
 
「ほう、そうですか・・。因みに何かそう立花さんが思うように成った裏付けというか、キッカケのようなものがあったんですか?何か摑んだんでしょ、立花さん・・」
 
私は立花さんが市場調査を長らくやっていたその仕事ぶりから、純粋に想像や妄想だけで仮説を立てる様な人では無い事を知っていたので、彼がその様に思うように至った「何か」をキット摑んでいるに違いない、と想ってその点を聞いてみたのだった。
 
「えっ、判りますか・・」立花さんはニヤリとしながら、私を見てそう言った。
「付き合い長いですからね・・」私がニヤリとしてそう言うと、彼は
「おっしゃる通りでしてね・・。実は春野町は山に囲まれた集落でしてね、そこには割とたくさんの金山彦を祀る神社、『金山神社』が在りましてね。春野町には金山衆が活躍した痕跡がたくさん残ってたんですよ・・」と嬉しそうに言った。
 
「ということは金鉱山が幾つか在った、ということですか・・」私がそう言うと立花さんは何度か頷いて、
「そういうことですね。金山彦や金山神社・南宮神社が残っているということは、そう云う事になります。義定公の配下の金山衆が活発に金鉱探索を行っていたエリアだった、という事でしょうね。
 
私の見立てでは遠州における金山開発の拠点は遠州春野町、当時の犬居郷だったんじゃないかと思っています」と言って、それを認めた。
 
 
「因みに秋葉山にも金鉱山は在ったんですかね・・」私がそう尋ねると、立花さんは
「確かに秋葉山の裾野というか山麓にも『金山神社』が在りましたが、全体の中の一つにすぎませんですね。
『金山神社』は秋葉山というより、春野町全域というか当時の犬居郷全体に散在していたんですよ、それこそ先ほどの『春埜山』の山麓にも、ですね・・」彼はそう言って、秋葉山だけに金鉱山が在ったわけではない点を強調した。
 
「そうすると何故、秋葉山神社だったんですかね?」私がその点を更に尋ねると立花さんは、
「それはですね、秋葉山神社が犬居郷では古しえから、地元では最大の産土神を祀る神社であったことから、義定公が入部するはるか以前から、秋葉山本宮が遠江之國でも一目を置かれた神社だったからでしょうね、たぶん。
 
それと同様に犬居郷の古刹でもあった当時の真言宗の『瑞雲院』というお寺にも、義定公の援助があった痕跡が残ってましてね・・」と説明をした。
 
 
「要するに、当時の犬居郷や遠州で尊崇を受けていた、著名で権威ある神社と寺院に対する支援や援助を、安田義定が行なったって事ですか・・」私が考えを整理する意味でそう確認すると、立花さんはまた大きく肯いて、
 
「平安時代の國守の最初の任務はですね、赴任の初めにそれぞれの國を代表する一之宮神社や歴史や伝統のある神社仏閣に参拝し、挨拶することから始めたという事らしいんですよ・・」と当時の國守の習慣や慣行を教えてくれた。
 
「なるほどですね、何年間かごとに任命される新たな國守が、赴任先の國民や領民達が尊崇して止まない神社仏閣に、着任の挨拶をする事から新しい國守の業務がスタートした、という習わしがあったと、そういうことですね・・」
 
「いやありがとうございます。勉強になります・・」私はそう言って立花さんにお礼を言って、ビールを注いだ。
 
 
「なんるほどネ、そういう事でしたか・・。ところでその痕跡って具体的には何だったんですか立花さん・・」私がそう言って更に尋ねると、彼は嬉しそうな顔をして横に置いてた肩掛けのエンジ色のポーチからタブレット端末を取り出した。
それを起動させてから、
 
「これがね、見つかったんですよ。秋葉山神社にも瑞雲院にも・・」と言って、画像に映った家紋=剣花菱紋を私に示した。
更にタブレットを操作して、
「見たことがあるでしょうが、こちらが義定公の家紋の『花菱紋』ですね。どうです、似てるでしょ先ほどの『剣花菱紋』に・・」と言いながら2つの家紋の画像を交互に私に示した。
 
「確かに・・似てますね。
こちらのシンプルな『花菱紋』が安田義定の家紋で、こっちの花菱紋の間に剣の模様が挟まっているのが『剣花菱』って云うんですか?
で、こっちの『剣花菱』が秋葉山本宮やその瑞雲院の家紋なんですね・・」私が確認するようにそう言うと、立花さんは、
 
「秋葉山神社の場合は『社紋』で、瑞雲院の場合は『寺紋』というのが正式な呼び名ですがね・・」とサラリと私の呼び方を訂正した。
 
「ありがとうございます、勉強になります。で、これらの社紋や寺紋は安田義定がそれらの神社やお寺に下賜した紋だと、そう考えてられるわけですね、立花さんは・・」私がそう言うと、また彼は大きく肯いて、
「そういうことですね、ハイ・・」と言って、一層ニコニコと笑顔になった。
 
 
その後も、私は立花さんから秋葉山神社や瑞雲院に残っていた痕跡についての話を聞き、更に金山衆に繋がる犬居郷に残る、多くの石垣や石組の話を聞いた。
そうやって彼は私に、犬居郷=春野町と安田義定との間に多くのつながりや関係があった事を証明しながら、話してくれた。
 
最後に今度改めて最新作の『安田義定と秋葉山神社』の著書を、送っていただくことになって、そうして立花さんのここ半年の労作についての話は終わった。
 
 
 
                 
                      秋葉山神社本宮からの遠州灘
 
 
 

「人間魯山人」

 
 
立花さんの安田義定に関する話が終わって一息ついて、今度は私が北大路魯山人について話すことになった。
 
「先日の電話でも話してられましたが、最近柳沢さんは魯山人について再た興味や関心が高まって来た、ということのようですね・・」と立花さんが私に聞いてきた。
 
「そうなんですよ、去年がちょうど魯山人の没後60周年とかで、都内で幾つかそれを名打ったイベントが開催されましてね、私も久しぶりにそれらの美術館や展覧会を廻って来たんですよ。
それに触発されてか、焼け木杭(ぼっくい)に火が付いたってとこでして・・」私がそう言って、立花さんに応えた。
 
「やはり魯山人だと、『陶磁器』や『書』の展覧会ということに成るんでしたか?」立花さんが呟くように言った。
「まぁ、そんなところですね。やはり彼の陶磁器はイイですね、何度見ても・・」私はそう言いながら、去年の美術展や展覧会の事を思い起こした。
 
「私も魯山人の作品は好きですし、彼の書いた自著なんかも何冊か読んだことがありますが、彼の場合は世評で言われている事と、彼自身が書いている文章との間に、少なからぬ乖離というかギャップがあるように私は感じているんですが、実際のところその辺はどうなんですか?柳沢さん・・」立花さんはそう言って、私に尋ねてきた。
 
「そうですね、その件ですか・・。まぁ何となく判らなくもないですけどね・・。
因みに立花さんが魯山人の人となりを知ったのはどのようなルート・経緯で、でした?」私は確認の意味でそう、立花さんに聞いてみた。
 
「僕が魯山人の事を体系的に、というか全体像を知るキッカケに成ったのは、やっぱり白崎英雄氏の『北大路魯山人』でしたね。確か文庫本の・・」彼はそう応えた。
 
「立花さんもでしたか、僕もキッカケはあの本でしたね。そうですか白崎英雄ですか・・。確かにあの本にはいろいろとスキャンダラスなことも書かれてましたよね・・。因みにその他の著書というか、本は読まれましたか?」私が更に尋ねると、立花さんは、
 
「先ほども言いましたが、魯山人自身が書いた『書論』や『陶芸論』『美食論』といったのを弟子の方が纏めた・・」そう言って私を見たどうやら詳細は忘れているらしかった。
 
「弟子というか書生であった平野雅章さんが纏めた、やはり文庫本の事ですかね・・」私が助け舟を出すと彼は、
「たぶんそうだったと思います。若いころ魯山人の下で働いていた書生というか・・」そう言って、私の推測を追認した。
 
 
「その魯山人が自ら出版した雑誌や機関誌とでもいうべき出版物に載せた、小論文を取り纏めた書物ぐらいですね、僕が読んだのは・・。
他の魯山人本は、なんだか妙に彼を神様のように持ち上げているようなモノばかりで、イマイチ人間魯山人が見えてこなかったんで・・。それからは伝記本のようなものは読まなくなりましたね・・」
 
「なるほど・・、確かにそういった本が多かったですね。
立花さんの言われるのも何となく判りますよ・・」私も世の魯山人本に同様の感想を抱いていたので、彼の言わんとする事をすんなりと理解することが出来た。
 
「ただですね今から10年近く前に書かれた、魯山人と親交のあった方の息子さんが書かれたノンフィクション本がありましてね、それには割と客観的に書かれてましたよ、人間魯山人が・・。それはご覧になりましたか?
確か大宅壮一の賞か何かを受賞した作品だったと思いますけど・・」私が更にそう確認すると、彼は首を振って、
 
「いやぁ、僕にとっての魯山人は今から30年近く前の、先ほどのMyブームで終わってまして、それからは・・」そう言って、自分の関心対象から外れてしまったと匂わせた。
「なるほど、そういう事でしたか・・」私はそう言って、彼と魯山人の関係が短く終わってしまったことを理解した。
 
「ところで柳沢さんはそれからも、ずっと魯山人を追い続けてるんですか?」立花さんが私に聞いてきた。
 
「えぇまぁ、それなりにですけどね・・。30代の頃ほどではありませんが、窯元巡りなんかも途切れとぎれではありましたけど、しばらく続けてましたしね・・」私がそう言うと、彼は思い出したように、
「あぁ、柳沢さんって確か、陶磁器がご趣味でしたっけね・・」と、そう言った。
私は頷いてから、彼が先ほど口にした疑問に応えることにした。
 
「先ほど立花さんが言われた、世間の評判と魯山人の考えとの間に少なからぬギャップを感じられた、と云った事なんですがね・・」私はそう言って立花さんの目をじっと見てから、
「それは多分、白崎英雄の著書の影響というか残像が残っているから、かもしれませんね・・」と、私は話した。彼は私の次の言葉を期待するような目で、私を観た。
 
 
「白崎英雄氏の『北大路魯山人』は、かつて魯山人に縁のあった人々へのインタビューという手法で、魯山人の人物像を炙り出すといった形をとっていましたよね、確か・・。
そのアプローチの仕方や纏め方というか編集の仕方に、著者である白崎英雄の思い込みや予見というか、色眼鏡の様なものがかなり投影されていたんではなかったか、ってですねそのノンフィクション作家は想っている様でしてね・・」と、私は言った。
 
「なるほどね、私もその白崎英雄氏の影響を受けているのでは、という事ですかね・・。
ところでその作家自身は、一体どんな立ち位置でそのノンフィクションを書いてるんですかね・・」と立花さんはノンフィクション作家の事が気に成ったのか、私に聴いてきた。
 
「そうですね・・。彼の父親という人が、富山だかの地方紙の新聞記者だったらしいんですが、どうやら魯山人の後援者の一人だったらしく、生前の魯山人との間でかなり親しい交流があったということでしてね。
彼の自宅には魯山人の作陶物や幾つかの書・掛け軸といったものが在ったみたいでして、まぁいうなれば魯山人自身も含めた作品なんかが彼の一家にとって、かなり身近な存在であったと・・」私はそう言ってから、のどの渇きを潤すためにコップのビールをぐっと飲んで、一息入れた。
 
 
「まぁその作家はそういった立ち位置の人物でしてね、彼が直接知ってることやご両親から聴かされていた魯山人像と、白崎氏の本に書かれている人物像がだいぶ違うんじゃないかと、もっと魯山人の真実を明らかにしたいと・・。
そういった視点というか問題意識で彼はその本を書いたというか、それが動機や出発点でもあったようですね・・」私がそう言うと、立花さんはちょっと考えてから、
 
 
「具体的にそのノンフィクション作家はどのようなことを言ってるんですか?
そのぉ魯山人の真実の人物像という点について・・」と改めて私に聴いてきた。
「そうですね、多少長くなってもかまいませんか?」私が改めてそう断りを入れると立花さんは、ニヤリとして
 
「どうぞ、どうぞ。今度は僕が拝聴させていただきますよ・・」と言った。その時の彼の目は穏やかに笑っていた。
「では遠慮なく・・」そう言ってから私は、そのノンフィクション作家が魯山人をどのように捉えていたかを話すことにした。
 
 
「その作家は魯山人には癇癪持ちや、傲岸不遜といった面も確かにあったが、それだけでは無いと。
とりわけ小さな子供たちや弱い立場の人たちに対してはとても優しい心配りをする人間だった、と言ってましたね。
更に自分自身と似たような不幸な生い立ちや境遇で育だった人達に対しては、とても暖かく接していたり、支援もしていたということでしてね・・。
 
もちろん書家や陶磁器の作者・料理人といった彼の専門分野の、中途半端なレベルの人たちに対しては厳しく、時として舌鋒鋭く攻撃をすることはあったと、そのことはシッカリ認めてますよ。
しかしそれは個人攻撃というより彼自身の『美術や食への求道心』から出てきた、情熱のホトバシリの様なモノだったのではないか、といった様な事を云ってましたね・・」と私はかいつまんで、その著書について話した。
 
「なるほど、魯山人自身の『美への求道心』のホトバシリですか・・。なかなか上手い事言いますね・・」立花さんはそう言って、ニヤリとした。
 
「その作家に言わせれば、それらの鋭い表現や言い回しは、むしろ魯山人の彼らへの叱咤激励ですらあったのではないかと。同じ道を歩む者達への愛情表現の一つであったのではないか、といった様な事も言ってましたね・・」と、私が続けた。
 
「あぁ、そういうことですか、その愛情の表現の仕方がちょっとキツかったり、排他的な言い回しに成ってしまったと。愛情表現の仕方が屈折していたんじゃないかと・・。そんな感じなんでしょうかね・・」立花さんはそう言って、私の言いたい事を自分なりに理解して、語った。
 
「まぁ、そんなところでしょうかね・・」私が言った。
「で、柳沢さん的にはその作家の見解については、どんな風に思われたんですか?」立花さんが私を試すような目で、更に聞いてきた。
 
「そうですね確かにそういった面もあったんでしょうが、まぁそこまで言わなくても・・。といった表現もあったりしますからね、魯山人って人は・・」と私が言うと彼は
「贔屓の引き倒しな面も、多少あるかもしれないと・・。そんな風にも思ってられるんですか?柳沢さんは・・」と言って、ニヤリとした。
 
「まぁ、身内意識が多少あるのかなと・・。
でもまぁ白崎氏の本だけでは気づかなかった面も幾つかあって、魯山人という人間にはこういった面もあったんだ、と見直したり参考に成った面もありましたよ何ヶ所かは・・」私がそう言うと、
「因みに・・」と立花さんは、私が「見直した」と想った事の具体的な内容について、聞いてきた
 
 
「そうですね、一つは魯山人が4回も5回も結婚をし、離婚を繰り返してきたのは彼の猟色ではなく、娘の和子の養育や教育のためだったと・・」私がそう言うと彼は「他には?」といったような目をした。
 
「えぇ他にも父親の愛情を知らずに育った彼は、金沢の数寄者で茶人でもあり料亭の経営者でもあった太田多吉のことを、実の父親のように慕っていて尊敬もしていたと・・。
これにはもちろん太田多吉の魯山人への愛情へのお返し、といった点も含まれていたようですけどね・・。
 
更には生母登女(とめ)の魯山人への愛情についてもですね、白崎英雄氏が書いていたように自分勝手で冷たい母親では無かったと・・」私は著書に書いてあった幾つかのエピソードの記憶をたどりながら、思い出しつつ具体的な例を話した。
 
「なるほどね・・。確かに生母との関係などは私もちょっと引っ掛かりを感じてはいたんですよ。
白崎氏の著書に書かれている様に母親の不義の始末で、魯山人が捨てられたといったような解釈だけだと、後年魯山人が母親と二人で当時朝鮮に住んでいた異父兄を、訪ねに行くといったような行動が、すんなりとは理解できなかったんですよね・・。
そのぉ二人の関係が冷え切ったものであったと、そう仮定した場合は、ですね。なるほどね・・」
 
立花さんはそう言って、彼自身が白崎英雄の『魯山人本』で感じていた違和感について語り、私の話した「ノンフィクション本」の解釈で補完することで、その違和感への理解が多少は深まった、と言った。
 
 
「それからですね、魯山人が東京のど真ん中赤坂の『星ヶ岡茶寮』で料亭を経営する一方で、北鎌倉で『星岡窯』を開き、そこで寝起きするように成ったきっかけが、30代の頃の清水寺の東山山中での経験があったからではないかと・・。
富田渓仙という日本画家との共同生活が原点だったのではなかったか、といった点なんかもね、結構目からウロコだったんですよ・・」と私が続けると、立花さんは
 
「後半生の魯山人の拠点というか、住居が在った北鎌倉の切通し奥のこと、ですか?
あの自然豊かな『田舎暮らし』の生活の原点が、京都東山の清水寺での若い頃の生活にあった、っていうんですか・・」と言って、ちょっと驚いたようだった。
 
「えぇそうなんですよ、その通り。その著者は30代の清水寺山内での生活があったからではなかったか、と推測してましてね・・。
確かに北鎌倉の生活は今でいう『田舎暮らし』の走りみたいなものですよね、おっしゃる通りです・・」私は立花さんのその表現が気に入って、思わずそんな風に口走った。
 
 
「明日行く予定の笠間の『春風萬里荘』は、将にその北鎌倉の魯山人の生活の拠点そのものでしたからね・・」そんな風に言いながら私は数十年前に一度訪れた、かつての魯山人の住居『春風萬里荘』を思い出しながら、北鎌倉での魯山人の田舎暮らしを想った。
 
「なるほどね、いやぁありがとうございました。
魯山人は清水寺奥での生活経験があったから、北鎌倉に居を構えたんでしたか・・。いやぁそういう事だったんだ・・。おかげさまでよく理解できましたよ。そうでしたか、そういうことでしたか・・」立花さんは何度もそう言って、頷いていた。
そのことは彼にとって長い間、気に成っていた事柄だったのかもしれなかった。
 
「やっぱり情報は一つより二つ、二つより三つ、といったように多面的な角度からの情報があったほうが、全体像が摑み易いですよね」私がそう言うと、立花さんは頷きながら、
 
「確かに情報源は多いほうが好いでしょうね、しかもできるだけ違った視点から光を当ててる種類の、情報であればですがね。
同じような情報を幾つも貰っても、たいして役に立ちませんからねハッハッハ・・」そういって、大きな声で笑った。
 
 
私たちがその様な話をしていると、店のスタッフが大きめの皿に盛りつけた焼き物の盛り合わせを運んできた。
それを契機に立花さんはトイレに向かった。
戻ってきた彼に替わって、今度は私がトイレを済ませてきた。
 
 
「ところで、相変わらず柳沢さんは窯元巡りなどを行ってるんですか?」と、立花さんが聞いてきた。
「そうですね、最近また復活したところですよ。30代の頃がピークだったんですがね。子供たちが大きく成ってサッカーやら部活やらで忙しくなってからは、ずっと行けなかったんですけどね。
まぁ仕事も管理職なんかに成って忙しかったこともあったりしてですね・・」私がそう言うと立花さんは、
 
「やっぱり定年退職がキッカケですか?」と聞いてきた。
「まぁ、そんなとこですかね。立花さんと同じですよ・・」私はそう言って更に、
「人生には区切りが必要ですからね、結婚という区切りであったり、子育てといったものであったり、それからやっぱり定年退職ですかね・・。
子供達の巣立ちもそうだったし・・」と続けた。
 
「まぁ、立ち止まってこれからの事を考えるのにはよい機会ですよね・・。
でも確か柳沢さんはついこの間までお仕事続けていたんですよね?嘱託というか再雇用として・・」立花さんが聞いてきた。私は頷いて、
 
「えぇ、5年ほど再雇用で・・」と応えた。続けて私は、
「その間は給与同様に権限も責任も半減してましたからね、有休も率先しての完全消化でしたし、休みはしっかり取りましたよ・・」と定年前とはだいぶ変わった、と私は話した。
 
「なるほど、それにお子さんたちも巣立って行ったと・・」立花さんが合いの手を入れた。
「そんなこんなで、自分の時間がたっぷりとれるようになりましてね、でまぁ趣味の窯元巡りも復活した、ってわけです・・」私がそう応えると彼は、
 
「奥さん共々ですか?」と聞いてきた。
「そうですね。うちのは若い頃茶道をやってたこともありましてね、昔から窯元巡りには積極的だったんですよ。だからまぁワリと一緒が多いですね・・」私がそう認めると、
「なるほどね・・。それは好かったですね・・」立花さんはそう言って、私のコップにビールを注いだ。
 
 
「立花さんは、再雇用には応じないで著作のほうまっしぐらだったんですよね・・」私が聞いてみると、
「えぇ、多少小遣い稼ぎ程度のことはしてますけどね。基本は安田義定公に出逢ってからは、そっちが生活の中心ですね・・」
 
「ご自身のホームページ(HP)を開設したり・・」私がそう言うと彼は小さく頷いた。更に私が、
「一番初めは、電子図書から始めたんでしたか・・」と確認するように言うと、
「えぇそうです。一年ほどですね電子図書は・・。でもなんだか色々めんどくさくなって、手続きとか更新がね・・。
それに何といっても自分の抱く世界観を表現する場所が欲しくなってですね、そんな想いが幾つか重なってHPを自分で立ち上げることにしたんです・・」立花さんは当時のことを話してくれた。
 
 
「やっぱり違いますか?」更に私が尋ねると、
「それはもう、全然・・。そうでなくても僕は自分で表現したがるタイプの人間ですからね。まぁ自分のHPの中であれば、誰にも制約されずに自分の美意識や問題意識を好きなだけ追求できますからね・・。良くも悪くも好き勝手に出来るわけです・・」立花さんはそう言ってニヤリとした。
 
「じゃぁ、思いっきり羽ばたいてるんですね、ご自分のHPの中で・・」
私はかつてHP開設の案内をもらった時以来、数か月に一度程度の頻度で彼のHPを覗いたので、彼が自分の世界をしっかり愉しんでいるのを、よく理解していた。
 
「まぁ、そんな感じですかね・・。割と好きなことして書き綴ってますよ。
これがもし閲覧者が殆ど身内だけとかで、寂しい結果だったり虚しい反応しかなかったら、早々と撤退したり方針転換したのかもしれませんがね・・」立花さんはそう言った。
 
「でも、今もその路線を替えてないという事は・・」私がそんな風に言うと、
「おかげさまで、ニッチでマニアックな世界と友人達から言われてるHPですが、何とか閲覧者も増加傾向にありましてね。
まぁこのままでもいいかナとそんな風に思ってまして、しばらくはこのまま・・、と思ってます」
と満更でも無いといった顔でそう言うと、立花さんはビールを旨そうに呑んだ。
 
「確か月間の閲覧者が千人を超えたとか・・」私がそう言って、ビールを注ぐと立花さんは肯きながら目を細めて、コップで受けた。
 
 
しばらく私たちは現在やっているお互いの事を話しながら、その店での時間を過ごした。
 
最後に明日のざっとした予定や、ホテルでの集合時間などを話し合って、9時過ぎにはその店を出て、ホテルにと戻って行った。
 
 
 
 
         
           晩年の魯山人と彼の大鉢
 
 
 
 
 
 
 

 水戸の梅樹

 
 
翌朝八時半にホテルのロビーで合流した後、私たちは水戸駅に向かい駅南口のバスターミナルから偕楽園行きのバスに乗った。
 
偕楽園には20分ほどで着いた。途中左手に千波湖という大きな沼のような湖が在り、春の早朝の陽光を浴びた湖面が、キラキラと輝いていたのが印象的であった。
 
JRの臨時駅である「偕楽園駅」近くで降りた私たちはそのまま坂道を北上して、「東門」から入ることにした。
入ってしばらくしてから梅林の中を南北に通る道があったので、その道なりに「御成門」に向かう形で北上した。
 
数千本といわれる梅林はむせ返るほどの梅の匂いで、満ち満ちていた。
観梅というよりも、梅の森の中を彷徨うといったような感じであった。
 
「横浜の三渓園にも確か立派な梅園が在りましたね・・」突き当りの御成門から、表門に向かって道なりに歩き始めた頃、立花さんがそう言った。
「確かに・・。しかしまぁ本数ではここには負けてますでしょ」私は本牧近くの三渓園の事を思い出しながら、ニヤリとそう応えた。
 
「それはまぁそうですけどね・・。しかし風情という点では如何でしょうかね・・。必ずしも多ければ佳い、というものでもないでしょう・・」立花さんはそう言った。
「確かに・・。やっぱり作られた目的の違いもあるんでしょうかね・・。三渓園とここでは・・」私がそう言うと、
 
「横浜の三渓園は横浜銀行なんかを作った、横浜の貿易商だった原三渓の私邸でしたよね確か・・」立花さんが前を向いて歩きながらそう言った。歩みは止めなかった。
「そうでしたね、明治・大正・昭和の横浜の大実業家が贅を凝らして創った、彼の美意識がたっぷり反映された庭園ですからね・・」私もそう言って、彼の後を続いた。
 
「この偕楽園は確か江戸時代末期の烈公と言われた、徳川斉昭が創ったんでしたかね・・」彼が言った。
「そうですね、最後の将軍徳川慶喜の父親ですね彼は・・」私が相槌を打った。続けて
「斉昭公はこの梅園を水戸藩の領民が愉しむための当時の観光施設、といった意図で創ったみたいですから、横浜の三渓園とは創作意図がまったく違うわけです」と説明を加えた。
 
 
「なるほどね三渓園は個人の趣味で創られ、ここ偕楽園は領民というか庶民のために創ったというわけですか、それで『偕楽園』と名付けられた訳ですかね・・」立花さんが言った。
「ま、そういうことですね、皆が楽しむ梅の園で『偕楽園』って付けた、とのことです」私はそう言って立花さんの言を肯定した。
 
「因みに武士のためには別途、お城にも梅園を創ったらしいですよ斉昭公は・・」私が付け加えると立花さんは、
「ほう、三の丸の僕らが泊まったホテルの近くに、ですか?」と、ちょっと驚いたようにそう言った。
「あ、ハイそのようです。確か弘道館という学問所の近くに、ですね・・」私がまたそう説明した。
 
「弘道館か・・。お城の中だと割とこじんまりと、なんでしょうかねきっと・・」立花さんは偕楽園の広大な森のような梅園を見渡しながらそう言った。
「さすがにここに比べたら・・、でしょうけどそれでも千本近くは在るという事ですから、それなりの迫力ではあろうかと思いますよ、たぶん・・」私が言うと、
 
「千本ですか・・それはそれは・・。そしたらそっちも三渓園の梅園よりも大っきいんでしょうね、そのお城の中の梅園も・・」さすがにそこまでの梅園を想像していなかったのか、立花さんはまた驚いたようであった。
「弘道館の梅園、ですね」と私は頷きながら言った。
 
 
しばらく梅園の中を逍遥し、表門に近づくと視界から梅の林は消え、目の前に竹林や杉林が見えてきた。
梅の圧倒的な量に疲れを感じ始めていた私たちは迷わず、赤や白の香りがむせるような梅園を背にして、その針葉樹の緑の林の中に向かった。
 
視覚的にも嗅覚的にも全く異なる緑の空間は、私たちにとって気分転換にもなった。
更にそのまま歩き続けて、緑の空間を通り抜けると、今度はJRの線路越しに紅白の梅園が見え始めた。
先ほどの梅園に比べ量的には少ないようであったが、高低差のある場所から見ることに成ったので、全体を俯瞰的に見下ろすようになった。
 
梅園に入った時に、最初に感じた梅樹の合間を縫うように逍遥するのとは違った景色として、ここでは梅の園を愉しむことが出来るのであった。
梅オンリーの公園よりは起伏にも富んでいて視覚的にも愉しむことができた。
好い造りだと私たちは感想を述べながら、ゆっくりと道なりに下って行くと、やがて視線の先に湖が見え始めた。
 
先ほどバスで通ってきた千波湖なのであろう。紅白の梅林の先に広がる水色の湖は、また違った景色を私たちに見せてくれた。
 
 
「これはいいね・・。三渓園とは明らかに違った景色だ・・。向こうにも大きな池などは在ったがやはり、人工的な池と自然界の湖との違いなんだろうか・・」立花さんが感心したように、ニコニコ顔でそう言って喜んでいた。
 
私も同じ気持ちであった。私にとって二度目の偕楽園であったが、前回はこのようなある種の感動はなかった。
最初の時は梅の園の迫力に圧倒され過ぎたのかもしれない。杉林や竹林の景色や千波湖の記憶や印象も定かではなかった。
 
それともあれから数十年たって、私自身の見方や感じ方が変わってきたのかもしれない。以前も今日と同じ風景を見ていたはずであるのだが、「観れども見えず」だったのかもしれない。
この30年近くの間に私自身が成長したのであろうか・・。
そんなことを想いながら歩き続けると、やがて初めに来たJR駅近くのバス停に着いた。
 
「どうやら、振出しに戻ってきたみたいですね・・」私がニヤリとしながらそう言うと、立花さんは頷きながら、
「ここらで一息入れたいところですが・・」と言って、JRの臨時駅周辺や千波湖辺りをザッと見廻したが、残念ながら私たちの疲れを癒してくれそうな施設は見つからなかった。
 
「残念ですね・・。JR水戸駅辺りまで戻るしかなさそうですね・・」さすがに2時間近く歩いて、疲れを感じ始めていた私は立花さんの提案にすぐにでも乗りたかったが、店がない以上仕方ないのであった。
 
バスの本数が少なく、時間がたくさんあったので私たちはタクシーを使うことにした。歩き疲れていたこともあった。
 
 
10数分で水戸駅北口の、三の丸の弘道館公園に着いた。
正門横から廻って公園に入っていった。
案内図によると主たる施設の在る「正庁」を取り囲む白壁の土塀を超えた右手に梅園が広がっている様であった。まずは正庁の中に入ることにした。
 
「至善堂」という藩主の子弟が学んだ建物に入ると、中に「種梅記の拓本」があった。
徳川斉昭が何故梅の木を植えたかについて書かれた石碑『種梅記』の拓本という事である。
石碑自体は正庁の敷地を超えた白壁の土塀の裏手に建っているのだが、200年近く前の石碑という事で判読が厳しくなっているのであろう。
 
 
その拓本に依ると、徳川斉昭公は自らこの文案を書いたという。その内容は、
・「余は幼少より梅を愛し」
・江戸の藩邸から水戸に入った時「国中梅樹はなはだ少なく」残念に思っていた。
・その後江戸に戻ってから「毎歳、江戸邸にあった梅の木の実を自ら採りて、水戸に送り続けた」 
・さらにその実を「司園の吏を水戸に派遣して偕楽園を初めお城の近郊の空き地に植え、養育・管理させ続けた」
・その後「弘道館の新設の機会に際し、数千株をその近隣に植えさせた」
・また「国中の士民にも各家ごとに数株ずつ分け与え、植えさせ」て梅樹の普及を奨励した。その理由は、
・梅の「華はすなわち、雪の降る季節その雪中にあっても春に先んじて風騒の友となり」「実はすなわち、軍旅の用と成る。あぁ備えあるものには患(うれい)いなし」
 
と云った事が書かれていた。
 
私が「風騒の友」について立花さんに尋ねると彼は、
「まぁ風流心のある人たちの心をザワつかせる、といったようなものでしょうか・・」と解説してくれた。
 
「なるほど、そうすると斉昭公は子供のころから梅の花が好きだったけど、水戸に赴任してみたら藩内にはあまり梅がなくて残念だったと。
で自分が自ら摘み取った梅の実を毎年水戸に送って、更に梅の木を育て管理させる人まで送って樹木を育て続けて、偕楽園や弘道館に植えさせた。
その上藩士達にも配って、自宅での梅を奨励したという事だったんですね。
でその理由は、風流心を養うとともにイザというときの備えとして梅干を作らせたと・・」
私がまとめてそう言うと、
 
「まぁそういう事なんでしょうね・・。徳川斉昭は尊王攘夷の急先鋒だったようでしたからね、開国を迫る外国との戦争という事も計算に入っていたんでしょう、キット・・」立花さんは頷きながらそう言った。
 
「それと行動力も抜群だった殿様でもあったみたいですね、自ら能動的に動いてることがこの拓本でも目に浮かびますね・・」と私が言った。
「確かこの弘道館そのものも、彼が創らせたんでしたよね・・」立花さんが続いた。
「そうですね、弘道館は斉昭公が創らせたんです。
それに諱(いみな)が『烈公』という事でしたから、気性も激しかったのかもしれませんね斉昭公は・・」私は徳川斉昭について何かの本で読んだ事を思い出してそう言った。
 
 
私たちはその後「弘道館の開設」についての、徳川斉昭の想いを書き綴った『弘道館記』を読むことに成ったのであるが、それには
「蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)」「異端邪説」「俗儒曲学」「尊王攘夷」などの激しい言葉が幾つか散見できた。
 
それを見た私が
「やはり激しい性格だったようですね、斉昭公は。しかもカチカチの尊王攘夷論者で・・」と徳川斉昭のことを語ると、立花さんはニヤリとしながら、
「徳川斉昭のこの文章を『神君家康公』が読んだら、さぞやビックリしたでしょうね、はっはっは・・」と言って笑った。
 
「これが水戸黄門の徳川光圀以来の水戸学ってやつですかね・・」と私が言うと、
「まぁそうなんでしょうね、二条城を造ったり浄土宗の知恩院を盛んにさせたり、京都所司代を造らせた徳川家康の朝廷に対する意図を、水戸徳川家の藩主たちはあまりよくは理解してなかったようですからね・・」立花さんはそう言ってニヤリとした。
 
「そういえば明治維新の時水戸藩は『天狗党』と『諸生党』とに藩論が分裂し、藩内で戦争まで起きたとか・・。その争いの種はこの辺にもあった、という事なんでしょうかね・・」私がそう言って立花さんを見ると、彼は大きく何度か頷いて、私の言ったことを肯定した。
 
 
その後白壁の塀に囲まれた正庁を出て、梅園の中に入った。
弘道館の梅園はもちろん「偕楽園」に比べたら、その規模も梅の種も数も劣るのであったが、決して貧弱ではなかった。これだけでも十分見応えがあった。
 
更に梅園を抜けて「正庁」の裏手に当たるエリアに入って、「孔子廟」「要石の歌碑」「鹿島神社」などをぐるりと回遊して、先ほど拓本で見た徳川斉昭公の文言を記した石碑「種梅記碑」や「弘道館記」の在る「八卦堂」を観て廻った。
 
庭内はいずれも梅樹に囲まれていて、その樹間にそれぞれの建物が在る、といった感じであった。
しかもそれらの梅樹はいずれも手入れが行き届いており、200年近く前に斉昭公が江戸から派遣した梅樹を育て管理する「司吏」の働きが、今もなお継続していることに感心しながら、二人でその事を語り合った。
 
いずれにせよ「尊王攘夷」で、個性の強い徳川斉昭公の問題意識や美意識があったればこそ、この「弘道館」や「偕楽園」は創られたのであった。
その彼無くしては、私たちはこうやって春先に観梅を愉しむことができなかっただろう、等といった様なことを、私たちは語り合いながら弘道館を後にしたのであった。
 
 
そのまま水戸駅に向かって昼食をとることにした。
午後にはレンタカーを借りて、笠間の「春風萬里荘」に向かう予定でいたのだった。
 
 
 
 
 
            種梅記碑』抜粋
 
   予(われ)(幼)少より梅を愛し庭に数十株を植う。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   夫れ梅の物たるや、華は則ち雪をおかし春に先んじて風騒の
   友となり、実は則ち酸を含み渇を止めて軍旅の用となる。
   嗚呼備えあるものは患いなし。
 
 
 
 
                
                   徳川斉昭公
 
 
 
 
 
 
 

 笠間「春風萬里荘」

 
 
 JR水戸駅の南口でレンタカーを借りて、私たちは笠間の「春風萬里荘」に向かった。
「春風萬里荘」はかつて北大路魯山人が北鎌倉の山崎で、数千坪の田園を借りて住んでいた時に住居としていた、江戸時代の相州相模川近郊の大庄屋の家屋を、魯山人が移設させたものであったという。
 
私たちは水戸駅南口から午前中に訪れた偕楽園近くを通り、国道50号線に乗って西進して、一路笠間を目指した。
 
途中立花さんが、先ほどの弘道館の「種梅記碑」に書かれていた一文を話題にした。
「柳沢さん、先ほどの徳川斉昭が書いていた冒頭部分にあった、『幼少のころ梅樹を好んだ』という文の事なんですがね、私はあの一文を読んで後鳥羽上皇の事をちょっと思い出したんですよ・・」そう言って私のほうを見た。
 
私は運転していたので、そのまま前を向いて、
「どんなことですか?それは・・」と立花さんに聞いてみた。
「えぇ実はですね、後鳥羽上皇という人物はですね、現在広く使われている皇室の紋章である菊の文様を初めて使った上皇でしてね。
そしてその理由というのがですね、上皇が菊花を好んだから、と言われてましてね・・」と説明を始めた。
 
「なるほど、菊花と梅樹ですか・・。それで連想したってわけですか・・。そういえば後鳥羽上皇は確か、承久の乱を起こした上皇でしたよね、鎌倉時代前期に・・」私が学生時代のかすかな記憶をたどってそう言うと彼は、
「えぇその通りですね、よくご存じですね・・」と呟くように言った。
「これでも一応日本史得意だったんですよ高校生の時まで、でしたがね・・」私はそう言ってニヤリとした。続けて、
 
「皇室の紋というのはもっと古くからあったんじゃないんですか?そのぉ鎌倉時代よりも前から・・」と私が言うと立花さんは、
「いや鎌倉時代に入ってかららしいですね、家紋に詳しい方から聞いたので間違いないようです・・」と言って、更に
 
「家紋の誕生はもともとは、平安時代の貴族が自分の牛車を間違えないように、自分の好みのしるしをつけて他の牛車と区別するところから始まったという事でしてね・・」と解説してくれた。
 
「ホウそうなんですか・・」私がそんな風に感心していると、
「始まりはそんなところから、らしいんですが世間一般に普及し始めたのは平安末期の源平の戦いあたりから、という事らしいですよ実際には・・」と立花さんは家紋について更に語り始めた。
 
 
「源氏と平氏の戦いで、敵と味方を区分するために旗印を使い始めたことからスタートし、鎌倉時代にかなり発達していったようでしてね・・」と続けた。
「あ、なるほど源氏が白旗で平氏が赤旗と云った感じですか・・」私がそう合いの手を入れると、立花さんは
 
「それは最も初期の頃のことで、当初は判りやすくてシンプルな旗印だったわけです。
それが次第に武士の動きが全国で活発になり、しかも御家人たちが参集して軍団を形成するようになってから、段々と敵味方の区分だけではなく、自分の所属する氏族や郷党を区分したりアピールする、家紋にと発展していったという事でしてね・・」と付け加えた。
 
「あぁそういう事ですか、それで武士が台頭していった鎌倉時代に家紋が発展して行ったというわけですか・・。なるほどね」私は今の説明で、何故鎌倉時代に家紋が発展していったのか、しっかりと理解することが出来た。
 
「でその風潮が朝廷にも波及した、ってわけですか・・。という事はそれまで朝廷などでは家紋というか紋章は使ってなかったんですか?」私は疑問に思って、そう聞いてみた。立花さんは何度か頷いたうえで、
 
 
「朝廷は下々の者を超越した存在という事で、敢えてそのような紋章を使う必要がなかった、というわけです。当時は別格の身分でアマネク知れ渡っていた存在だったから、必要なかったという事ですね・・」彼はそう言った。
「なるほど、だれもが知っていて、あえて紋章や家紋で知らしめる必要すらなかった、という事ですか・・」私が確認するように言うと、
 
「まぁそういう事ですね。でそんな風に考えると朝廷が紋章や家紋を使うようになった、という事はそれだけ朝廷の存在価値や意義が、相対的に薄れてきたから、だったのかもしれませんね・・」立花さんが言った。
 
「あぁなるほどですね。関東に鎌倉幕府が出来てそっちが権力を持ち始めたから、京都の朝廷の地位が相対的に低下してしまって、あえて自己主張する必要が出てきた、というわけですか、なるほど・・」私は立花さんの話で、朝廷が紋章を使い始めた事に何となく納得がいった。
 
「それで後鳥羽上皇は自らが好んだ菊花の紋を使うようになったと・・」私が呟くように、そう言った。
「承久の乱という戦さで、その後鳥羽上皇の朝廷の軍隊であることを、敢えて知らしめる必要があったんでしょうね、キット・・」立花さんはそう言って、紋章と戦さとの間に深い関係があったことを示唆した。
 
「あぁ、なるほどですね・・。朝廷が菊花の紋章を使うようになったのも、やはり戦争が関わっていたと、そういうわけですね・・。なるほどですね・・」私は紋章が旗印として使われることで、発展してきたことの意味が、ようやく判ったような気がした。
 
「そういえば、戊辰戦争の時も朝廷の菊の紋章は『錦の御旗』として使われたんでしたよね・・」私はフと、頭に浮かんだことを呟いた。
「あれは確か、数で劣る薩長の西郷隆盛軍が徳川慶喜の幕府軍に対して用いた、というのが始まりだったようですね・・」立花さんがそう言った。
 
「そうです、鳥羽伏見の戦いで、ですね・・」私がフォローした。
「やっぱり家紋と戦争や戦いとは、深いところでつながってるんですね・・」おかげで、私は大いに納得することができた。
 
 
しばらく道なりに行くと、立花さんが、
「何となく山が視界に入るようになってきましたね・・。友部あたりですか・・」と誰に言うともなく言った。
 「左手に見えるのが筑波山ですから、これから筑波山山系の裏側というか北側を行くことになりますね・・」私が言った。
 
「という事はこちら側は栃木県との県境に成るわけですね・・。益子の方面に成るのかな・・」立花さんは手を右側に向けてそういった。私は運転しながら肯いた。
 
「そういえば笠間と益子というのは山の手前側と、山越えの向こう側という関係に成りますね、確か信楽と伊賀の関係もこんな感じでしたかね・・」立花さんが私に聞いてきた。
「えぇそうですよ、よくご存じですね。
向こうは滋賀県の信楽と三重県の伊賀といった感じで、やっぱり山並を県境にして二つの代表的な焼き物の里がありますね。笠間と益子と同じですね・・」私が応えた。
 
「やはり焼き物の事は、詳しいですね柳沢さん・・」立花さんは感心するようにそう言った。続けて、
「僕も2・30年前に益子に行ったついでに笠間にも立ち寄ったことがあったんですが、3・40分くらいしか離れていない山の向こうとこっちでずいぶん作風が違うな、といった印象を持ったんですけどね・・」と立花さんは言った。
 
 
「ホウ、でどっちがどうだったんですか?その笠間と益子の違いは・・」私は立花さんの感じた二つの産地の違いに興味を持って、聞いてみた。
「そうですね、一言でいえば益子のほうが伝統的というか土着的で、笠間のほうはあまりそういった伝統的な印象が少なく、むしろ新しい陶芸家たちのチャレンジャブルな作品が多かったような気がしましたね・・」とその印象の違いを立花さんは語った。
 
「あぁ、そうですか。実は私も同じような印象を持ってますよ、ひょっとしたら濱田庄司の影響が強いのかもしれませんね、益子は・・」私がそう言うと、
「柳宗悦の影響を受けた、民芸陶器の作陶家濱田庄司は益子を拠点にしていたんですよね、確か・・。僕も彼の窯跡に行ってきましたよ・・」立花さんはその時を思い出したかのように、そう言った。
 
「そうでしたか立花さんも行かれたんですか・・。やはり益子の陶芸家たちにとっては濱田庄司の存在は大きかったんでしょうね・・。彼は人間国宝にも成ってましたし・・」私がそう言うと、立花さんは、
 
「確かに彼の作品は存在感があって、他の益子焼とは次元が違ってましたよね・・。彼が人間国宝に選ばれたのも理解できますよ・・」そう言って何回か頷いていた。
ちょっとした間があって、
 
 
「そういえば魯山人は、柳宗悦の事を結構クサシていましたね、民芸運動の事も・・」と立花さんが思い出したようにそう言った。
「そうですね、おっしゃる通りです。彼の出した機関誌などの『陶芸論』の中で、ですね・・」私はニヤリとして言った。
 
 
「昨日言われてました、例のノンフィクション作家はその点についてはどんな風なことを書いてたんですか?私は『白崎英雄の魯山人観』の影響を受けてしまってるもんですから・・」立花さんはそう言って、ニヤリとした。
 
「そうですね私も詳細を覚えてるわけではないんですが、柳宗悦や民芸運動の人達に相当噛みついていたのは確かですが、魯山人自身はその持論への民芸運動家達からの反論というか、自分達の考えを正面からぶつけて欲しかったのではなかったか、といったような事を言ってたと思います・・」私は思い出しながら、言った。
 
「なるほど正面からぶつかって、四つ相撲を取りたかったんですか魯山人は・・」と、立花さん。
「ところが柳宗悦達は、それに応じてくれなかったと・・」私が言った。
 
「柳宗悦たちは高踏派というか、お上品な白樺派の人たちのグループだったようですからね。魯山人の様に下から這い上がってきた人物とはちょっと違うんですかね・・」立花さんはそう言って小さく笑った。
 
「そうなんでしょうね、一緒に相撲を取ってほしかったけど無視されて、相手にされなかった・・」私が言った。
「それでますます血が頭に上って、口撃が激しくなったと・・」立花さんがやはりニヤリとして言った。
 
「魯山人は自分の考えや意見をはっきり言うタイプの人間だったけど、ちゃんと一緒に相撲を取ってくれる人に対しては、相手に力量があれば素直にそれは認めたと。
 
実際のところ棟方志功・加藤唐九郎・岡本太郎とはそういう関係であったと・・」私はノンフィクション作家の書いていたことを思い出しながら、そう言った。
 
「なるほどね・・。好敵手の現れるのを期待していたわけですか、魯山人は・・」立花さんはそう言ってとりあえず納得したようだった。
 
 
国道50号線の「寺崎」の交差点に差し掛かった時、JR笠間駅の交通標識が現れた。
「ぼちぼち曲がるんですかね、確か笠間駅の向こうっ側でしたよね春風萬里荘・・」と立花さんが言った。
「ええそうなんですけどね、私の調べた感じではもう少し行くと国道355号線の笠間バイパスがクロスするはずで、そこを左折したほうが結果的には早く着くようですよ、春風萬里荘には・・」私はそう言って、もう少し先に行くことを提案した。
 
立花さんは前かがみでカーナビを操作して『広域MAP』にして、道路の位置関係を確認し始めた。
「確かに、そのようですね。確認取れました・・」立花さんはそう言って、姿勢を戻した。
「相変わらず慎重ですね・・」私がニヤリとしてそう言うと、
「お気に障ったら許してください。まぁ僕の性分でしてね・・」と立花さんは言って苦笑いした。
 
しばらくそのまま国道50号線を走って私たちは、「石井」の交差点を左折して355号線に入った。その笠間バイパス(R355)を道なりに南下して行った。
 
 
「ところで春風萬里荘ってどんなところなんでしたか?かつて魯山人が北鎌倉で住んでいた家らしいですけど・・」立花さんが私に聞いてきた。
「そうですね・・。建物自体は古い大きな農家の家、って感じですかね。
江戸時代中期の座間だったか大和だったかの相模ノ國の大庄屋の屋敷だった、らしいですから・・」私が軽く説明した。
 
「私の記憶では古い建物で、立派な柱や梁が骨太でとても見事だったと思います。その印象が強かったですね・・。
それに茶室や枯山水の石庭も屋敷内に在ったし、建物の正面には大きな池や小さな川も流れていたりで、築山もありましたよ・・」私は続けた。
 
「そうすると当然草花や樹木も、それなりに配置されているんでしょうかね・・」立花さんが呟いた。
「その様でした」
「それも魯山人好みで、ですかね・・」
「それは何とも判りませんが、その可能性は高いと思いますよ。
何せ北鎌倉の魯山人の世界を再現した、といったようなコンセプトでそこは造られたみたいですから・・」私はそう言った。
 
そうこうしている内にJRの水戸線の跨線橋を越え、水田地帯の中の『下市毛』という処で、『春風萬里荘』の案内看板を見つけて、そこを右折して入って行った。
狭い生活道路をくるくる回って、「春風萬里荘」の入り口の長屋門向かいの駐車場に車を停めた。
 
2・30年ぶりの私の記憶にはほとんど残っていなかったが、その長屋門を入ると左手に見覚えのある庭園が現れた。私たちはそのまま、右手に在った住居に向かった。
江戸時代中期の大庄屋の屋敷を移設したものだという。
相変わらず存在感のある立派な建物だった。
 
 
入ってすぐ左手の石造りの暖炉の在る部屋で、しきりに立花さんがその暖炉の事を羨ましがっていたのが印象的だった。
私はその部屋からガラス越しに見渡せる、庭の景色の事を褒めた。
 
陶製の魯山人が作らせたという「トイレ」や「風呂場」に感心しながら、靴を脱いで畳の部屋にと上がった。
 
すぐ左手の小さなギャラリーには魯山人の幾つかの作品や関連する本、資料といったものがガラス越しに陳列・販売してあった。
更に部屋の中に入って、船箪笥や衝立といったいわゆる民芸調の骨とう品や、魯山人の作品や、スポンサーの日動画廊のオーナーが収集したと思われる、数々の調度品を私達は批評したり賛美しながら建物内部を見廻り、回遊した。
その上で私たちは廊下を廻って枯山水の庭園を観たり、居室を覗くなどしてしばらくの間室内で過ごした。
 
 
母屋をグルッと観終わった後、私たちは庭園を散策することにした。
立花さんは
「話は変わりますが、柳沢さんは銀閣寺近くの橋本関雪の住居跡というか、美術館に行かれたことはありましたか?」と尋ねてきた。
「いや、行った事、ないですね・・」と私が首を振ると、
 
「日本画家の橋本関雪が棲んで、創作に励んだ仕事場も兼ねた邸宅でしてね。
もちろん日本庭園付きですが、そこの事をちょっと思い出しましたよ、僕は・・」と言って、彼は話し始めた。
「ほう、で?」と言って、私は続きの言葉を待った。
 
「その邸宅もまた橋本関雪の美意識で統一されていましてね。
規模はここには到底及びませんでしたが、やはりその邸宅では『橋本関雪の世界』が体験できるんですよ。
 
向こうは銀閣寺の近くという事もあって、銀閣寺背後の東山の山々を借景にしていましてね、月の佳い夜などはさぞかし良い景色が自室や小さな池のホトリからでも、眺め愉しめただろうなと・・。
まぁそんな風に想像力が働いたもんでした・・」と、遠くを見るような目で立花さんは語った。
 
「こちらと比べると、どんな感じなんですか?優劣をつけるとすると・・」私が無粋かもしれない、と思いながら聞いてみると、彼は
 
「どちらが優れているとかいうものではないでしょう。
此処にはここの『魯山人の世界』が、この建物の中には満ち満ちていますしね。
それはまぁ橋本関雪と北大路魯山人の美意識や価値観の違いが、反映しているのではないかと、そんな風に想いますよ・・」と言った。
「優劣の問題ではないと・・」私がそう言うと、
 
「その通りです。どっちが勝っているとか優れているといった問題では無いと思います。
・・ただ私の想像力を掻き立てたのは橋本関雪の邸宅であった、のは確かですね・・。
ひょっとして北鎌倉の、魯山人が実際に生活した空間にこの建物が在って、その環境の中でここを見たとしたら、また違った印象を覚えたかもしれませんがね・・」立花さんはそう言った。
 
 
「なるほどね・・。確かに全体の中でこの建物を見るのと、建物だけ移設したとしてその切り取られたパーツだけ見るのでは、世界観が損なわれてしまう可能性もある、という事ですかね。確かに・・。
いずれにせよ立花さんはこの春風萬里荘の中を見て、京都銀閣寺の日本画家の邸宅を連想したわけですね・・。
 
因みに去年の奥多摩の川合玉堂美術館と比べてどうなんですかね、向こうは完全な山の中でしたけど・・」私はそう言って、去年の夏避暑を兼ねて二人で一緒に行った日本画家の元居住地で、今は美術館に成っている「川合玉堂美術館」を引き合いに出した。
 
「えぇ~⁉奥多摩の自然の中の美術館ですよねぇ、川合玉堂のは・・」立花さんはそう言ってから、
「ロケーションが全く違うでしょう。京都市内と奥多摩じゃぁ・・」と言うまでも無いといったような顔をした。
 
「無理ですか?同じ日本画家の同じアトリエ兼住居ですけど・・」私はそう言ってもう少し粘った。立花さんは「う~ん」と言って、少し考えてから、
「やはりね、玉堂美術館は全くの自然の中の一画を、日本画家の川合玉堂が遠慮がちに使わせてもらっている、という感じだったと思いいます。
 
それに比べ銀閣寺近くの橋本関雪美術館は、東山山系の麓とはいえ、表の道路に出れば多くの住民や観光客が行き交う市街地ですからね・・。さすがに比べようがないでしょう・・」と言って、それ以上は何も言わなかった。
 
「なるほどね、ロケーションが全く違うんですね、その橋本関雪美術館の場合は・・。
とすると此処のほうが玉堂の美術館に近いという事ですかね、京都の橋本関雪に比べて・・。まぁあくまでも相対的にでしょうけど・・」と言って、まだ見たことのない銀閣寺の橋本関雪美術館の事を想像した。
「そうですよ・・」立花さんは、当然でしょう!といった顔でそう言った。
 
 
私たちはそのような会話をしながら、庭内に広がる池や築山の紅白の梅樹やこぶしの樹の間を散策して、弥生三月の北関東の田園空間を愉しんだ。
 
そうしてやや日の傾きが感じられ始めた時刻には「春風萬里荘」を、春宵一刻を愉しむように、ゆっくりと出ることにした。
そのまま来た路をゆったりと戻り、長屋門を出て、駐車場にと向かった。
 
 
 
 
 
              
 
 
 
 
 
 

  魯山人のメタモルフォーゼ 

 
 
私たちは笠間の『春風萬里荘』を後にして水戸にと向かうことにした。
途中笠間焼の窯元や販売店に立ち寄ることも考えたが、夕方の5時近かったことや立花さんが自宅への帰りの時間を気にしていたので、そのままJR水戸駅に向かって帰ることにした。彼は数日前から水戸に来ていたこともあってか、帰りを意識していた様であった。
 
帰りの路は笠間バイパスを右折して、来た道には戻らず、そのまま355号線を友部のほうに向かうことにした。
ちょうどJR水戸線に沿って平野部に出て太平洋側を目指したことに成る。
しばらくして立花さんが聞いてきた。
 
 
「ところで柳沢さん、今回の茨城への目的は達せられましたか?」と。
「そうですね、今回は観梅も楽しめましたし、偕楽園や弘道館の開設に徳川斉昭が深く関わっていた事とか、いろいろ勉強になりましたよ・・」私は運転しながらそう応えた。
 
「春風萬里荘はどうでしたか?」彼は更に聞いてきた。
「そうですね、久しぶりの魯山人の世界に触れることができて、改めて彼の日常生活の中での美意識や価値観が、再確認できた気がしてます・・。
それに立花さんに京都銀閣寺の橋本関雪の事も教えてもらいましたしね・・。
 
尤も一番は、やはり北鎌倉山崎の、かつて魯山人の棲んでいた辺りに行かないと・・。と思ったことですかね。これも立花さんのおかげですが・・」私は信号で止まったすきにそう言って、彼を見てニヤリとした。
 
「はっはっは、それは好かったですね・・」立花さんは苦笑いのような笑みを浮かべ、そう言った。
「やはり、現地に行かないとダメなんでしょうね・・。
立花さんが安田義定を求めて甲斐の國山梨に行ったり、駿河や遠江の國・京都・越後にと現地を見に行かれたように・・」私はそう言って、立花さんに確認の意味で尋ねてみた。
 
「そうですね、それは基本だと思いますよ・・、現場第一っていうかね。
やっぱりね、書物や資料を見て判ることはもちろんありますけどね、やはり現地に行って自分の目で見て、確かめてくることですよ・・。それが一番ですよ・・。
それに現地に行かないと気が付かないことも沢山ありますしね・・」立花さんはそう言って、さらに続けた。
 
「それから現地に行ったら、やっぱりいろいろ考えてみることですよね、目の前にあるものを見ながら・・。
その時にインスピレーションが湧いてくる事も、結構あるんですよ。
僕はね、体を動かしながら考える時ってインスピレーションが起き易いような気がします。何となくですけど・・」立花さんは私に諭すように、そう言った。
 
 
「それが立花さんのやり方ですもんね・・。
でもあれですか、八百年も前の鎌倉時代の事が、今でも判ったり出来るもんなんですか・・」私はずっと疑問に思っていたことを、この時とばかり聞いてみた。
 
「もちろん判る事と判らない事とがありますよ、それはね・・。何でもかんでも、というわけでは無いです。
やっぱり八百年という歳月は無視できませんから・・。
 
でも幾つかヒントに成ることが現場に行くと判ったり、気づくこともあるんですよ。
それに先ほども言いましたが、イマジネーションが豊かになったりインスピレーションが湧くこともね・・」と立花さんは自分に言い聞かせるように、そう言った。
 
「なるほどね、そういうもんですか、・・勉強になります」私はそう言いながら、自分自身にも言い聞かせた。
 
 
「ところで最近柳沢さんは、魯山人に興味や関心が起き始めたようですけど、どんなアプローチを考えているんですか?やっぱり展示会や美術館巡りが中心になるんですか?」立花さんが聞いてきた。
 
「そうですね・・。私も立花さんの影響を受けて、もう一歩踏み込んでみようかなと・・。ちょっと考え始めてるところでして・・。で、先ほども伺ってみたんですよ立花さんの方法論を・・」私が応えた。
「ほう、そうですか。そうすると北鎌倉辺りを訪ねることに成るんですかね・・」立花さんがこちらを向いて、聞いてきた。
 
「そうですね、それも考えてます。先ほど貴重なアドバイス頂きましたから・・。
北鎌倉の魯山人の住居跡近郊に行って、今日見てきた『春風萬里荘』の事を考えてみたいと思っています。
ジグソーパズルみたいに嵌め込んで・・。
 
そのぉ切り取られたパーツだけを見るのではなくって、全体像をですね・・。
かつて晩年の魯山人が棲み、愛した北鎌倉山崎の自然環境の中に先ほどの『春風萬里荘』を据え置いて・・。
 
立花さんのように月観や雪観・花見までイメージできるかどうかは判りませんが、そういった田舎暮らしの、自然豊かな環境の中に春風萬里荘を嵌め込んでみて、もう一度魯山人の生活に想いを馳せるのもありかな、と・・」私は応えた。
 
実際のところ私は春風萬里荘で立花さんが語った、銀閣寺近くの橋本関雪の邸宅でイメージした事にちょっとした刺激を受けていた。
もちろん自分に彼のようなイマジネーションが湧いてくるかどうかは、判らない。未知の部分であるのだが、それも試してみたいと、そんな風に思い始めていたのだった。
 
 
車が笠間市の旧友部町辺りに入って、水戸方面に向かう水戸バイパスと、そのまま355号線を南下して石岡・土浦方面に向かう分岐点に、さし掛かった。
私たちはそのまま水戸バイパスに向かって、JR水戸駅を目指した。
 
 
「ところで柳沢さん、魯山人の実績は大きく分けると『書』『陶磁器』『美食』とに大別できるようですが、その中の何に最も関心があるんですか?柳沢さんとしては・・」と立花さんが聞いてきた。
 
「えっ!何に関心があるか、ってですかぁ・・。ん~ん、なかなかねぇ・・。
まぁ強いて言えば全部ですね、3つとも。そうですね全部です、私の興味の対象は・・」私はそう言って、ニヤリと笑った。
「あははそうですか、全部ですか、それはそれは・・」立花さんはそう言って大きく笑った。
 
「やはりですね、魯山人の魅力は『陶磁器』を筆頭にして、『書』にも関心がありますし、『食べ物』にも興味ありますよ。
別々の世界の事ではなく、それらが複雑に絡み合っている点がやっぱり、魯山人の魅力ですからね・・」私はそう言って、多少補足した。
 
「確かにそれらはいずれも、お互いに関係し合っているようですよね。彼にとってそれらは別個の事じゃなくって、互いに関係していて不可分な存在だと・・。
『器は料理の着物』と言ったり、茶室に架けられる掛け軸には、『掛けられ得る掛け軸』とそうじゃない掛け軸が有るとか無いとか、そんな様なことを言ってましたっけね・・」立花さんがそう言った。
 
 
「多分、魯山人の中では『生活の中の美』といったようなものがコアな部分にあって、そこから派生して『食べ物』や『器』そして精神世界に最も近い『書』に繋がっていくんだと思います・・。
魯山人という人間がしっかり存在しておって、そこから『食べ物』や『器』『書』に興味や関心が向かって行くんだと・・」私がそう言うと立花さんは頷きながら、
 
「なるほど、確かにそれはありですかね・・。
食事は毎日三度三度と避けては通れないものだから、『日常生活の中の美』を追い求めれば当然『食べ物』に関心は向かいますよね。
その流れでそれらを盛りつけたり、生活の小道具として、毎日身近に接し続ける陶磁器にも波及していく。
 
そしてそれら日常茶飯にコダワリが続くと、今度は逆に日常からかけ離れた、精神世界に向かっても行く。
・・それが自分自身と向き合う場面でもある、『書』という事になるわけですね・・。
 
そしてその発信源というか源を追い求めて行くと、結局は『魯山人という一個の人間』に辿り着くんだと・・。
なるほどね、なんとなく判りますね・・」
 
そう言って彼はしばらく、そのことを自分の中で咀嚼し始めた。
 
 
「まぁそういった事なんですよ、魯山人の魅力は・・。
それとですね、実は今私が一番調べてみたいというか、確認してみたいことがありましてね。それをこれから、ちょっと調査・研究してみたいなと、そんな風に想ってるところでして・・」私がそう言うと、
 
「柳沢さん、それ聞きたいですね。あなたが今一番調べてみたいとかいう事・・」
立花さんが私のほうに向き直って、興味津々といった風に聞いてきた。
 
「興味ありますかぁ・・」私はちょっとおどけ風にそう言ってから、
「実はですね、前からずっと気に成ってた事なんですがね、どうして魯山人は人間国宝に指名されることを拒み続けたのかですね、そのことがとても気に成ってまして・・」私がそう言うと、立花さんは、
 
「あぁ、そのことですか・・。確かにそれはありますよね・・。
しかも僕の記憶が間違ってなければ、二度その打診を断ってませんでしたか、魯山人・・」と言って私に確認してきた。
 
「ハイ、そのようですね・・。例のノンフィクション本にも書かれてましたし、たぶん白崎英雄氏の本にも書かれていたと思いますけど、魯山人自身その打診を受けていた頃は、積み重なった税金の支払い問題なんかで、生活はかなり逼迫していたらしいんですよね。
そんな生活にゆとりが無い時に、頑なに人間国宝に成ることを拒んだ・・」私が言った。
 
 
「確か小山富士夫がその窓口に成っていたんでしたっけ、魯山人との交渉役・・」と立花さんが呟いた。
「えぇその様です・・文化庁だかの技官としてですね。
人間国宝という政府のお墨付きが得られれば、彼の創り出すモノの市場価格は跳ね上がるだろうし、税金の取り立てにやかましかった税務署だって、当然対応は違ってくるでしょう。何せ国家のお宝なんですから・・。
 
政府から給付される年金だって数段上がるんでしょ確か・・。
逼迫気味の当時の彼の生活を考えたら、当然受けるのがフツーだと・・」私が多少興奮気味にそう話すと、
「にも拘わらず、彼は頑として受諾しなかったと・・」立花さんが相いの手を入れた。
 
「そういう事なんです、まったく・・。私には理解出来ませんよ・・」と私が言うと、
「なるほどそれで、なぜ彼がそんなに頑なに人間国宝を辞退し続けたのか・・。
その原因を調べてみたいと、そう想っているんですね、柳沢さんは・・」立花さんが私に確認するようにそう言った。
 
 
「えぇ、そうなんです。それに立花さんもご存じなように、彼は若い頃は非常に上昇志向の強い人間だったでしょ。白崎氏の本にも書いてあったと思いますが・・。
 
婚外子という自分の出自を恥じてもいたし、当時の最低限の教育しか受けていなかった自分に、相当コンプレックスも抱いていた。
そんな社会の底辺から這い上がって行った彼は、当然のように上昇志向というバネが必要だったと・・」私はそう言った。
 
「そんな上昇志向の強い人間が、何故美術や工芸の世界に生きる人にとって、最高の社会的な評価でり名誉でもある人間国宝の称号を、晩年の魯山人は受けようとしなかったのか、その事が気に成ってるってわけですね、柳沢さんは・・」立花さんはそう言って、私の心中を自分なりに解釈し、確認する様に説明した。
「えぇその通りです・・」私はそう言って、立花さんの推察を肯定した。
 
 
「因みに現時点では、どのような推測というか考えを持ってるんですか柳沢さん・・」立花さんはそう言って、更に私に聞いてきた。
 
「そうですね、これまで私が読んできた本や資料から類推して言える事はですね、魯山人という人間は何回か脱皮を繰り返してきて、人間的な成長を続けてきたんじゃないか、とですねそんな風に思っているところです・・」私は応えた。
  
「脱皮を繰り返し、人間的な成長を繰り返し続けて来た、と云うと・・」立花さんはそう言って、私に確認するように、私の方を振り向いた。
 
「ちょうど卵が→青虫に成り→更にサナギに成って、木枯らしが吹きすさぶ厳しい冬をやり過ごして→最後は春には美しい蝶に成って青空を飛び回ったと・・。
魯山人はそんな風に、成長と脱皮を繰り返して来たのではなかったかと・・」私はこれまでずっと考えていた事を、立花さんにそう話した。
 
「メタモルフォーゼ、ですかね・・」と立花さんは、呟いた。
「メタモルフォーゼ⤴ですか?」私は初めて聞く言葉にちょっと戸惑った。
 
「えぇ”メタモルフォーゼ”です。生物学の用語でしてね。
蝶々のように成長の過程で生態を替えながら、まったく違う個体に『態を替える』=変態を繰り返す生き物の態様を、そう言うんですよ・・」と、説明をしてくれた。
 
「あ、なるほどね。確かに・・。
そうですか生きて成長しながら、生態を替えていくわけですね。蝶々の様に・・」私は立花さんのその言葉が、妙に納得いって腑に落ちた。
 
「あるいは蛾の様に、ですね・・。あはは」立花さんはニヤリとしてそう言って笑った。
「あはは、確かに蝶も蛾もおんなじですね・・」私もつられて笑った。
 
 
ちょっとした間が開いて、
「ひょっとしたら彼のその脱皮を促したというか、介在したお産婆さんのような役回りをした人がいたのかもしれませんね、上昇志向の強い魯山人に対して・・」立花さんはそう言って、さらに続けた。
 
「誰か心当たりはありませんか?柳沢さん。
・・確か私の記憶では京都の実業家で、早くに家督を弟だかに譲って、悠々自適な生活を送っていた風流人が居ませんでしたっけ?若い頃の魯山人に影響を与えた・・」と言ってきた。
 
「えぇ~っと、内貴、内貴清兵衛ですかね、彼が例の清水寺での日本画家との共同生活を斡旋したんですよ、確か。
京都の実業家で家督を早くに弟に譲って、若くて才能ある文化人達に援助を惜しまなかった、パトロンというか支援者だった風流人ですね、彼は」
私は記憶の糸をたどりながらそう言った。
 
「それに金沢だかのやっぱり風流人で細野何とかという人とか・・」立花さんも思い出したのか、そんな名前を口にした。
「昨日も言ったかもしれませんが、細野燕台の事ですか?
魯山人が金沢というか北陸を遊行していた時に食客と成って逗留し、何かと支援してくれた人物でしたネ・・」私がそう言うと、
 
「確かそんな名前でしたかね、その細野何とかの斡旋で北陸のその世界の人達に引き合わせて貰ったとか・・。確か山中温泉辺りの陶芸家や漆器職人達も紹介してくれたんですよね、その細野なにがしは・・」立花さんが続けた。
 
 
「細野燕台ですね、それは・・」私はそう言ってから、細野燕台とは違う人でそれこそお産婆役に相応しい人物がいたことを思い出した。
「そのぉ魯山人にとってのお産婆役という事だと、細野燕台よりももっと相応しい人物が居ましたよ、金沢に・・」私はそこまでは思い出したが、その時はどうしても彼の名前を思い出すことができず、
 
「昨日居酒屋でもちょっと言ってたんですけど・・。
今名前がちょっと出てこないんですけど・・。金沢の料亭の主人で、魯山人の事を我が子のように可愛がってくれ、魯山人自身もまた実の親のように慕った。
金沢では有名な数寄者というか大茶人と云われていた彼の方が、細野燕台よりもお産婆役には相応しかったかもしれません・・」と私は言った。
 
「まぁお互いにね、なかなか映像は頭に浮かんでも、名前が出てこない事ってよくありますよね・・、年取った証拠ですかね・・あはは。
そういえば白崎英雄の『北大路魯山人』にもそんなことが書いてあったような・・」立花さんは笑いながら、また記憶の糸をたどり始めた。
 
 
しかし残念なことに、二人ともその時はその人物の名前を結局思い出せないままであった。
私は車を運転していたのでそれ以上はどうすることも出来ず、その金沢の大茶人の事を思い出せないままに運転を続けた。
 
そうこうしている内に私たちはJR水戸駅に着くことができた。
そのまま南口のレンタカー会社に、無事到着した。
 
ガソリンを補給し、車の返還手続きを済ませると、私たちはその足で駅ビルにと向かった。
 
立花さんが今日中に、自宅に帰る予定でいたから、パタパタと駅に向かって行ったのだ。
 
私自身は昨日のホテルにもう一泊する予定であったのだが、彼は明日の午前中に人と会う約束をしていて、今日中に戻らなくてはならない事情があったのだ。
 
 
 
 
 
 
        
 
 
 
 

  料理で大切なこと

 
 JR水戸駅で時刻を確認したら、20時前の特急に乗れば2時間ちょっとで自宅のある国分寺には着くことが判って、立花さんは早速特急券を購入した。
 
まだ1時間半以上あったので私たちは、駅ビル内のレストラン街で食事をとることにした。エスカレータを使って6階のレストラン街に直行した。
レストランでは昨日と同じく和食の店を選んだ。なぜか北海道料理を出す、という店があったのでそこを使うことにした。
 
運よく個室が空いていたので、「ラッキー」とばかり私たちはそのまま個室に入って早々に着座した。
飲み物と小鉢の詰め合わせのようなセット料理を頼んでから、私たちは再た話を魯山人にと戻した。
 
 
私はタブレット端末をカバンから取り出して、早速操作して先ほどの金沢の料亭の主人の事を確認した。
 
「あぁ判りました、思い出しましたよ太田多吉ですね。料亭『山の尾』を経営していた人物で、金沢では当時の有名な茶人です。
 
なんでも彼は光悦の『赤楽茶碗』を所蔵していたらしいんですが、魯山人が一目惚れしてその茶器を飽かずに眺め続けたのを見て、
『そんなに気に入ったのなら、君にやろう』といって彼にプレゼントした、というエピソードを持ってますね・・」と言ってから私は、タブレットに映し撮っておいたノンフィクション作家の本の抜粋を、立花さんに見せた。
 
「なるほどね、そうでしたか・・。本阿弥光悦の赤楽茶碗ということであれば、結構な値が付いたでしょうに・・」彼はそう言いながら手に取って、しばらく読んでいた。
 
「なんでも当時の価値でいえば家が一軒は買えた、という価値があったようですよ・・。それを太田多吉は犬の子でもあげるように、魯山人にプレゼントしたらしいです・・」私がそう言うと、
「ほぅ、よほど気が合ったというか、魯山人の人となりを見込んだということですかね・・」立花さんがタブレット端末を観たまま、言った。
「そうかもしれませんね・・」私は頷きながらそう言った。
 
 
「いずれにしてもですね、その魯山人のメタモルフォーゼを促した産婆役を務めたと思われる、先ほどの内貴清兵衛でしたか、それから細野燕台でも太田多吉でもどちらでも好いんですが、彼らがキーマンであることには違いないと、そう僕は想うんですよ・・」立花さんは私にタブレットを返しながらそう言って、私を見た。
 
「確かにそうですね、それは間違いないと私も思ってます・・」私は肯いてそう言った。
「であればですね、彼らの事を調べてみては如何ですか?柳沢さん。
僕があなたの立場だったら、迷わずにそうしますけどね・・」立花さんの口調が熱を帯びてきた。
 
「はい、そうですね・・」とりあえず私はそう応えたが、実際にはどうしていいのかさっぱり見当がつかなかった。
「仮に、内貴清兵衛や太田多吉の事を調べる、としても一体どうやったらいいんですかね・・」私は具体的に何から手を付けていいのか判らなく、そんな風に言うしかなかった。
 
「そうか・・」立花さんはそう言って、
「こういうこと未だやったこと無かったんでしたか、柳沢さん・・」と続けて、
「じゃぁ僕のやり方で良かったら、参考にされますか・・」と言ってくれた。
「すみません、宜しくお願いします」私はそう言って、立花さんのコップにビールを注いだ。立花さんはコップのビールを一口飲んでから、おもむろに話し始めた。
 
 
「まずはですね、先ほども言ったと思いますが、現地に行くことですね。
その内貴清兵衛や太田多吉が生活したという家の跡とか、料亭の跡をですね、尋ねることから始めたらいいと思います・・。
さっき北鎌倉の魯山人がかつて生活した場所に行ってみる、とおっしゃったようにですね、現地を訪ねるコトでしょうね・・」立花さんは言った。
 
「なるほど京都や金沢の内貴清兵衛や太田多吉縁りの場所に、行ってみるコトなんですね・・」私はそう自分に言い聞かせるように言った。
 
立花さんは頷いて、さらに続けた。
「そうです。彼らが生活した場所の、多分跡地に成るでしょうが、そこの空気を吸ってみたり、景色を見てくることですね・・。そこで何かを感じることや気づくことがあると思いますよ、キット・・。
 
とはいえ、そこでは感じることや五感を満たすことは出来ても、具体的に役立つ知識や情報は見つからないと思いますので、知識や具体的な足跡といったそっちの情報は、京都市や金沢市の図書館を訪ねたほうが良いと思います。
 
図書館に行けば、何らかのヒントに繋がる情報が得られる可能性があります・・」立花さんが自信をもって、そう言った。
 
「お勧めですか?」私が聞くと、彼は大きく肯いて、
「私はいつも地元の図書館に行って、必要な情報を得るようにしています・・。役に立ってますよ僕にとっては、ですけどね・・」そう言って自信ありげに、私の目を見た。
 
「因みに図書館では、どうやって調べたりしてるんですか、立花さんは・・」私は具体的な方法を聞いてみた。
 
「基本は郷土史コーナーですね。京都なら京都の、金沢なら金沢の地元の歴史や、明治・大正・昭和の事が書かれている本とか資料をですね、探すことです・・。
その際あまり決め打ちして探すより、網は幅広く広げておいたほうが良いと思いますよ、無駄かもしれない、と思うような事もひっくるめてですね・・」立花さんが言った。
「思い込みで的を絞らないほうが良い、って事ですか・・」私が呟いた。
 
 
「まぁそういう事です。それから可能であれば悉皆調査されたほうがいいですね・・」と、立花さんは言った。
「シッカイ調査、ですか?」
「そうです、関連するかもしれないと思われる本や資料の目次レベルでよいので、一通り全部目を通すと良いでしょう」
 
「なんだか、時間掛かりそうですね・・」私がそう言うと、立花さんは真剣なまなざしでグッと私を見詰めて、
「やる気あるんですか⁉」と厳しい目で見て、押し黙った。
「いや、失礼しました。シッカイ調査やってみます・・」私はたじろぎながら、そう言って、立花さんに謝った。
 
「中途半端な気持ちでは、得るものは少ないですよ、たぶん。
『求めよ、されば得られん』・・。ですよ」立花さんは突き放すように、そう言った。
 
「あはい、肝に命じます・・」私は真剣な面持ちで彼の目を見て、そう返事した。
 
 
「ところで、せっかく京都に行くのなら清水寺の奥の、魯山人が若い頃日本画家と一緒にしばらく暮らしたとかいう、東山のお寺が在ると言ってましたよね。そこにも行かれたら良いんじゃないですか・・。
そのぉ魯山人が北鎌倉で生活することのきっかけというか、原体験に成ったかもしれない、と柳沢さんが言ってられたお寺にも・・」と立花さんは提案した。
「あ、そうですね・・」私は今度は、素直に頷いた。
 
「それから現地に赴く前に、出来ることなら事前の準備はしておいたほうが、後で後悔しなくて済むから良いですよ・・」と立花さんは付け加えた。
「すみません、それも・・」私はそう言って、立花さんに具体的には何をしたら良いのか聞いてみた。
 
「そうですね、京都や金沢に行く前に、インターネットやこちらのちょっと大きな図書館なんかで、下調べをしておくと無駄が少ないというか、それなりに効率は良くなると思います・・」立花さんは、先ほどよりは穏やかな目で、そう言った。
 
「ちょっと大きな図書館と言うと・・」私は呟くようにそう言った。
「そうですね、関東だと広尾の都立中央図書館が好いかな・・。使い易いし、蔵書も多いですからね・・」立花さんは具体的に都立中央図書館の名を上げて紹介してくれた。
 
私は立花さんのアドバイスを聞いて、早速タブレットで「都立中央図書館」の所在地を調べた。 
 
「広尾へは日比谷線でいいんですね・・」私は立花さんに確認するように、そう言った。
「柳沢さんは、千代田線の松戸でしたか?」立花さんが確認するように言った。
「あはい、正確には新松戸ですけど千代田線です・・」私はそう応えた。
「そしたら・・」立花さんがそう言いかけたので、
「えぇ、日比谷駅で日比谷線に乗り換えれば・・」と私は説明した。
 
それからしばらくして立花さんが、
 
「内貴清兵衛や太田多吉は、どちらかというと料理や茶器のお産婆さんということに成るんですかね?」と私にビールを注ぎながら、聞いてきた。
 
「そうですね、彼らとの接点は料理が中心でしたし、太田多吉の場合は料亭の経営者でもありましたし、彼自身が大茶人という事もあって、陶磁器や塗り物といった茶道具についても、いろいろ魯山人に教えたり指導もしていたんだと思います。
先ほどの『光悦の赤楽茶碗』もそうでしたけど・・」私はビールを注ぎ返しながら、そう応えた。
 
「なるほど、そうすると次は『書』ということに成りますか。残されたのは・・」と立花さんがちょっと考えるしぐさをして、そう問いかけてきた。
 
「『書』ということに成れば、彼本来の専門分野ですからね。自分でもいろいろ研究していたようでしたが、最終的には良寛和尚に行き着いたようですよ・・。
魯山人にとって良寛和尚は別格の存在だったようで、『良寛様』といって特別扱いしていたようですから・・」私がそう応えると、
 
「じゃぁ、ターゲットははっきりしているんですね、良寛和尚に・・。
ん~ん確かに良寛和尚の書く字は、品のある佳い字でしたよね・・。
そうでしたか、魯山人は良寛さんに行き着いてたんでしたか・・」立花さんはそう言って、しきりに感心していた。
 
 
「良寛和尚の書、ご存じなんですか?立花さん・・」私がそう尋ねると、
「えぇ、多少知ってはいますよ・・。
僕の学生時代の友人のお父さんが良寛狂いで、よく遊びに行くと、家のそこら中に良寛の字を模した『写し』が飾ってありましてね、それでいろいろ教えてもらったんですよそのお父さんに・・。
蔵書を見せてもらったりもしました・・」立花さんは昔を懐かしむような顔で、そう言った。
 
「そうでしたか・・。私は良寛和尚の文字にはまだ、お目にかかってなかったもんですから・・」私がそう言うと、立花さんは
「時々都内のデパートなどで企画展とかがあったりしますけどね・・。
もし何なら生まれ故郷の出雲崎に行けば『良寛記念館』が確かあったはずですから、尋ねてみたらいいですよ・・」と教えてくれた。
 
「出雲崎、というと・・」私が尋ねると、
「長岡のちょっと先ですよ日本海側の・・」と言って、新潟の出雲崎の場所を大まかに教えてくれた。私は早速メモ帳にそのことを書き記した。
 
 
「先ほどの人間国宝辞退の件ですけどね・・。ひょっとしたら良寛和尚に何かヒントがあるかもしれませんよ・・」立花さんはちょっと考えてから、そう言った。
「ほう・・」私はその先が聞きたくて、立花さんをじっと見た。
 
「晩年の良寛和尚は名僧としての評判が立ち、確か当時の藩の殿様や江戸の権力者から乞われたり、慕われたりしていたと思いますが、彼はそっちの華やかな舞台になびくことはなく、終生越後の弥彦山近郊の片田舎でひっそりと生き続け、世俗とはかけ離れた人生を送った様でしたからね・・」立花さんが説明してくれた。
 
「人生を悟っていた、という事ですか?良寛和尚は・・」私がそう言うと、
「まぁ、もともと彼は禅宗のお坊さんですからね、それが仕事と言えば仕事だったんでしょうけど・・」立花さんはニヤリとしてそう言った。
「あはは、確かに・・」私も笑ってそう言った。
 
「いずれにしても柳沢さんの一番気に成ってるという、『人間国宝辞退』のヒントはその辺りにあるのかもしれませんね、良寛和尚・・。
あ、それから若くして弟に家督を譲って隠居したという、先ほどの内貴清兵衛でしたか、彼の生き方も影響を与えているかもしれませんね・・」
 
立花さんは、腕を組んで自分に言い聞かせるように頷きながらそう言って、しばらく押し黙った。何かを考えているようであった。
 
 
 
             
 
 
 
「ところで、良寛和尚はしきりに『書家の書』『料理人の料理』はだめだという事を言ってたと、魯山人が引用していたんですが、それはいったいどういう事なんですかね・・」私は前から疑問に思っていた事を、立花さんに尋ねた。
「ほう、そうなんですかそんなこと言ってたんですか魯山人は・・」
「いやまぁ、良寛和尚の言ってたことを引用して、らしいですけどね・・」私が説明した。
 
「因みに柳沢さんは、ご自分で料理をすることはあるんですか?」と立花さんが、おもむろに私に聞いてきた。
「えぇまぁ、やらないこともないですけどね・・。私の場合は女房がいない時にもっぱら朝食とか、せいぜい昼食を作るぐらいで、まともな料理はさすがに・・」と私は応えた。
「そうですか、それは残念ですね・・」立花さんがそう言った。
 
「立花さんは、確かご自分でも結構作られるんでしたよね・・」私が聞いた。
「そうですね、僕の場合は昔から自分で作ることが苦ではなかったですしね・・。それに・・」
「それに?・・あぁそうでしたかお独りでしたもんね、何年に成るんですか?そのぉ独り暮らしを始められて・・」私は立花さんが離婚されてた事を思い出し、ちょっと聞いてみた。
 
「そうですね・・。ぼちぼち20年に成りますかね・・」
「あぁそうでしたか・・。という事は20年近くはご自分で料理をされている、という事ですか・・」私がそう言うと、立花さんは頷いてから、
「とはいってもチャンと料理をするように成ったのは、ここ5年ほど、退職してからですよ・・。それまでは休みの日ぐらいでしてね。やっぱり仕事してるとね・・」と言って話た。
 
 
「ところで魯山人や良寛和尚が言っていた、『料理人の作る料理はだめだ』という事なんですけど、どういう事だと思われますか?立花さんは・・」話が逸れ気味だったので改めて、そのことを聞いてみた。
 
「そうですね、たぶん商売で金もうけのために作る料理では限界がある、といったような事じゃないですかね・・」立花さんが言った。
「と言うと?」私は今一つよく理解できなくて、もう一度聞いてみた。
 
「昔帝国ホテルの総料理長だかを永く務めた、ホテルの経営者が言ってたんですけどね、料理を美味しく作るのには3つの要素が必要だ、という事でしてね・・」立花さんはそう言って、私を諭すように見た。
「あ、はい」私はそう言って立花さんの次の言葉を待った。
 
「一つ目は新鮮で良質な材料。二つ目はちょっとした料理を作る技術。
そして三つ目は、これが一番大事だって、彼が強調してましたが食べてもらう人への愛情だって、そう言ってましたね・・」立花さんはそう言って、判りましたか?といったような顔をしてニヤリとした。
 
 
「はぁ、そうすると商売の料理人は金を稼ぐために作るから、だめだってことですか・・」私はとりあえずそう言ってみたが、今一つそのことの意味がよく理解できなかった。
「まぁ、そんなところでしょう・・」立花さんはそう言って、話を続けた。
 
「柳沢さんは家族のためとか、大切な人のためとか、好きな人のためとか、そう言った人たちのために料理を作ったことがありませんか?食べる人に喜んでもらいたいとそう思いながら作る料理を・・」彼はそう言って、私を試すように聞いてきた。
 
「まぁ、あまりないですね。というか殆どありません。私の場合はお祝い事とかがあれば、レストランや料理屋にごちそうを食べに出かけるといった感じで・・」私はそう応えた。
立花さんは手の平を広げて肩をすぼめて、「それじゃぁ、仕方ないな」といった様なジェスチャーをして、それ以上は何も言わなかった。
 
 
それから、ちょっとした沈黙があって、 
「ところで柳沢さんは、魯山人の一体どこに魅了を感じているんでしたか・・」と立花さんが私に聞いてきた。
「えっ?魅力ですか魯山人の・・」私は突然のフリに戸惑いを覚えたが、
「やっぱり私の場合は、陶磁器ですかね・・。そもそもの出会いも彼の作った器に出会ったことから始まった、ですから・・」と応えた。
 
「なるほどですね・・。そうすると魯山人の作った料理にはあまり関心はなかったですか・・」立花さんが更に聞いてきた。
「そうですね、魯山人の器を使った料理というのは食べたりしましたが、彼の料理というのは・・」私が言うと、
 
「僕も魯山人の作った料理は食べたことありませんがネ。彼が好んで造った料理に関する本や彼が料理について語った書物は、幾つか読みましたよ・・」と立花さんは言った。
「はぁ・・」と私が言うと、
 
「魯山人はやはり素材には拘っていましたね。先ほどのホテルの料理長も真っ先に挙げてましたけど、料理は何と言っても新鮮な素材が一番だと・・。
それから技術の事はあまりうるさくは言わなかったですね。
むしろ京料理の料亭などで修業してきた料理人の事はあまり評価していなかったですね・・」立花さんが言った。
「やはり料理人の料理はだめだって、言う事なんですか?そうすると・・」私が答えを求めて聞いてみた。
 
「えぇ、彼は家庭料理を一番褒めていましたね。それも京都の家庭料理が一番いいと・・。いわゆる『おばんざい料理』、ってやつですね・・。
 
それとこれはまぁ技術とは違うんですが、素材が持ってる本来の味をしっかり感じられる料理が好い料理だ、といった様なことは強調していましたね・・」立花さんが更に説明した。
 
「それは素材が新鮮で、質の良い素材だってことですか?」私は先ほどの立花さんの言った事を思い出してそう言った。
「もちろんそれが基本ですけど、新鮮で好い素材であることを前提にして、大切なのは素材を殺す料理ではなくって、素材の持っている本来の味を活かす料理だ、ってことですかね。あんまり加工し過ぎないで・・」立花さんが諭すように、そう言った。
 
「あぁ、それって日本料理の本質ですね、好い素材を活かす料理・・」私も続けた。
 
「まぁそういう事でしょうね・・。だからお刺身の旨い店や野菜料理なんかでも、ちゃんと素材の味が感じられているかどうか・・、そういったことが肝心だと」立花さんは言った。
「あぁそうか・・。珈琲と同じですねそれって。
やっぱりおいしい珈琲は、その珈琲豆が持ってる本来の味がしっかり感じられますもんね・・。それは判りますよ私にも・・」
 
私は料理はさっぱりだったが、珈琲への拘りだけは人一倍強かったので、立花さんの話を珈琲に置き換えて、やっと理解することができた。
 
「それですよ!ソレ。その通りです。
その珈琲豆を野菜や魚料理に置き換えればいいんですよ!」
立花さんはこっちがビックリするくらいのリアクションで私を讃え、握手まで求めてきた。
私はその想定外のアクションに圧倒されたまま、苦笑いしながら握手を返した
 
 
私たちはその様な食べ物の話で、しばらく盛り上がっていたが、19時半を過ぎた頃には立花さんの特急電車に間に合わせるために、食事を切り上げることにした。
会計を済ませた後で階下のコンコースにと、私たちはやや急ぎ足で降りて行った。
 
コンコースで私は、立花さんに今回の観梅に付き合ってもらった事へのお礼を言った。
それから再会を約束して、別れの握手をしっかり交わし、改札口に入って行った立花さんの後ろ姿を、見送った。
 
その後で私はゆっくりと、水戸駅北口に在る三の丸のホテルにと向かって行った。
 
その時、生暖かい一陣の風が流れてきた。
一瞬、鼻を衝く梅の香りが感じられたのであった。
 
 
 
 
 
            
                        
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



〒089-2100
北海道十勝 , 大樹町


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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