春丘牛歩の世界
 
       温かい珈琲が欲しくなる時節
 
 
この時節、珈琲タイムが待ち遠しくなることがある。
私は朝食後、90分~120分ほどの「朝のワーク」を終えた後、3・40分ほどリフレッシュを兼ねて、自ら珈琲を淹れて飲むのであるが、この10日ほど前からはこの珈琲淹れの時間が、待ち遠しくなった。
 
最低気温が10度前後になり、時には5度以下に成ると、とりわけそんな気分になるようだ。
身体が、温かい珈琲を欲してるように思えるのはどうしてなんだろうかと、フト思うのだ。
それも温かい珈琲を飲んで寛いでる時ほど、そんなことを考える。
 
 
窓の外では、カエデや柏の葉が色付き、黄色や茶色の葉っぱが目に付き、その落ち葉なども緑の芝生を覆うのであるが、やはり秋が深まっているのだな、などと想うのである。
 
 
 
 
         
 
 
 
 
露地栽培のカボチャの収獲はほぼ終わり、今週中にはビニールハウスを畳まなくてはならないね、等と家人から言われ始めた。
この夏の間中お世話になったミニトマトや、茄子・キュウリ・パプリカ・小松菜・人参といった作物の収獲も、すでに終わり始めているのだ。
 
 
家の前の牧草も今年最後の三番刈りが終わった。
我が家周辺の農家では乳牛の飼育がメイン事業なのであるが、その農家さんも冬支度に向かい忙しいのである。
 
そんなことをツラツラ考えてると、刈り取られた牧草地に向かって白鳥やコガン・オオバンといった渡り鳥達が、大きな声で鳴きながら団体で降りてき始めた。
 
彼らはこの時期になるとシベリア辺りから、越冬のために日本列島にやって来るのだ。
 
中にはその先のフィリピンや東南アジアまで南下する鳥たちもいるらしいが、彼らの飛来は冬の訪れを私たちに予告させてくれもするのである。
もうすぐ、冬がやって来ますよ~と・・。
 
 
 
              
 
 
 
多くの鳥たちは北海道を経由地として立ち寄り、たっぷりの休息と栄養補給をした上で、さらなる暖かな地に向かって南下して行くのである。
 
刈り取られた牧草地には春から暑い夏を経て、つい数日前まで生息していた昆虫類や、土中の生物たちが沢山潜んでいて、それが彼らの栄養補給源になるのだ。
渡り鳥はそれらの栄養補給をするために、刈り取りの終わった牧草地にやってくるのである。
 
 
 
 
              
          
 
 
そして私たちもすっかり秋の深まったことを知り、薄手の春・夏衣装から厚手の晩秋・冬衣装にと、衣を替え始める。
 
食卓のメニューにも温かい汁ものが増えて、いよいよ鍋物が登場する。近年辛いモノに目覚めた家人のために、キムチ鍋やカレーうどんなども少しづつ登場する。
 
更に私の郷里の寒い季節の代表料理である、「ほうとう=鍋煮込みうどん」なども週に一度は食卓に現れる。
その時は家の露地でとれたカボチャが、大いに活躍することになる。ホクホクして、とても旨いのだ。
 
 
渡り鳥達が本州に向かって南下し始めると、一か月もしない内に私も本州に取材旅行に行くことになる。
半年に一度の、初夏と晩秋の行事である。新しく始める予定の物語の素材を補強するためである。
 
新しい情報や資料をゲットするのと共に、知人・友人たちとの情報交換を通して刺激をもらって、来年に向けての新作の材料を確保し、エネルギーを蓄えるのである。
 
晩秋から、冬に掛けての「玄冬」の時期は、私にとっても春の芽生えを準備するための、必要な期間なのである。
 
 
            
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
 
*6月2日:『近江之國編』に「六角征伐」と足利幕府衰退」を公開しました。同編はこれにて終了しました。
 『甲斐源氏の祖、源義光』は以上で、完結しました。
 
 *8月3日:『サッカーW杯』の「2026年北中米大会」の「『サッカー資本主義』ⅴs『サッカー民主主義』」を以って、今回W杯に関するコラムを終了することにしました。
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

                                     
                                     
     
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/2/20

ノーベル賞

 
先日のニュースに「阿部川餅首相がアメリカの花札大統領をノーベル平和賞に推薦した」といった記事を読んで、とっさにわが目を疑った。
エイプリルフールかと一瞬思ったが、すぐにまだ40日以上早いことに気づいた。
 
発端はどうやらアメリカ政府すなわち花札大統領自身からの依頼により、日本政府のお友達首相に推薦を依頼した事から始まった珍事、という裏話が明らかに成った。一連の珍騒動の構図である。
 
自己顕示欲や自己愛の強い花札大統領の自作自演なのだ。その自作自演劇にお友達首相が駆り出されたというわけである。
さしずめ彼の役割は、裸の王様の腰巾着のお友達ピエロといったところか。喜劇ではあるが、やはりエイプリルフールではなかったのである。
それを知らされた世界中の人々から嘲笑されてるところを見ると、笑いを取るというピエロの役割は果たされている、と云ってよかろう。ご苦労さんなことである。
 
 
さて、笑い話はこのくらいにしてまじめなノーベル賞受賞者の話をしよう、田中耕一氏の事である。
40過ぎて間もない頃に、当時精密機械メーカーの一介のサラリーマンであった田中氏が、ノーベル化学賞を受賞したということに世界中の多くの人が驚かされたようである。もちろんその中には、彼より5つほど年上の私も含まれていた。
 
ノーベル賞なるものは、日本の文化勲章などと同様に7・80代のその道一筋の研究者が、人生の晩年において、その永年成し遂げてきた努力や成果に対してご褒美として贈られるモノ、と思っていた私などは彼の若さに驚き、同時にその才能や運の良さに若干の嫉妬を感じた記憶がある。
その田中耕一氏は今では私と同様にすっかり白髪に覆われ、すでに齢いは還暦間近であるという。
私が久しぶりに彼を観たのは、その彼のノーベル賞受賞後の苦悩の16年間を振り返ったTV番組であった。
 
 
彼の述懐によると、ノーベル賞を受賞したことを世界で最も驚いていたのは、実は自分自身であった、と云う事であった。
大学を卒業して2・3年後に、職場の日常業務の作業中に偶然遭遇した「タンパク質の分析・分解方法」を発見したことが、ノーベル化学賞の対象に成ったという事らしい。
 
それはまさに偶然の出来事で、絶え間ない努力の積み重ねの結果、神様がその惜しまぬ努力に対してご褒美としてプレゼントしたものではなかった、ということだ。
本来電子工学が専門の彼が門外漢の生物化学の仕事をしていた事から、偶然遭遇した結果であったという。
 
要はその分野のシロートであったがために、その分野では当たり前になっている事や常識を踏襲することなく、実験手法の一つとしてたまたまチャレンジし、しかも本来なら失敗した分析方法を用いた結果、その方法(メソッド)を発見した、と云う事らしい。
 
彼自身はその事実を一番よく判っていたし、生来謙虚な性格であったから、自分がノーベル賞を受賞するに相応しい人間ではないと、そう想っていたのだという。
 
それは確かにその通りであったのだろう。
しかし彼がその「タンパク質の分析・分解メソッド」を発見しなかったら、その後の生物学者たちによる成果が得られなかったのもまた、事実であろう。
 
 
とはいえ偶然によってもたらされたノーベル賞受賞者、というレッテルがその後の彼の人生に付きまとい、苦しめたのだという。
とりわけ研究者たちの学会や、報道機関などからのプレッシャーは相当キツかったようだ。彼の白髪の何%かは、それに起因しているのかもしれない。
 
 
 
             
 
 
何年間かその苦悩やプレッシャーにさいなまれていた彼はその後、国内外の研究者達との交流を進め自身の身を守るため、また同時に彼は自らの殻を脱皮するために新しい行動を起こしたらしい。
その他者との交流の中で、彼は幾つか気づいた事があった、という。
 
即ち、
「自分の成果に対する評価は、一体何であったのか」
「自分が成し遂げて来た事は、何であったのか」
「自分の原点は、何か」
といった事の様だ。
 
で、そこで得た結論は、どうやら
「これまでの定説や、常識にとらわれなかった事」
「偶然によって得られるコトやモノがある」
といった事だった、ようだ。
 
 
そしてそこから彼は、新たな行動に出たのである。
彼の新しい研究のテーマは前から決まっていたようで
「少量の血液の中から、早い段階で病気の発生原因を見つけ出す」といった事がそれであったという。
 
その研究テーマに対して政府文部科学省は、「最先端の研究課題」として5年間で40億円の研究予算を付けた、という。
 
この自分に与えられた研究予算を使って彼は、「新しい研究者のチーム」を創り、Labを立ち上げたのであった。
60数人の研究者を国の内外から集め、彼らをリードしてきたのだという。
 
そのチームリーダーとして彼が心掛けて来た事は、ノーベル賞受賞後からの十数年間の苦悩の末に自得した結論である。
 
即ち、
「これまでの定説や常識に、とらわれない事」
「偶然によって得られるモノがある」
「チャレンジ精神を尊重する」
という信念のもとに、彼自身の研究チームを牽引して来たのだという。ブレることなく。
 
そしてこれらは、自身がノーベル賞を受賞した理由を突き詰めて得た結論であり、辿り着いた確信であり、信念であったのであろう。
 
 
それ以来彼は、自分自身が研究者として研究テーマに立ち向かうのではなく、彼が着目した優秀/有能な研究者たちの研究成果発表の場に足繁く通い、
 
「定説や常識にとらわれず」
「新しいテーマやメソッドに、果敢に挑戦する」
そう言う立ち位置を執る研究者たち、即ち「その分野の原石」を「撰び」「発掘」し続けて来たのだという。
 
 
そしてその努力というかチャレンジが、どうやら成果を生み出しつつあるのだ、という。
昨年(2018年)の科学専門研究者向け雑誌『サイエンス』だかに発表した
「血液中の成分分析に依る、アルツハイマー病の早期発見」といったような研究成果を得た、という事である。
 
「アルツハイマーが発症する30年前に、その発祥の原因と成る成分を発見するメソッドを見つけた」という事らしいのである。
 
これがこの論文の通りであるとすれば、いうまでもなく大発見であり、間違いなく人類の生存に多大な影響を与え得る、研究成果であろう。
 
病いが発症する30年近く前にその原因を特定できれば、「早期治療が可能になるから」である。
近い将来、世界中でアルツハイマー病に罹る患者が激減する可能性があるからだ。
 
 
結局田中耕一氏は、自らが研究者である事に拘わる道を捨てて、
常識にとらわれない、チャレンジ精神の豊富な才能のある研究者たちが、働きやすいLab環境を創ることで、新たな「人類の幸福」に貢献しようとしているのである。
 
 
私はこのTVを見ていて、中国の古いことわざを思い出した。
「駿馬常に居れども、伯楽常には居らず」である。
 
かつてノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は、この間の16年間のプレッシャーを乗り越えるために、自らは「駿馬である研究者」である事を辞めて、
「駿馬を見つけ、発掘し、育て、才能を開花させる環境」を創り、「伯楽」となる道を撰び、自身の立ち位置を替えた、のである。
 
私はこの番組を観終わった後、田中氏の人間的成長を大いに感じ、一回りも二回りも彼の人間的スケールが大きくなったのを痛感したのであった。
 
 
そしてひょっとしたら、これから数十年後に彼とそのLabの研究者たちは「ノーベル賞」を受賞することに成るかもしれない、などと妄想してしまった。
 
その時に氏が称賛されるとしたら、それは「名伯楽」としてであろうか、と・・。
 
 
 
                
 
 
           「常識を疑い、常識にとらわれない」
         とノーベル賞医学生理学賞を受賞した本庶佑さんは語った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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