春丘牛歩の世界
 
              「集中豪雨」と「渇水」対策
 
 
梅雨の終わりごろから9月・10月頃まで、日本列島では毎年の様に「集中豪雨」と「渇水対策」とが飛び交う。
日本人にとってこれらの言葉は、季節を現す「季語」の様な存在なのかもしれない。
 
これらは縦に長い日本列島に暮らす我々にとって、初夏から秋に掛けてもたらされる負の自然現象でもある。
 
私は基本的なスタンスとして「天災」にはあまり抗わないで、出来るだけ回避するように努めて、「人災」には積極的に対抗手段を考える、というタイプの人間であり、70年間以上そうやって生きて来た。
 
しかしながら「工夫」や「やりよう」によっては、「天災」の影響を出来るだけ小さくし、尚かつそれが逆に「人間生活」に役立つものに転化出来るのであれば、そのために時間とエネルギーを使う事にはやぶさかではない、等とも考える事がある。
 
標題の「集中豪雨」対策と「渇水」対策とについても、そのように考えている。
 
 
                
            
 
 
 
実は今から5・6年前静岡県中央部のある自治体の都市課題に対し、「解決策」を提案する機会があって、私は縁あってそれに応募したことがあった。
 
人口15万前後の中堅都市の郊外にある数万坪の行政の「農業用地の有効活用」案を提案したのだった。
 
その場所は北に南アルプスの山裾が広がり、標高数百mの山間部が在り、そこから流れいづる水が河川と成って海抜0mの駿河湾に注ぐ都市で、計画地の近くを二級河川が流れていた。
 
 
私は以前から自然条件や自然環境を活用し、「自然エネルギー」を使う事に肯定的な人間であったから、その河川の高低差を何とかうまく使えないだろうか、と考えたのである。
 
さらに「祇園祭」等の発生の要因が、梅雨時を始めとした河川の氾濫に依っている事も知っていたから、周辺の河川の氾濫についての歴史を多少調べてみた。
 
そしたらやはり、太古の昔から昭和の中頃まで定期的に「集中豪雨」や「颱風」が発生する度に、「河川の氾濫」が起きている事も確認出来た。
 
そして当該計画地に隣接する二級河川でも、「河川の氾濫」は起きていたのであった。
 
 
 
        
 
 
 
そこで私はこの自然条件を活用して、自然災害に立ち向かう事を考えたPLANを提案したのであった。
具体的には
 
*当該計画地近くを流れる川の数十m上流から、それも出来るだけ曲がりくねったエリアに「取水口」を設置し、河川の水を当該区画の地下に取り込み、巨大な「地下プール」を造り水を溜め込み、水勢を弱め河川の氾濫を減らす。
 
数キロ先の同じ河川の下流で海抜の低いエリアに、気象条件を確認しながら放流する、といったアイデアであった。
 
*と同時にこの数万坪の「地下プール」には川の中流から下流域に掛けて、数段の落差を設けて小規模の「発電所」を設け、その電力を市内の数千世帯に供給する仕組みをも提案した。
 
*で、数万坪の当該「農業用地」の地上には「親水公園」や豊富な「地下プール」から配水した「果樹園」等を造る、といった様な提案であった。
 
*さらに隣接する小高い丘は、戦国時代の城跡が在ったから、そこに駐車場を沢山確保した「緊急避難場所」や、「道の駅」を兼ねた大きな「サイトビュー」を活用した「城cafe」を造ったらどうか、とも提案したのであった。
 
 
                     
           
 
 
 
結論から言うと、私のこの提案は最終選考で却下されたのであったから、実現はしていない。
残念ではあるがコンペに負けたのだから、仕方ない。
 
しかしながら私の提案を「一次審査」した30代~40代の若手職員たちが関心を示してくれたことは、救いであった。
もちろん50代の意思決定職員には評価されなかったから、仕方のないコトではあるが・・。
 
今月半ばの千葉県の颱風崩れの「集中豪雨」や西日本の「ダム貯水量の枯渇」等の報道に接する度に、私はこの時の「地下プール」や「親水公園」「水力発電」「城cafe」といった事を思い出すのである。
 
 
       
 
 
因みにこの計画を考えた時に、私が閃きをもらったのは
「琵琶湖疎水の京都市中への引き込みと発電事業」
「利根川から江戸川への河川の地下廻水」
「流山市野々下の親水公園」
「北海道十勝の”シーニックcafe”群」
「渋谷駅前の都市水害の受け皿貯水プール」
といった、私の知ってる事例であった。
従って上記提案は必ずしも荒唐無稽な”夢想”ではなかった、のである。
 
 
                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 お知らせ
 
 
*6月2日:『近江之國編』「六角征伐」と足利幕府衰退」を公開しました。同編はこれにて終了しました。
 『甲斐源氏の祖、源義光』は以上で、完結しました。
 
 *8月3日:『サッカーW杯』の「2026年北中米大会」の「『サッカー資本主義』ⅴs『サッカー民主主義』」を以って、今回W杯に関するコラムを終了することにしました。
 
 
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  南十勝   聴囀楼 住人

                  
          
         
     
 
                            
      
          
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                
  

 
   
      

  
 
2019/1/3

北島三郎

 
先日の紅白歌合戦で北島三郎が「祭り」という歌を唄っていた。
平成最後の紅白という事で、NHKに口説かれたという事らしい。彼自身は確か5・6年前に紅白卒業宣言をしていたから、やはり主催者が願った事なのであろう。
 
私が彼の存在を知ったのは、確か小学校の高学年の頃だったかと思う。
当時彼が唄っていた「帰ろかな」という歌が妙に心に残ったからだ。
地方から都会に働きに来た青年が、盆か正月に故郷に帰ろうかどうかを悩む、その揺れる心を唄った歌だったようで、どうやらその歌の主人公は都会で成功しているとは言えない状況に在って、胸を張って年老いた母親の待つ故郷に帰る事がまだ出来ないでいる、といった感じの歌であったかと思う。
 
そのほかに幾つもヒット曲があるのだろうが、私の心に残っているのは「与作」「風雪流れ旅」「祭り」といった曲である。
いずれも歌の情景が目に浮かぶような種類の歌であるようだ。中でも「祭り」はお祭り好きではないかと思われる彼には、ピッタリな歌だよなぁなどと想いながら、観客を巻き込んでその場を派手に盛り上げる歌だと感じていた。
紅白歌合戦という歌の祭典、しかも年末大晦日という時期にかなりマッチしている歌だと常々感じていた。
 
そんなこともあって、平成最後の紅白には相応しい歌だという事を思って、私は彼の出演時間に紅白を観た。
 
 
『大野土佐日記と甲州金山衆』においても触れているが、北島三郎は北海道知内町の出身で『大野土佐日記』を800年近く守り伝えて来た、雷公神社の宮司の縁戚であり、かつ荒木大学たちと一緒に蝦夷地に渡って来た修験者、大野了徳院重一の末裔に当たるらしい。
従って幼いころから荒木大学についての伝承も聴かされて育って来たのではないかと、私は想っている。
因みに知内町には彼の作詞作曲した歌が幾つか残っているが、その中に荒木大学の事を詩っている歌が、今でも盆踊りの中に在るようだ。
 
 
そのような事を知っていた私は去年の7月に、彼が興した会社に『大野土佐日記と甲州金山衆』を送付した。それは「『大野土佐日記』偽書説」を、私なりに調べ検証した物語だと思ったからである。
たぶん一族の中では大事にされてきたであろう『大野土佐日記』について、明治大正時代の歴史学者によって、偽書の烙印を押されてきたことの影響を北島三郎もまた、これまでずっと感じ続けて来ただろうと、そう私は想像していた。
 
私の検証物語が全く正しい、などと云うつもりはないが、少なくとも明治・大正時代の歴史学者たちへの、明確な反論には成っているだろう、と私は想っている。
私や私の物語に共感を持っていただいた方々に対する明確で、得心の行く根拠を明示した偽書説の説明が出てくるまでは、私を含めた人々は納得しないであろう
 
 
そう言った背景も含めて私は今回の紅白の「祭り」を観た。
相変わらずの派手な演出で、NHKホールに集まった観客や出演者を巻き込んで大いに盛り上がっていた。
その歌を北島三郎は大きな山車に乗って登場し、唄った。
80過ぎとはとても思えない声量でしっかり歌い、大いに場を盛り上げた。
 
その時カメラが遠景から次第に歌い手の北島三郎に近づいた時、山車の前面の武者兜が目に入った。これまでに見た事の無い山車であった。
私の記憶では登り龍の派手な山車や、大漁を象徴する大魚にまたがって唄っていたように記憶している。武者兜は初めてであった。
 
その武者兜の左右の前え面てに、その武者のものと想える家紋が左右に入っていた。
花菱紋であった。
初めはちゃんと理解できずにいたが、再度その武者兜がクローズアップされた時にしっかりと気づいた。
安田義定の家紋であると
 
私は次第に嬉しさがこみあげて来た。
北島三郎かその縁者が私の送った『大野土佐日記と甲州金山衆』を、しっかりと読んでいてくれたのではなかったか、と想ったからである。
同書を通じて、知内の英雄荒木大学とその主君安田義定公とが結びついて、理解してもらっていたことを、知ったからである。
 
 
更にまた同書をきっかけにして、安田義定公の事に興味をもってそれなりに調べられたのではないかと、私は妄想したからである。
因みに私の物語の中で、安田義定公の家紋が登場するのは『京都祇園祭りと遠江の守安田義定』においてであるから、ひょっとしたらその物語も読んでもらってるのかも知れない、などとさらに妄想を豊かにした。
 
私の妄想が事実であったとすれば、私は作者冥利に尽きるなどと思ってしまった。
かくして平成最後となる今年の紅白は、同世代の歌い手サザンオールスターズの大騒動と共に、私の心の中にはっきりクッキリと刻まれたのであった
 
 
 
         
 
 
 
 
 


 

 
 
 
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